第一話 出里若菜の起床

 耳元付近で爆音が鳴り響いた。ジリリリリリリリリリ、と。

 初夏の朝、床より起す。んん、と凝り固まった体中の筋を延ばし、次いで脱力する。起き抜けは身体が鉛のように重い。心臓の位置に文鎮でも仕込まれているかのように。ベッドの重力にかまけた状態で、ゆっくりと瞼を開いた。木目の天井と橙の豆電球。毎朝私の起床を見守る二点セットが空にある。



 「……あづっ……」

 上半身を起こして胸元をぱたぱたと仰いだ。額に気持ちの悪いほど髪の毛がへばりついている。之を掻き上げて、一息を吐く。

 なんだったんだ、あれは。おぞ気の走るような夢をみた。強烈な既視感と、めまいを覚えるほどリアルな感触がまだ体に残留している。背筋に悪い気配が流れた。全身くまなく汗ばんでいて、暑さがまだ控えめな今の時期ではありえない発汗量だ。全身べとべと。……けれど。

 「なんだったか思い出せない」

 大事おおごとな景色だった。それでもなんだか、今に思い出そうとすると夢自体が黒い靄で包まれているよう。おまけに朝定番の低血圧が思考を襲う。潤滑油の枯れた機械みたいな脳みそは、時間が経たないと役に立たない。その頃には見た夢なんて、尻尾も見えなくなる。内実が気にはなるけれど、これを思い出すのは至極至難な業だった。

 ただ、思い出しちゃいけない、そんな悪夢だったのだけは確かだ。現に瑞々しく出来上がった身体がそう物語っている。

 枕もとを振り返ると地毛が何本か落ちてた。黒い枕に白い毛が数本。ぼっさぼさの髪の毛を掻き乱して、未だにけたたましく鳴る小型の爆弾に触れた。通知が数件。それを確認しながらベッドに身体を委ねる。鳴ったアラームはデッドライン三十分前のもの。あたしには、まだ時間が残されている。



 「おはよ、大葉さん」

 あたしがねぼったい眼を擦りながらリビングによると、かっぽう着姿の大葉さんが、すでに朝ごはん作りにとりかかっていた。フライパンの上で油がはじける音と、肉の焦げる甘やかな匂いがその場に立ち込めている。

 長い茶髪のポニーテールを揺らしながら、大葉さんは振り返って

 「おはよ。ほら、さっさと顔洗ってきな。せっかくの美人が台無しだぞ」

 という。欠伸で以てこれに応じ

 「へいよ」と、暖簾をくぐって洗面台に向かった。



 私は顔を洗って歯を磨き、寝ぐせのついた髪を梳く。汗まみれの寝間着を脱ぎ、シャワーを浴びる時間も勿体ないから制汗スプレーをふった。制服に身を通してスカートをはく。

 順次、皮膚の曝け出る部位にあたしは日焼け止めを塗っていく。これがないと大惨事だ、とくにあたしは。最後にコンタクトを入れて、改めて鏡に映る身姿を視た。髪の毛ヨシ。見目ヨシ。一寸前髪が気に食わないから軽く手を入れる。

 高校デビューも甚だしい、最近の若いもん、てやつが反射している。最初はジリジリと痛んだピアスも様になってきた。



 比較的大きな眼とに小さな顔立ち。耳には黒いピアスが二つずつ、耳たぶにひとつと、軟骨を貫くように刺してある。真っ白い地肌に薄い桃の唇。顔に一つとしてニキビがないのは手入れを怠ってない何よりの証拠。前髪をそろえたアシンメトリーの髪型に、サイドは伸ばして肩にかかるまで。後ろ髪はさらに伸ばして肩甲骨まで達してる。

 なにより目立つはやっぱ肌。そしてお揃いなほどに白い、というか色素が見事なまでに抜け落ちている髪の毛。双眸そうぼうは西洋人を思わせる青。総じて相貌そうぼうさらの文字通り『面』白い奴が鏡に映っている。

 「完璧っしょ、あたし」

 制服姿の自身を見てムフンと鼻息を整えた。

 出里若菜。十六の歳。不肖ながら先天性の白皮症をもって生まれた女子高生である。それ以外、特出すべきところがない若者だけれど。



 「……」

 ……なんとなく、首筋を確かめた。左の首筋。自分で言うのもなんだが蝋人形みたいに白い地肌はなんとなくきれいで、ここばかり写真でとってSNSなんかに乗せるとバズりそうな気がする。いや、しないけど。……ただ。

 なんとなく、気になった。つぅと指先でなぞり、違和感がないか手で揉んで確かめる。深い意味はない。無いけれど、普通なら興味も引かない箸立てに、なぜか意識が向く、そんな感覚。……世に、サブリミナル効果、というものがある。認識できないレベルの速さの情報を、断続的に被験者に見せることで潜在意識に働きかける効果のことだ。

