第2話

 背後に誰かの存在を感じた未映子が、恐る恐る鏡越しに見てみると、鏡の奥には誰もいなかった。


 こんな状況なのだから神経がピリピリしているのだ。未映子は、擦りすぎて皮膚がめくれてきている手をタオルで拭き、また母がいるはずの居間に戻った。


 居間に戻ると、まだ母はそこで死んでいた。

 死んでいる母は醜かった。目を見開き、口をだらしなく開けている母は、もう未映子の知ってる母ではなかった。


 何気に未映子は、足で母の頭を軽く蹴ってみた。心の澱みが少し綺麗になったような気になった。


 最初は遠慮がちに蹴っていたが、蹴る度に心が解放されていく喜びに突き動かされ、何度も何度も、未映子は母の顔を蹴り続けた。


 母の呪縛から解放されていく気がした。


 ふと我に返り、母の顔を見ると、そこにはもう母はいなかった。ただの肉の塊が落ちているだけだった。


 その時、パトカーのサイレンの音が止まった。


 未映子は、母であったであろう肉の塊をじっと見つめた。逃げなければと焦る反面、母から離れる事が不可能な気がして、足がぴくりとも動かないのだ。


 そうだ、母から逃げるなんて事は不可能なのだ。未映子の思考はまた過去へと遡る。

 



 未映子が五歳だった頃、母から初めて恐怖を与えられた。


 未映子の家はいわゆる高級マンションで、ベランダには高い囲いがしてあり、外から洗濯物が見えないような作りになっていた。


 その高い囲いの中に、未映子は裸で立たされていた。未映子の両手の甲の上には、ガラスの灰皿が乗せられていた。


 よくテレビのサスペンス劇場で、犯人が殺意の相手の頭を殴っている、あの大きなガラスの灰皿だ。


 部屋の中では、鏡の前で母が眉間にしわを寄せながら、一心不乱に化粧をしていた。

 そのしわにおしろいの粉が入り込み、未映子はお餅みたいだと思っていた。


 顔の真ん中にお餅、その発想は子供である未映子にとっては、ただただ面白い思いつきでしかなかった。なので、母に誉めて貰えると思い、未映子はその事を意気揚々に告げてみた。


 その思いつきは失敗に終わった。


 母は馬鹿にしてと激しい怒りを露わにし、未映子の髪を掴みベランダに投げ捨てるように押し出した。そして、未映子の服を剥ぎ取るように脱がし、両手の上にガラスの灰皿を乗せた。


 未映子はじっと耐えた。少しでも動くと灰皿は床に落ちてしまう。そうしたらまた、母に嫌われる。


 未映子は、手の甲に刺さるような痛みを、ひたすら我慢し続けた。裸でいる事の羞恥心より、母に嫌われる事の恐怖心の方が大きかった。




 ドアを叩く音で、未映子は現実に引き戻された。


 ああ、逃げる事が出来なかったと、未映子は諦めたように重たい足を引きずり、ドアに向かった。


 ドアまでの距離が長く長く感じたその時、未映子は頭に強い衝撃を受けた。未映子は全身の力を吸い取られたようにその場に崩れ落ちた。


 意識を失う直前、視界の隅に映ったのは、あのガラスの灰皿だった。


 「お母さん」と声にならない声を出し、未映子の思考はプツっと消えた。



 (つづく)


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