第4話

 夏の日の午後、生温いそよ風が太陽の光を反射する街路樹の葉を微かに震わせている。通学路を歩く僕らの数メートル先では、自転車を引きながら歩く女子生徒と二人分の学生鞄を肩にかけた男子生徒が並んでゆっくりと歩いている。女がぽつぽつと話し、男は殆ど無言だが、7月の空の下で目にするその他愛のない光景は二度と戻ることができない時代の一瞬見事に切り取っており、僕は胸が締め付けられた。おそらく年を重ねていくにつれ、同じような光景を見る度に切ない感情は強くなっていくのだろう。僕は前方のカップルを指差しながらミツキに言った。


「ほら、あんな感じ」

「何が?」

「さっき言ったろ。彼氏を作って青春を謳歌しろって」

「バカみたい。ヒナタが作ればいい」


 そっぽを向きながら拗ねたように言った。やれやれ、どうしたものか。


「そうか?実はな、この前告白されたんだ」

「え?」


 ミツキは目をパチクリとさせている。


「よく図書室にいる女の子に急に声を掛けられてさ。まあそれでいろいろあってな」

「え?え?」


 これじゃいつまで経っても僕以外の人間との接点ができない。自分に万が一のことがあり(その可能性は高い)、今のミツキが独りぼっちになったらと考えるだけで気が重くなる。可愛い我が子は谷に突き落とせと言うが、谷とまではいかなくともこの程度のショック療法は致し方あるまい。


「そういう訳で、ボーイフレンドの一人でも作ったらどうだ。新しい世界が開けるぞ」


 わざとらしく髪をかき上げながら横目でちらりと見たが、ミツキの顔がみるみる青ざめてゆく。いかん、こりゃ中止だ。


「嘘だよ、嘘。ちょっとからかってみただけだ」


 慌ててなだめるも、うっすらと涙を浮かべた恨めしい目でじっと見てくる。相手の心を全て見透かしすかのような鋭い視線。


「今の話、本当でしょ」


 言うんじゃなかった。生まれた時からミツキとずっと一緒だというのに、なんで未だに同じミスを重ねるのだろう。ミツキは異常に勘が鋭く、相手の言うことが本当か嘘かを瞬時に見抜く。ましてや今回は女の勘が働いているのだろう。


「えーっと……」


 ミツキは無言で、片時も視線を外そうとしない。僕が顔を左に向けるとミツキが左から覗き込んでくる。右に向けると右から、下を向くとしゃがんで上目遣いに覗き込む。こういう時、話をはぐらかそうが、ぼやかそうが、無言を貫こうがミツキには一切通用しない。僕は観念して立ち止まり、事のあらましをポツポツと話し始めた。


「実はな……」


◇◇◇


 それは数週間前のことだった。僕は誰もいない図書室の机で古臭い小説を読んでいた。実は前日に腐った牛乳を勿体ないと飲み干したミツキがひどい腹痛を起こして学校を休み、久々に一人の時間を満喫していたのだ。帰って付きっきりの看病になる前の、1時間だけの自由時間は半分近く経っていた。それにしても、一人きりの静かな図書室で心のゆくままに読書をすることのなんと心地よいことか。今だったらどんな本、どんな内容でも楽しく読める気になってくる。それがたとえパリの下水道についての細かすぎる描写や考察だとしても。


 夢中で周りが見えなくなっていたのだろう、目の前でコトンと何かが置かれる音に気付くのにワンテンポのずれが生じた。顔を上げると目の前に缶コーヒーが置かれていた。その先には見覚えのある小柄な少女が俯きながら立っていた。図書室に自分一人だと思っていたので、目の前の女の子の元々の印象も相まって幽霊を見たかのように驚いてしまい、危うく声を上げそうになった。


「ああ、どうも」


 何と言っていいかわからずに間の抜けた声で挨拶をした。少女は無言で向かいの席に座った。


「あの……」


 野暮ったい丸眼鏡をかけたいかにも大人しそうな少女が、消え入りそうな声で話しかけてきた。前髪を横分けにし三つ編みを左右に垂らしたその髪型は、写真で見た戦時中の女学生を思い起こさせた。


「あの、こんにちは」

「あ……飯山さん」


 目の前の少女は飯山瑞樹。恩田や泉とともに中学校が同じだが接点はほとんどなかった。授業時間以外は大抵図書室にいたなという記憶しかなかったため、本の虫という以外にほとんど印象がない。高校生になっても相変わらず図書室通いは続いているようだ。ミツキは会話こそしたことがないものの、中学時代から何度か近所の図書館で彼女を見掛けているそうで、話に彼女が出るや「あの三つ編みの子」とすぐに思い出すことができた。飯山は秘密を打ち明けるかのようにひそひそ声で話した。