 いわばこれも潜在意識、なのかもしれない。サブリミナル、というほど瞬間的な情報でないにせよ、少なくとも、『首筋』という部位が、否が応にも気になってしまう事件が最近このあたりで起きている。否が応でもその情報が耳に入る。あたしも、ソレに中てられたかもしれない。

 「信じちゃいないけどな」

 鏡の向こう側でまっすぐこちらを見る真っ白い美女性につぶやいた。つまりは独り言ち。目の前の女性は血の気の失せた顔でじっとこちらを覗いている。

 「ほら早く飯食いな! 遅れるぞコーコーセイ!」

 リビングから大葉さんの呼ぶ声がした。「りょーかい」と応えて洗面台を出た。



 『昨夜、○○町の公園で、血を流して倒れている人がいるという通報を受け……駆け付けた警察官は……不審者の目撃情報を……』

 と、無機質な声を持つ男性アナウンサーがニュースをつらつらと読み進めている。私はそれを流し聞きしながら朝ごはんにありついた。白飯に目玉焼き二つと太いウインナー四つ。キャベツの千切りに味噌汁。これらを胃袋に流し込んでると

 「近頃多いよねえ」と大葉さんがつぶやいた。

 「こういう事件のこと?」と私は聞く。

 「そう」大葉さんは苦苦しい顔を作って大きなため息を吐いた。

 巷で噂の不審者というやつだ。若者の間じゃ『不審者』なんて無粋な呼び方はしてないけれど。……直近のニュースは之ばかり。朝ごはんを食べる際にテレビを映すと地元TVは絶対この話題である。それだけ、毎日被害者が出ているってことなのかもしれないけれど。どうにもあたしには画面の向こう側の世界だけの被害と思ってしまう。隔壁があるのだ。テレビの向こうとリアルのこっちで、世界軸が違く感じる、みたいな。

 「買い物行こうにも、そういうやつがどこかにいるかもしれないって思うと気が気じゃないのよね。現場から家近いし。もしかしたら近くにこの事件の襲撃者が紛れてるかもしれないよ若菜」

 「まあ、そりゃ間違いない」

 「あんたもバイトがあるのはわかるけど、遅くまで徘徊すんじゃないよ。特にあんたはなんか襲われそうで怖い」

 「縁起でもないこと言わないでよ。それに襲われる奴ってのはしこたまに運がないだけじゃん。私なら大丈夫」

 「何を根拠に大丈夫つってんの」

 「ん」私は味噌汁をズズッと啜った。

 「……私は、トクベツだから」

 それを聞いて大葉さんはもう一度大きなため息をついた。



 ピンポーン、と家の呼び鈴がなった。時計を見れば七時を超えて二十分。

 「ラニちゃん来たんじゃない」

 と大葉さんが言うので「っぽい」とだけ返してご飯をかき込む。思ったよりゆっくりしすぎたようだ。残りを口にめっぱい放りこんだら手を合わせて「ごっさん」と端的に食後の儀式をこなして玄関に向かう。

 「若菜!」

 と大葉さんが後方から私を呼び留めた。ローファーのかかとを合わせながら振り向くと彼女が口元で涼しく笑いながら

 「行ってらっしゃい」

 と手をフリフリしていう。つられて、無意識に手を振り返したが一寸してあたしはこそばゆく思い

 「……いてきます」

 とうつむき気味に返した。ドアを開けるとともに、つばの広い日傘を差す。恥を知らない太陽が、灰色の衣を一切纏わず、地面を照らしている。



 友達がいる。名前は時遠ときとお 良丹らに。中学校からの顔見知り。本当は小学校も同じだったけれど、実際に触れあい始めたのは中学のころから。毎日色を変える毒々しい見た目の長爪と、後頭部から生えた二本の髪の毛が特徴。ツインテールというやつだ。捕縛するときには活用させてもらっている。身長はあたしの頭一つ分ひくい位置に目線があるくらい。めちゃくちゃ身長が低い、というわけじゃない。あたしが平均より高いせいだろう。一応、あたしはこいつを親友とさせてもらっている。こいつはあたしのことをどう思っているかはわからないけれど。


