第10話

 未映子は足を踏ん張り、交差点の前に辛うじて立っていた。


 狩野はいない。警察に狩野という刑事はいない。


 狩野はいったい誰なのだ。どうして刑事だと嘘をついて、未映子に近づいてきたのか。


 信号が赤に変わった。未映子は赤だろうが、青だろうがどちらでも良かった。足が動かないのだから。


 ドンっと未映子の背中が強く押された。


 未映子の身体は、スローモーションのように、交差点の中に吸い込まれていった。


 車が近づいてきた。


「危ない」


 未映子が死を意識した瞬間、強い力で交差点の外に引き戻された。その大きな腕の中に倒れ込みながら未映子が見たものは、人混みに隠れるように去っていく「私」だった。


 気付くと未映子は狩野の腕の中にいた。未映子は狩野の筋肉質な顎を見上げた。


「会いたかった」


 甘い。


 未映子は狩野の顎をぺろりと舐めた。




 人目のない所で話したいと言われ、未映子は今、狩野とラブホテルの一室にいる。


 部屋に入った瞬間、未映子は抑えきれない感情に身を任せ、狩野と寝た。


 私は狂っているのかもしれないなと、狩野の横顔を見つめながら未映子は思っていた。


 母が殺され、夫が現れ、莫大な財産を得て、そして私と同じ顔の女に出会った。なのに、狩野に恋をしている。まだ犯人も捕まっていない上に、狩野が刑事だと嘘をついていたのに。


 何一つ真実が見えてこないのに、狩野と寝てしまった。


 私はどういう人間なのだ。


 狩野が未映子の胸に顔をうずめてきた。ああ、安心する。未映子は狩野と初めて寝た気がしなかった。この近い距離感覚は不思議だ。狩野が未映子の腕を掴んで押さえつける。


 そうだ。私はこの肌の感触を知っている。




「捨てちゃってよ、こんな子供」


 高木治子は吐き捨てるように言い残し、部屋を出ていった。


 未映子は、うずくまるように座っている女の子と目が合った。自分と同じくらいの年齢の女の子。友達になれるかなと、未映子はドキドキしながら手を差し出した。


 女の子は未映子をギッと睨みつけた。まるで動物園の虎のような目だ。未映子は驚いて手をひっこめた。


 女の子は立ち上がり、未映子の胸をどん、どん、どんと強く押してきた。痛かったけど、未映子は我慢した。この痛みは何故だか我慢しないといけないような気がしたからだ。


 ドアが開いて、若い男が入ってきた。その男の日に灼けて真っ黒な顔を見て、未映子は悪い人が来たと咄嗟に思い、逃げようとした。


 でも女の子がどんどんと胸を押してくる。


 思わず未映子は手を頭の上まで振り上げた。殴ろうと思ったのではなく、逃げようと思ったのだったが、その手を見て女の子は怯んでいた。その未映子のあげた手を男が掴んだ。


 未映子は腕を掴まれながら、その男の顔を見上げた。真っ黒な顔。





 ああ、あの時の感触だ。狩野に腕を掴まれながら、未映子は思い出していた。あの時の男が狩野だったのか。だから私は狩野に惹かれたのか。


 じゃあいったいあの女の子は誰なのだ。


 あの女の子の顔は私の顔だ。それを見ている私はいったい誰なのだ。


 私の記憶は誰の記憶なのだ。


 未映子は固く目を瞑った。


 身体に狩野の重みがのしかかってきた。ドサっと倒れ込んできた感じだ。


 未映子が目を開けると、狩野が未映子に抱きつく形で倒れていた。よく見ると頭から血が流れている。


「狩野さん」


 未映子は狩野の身体を横にずらそうとするが、重くて身動きが出来なかった。


「馬鹿な男」


 女の声が聞こえた。


 声のした方を急いで見ると、自分と同じ顔をした女が立っていた。


「私……」


 視線を下ろすと、女は手に何か光るものを持っていた。よく見ると、ガラスの灰皿だ。よく見るとガラスの灰皿には赤い色がついていた。狩野の血だ。


 どーん、どーんという耳鳴りがしたと同時に、未映子は意識を失った。



 (つづく)

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る