第十二話 お粥。

 「……ん」

 瞼を開けると、眼前に広がっていたのは、どこまでも高い鉄板の天井だった。



 無骨な天井には似つかわしくない、天窓がついている。そこから灼熱の温度が光の柱となって地面に走っていて、鈍色のタイルに降り注いでいた。雪ん子のように埃が待っている。あまり、清潔とは言えない室内だった。

 あたしは少し寝返りを打ち、状況の確認を試みた。きしむソファベッド。枕とタオルケットからはほのかに花のにおいがする。間取りの広い室内にポツンと、このベッドは存在しているらしい。それから周囲を見渡すと、だだっ広い部屋の隅っこの方には、用途の分からない大から小までの雑貨が、野ざらしもしくは濃い緑色の地味な布を被されて放置されている。捨てられた倉庫、というのが率直な感想である。

 あたしは上体を起こした。鉛のように頭が重い。全身、水銀になったかと思うほど、どろどろと力が入らないのだ。気を抜けば、上体を起こし続ける、という比較的簡単な状態保持すらかなわないかもしれない。それほど、甚だ億劫な気だるさがある。



 ふとあたしは、汚い話だがぶるりと尿意を覚えた。環境は変われど習慣はなかなかに抜けないものだ。

 だもんで、ソファベッドから這い出ようとした矢先、接地した足を支えに立とうとしたところ、一切の力が入らなくてそのままべしゃりと倒れこんでしまった。

 「あだっ」

 と頓狂な叫びをあげたもつかの間、下腹部の貯水庫内部で波打つ汚水が、身体に生じた刺激を皮切りに溢れ出んと荒ぶり始めた。

 「やばい……やばいやばいやばい」

 冷や汗を感じつつ、さながら生まれたての小鹿のように震えながら立ち上がろうとするけれども、やはり足に力が入らない。若木で作った杖のごとくに、力をこめ、地に対して体を支えようとすると柔くたわんでしまう様で、脚筋の芯が通らないのだ。のみならず眩暈やら血の気のうすさやらが手伝って、糸の切れた人形のごとくに自由が利かない。

 何事が起きているのだろうか。身体に生じたこの無力感の理由は解せねど、たった今、自分の立たされている危機的状況というのばかりは解することができた。

 ふぎぃ、と歯をかみ合わせた。ままならん。手洗いの場所もわからない上に一歩も動けぬものときた。手の打ちようがない。銃殺刑は目隠しをかぶせられ、国の定めに則り鉛を受けて殉するものだが、そのように、暗澹とした状況のもと生理現象という規律を前に尊厳を手放すというのは、極刑もかくやと言わざるを得ないだろう。這いずって移動する手もあるがこれも無駄なあがきだ。生来、二足歩行で生きてきたから四足の歩み方は不得手である。愚かその動き方を想像するに、下半身を使わぬから這いずるというわけであるが、その場合、最も今守るべき下半身部は絶えず微弱な振動を受ける不利益を被る。この不利益の指すところ、閂の腐った水門の戸が、いつ水圧に気圧されて水難を起こすかわからない中、その戸を金づちで小突いて補強補強というようなものと同じことである。これがどれだけ愚かしく、あるいは補強が頼りがいのないものかなど、今なおその水害に遭おうとしているあたしにしかわからぬところだ。

 あとどれほどで鉛玉がはなたれるだろうか。水門が決壊するにあといかほどの猶予がある? 秒数を数えても詮無い事だ。なんつっても動けないのだからまさにまな板上の鯉。シメの刃物をえらで食うのを待つばかりである。



 絶望していると、部屋の一番最奥に位置する扉がギィと開いた。到底、身構えることもできない体勢だが、とかく意識だけでも研ぎ澄ませてそちらの方を警戒していると、ド派手に赤い髪色をもつすらりと背の高い女性が見えた。

 再恋寺さんだ。再恋寺さんがいる。

 彼女は端正な目元を開いてこちらを凝視している。

 「……音が聞こえたから見に来たものの……。……何やってんの? 出里ちゃん。四つん這いになったりして」

 あたしは叫んだ。

 「助けて再恋寺さん! トイレ! トイレ行きたい! 連れてって! 急いで! ハリー! 早く!」

 「トイレって……。するといいさそこで」

 「そこでってどーゆうこと!? できるわけないじゃん! 体が動かないんだって! 漏らせって言いたいの!?」

 「今、若菜ちゃん介護用のおむつしてるから最悪出ちゃっても大丈夫だよ。てか寝てる期間それで済ませてたんだし」

 「ちがッ」

 あたしは叫んだ。

 「意識があるうちに漏水すんのは別でしょうが!!」

 「ブチ切れじゃん」

 再恋寺さんは大口を開けてダッハッハッハと快活に笑った。

 「クソ笑う」

 笑い事じゃねえんだわ。



 「とにかく、出里ちゃんの意識が戻ってよかったよ。容体は安定していたとはいえ、結構な間、目を覚まさないから最悪の事態を想定していたところだ」

 危機的状況を乗り越えたあたしは、彼女の肩を借りて再度ソファベッドに腰を落ち着かせることとなった。まだ、どうにも歩くことすらままならない。ふらふらもするし手先がおぼつかなくもある。

