第44話

「バスが来たー!」


 目を輝かせながらアイスクリームを持った両手でバンザイをするミツキ。


「小学生かお前は」

「こういう時は素直な感情表現が一番なのー」


 膨れっ面でそっぽを向くミツキ、それを見て楽しそうに笑う和沙。そういえば僕らは修学旅行に一度も参加したことがなかったな。ミツキは集団行動が苦手だったし、僕そんなミツキを一人にしておけないしで、中学時代は結局一つの思い出も作れなかったっけ。


「Y市駅行きのバスは約15分後に出発しまーす!乗車予定の方は、お早めにチケットかスマートフォンの画面を提示してくださーーーい!」


 運転手の制服に身を包んだ少し太めの中年女性が拡声器を使って呼びかけている。機械を通じて聞こえてくる耳が痺れるような運転手の声も、アスファルトの上で揺ら揺らと揺れる陽炎も、不肖の姉が夢中になってアイスクリームを頬張る姿も、普段だったら気にも留めないような他愛ない音や光景が今日は殊更愛おしく感じられる。この湧き上がるような気持ちはなんだろう。これが青春の1ページってやつなのか。落ち着こうと努める意思とは無関係に、ガタガタと貧乏ゆすりが止まらない。


「ヒナタ君、足揺らしちゃって。すっごく嬉しそう!」


 左に座っていた和沙が悪戯っ子のような表情で僕の顔を覗き込んできた。


「お、俺だって少しははしゃぐさ……」


 僕は顔を赤らめて思わず反対側にそっぽを向いてしまった。その向いた先では小悪魔のような表情をしたミツキの顔が待ち構えていた。


「いつも私のことを子供扱いしてるけど、ヒナタも結構子供っぽーい!」


 口の周りをアイスクリームまみれにさせたミツキがけらけらと笑う。ぐっ、こいつらの間に座るんじゃなかった……。


「ほ、ほらっ。ミツキ、さっさとアイスクリーム食っちゃえよ。俺はトイレに行くからな」

「あ、私も行くよ」


 もうほとんど無くなりかけていたレーズンバターを愛おしそうに舐めるミツキを後にして、僕と和沙はバス待合室の奥にある化粧室に一緒に向かった。待合室はY市行きバス停留所の近くにある自動ドアの先にあったため、僕らは通りかかったついでに運転手にスマートフォンの予約確認メールを見せた。女性運転手は感じの良い笑みを浮かべながら、バインダーに書かれた僕の名前の横欄にチェックを入れた。


「ええと、倉木ヒナタ様3名様ですね。もう一人はベンチに座っている女の子かな?大きい荷物があったら、乗車前に番号札を括り付けて床下トランクに入れてね……って、あれ?……」


 たった一瞬だが、運転手が浮かべたきょとんとした表情を僕は見逃さなかった。


「どうかしましたか?」

「あ、いえいえ。あの、君たちはY市に何しに行くの?」


 標準語だがイントネーションに若干東北訛りがあるようだ。恐らく女はY市のバス会社に勤務している地元住民なのだろう。ニコニコと感じの良い笑顔を浮かべる運転手は先程の妙な態度がまるでなかったかのように、ごく自然にコミュニケーションを取ってきた。


「夏休みの旅行です」

「そっかあ、若い子たちだけのグループは珍しくってさ。兄ちゃん良くないねえ、こんな綺麗な女の子を連れて」


 運転手はニヤニヤと上目遣いに僕を見ながら肘で脇腹を軽く突いてきた。こ、このオハバン……。


「若い人は来ないんですか?」


 和沙はY市がそこまで人気の旅先でないことに少し驚いているようだった。何しろテレビの紀行番組などでは飽き飽きするほど取り上げられる町だからだ。


「うん、来るのはもっぱら小さな子供のいる家族かシニアカップルかな。民話の故郷なんて呼ばれているけど、加賀谷みたいな華やかさはないから若い人には退屈なんだろうね。それでも最近はアジアからの観光客も随分増えているんだよ」


 女はバインダーを団扇うちわ代わりにあおぎながらそれとなしに言った。仕草に不自然なところはまるで見受けられない。僕の勘違いか?いや、何か引っ掛かる。僕と和沙のどちらに対してかは分からないが、女が一瞬浮かべた表情は間違いなく曰く言い難い違和感を感じた時のものだった。でもいま目の前にいる運転手は、何の気負いもなく自然に振舞っているようにしか見えない。


「乗車していないのはあなた達だけだから、少し急いでもらえるかな?」


 彼女はそう言って床下トランクの状態を確認し始めた。そういえば、バスの外に立っているのは僕ら2人だけだ。僕はバスの窓に目を向けた。運転手の言う通り、小さな子供や老人ばかりが目についた。僕はベンチに座っているミツキに向かって早くバスに乗るよう大きな手振りでジェスチャーをした。勢いよくベンチから立ち上がったミツキは、相変わらずアイスを持ったままの両手を元気よくこちらに振り返している。うん……意味は伝わっているよな、多分……。


「和沙、早くトイレに行こう。あと、運転手が言ったことは気にするなよ」

「あの人なにか言ったっけ?」

「いやーだから……その、綺麗な女の子を連れてどうたらってやつ。変な風に取ったかなーと思ってさ。和沙の親父さんも俺のこと良く思ってないみたいだし」


 そう言い終わるや否や、和沙が急に申し訳なさそうに僕の顔を見た。


「ヒナタ君……昨日は本当にごめんね。その、肩は大丈夫?」


 その瞬間、右肩に未だ残る鈍い痛みと共に、昨日和沙の家に挨拶に行った時に父親が見せた恐ろしい笑顔が鋭くフラッシュバックした。おまけに腹まで痛くなってきたぞ……。いや、これはきっとアイスのせいだ。そういうことにしておこう……。