「今日はお姉さんは……」

「今日は体調不良で休み」

「そうなんだ。いつも一緒だからどうしたのかなと思って。じゃあヒナタ君は一人?」

「そう、久しぶりにね」

「そうなんだ、あ……よかったらコーヒーをいかが?」

「ああ、ありがとう。じゃあ頂きます」


 何が何やらわからない僕は、慌てて缶コーヒーの蓋を開こうとした。触った瞬間、手の先に強烈な刺激が伝わる。


「熱っ!」

「だ、大丈夫?あ、夏なのにホットコーヒーって、私って本当に馬鹿だ……」

「いや、コーヒー好きだから問題ないよ」


 彼女との間に、読書中に味わったものとは性質の違う静けさが横たわった。一体何の用だろう。間が持たないためちびちびとコーヒーを飲んでいると、飯山が口を開いた。


「何を読んでいるの?」


 生粋の読書好きに本を紹介するのは恥ずかしかったので、言葉の代わりに本の表紙を見せた。すると飯山は先程とは打って変わって明るく大きな声を出した。


「レミゼ、完訳版じゃない!これ大好きなんだよね。文章が詩みたいに綺麗で」

「俺もそう思う」


 飯山は今までの印象を払拭するかの如く、興奮気味に語った。


「小学校のころミュージカルを見に行ったけど、当時は訳の分からない話だと思って。その後に見に行った赤毛のアンは今でも良く覚えているんだけれど」


 そう言って飯山ははにかんだ。


「他の登場人物も小説の方がずっと深みがあるよな。ティナルディエなんか映画だとちんけな悪党って感じじゃん」

「私、ジャヴェールがジャン・ヴァルジャンに向かって敬意を込めて「君」と呼ぶシーンが本当に好きで……それでね……」


 僕らは夢中になって話し続けた。それにしても、飯山って結構明るく喋るのだな。

 ふと時計を見ると自由時間のタイムリミットが間近に迫っていたのだが、飯山の嬉しそうな顔を見るととても言い出せなかった。飯山が三つ編みをいじりながら恥ずかしそうに言った。


「こうやってヒナタ君とお話するのは初めてだよね」

「そうだっけ?」

「そうだよ。いつもはさっさと帰っちゃうから」


 なんでそのことを知っているんだろう。


「でもたまには一人でゆっくり本を読むのもいいもんだな。ここは静かだし」

「私もここが大好き。一人きりになれるし、誰にも話し掛けられないから」


 この子もミツキと同じでいつも独りきりの印象しかなかった。誰かと一緒にいる光景は見た記憶がない。


「飯山さんは図書委員や文芸部には所属しないの?」

「本は一人でも読めるもの」

「確かに」

「でもね、たまには人と話すのもいいものね」


 気恥ずかしそうに笑う飯山を見て、前の放課後に溝口のアホとその他2人のやりとりを思い出した。


◆◆◆


「4組の飯山っているじゃん。たまたま眼鏡を外したところを見ちゃってさ。結構可愛かったんだよな」


 村井が呆れたように言った。


「眼鏡を外したら美少女なんて漫画やアニメ以外であるわけないじゃん」

「いや、マジだって。飯山の顔を思い出してみろ」


 川瀬は腕組みをして天井の方を向いた。


「……可愛いかもしれん」

「だろ!今度アタックしようかと思ってな」

「絶対に気が合わないと思うよ。溝口君は飯山さんが一番苦手なタイプじゃないかな、多分」

「そんなの分かんねーだろーがよ!お前はいつもあれこれ言って行動を起こさねーからだめなんだよ。女にはグイグイ行かなくちゃ駄目だ!という訳でお前ら今日は本屋に付き合え。村井、お前本を読むほうだろ。文学青年っぽい小説ってなんだ?」

「僕はラノベとファンタジーしか読まないからなあ。本好き相手に会話するには、やっぱり文豪がいいんじゃないかな。太宰とか谷口とか」

「よくわかんないけどそれでいいや!そうと決まったらさっさと行くぞ!」


◆◆◆


 溝口は有言実行の男なので、その後二人の交流がない様子から空振りに終わったのだろう。改めて彼女を見ながらふと思った。イメチェンをしたら男が寄ってくるかもしれないな。ただそれは一時的なもので終わるのではないだろうか。見た目だけ垢ぬけたとしても、普段の彼女の他人に怯える固く閉ざされた心は相手を気疲れさせてしまうだろう。しかし今目の前で楽しそうに話すこの少女は、ちょっとだけシャイなだけの普通の女の子にしか見えない。そんなことを考えている最中、飯山がもじもじと言いにくそうに言った。


「今日は、その……予定とかあるの?」

「うん、帰って姉の看病をしなくちゃならないんだ」


 そう言うと、安易に話しかけるのも憚られるほど悲しそうな顔をした。僕は何か酷いことを言ったような気分になってしまった。しばらくして、俯いていた飯山が意を決したように顔を上げて僕の目を真直ぐに見た。


「その、急に変なことを聞くけど、付き合っている人はいますか?」

「え?いないけど?」


 飯山は一瞬驚いたような無防備な表情になり、その後大きく息を吸い込み、意を決した眼差しで僕を見た。


「私、小倉君のことが好き」


◇◇◇

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