 再恋寺さんはポケット(服装はリクルートスーツ、ではなくかなりラフで、薄い肌着に濃い青色のジーンズである。この場合、ジーンズの前ポケット)から、クシャついた紙煙草の包装を取り出して、彼女の指ほどに細い棒きれ一本を引き咥える。先端が赤ら火に染まると、そこから、落ち着いた煙がもぅもぅと立ち上り始めた。

 彼女の顔を改めて正面でとらえて、そこでようやっと少しずつ、直近のことを思い出し始めた。

 記憶は正直ぼんやりとだが、ちょっと覚えちゃいる。吸血鬼に襲われて、再恋寺さんに電話して、ちょっと待ってろ、という声を遠い意識の中で聞いた。

 恐らく、そこから今に至るまで寝てしまっていた、と。

 ……すっかり、彼女に迷惑をかけてしまったようである。女にもモテそうな美男風の顔にすこしばかり疲労の色が見えた。その色は、あたしが生じさせてしまった色なのだろう。

 「……心配かけてごめんなさい。電話で指摘された通りです」

 おずおずと頭を下げた。救いを求めた電話口で、彼女はあたしの愚行を当てて見せたのだ。彼女の訓戒を無視したような形で、今のザマがある。叱られて然るべきである。

 しかし彼女は肩をすくめながら

 「いいさ。無事、とは言い難いけど、最悪な事態にはならなくてよかったよ」

 と言ってくれた。許された、というと厚かましいが、彼女は寛容に、容赦してくれるそうだった。

 「あたし、何時間寝てたんですか?」

 両手をグーパーさせながら聞いた。見たところ、現在は昼過ぎと言ったところだろう。天窓から覗く外の情景は、陽の光が最も強い時分と見える。

 とすれば、実際に襲われたのを夜中の二十時ぴったしと仮定して、今が正午なら約十六時間。なるほどそう考えれば、ちょっと長寝を決め込んでしまったとみられても仕方がない。

 彼女はうまそうに煙を噛んで

 「三日間」と言った。

 「そう……三時か……三日?」

 あたしが聞き返すとさも当然という風に再恋寺さんが頷く。

 「おん。三日。襲撃された翌日を一日目と数えてね。今は木曜日の午後だよ」

 「……そんなに寝てたの? あたし?」

 「その間ぐっすりだったさ。何されてもおきないんだもん」

 「何されてもって、何をしたんです」

 「看病だよ。夏だし起きてすぐべたついてるのは嫌だろ? 最低限清潔にしてやっただけさ。不可抗力であちこち触ることになったがてんで起きやしない」

 あちこちとは何ぞや。思えばあたしの服装は簡素なパジャマに変わっていた。彼女が寝ている間の様々な世話をしてくれた、ということだろうか。

 その手があたしの体のどこまでに及んだか、というのは、立ち上る煙はどこまでいって消えるのか、という疑問ほど、行方の分からぬ話である。



 「まだ体が動かし辛いだろう。寝てた期間があるから、身体がなまっちゃってるんだよ。加えて断食していた分、栄養もないから身体も脳みそも働いちゃいないってところじゃないかい。気分は如何かなお嬢さん」

