第36話

 嗣津無しづむは両手をミツキの肩に置きながら、その長い鼻先を彼女の耳に当ててぼそぼそと呟いていた。ミツキの体ががくがくと震え出す。体の力が急速に奪われているようだ。


「貴様の式神、なかなか使えるじゃないか」


 男は僕の方を見て笑った。その間にも鬼羅が力ずくで右蛇のとぐろをふりほどき、そのまま直刀で何度か空を切った。すると蛇の体は輪切り状にバラバラになってしまい、そのままボタボタと地面に落ちていった。そして幾つもの肉片になった蛇の体は徐々に薄く萎んでいき、ミツキの右腕は人間の腕に戻ってしまった。ミツキは喘ぎながらも左腕の蛇を鬼羅の頭から離し、蛇と鬼羅は相まみえた。男は余裕綽々の表情をミツキに向けた。


「どうする?形勢逆転だな」


 僕は体中の痛みをこらえながらゆっくりと右腕を前に出し、右手の人差し指と中指を絡ませ、手首を一回りさせたあとにその指を嗣津無に向けた。


兵狼ひょうろう、制圧しろ」


 ほとんど透明な、犬とも獅子とも形容しがたい形状の動物が僕の数メートル先の結界から姿を現す。そして兵狼はそのまま喉元に食らい付こうと嗣津無に襲い掛かったが、嗣津無は咄嗟に喉を左手でかばった。鋭い歯を立てて嗣津無の庇った腕に喰らい付く兵狼の体は半透明の状態から徐々に色を帯び、体中が真っ白な毛皮で覆われていった。腕を噛まれていた嗣津無が凄まじい力で犬を振り払う。投げ飛ばされた兵狼は一回転した後にうまく着地し、歯をむき出しにしながらすぐに臨戦態勢に入った。嗣津無の実力に警戒しているのか、一気に襲い掛からずじりじりと間合いを詰めていた。


「あ、ああああ……」


 和沙の体を覆う赤い筋の速度がどんどん早まっていた。男はそれを見て眉間に皺を寄せた。


「嗣津無!犬をけん制していろ!」


 兵狼と嗣津無が、鬼羅と蛇がじりじりと間合いを取り合うのを後目に、男は脇腹を抱えながら恩田が縛られている倉庫前に走っていった。ミツキはほとんど余力がなさそうだ。鬼羅だけで手一杯なのだろう。兵狼もパワーアップした嗣津無相手に攻めあぐねている。僕はかつて契約を交わしていた式神の、以前とは比べものにならないその力に驚きを隠せないでいた。


「嗣津無にあんな力が……?」


 式神の力は従属させた術師との相性、召喚されている期間(僕ら術師たちはこれを「付き合い」と呼んでいる)、何より術師が持つ力に左右される。本来だったら兵狼の相手にもならないはずの嗣津無の力は極限まで高められているようで、僕が召喚した時とは桁違いの強さだ。


「あああああああ!」

「和沙!」


 赤い筋が苦悶の表情を浮かべた彼女の顔や耳にまで広がり始めている。完全に赤で覆われた人形の目がその輝きを徐々に強めていく。くそっ、もう時間がない!ミツキは大声で叫んだ。


「かずち、人形の首を切り落とすの!」


 和沙は苦痛に顔を歪ませ息を切らせながら、匍匐前進のようにゆっくりと人形の方へ這っていった。ミツキが悲痛な叫びのような声で言った。


「ヒナタ、もう母さんに憑いてもらう!」

「馬鹿!ここ数日間で何度憑いたと思ってるんだよ!」


 ミツキの中に眠る特安の最終兵器、倉木ヒナ。僕らの母親でもあるその亡者は他のツキビトのように統制下に入っていないため、短期間に何度も憑かせ、さらにその力を使い過ぎると結果としてミツキを乗っ取ってしまう恐れがある。危険性を嫌と言うほど理解しているヒナが自らの意思で表出することはほとんどない。ばくを召喚した際に僕の力を貸したのもそのためだし、その日母さんが自分から憑依したことだって例外中の例外の出来事だったのだ。


「本当に乗っ取られちまうぞ!」

「構わない!母さん、私に憑いて!!!」

「馬鹿!やめろミツキ!」


 ミツキが絶叫を上げた。しかしミツキの眼は緑色のままだ。何も起きない。そんな馬鹿な……。ミツキが今にも泣きだしそうな表情で僕を見た。


「なんでえ?なんで起きてくれないの!?」

「ミツキ!目の前の式神に集中しろ!」


 母さんがミツキの呼びかけに応じないだと?一体何がどうなってやがる……。僕は頭の中が混乱したまま和沙の方を見た。和沙は這いつくばりながらもすでに市松人形の目の前に到着し、赤い筋だらけの腕で肩を掴んだ。僅か数メートルの距離を何十秒も掛けて辿りついた時には、最早和沙の目にまで赤い筋が幾重にも走っていた。


「かずち、お願い!首を切り落として!」

「和沙、ケリを付けろ!」


 彼女はズボンの腰部分に隠していたナイフを抜き出して人形の喉元に突き立てようとした。


「させん!」


 恩田を担いだ男が舌打ちをしながら和沙のもとへ走り、彼女髪の毛を乱暴につかんで立たせようとした。和沙は呻ぎながらも男の負傷した左腕に噛みついた。ナイス和沙!