 「つか知ってる? 最近出るらしいよ?」

 という突飛な彼女の話題は通学途中で炸裂したものだ。あたしは日傘をクリクリまわしながらその声を聴いた。

 対して本人はゴテゴテに装飾されたネイルを視ながら言っている。

 「出る? 何が? 幽霊?」

 「なわけ。アレだよ。最近ニュースでよくやってる」

 ――吸血鬼――。と、ラニはいう。

 「しかもこの町に、さ」

 ぎゃぁお、と彼女は獣を模した両手を顔に寄せて、大きく口を開いて見せた。とがり切っていない丸みを帯びた犬歯がのぞいている。

 「今更すぎん? ずっと話題に上がってるっしょ」

 あたしはそう言いながらケータイのロックを開けた。開くアプリはSNS。薄い板には間もなくして大量のつぶやきが表示された。

 「どーする? うち吸血鬼だったらソッコー若菜噛むけど」

 「情け容赦なくぶんなぐるわ。私、血見るの嫌いだし」

 「しょっぱな血みせて怯ませたところガッツリ噛むのよさげじゃね」

 「ホントいい性格してんなおまえ」

 ケケケ、とラニは小鳥の威嚇みたいな笑い声をあげている。

 「いうて、若菜ケッコー吸血鬼体質じゃね? 太陽に弱いし、身体マッチロだし」

 「血の苦手な吸血鬼がいてたまるか。あたしは最もその手のバケモンから遠い人間だよ。逆に、吸血鬼になったらまともに生きられんかもしれんね」

 「死にそうになったらうちに言えな。血分けてやるから」

 「吸わねえよ。ナチュラルにあたしを吸血鬼サイドの人間にするな」



 あたしは電子の川に浮かぶ情報の群れを、一個一個確認しながらスワイプする。……どこもかしこも、この手の話題であふれかえっている。やれ吸血鬼だの、血を吸われたら吸血鬼になるだの、ここではどうした、あそこはどうだった。つぶやきの殆どがこの手の類。中学生の時代なら、まだ信じたかもしれない。けれど、高校の代までになると、そういった地に足がつかないような噂話なんてものは信じなくなる。よく言えば、現実を見始める。悪く言えば、夢を見ない。そしてあたしもそんな夢を見ない人間の一人。

 「あんたは信じる? 吸血鬼」

 と訊くとラニは片眉をあげて

 「信じないなら、こんな話真面目にしねーよ」

 という。……彼女はまじめだったらしい。そうは見えないけど。

 「それなら、あたしが吸血鬼だったらどうすんの」

 聞き返してやった。するとラニは

 「血が嫌いなのに?」と逆ねじを食わせるかのようなことをいう。

 「吸うときだけアイマスクつける」というと「だっさ」と返答がくる。

 「実際どうすんだよ。曖昧なことは無しな。倒すか、警察に突き出すか、それとも太陽に曝すか。結構迷わない? どんな対処が合ってると思う?」

 あたしはそんな御伽噺に出てくるようなバケモンがこの世にいるとは思えない。あるとするなら、今よりもっと大きな事件がたくさん出ているはずである。児童書の一項に出てくるごときで十分だ。現実にはいないでほしい。

 それでもそういった化け物を倒す、という名目で、どのような動きをしなきゃいけないかはちょっと気にはなる。ゲームは好きだ。だがゲームのようにはいかない。コントローラーはないし、演算の処理で死ぬ死なないが決定しない、現実の話である。

 銀製の剣も水銀の弾も、聖銀の槌もない。相手は吸血鬼であるから、出くわすのは空想して深夜帯。腹をすかせた猛獣のような、吐息の荒い不穏な影が街灯に照らされている。そんな状態でも、やはり生中に身体を差し出してむざむざと死を迎え入れるにはいかないだろう。あたしならきっと抵抗をするし、反抗をする。殴りつけるか蹴り上げるか、正当な手段が使えるならそれを行使し、逃げ延びる。生き延びれば勝ちだ。噛まれさえしなければ御の字だ。バケモンに相対した場合、人間側の勝利条件は緩いものとなる。生きて逃げれればそれで勝ち。相手の首を掻き切るも、けがを負わすも命を獲るもしなくていい。シンプルに逃げ終えること自体が勝利条件になるのだ。……もっとも、それすら難しいのだろうけれど。



 あたしがケータイの情報に夢中になっていると、おもえばずっと横のツインテが黙りこくっていることに気づく。顎に指を添えて悩み続けている姿勢だ。楽天家なラニがこうまで眉をひそめているのは珍しい。

 「どんだけ悩んでんだよ。そんなに真剣に悩むほどでもねーっしょ。それともあたしに報復することを考えてる系? 太陽で焼くとか倒すとか、そんな生易しいやり方じゃ物足りねーってか」

 「黙る」

 ラニは神妙な面持ちで一語述べた。

 「え?」

 「うち多分、若菜が吸血鬼になったら自分の秘密にするわ。警察にもばらさないし、血だって好きなだけくれてやる。殺した奴も隠ぺいしてやるよ。……一緒に手を汚すのはためらわねえケド、その手をあんたに差し向けるのだけはきっとできない」

 「……良丹らにちゃん」

 「だから今日は放課後にマンゴーフラッペ飲みたい気分なんだ、若菜。チョコレートパフェも食いたいかもしれん」

 「クソうぜえお前」

 がら空きの脇腹に固めたこぶしをくれてやるとラニは奇妙な叫び声をあげて飛び上がった。



 ……もしラニが吸血鬼化したら、どうするのだろう、あたしは。

 そんな一縷の不安を押し込むようにして、あたしはケータイをスリープさせた。

 最後に画面に映った情報はこうだった。

 『――被害者の男性、首筋に二点の穿傷。血液欠乏症が原因で死亡か――』

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