 「……気分はいまいち。というか最悪です。自分の身体じゃないみたいだ」

 朝の微睡が、いつまでたっても覚めないみたいなさまだ。力も脳みそも、やる気も何も起きない。ただ空腹が為の、気分の悪さばかりは色濃く感じる。

 両肩は凝ってるし、後頭部らへんからは内側でウニが浮いているんじゃないかと思うほど鋭敏な頭痛がある。

 「まあ、三日程度のブランクならたちどころに治るさ。あとは君のバイタリティの問題だろう。良けりゃ明日には回復できてるかもな」

 「まあ、バイタリティになら自信はありますけれども」

 「ま、とにかく積もる話はいろいろあるだろうけれど」

 と再恋寺さんは一つ柏手を打って

 「まず飯を食ってからにしよう」と言った。

 「……飯」

 「起き抜けでさぞ食欲はなかろうが、空きっ腹を放っておくというのも毒な話だ。軽く食えるものをもってきてやるさ」

 「……再恋寺さんが作ってくれるんですか?」と聞くと彼女は唇の端を釣り上げて「待ってな」と言い、またも最奥の扉の向こうへと消えて行ってしまった。

 途端、静かになった。

 ふぅ、と深呼吸をする。

 目が覚め、再恋寺さんと顔を合わせた以上は、あたしはまだ生きているもの、らしい。いまだに実感がわかないが、三日間、寝続けたという。

 昏睡、か。ドラマなどで聞くそれは、かなり重篤な状態で描かれているものだ。いつ目を覚ますかわからない。ただの睡眠と比べても、事の重大度はもはや言うまでもない。

 あたしが、そうなってた。いつ目が覚めるかわからない状態に。生死の境が、三日ほど曖昧だった、と言ってもいいだろうか。

 あたしは、噛まれた首筋をなでた。かさぶたが二つある。夢じゃない。過去あれも、現在これも。

 それから、いろんなことを思慮した。大葉さんは何をしてるだろうか。きっと心配してくれているだろう。そういやバイト先に欠勤の旨を伝えてなかったな。ラニはあたしが欠席してることをなんて思ってるだろうか。いつも休まないあたしが、欠席であることを笑ってやがるんじゃないか。それか、いつも通りあたしんちに迎えに行ったら、大葉さんから若菜が帰ってこない、なんて聞いたとすると、きっと大騒ぎに発展するところだろう。女子高生が一人行方不明。昨今の時勢を鑑みても、最悪な方向に話はどんどん膨らむはず。早いとこ、生存しているんだ、てことを証明したほうがいいのかも知れない。

 等々、ソファベッドのきしむ音すら響く倉庫の中。壁一つ隔てた少し遠い蝉の声と、あらゆる思考ばかりが、あたしの脳内に空回る。

 それら以外、恐ろしく静かだった。



 すこし経つと、再恋寺さんが再び姿を現した。トレイを持っている。その上に、一つ、碗物が鎮座していた。

 「久方ぶりの経口食だ。かき込むと胃袋がびっくりするから、ゆっくりと噛んで食べなさい。体になじませるように、コメ一粒一粒の味を味わうようにね」

 言うなり彼女は椀物をあたしに持たせた。

 雪を盛ったかのような白い湯漬け。その真ん中には、お日様のような梅干しが添えられてある。熱すぎない、体温ほどの温かさだった。

 正直、言われたように食欲はない。空腹が極まり過ぎて、逆に食べ物を拒否してしまっている感触がある。すっかり、胃が萎んでしまっているのだろう。

 それでも。

 一口、食う。もむっと噛めば、口の中で汁気が飛び散って、ほんのりとした出汁の風味が広がった。薄めの塩味は、はっきり言って物足りない。これをかみつぶしかみつぶして、嚥下する。のどもとに、ほっこりとした温度が流れていった。

 もう一匙、掬う。すこし、喉が詰まった。

 もう一杯、含む。嗚咽が漏れた。

 もう一丁、呑む。涙がこぼれた。

 「うぅ」

 ずびずびと鼻が垂れた。目の奥に熱が生じ、次第に、口内に生じる唾液の分泌が著しくなった。胸元に滞留する温もりが硬直しきった感情をほどいていく。恐怖からの解放と、それに伴った安堵感。ここにきてようやっと、あたしは、人らしい感情を取り戻すことができたのだ。

 怖かった。恐ろしかった。いまだに両肩に万力を食らったような強張りを覚えているくらいだ。あの後、今のあたしがこうやってご飯を食べることができているなんて、それこそまだ夢を見ているかのように思えてならない。

 「死んだどおもっだじ……痛いし辛いじ……怖かったじ」

 吐露せずにはいられない、胸中のしこりや体験への不満を口にしながら、だがしっかりと再恋寺さんの呉れた栄養の素を口にする。

 薄くとも、その柔らかな味が恋しくなる。ものを食べる、ということの、当たり前すぎる行為すら、あたしにとっては遠い過去のものになりつつあったのだ。二度もこの口で、舌で、嗅覚で、味わう、という行為はおろか、これを糧にする、ということ自体、できなくなっても、仕方がなかった境地に在った。

 けれどあたしの鼓動はまだちゃんとある。太い血管に支えられ、たくましく脈動をしている。

 そう実感できる。それがどれだけ、うれしかったか。

 「ずびっざいれんじざん」

 「んー?」

 「生ぎでる……あだじ生ぎでる」

 「ああ生きてる生きてる。良くあきらめなかった。えらいよ出里ちゃん」

 再恋寺さんはあたしの頭を優しくなでてくれる。

 あたしは、二度と味わうことのできなかったかもしれない白米の味を、舌の根に染み渡らせるようにして大事に大事にかみしめた。

「人間、諦めないことより諦めることの方が格段に選びやすいんだ。そん中で出里ちゃんがちゃんと生き抜けてたってことは、きっと君の心が生きることを諦めなかったからだよ。本当に、よく耐えた」

 「うん」

 あたしはとめどない涙をぼろぼろ、ぼろぼろとこぼしながら、必死に、決死に、椀内の飯を平らげた。粒一つ残さず平らげた。

 「おがわり」

 「ちゃっかりしてんな君」

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