「ぐあっ!」


 男は顔を歪ませて和沙を地面に叩きつけた。和沙は叩きつけられた衝撃とヒトバケによる激痛で体中をびくびくと震わせている。僕は気絶覚悟で左手を前に出し、先ほどと同じように人差し指と中指を絡ませて男に向けた。


餓鬼がき!」


 僕は意識が飛びそうになったものの何とか堪えることができた。そして男の前に結界が出現し、両手で鎌を構えたふんどし一丁の貧相な体をした化け物が現れた。


「餓鬼、その男を仕留めろ!」


 この怒髪天を突いた式神は鎌をぐるぐると回しながら男との距離をゆっくりと詰め、間合いに入ったところで鎌を男の頭に振り下ろした。が、餓鬼は突然動きを止めた。体中をぶるぶると震わせているが、硬直したかのように振り下ろしたポーズで固まってしまったのだ。


「この程度の者、式神に相手をさせるまでもない」


 男は右手を餓鬼の顔の前に出し、何かをぶつぶつと念じ始めた。餓鬼の体が徐々に薄くなっていく。


「嘘だろ……」


 餓鬼は完全に透明になり、実体が消え失せてしまった。僕の左手から式神の存在が完全に消滅するのが感じられた。


「女、手こずらせてくれる……」


 男は和沙が投げ飛ばしたナイフの所まで歩いていき、月明かりにギラリと光るそれを拾い上げた。そして苦しそうにのたうち回る和沙を足で押さえつけ、彼女の胸に鋭利なナイフを突き立てていった。暖かいバターにナイフを入れるように、ずぶずぶと和沙の肉を裂いていった。


「かずち!いやああああああ!」


 ミツキが体をがくがくと震わせ始めた。


「ミツキ、気を保て!」

「いやあ!いやあああああああああああああ!」


 僕らの状況などお構いなしに鬼羅と嗣津無が一気に間合いを詰める。まずい、嗣津無はともかく鬼羅は桁が違う。今ミツキに気を抜かれたら二人とも瞬く間に殺られる。


「これでよしと……」


 男がナイフを素早く引っこ抜くと、鮮血が和沙の白いTシャツを真っ赤に染め上げていった。そして和沙の体中の赤い筋は徐々に薄くなり、それは十数秒後に完全に消え失せた。取って代わるかのように今度は縛られ気絶している恩田に紅い筋が覆い始めた。和沙に紅い筋が広がった時よりも遥かに早いスピードだった。赤い筋はたったの十数秒で恩田の体中を完全に覆ってしまったのだ。市松人形の赤い目がぎょろぎょろと動き始める。男が市松人形に命じた。


「亡者よ、この女を喰らい尽くせ!」


 人形の顔に赤味が加わり始め、その体をびくびくとさせながら、目や鼻、口などを急速に人の肉に変形させていった。ヒトバケ現象をこの目で見るのは初めてだが、肉が不自然に変形していく生々しさはかなりグロテスクだ。


(畜生、ここまでか……)


 白髪の人形は、十数秒後にその姿を完全に人の子供の姿に様変わりさせた。今僕らの目の前には、着物を着た可愛らしい顔立ちの少女が立っていた。


「写真に写っていたあの女と同じ顔だ……」


 僕は今の状況も忘れて目の前のバケビトに魅入ってしまった。切れ長の美しい目、小ぶりで形の良い鼻、少し口角の上がった唇……。少女の顔のパーツは紛れもなく写真に写っていた大川文子そのものだったのだ。少女は無表情に周りを見渡した後、気持ちよさそうに体を伸ばした。まるで場にそぐわないのんびりとした雰囲気だった。


「うーーん、久しぶりの現世ねぇ」

「大川文子だな?」


 男が一歩前に出てそう言うと、白髪の少女は無言で男を一瞥した。


「大川文子、お前は今から私に従属する」

「あら、あなたに従属した覚えはありませんけど」

「なに?」

「聞こえなかったかしら?私はあなたのお人形ではありませんよ」


 表情に乏しいはずの男がはっきりと驚きの表情を浮かべた。


「馬鹿な!依り代には血縁者の血を飲ませたんだぞ!?」


 大川文子は男を無視し、僕のほうを向いてニッコリと笑った。


「坊や、もうそのワンちゃんを引っ込めても大丈夫ですよ。後は私がなんとかします」


◇◇◇

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