◆◆◆


 その男は50歳くらいの、顎髭を蓄え小さな黒ぶち眼鏡を掛けたダンディな男だった。どことなく痩せていたころのジャン・レノに雰囲気が似ている。上背もあり、僕の身長(180cm)よりも更に数センチ高い。


「お父さん、お世話になっている倉木みっちゃんとヒナタ君です」


 和沙は父親というその男に深々とお辞儀をした。子供が親にお辞儀って……。僕が知らないだけで、上流階級の親子関係ってこういうものなのか?


「これはこれは、いつも娘がお世話になっております」


 父親と紹介された男は深々と頭を下げた後、ミツキに向かって満面の笑顔を向けた。どうやらミツキはこの男の100万ドルの笑顔を一目で気に入ったようで、まるで同世代の友達のように話し掛けた。


「お父さん、みっちゃんって呼んでいいよ!これからよろしくね!」

「よろしくな、みっちゃん。和沙の親友なんだってね」

「うん!今日からお父さんとも友達だよ!」

「そ、そうかい?」


 娘の前だというのに遠慮なく眉を垂らすこの男。オッサンになるとみんなこうなっちゃうのか?


「僕は英雄ひでおという名前だから、これからはヒデでいいからね」

「うん!あのねヒデ、かずちが夏休みはずっとウチに泊まってくれるって!ねえいいでしょ?」

「えっ!?」


 寝耳に水だったのだろう。彼は驚いた表情を浮かべた後、両腕を組みながら流石に深く悩んでるようだった。そんなヒデに子犬のようなあざとい眼差しを向けるミツキ。


「お願い。家事は全部ヒナタがするから!かずちには何一つ不自由させないから!」


(おいこら……)


「お父さん、私からもお願いします」


 和沙はまたもや父親に向かって深々と頭を下げた。ヒデは顎髭を人差し指でポリポリ掻きながら少し考える仕草をした。


「うーん、和沙がそう言うのなら……まあいいか」

「本当!じゃあさ、夏休みが終わってもずっとウチに住んでもらってもいい?」

「それはどうだろう……母さんも寂しがるだろうしなあ。ほら、更紗ももうじきお嫁に行くから……和沙、お前はそれでいいの?」


 和沙は申し訳なさそうな表情を浮かべながら、上目遣いに父親を見遣った。


「お父さん、お願いします。毎日電話もするから」

「分かった分かった。家にもちゃんと顔を見せるんだよ」

「やったあ!ヒデ大好き!」


 ヒデの承諾に顔を錫箔のように輝かせたミツキは、嬉しさのあまり身長差が優に20m以上あるヒデの顔を両腕で抱きかかえながら頬にキスをした。ミツキよりは遥かに控えめな和沙もこの時ばかりは顔を大きく綻ばせた。


「お父さん、ありがとう」


 ヒデはミツキの軽くて無礼なノリにも気を悪くせず(むしろ喜んでいるように見える)、前に出した右手の親指を上にあげながら和沙にウィンクをした。いい親父さんじゃないか。でも……。


(まったくミツキのやつ、相変わらず礼儀ってもんを知らないんだからな。よし、不束者の姉にいっちょ範を示してやるか)


「初めまして、和沙のお父さん」


 僕が鼻を伸ばしている最中のヒデに声を掛けると、彼は口元にだけ笑みを浮かべながら、感情の籠らない目で僕を見据えた。


(な、なんだぁ?)


 僕はヒデの思わぬ態度に動揺しながらも、ミツキをちらっと見た後、これみよがしに丁寧な挨拶をした。


「く、倉木ヒナタと申します。どうぞよろしくお願い致します」


(ミツキ、よ~く見とけ。これが大人のマナーってもんだ)


 僕が深々としたお辞儀から頭を上げている最中に、ヒデの大きな右手が僕の左肩をガッシリと掴んだ。じわじわと強まっていくその握力に、徐々に恐怖と痛みが高まっていく。


(痛い痛い痛い、滅茶苦茶めちゃくちゃ痛い!肩が壊れちまう!)


「ヒナタくん……だっけ?」


 彼は頬と口の端を引く付かせながら向けた強張った笑顔を僕の鼻先まで近づけてきた。目が全く笑ってないのも怖いが、震える唇から覗かせる白い歯がギリギリと噛み締められている光景は恐怖なんてものではなかった……。ミツキとのこの差はなんなのだ。


「うん、娘に手を出したら、その時は分かってるよね……?」

「は、はい……ヒデさん」

「君にヒデなんて言われる筋合いはないから。うん?」

「は、はい……和沙のお父さん……」


 肩を掴む手の握力が更に増していき、哀れな僕の肩はミシミシと音を立てて今にも砕けんばかりだった。半笑いで口の端を引く付かせる僕の目にうっすらと涙が浮かんできた。


「ちょっと、お父さん!私の友達に何をするのよ!」


 和沙の父は彼女の一喝に慌てて右手を離し、子犬のようにシュンとするカズ。どうやら和沙には頭が上がらないようだ。ふう、助かった……という訳で、ミツキの我が儘に押し切られてしまった和沙は夏休み中、いや、夏休みが終わっても我が家に滞在することになったのだ。


◆◆◆

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