第40話

 三羽目、四羽目……男が次々とカラスを切り伏せていく。あのツカレビトの前では文子の力ですら及ばないのだ。


「あなたの魂を?」


 僕は堪らず会話に割って入った。


「ミ、ミツキの寿命は……」


 文子はニッコリと可愛らしい笑顔を僕に向けた。


「大丈夫。この子の覚醒している魂なら、バケツ一杯食べても1日の寿命も減らないわ。でもねえ……」


 文子は唇に人差し指を当てながら何かを考え込んでいる様子だった。


「私のを食べるのは怖い?」

「ええ……あなたの魂は毒が強いというか、和沙ちゃんの優しい魂とはまるで真逆だもの」

「自分でもそう思うよ。だからかずちに惹かれたんだと思う」

「でもどうせ殺されるのなら、試してみる価値はあるかもしれません」


 五羽目が一刀両断にされる。バラバラになったカラスの体はたちまち紙に戻った後、ひらひらと地面に舞い落ちた。残り一匹のカラスが必死に男の周りをまとわりつく。


「その綺麗なお顔を私に近づけて。私もう立てないの……」


 しゃがみ込んだミツキに抱き抱えられたまま、文子は顔を近づけたミツキの口元に両手をかざした。ミツキの口からオレンジ色の靄がうっすらと這い出てきた。文子はそれを綿あめのようにほんの少しだけ千切り、ゆっくりと自分の口に入れた。


「体中に針が突き刺さるよう……」


 文子は右手を弱々しく天にかざし、運動場全体に強い風が吹いた。三日月に厚い雲が覆い被さり、運動場を照らす光は弱々しく瞬く星空だけとなった。


「クアアアアァ!」


 最後の鴉が絶叫を上げながら地面に落ち、そのまま散り散りに破けた折り紙に戻った。男は息を切らせながら散り散りになった紙を無表情に眺めた後、こちらを向いた。


「さて」


 男は首を左右に傾けた後に体を伸ばした。


「随分手こずらせてくれたな。大川文子を殺すのは惜しいが……倉木ミツキ。貴様を亡き者にすれば、我々の目的は半分達成されたようなものだ」


 そう言ってにんまりとした男の顔を、今度は僕がにんまりと見返した。男は今度は怪訝そうな顔で僕を見た。


「おっさんよ、俺は正直者のあんたのことが嫌いじゃないぜ。出会う場所が違っていたらいい友達になれたかもな」

「正直者か……。化かしあう関係なぞいつか必ず破綻するだろうからな。最後に言う台詞はそれか?」


 男は直刀を肩に担ぎながらゆっくりとした足取りでちらに近づいてくる。


「俺は一度お前に生きるチャンスを与えた。しかしお前はそれを突っぱねて戦う道を選んだのだ。まあ唯一の肉親である倉木ミツキだけ旅立つのも寂しかろう。あの世で二人仲良く暮らすがよい」

「ミツキが唯一の肉親?何か勘違いしてるんじゃないか?」


 男が足を止めてまた怪訝そうな顔を僕に向けた。


「今からもう一人の家族を紹介してやるよ、これがお前が聞く俺の最後の台詞さ」


 僕はミツキの方を向き、ミツキは小さく頷いた。


「ミツキ」

「ヒナタ」

「いくぞ」

「うん……」


 僕とミツキは両手を握り合った。ミツキの黒目が徐々に赤く変色していき、先ほど文子が起こしたような風が運動場全体に吹き荒れた。厚い雲からまた月が顔を出し始める。月の光に照らされたミツキが、いや、赤目の少女が男を見た。男が瞳だけ赤く変色しているのに対し、少女は真っ赤に燃え上がる瞳の周りの白目部分もうっすらと紅色になっていた。男は眉間に皺を寄せて少女を睨みつけた。


「倉木ミツキ……ではないな。誰だ貴様」

「こんにちは。いえ、こんばんは、だね。そして、さようなら」


◇◇◇


 7年前。まだ僕とミツキが8歳だった頃。

 月明かりが夜の海に一筋の光を投げかけている。向こう岸に見える山の麓の民家が蛍のように淡く朧げな光を放ち、波が穏やかに囁き続けている。月の光に照らされたミツキが水平線を見つめ続けている。いや、もしかしたら何も見ていないのかもしれない。月明かりに照らされたミツキはどこか異国の少女に見えた。

 水流神社に辿り着いてから僕らは一言も話さなかった。どこかから聞いたことのない鳥の鳴き声が一瞬だけ聞こえた。鳥って夜も鳴くんだな、僕がこの出来事を回想するたびにまず思い出すのがこの鳥の鳴き声だ。

 ミツキが繋いでいた僕の左手をきゅっと握りしめる。ミツキの右手の優しい温もりが夜の恐怖を和らげてくれた。ミツキは独り言のように呟いた。


「私ね、ヒナタに隠していたことがあるの」


 今にも泣きそうな顔をしてこちらを向いた。彼女がこちらの眼をじっと覗き込むときは大切な話をする時なのだ。


「ごめんね、ずっと前から母さんがわたしの中にいることを言い出せなかった」

「何を言っているの?僕らに母さんはいないよ?」


 何を言っているのかまるで分からなかったが、その時のミツキの表情は真剣そのものだった。


「母さんがね、私の持つ力は世界を滅ぼしちゃうかもしれないって。だから私の中にいて、その力を抑えるんだって」


 先週友達の家で見た映画の、体中が膨らんだ緑色の水死体が岩陰からこちらを見ているような気がしてならなかった。別のことを考えよう。世界一大切な隣の女の子のことだけを考えよう。ミツキさえいれば何も要らない。世界が滅ぶ?たとえ世界が洪水に飲み込まれたって、隕石が落ちて文明が崩壊したって構うものか。ミツキさえ生き残ってくれればそれでいい。


「母さんがヒナタに会いたいって言ってるの」

「僕に?」

「私を信じてくれる?」


 ミツキがぎゅっと僕の手を握り、僕もミツキの手を強く握り返した。季節外れの冷たい風が吹き始め、火照った肌を心地よく冷やしてくれた。木の葉を優しく揺らす音、波の音以外は何も聞こえない。本当に静かだ。

 ひんやりとした弱弱しい風が吹き始め、世界の重量が変化した。恐ろしい暗黒の海が突然世界を祝福し始め、波は白い泡を吹きながら相変わらず歌い続けていた。こんなそよ風でだって、今にも両手を鳥のように羽ばたかせて夜空に、月にまでだって飛び立てそうだった。

 僕は隣の女の子を見た。その黒く長い髪をポニーテールにして真っ白いワンピースを着ていた少女の目は赤く燃え上がっていた。その恐ろしい目でこちらを不安そうに覗いている。この女の子は怖がっているんだ、そう思った僕はミツキではない少女の手を握って安心させようとした。


「君は一人ぼっちじゃないよ、僕がずっと一緒だ」


 岩陰の水死体はいつのまにか消えていた。僕はその細い体を抱いて、顔を胸に埋めさせた。胸は涙で濡れ、Tシャツ越しにその湿りが伝わってきた。少女が胸元で囁いた。


「ヒナタ、私の息子」


 薄く小さな雲がゆっくりと月を覆い始めていた。僕らは海の光が少しずつ薄まっていくのをじっと眺めていた。


◇◇◇

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