vaccana。

三石 一枚

ぷろろーぐ。出里若菜の受難

 ……こんなことになるなんてわかってりゃ最初から関わろうとしなかった。

 こんな目にあうって知ってれば、二度も同じわだちを踏もうとは思わなかった。

 ……いいや、わかってる。悪いのはあたし。自業自得。好奇心が猫を殺すというけれど、まさにその様。興味で動いたしっぺ返しがこれである。なんて様か。あたしは。

 頭が働かず、ぼぅっとする。人気のないトイレの個室の、半分だけ開いた、黄ばんだドアを見るしか、今のあたしには能がない。……どうしよう、さすがに死ぬかも。



 首筋から、生暖かいものが間欠泉みたくあふれ出てるのがわかる。勢いは強くない。けれど、一つの川のように流れるそれは、カッターシャツに沁み、そこから田園に水路を引き、泥に水が浸されていくように徐々に徐々に、繊維の間隙を縫って下へ下へと白を赤く変えていく。

 温かさはついに冷たさへ変わる。腹部らへんの凹凸にたまった血が、やにさめざめとしてるのが感覚でわかる。スポーツ後の汗みたく、肌にへばりついて離れない。

 あたしは掌で首筋を抑えた。動く腕が、震えている。ブルりとした、悪寒が背筋を伝う。腹の底が冷えるような、嫌な寒気がずっとある。おまけに、頭痛が鳴りやまない。急性失血なんちゃらってな症状があったはずだ。……あれは、どれくらい血を失ったら症状が出るんだろう。……どのくらいで死ぬ……? あたしには、どれくらいの時間が余ってる……?

 「……くっそ、死んでたまるか。花の女子高生だぞ、あたしは……」

 力の入らない指先に力を籠め、抜け続ける腰に鞭を打ち立ち上がろうとする。けれど、どれもかなわない。便座がまるでアリジゴクだ。浮いた次の瞬間から吸い込まれるように尻がサッポリと埋まる。抜け出せない、立ち上がれない。

 数度、試みてようやっと上体を浮かせられたけれど、足の踏ん張りがきかずに前のめりにぶっ倒れた。べしゃり、と。

 けど、これでいい。勢いでドアをぶっ叩いて開放すると、その視線の先に、お目当ての物が映りこんだ。

 鞄。その外側のポケットに、携帯電話が入っている。……助けを、呼ばないと。救急車? 或いは、大葉さん? ……それとも。



 あたしは息を切らしながら、這いずって鞄に手をかけた。肺の底が重い。手先に痺れがある。引き寄せる力さえ、振り絞らなければならない。こうしている間にも、動けなくなる時間は刻々と迫っている。まるで、死神の鎌がおとがいにかけられているような、そんな薄寒さを感じてならない。

 うすっぺたの固形物が手に触れた。引っ張って出すと、血に滑り、カシャンと音を出して眼前にあおむけに倒れた。……あたしは、揺れる指先で電話のアイコンを押す。履歴の一番上。……この状況、多分、彼女じゃないとあたしのことを救えない。助けられない。……今のあたしに、救えるほどの見込みがあるかはわからないけれど。……例えば神様とやらがいるのなら、もう一度、生き残るだけの時間を与えてください。高望みはしません。ただ普通の生活に戻りたいだけです。この『事件』に首を突っ込むなというならそのようにするし、条件を提示するなら仰せの通りにします。だから。

 ……今はまだ、見逃して。

 


 電話が、呼び出し音を発し始めた。

 一コール。

 あたしもあおむけに倒れて、胸元を大きく開けた。……肺がつぶれたようで、呼吸ができないのだ。できないというか、しづらい。お腹の表面にたまった冷たい池が決壊して、わき腹を通じていく感触がある。大きく息を吸って吐いて、動悸を必死におさめる。……彼女に伝えなきゃ、助けて、って。伝えきらねば、多分あたしはここで終わる。……終わりたくない。朽ちたくない。今生、生死の如何なんてどうでもいいとすら思っていたひねくれたガキを演じていたけれど、今にしてただ助かりたい、と方寸から思っていた。



 二コール。

 意識が眩惑しつつある。天井の明かりが二重に、三重に見える。光の暈が何重もある。途端に瞼が重くなる。頭痛も酷くなり、頂点から側頭部に掛けて、まるで輪ゴムで締められるような、麻痺に似た感触を受け始めた。

 あたしは首筋に充ててた手の力を緩めた。否、力が、入らないんだ。入れたくとも、これ以上その『姿勢を保つ』ことが出来なくなってきていた。

 息も、段々とねむるときのそれになる。深く、深く。

 そして、ふんわりとした意識の混濁に襲われる。空気に、身体が溶けだしていくような、優しく、冷たい雰囲気が、四肢の先から、身体の内側に入りこんで行くようだった。

 ……ダメか? もしかして。



 三コール目。

 ブツッ、という音とともに、薄い板から『馴染みのない』、女性の声が聞こえ始めた。……まだ、聞き覚えのない、知り合いたての人の声が。

 「……もしもし? 聞こえる? 出里いでりちゃん」



 つな……がった? 

 あたしは失いかけていた自身を呼び起こして必死に声をかけようとした。

 バイト先近くの、路地裏の公衆トイレにいる。

 件の、『吸血鬼』に襲われた。

 大量に出血していてにっちもさっちもいかない。

 助けに、迎えに来て。

 必死に呼びかけようとしたのに、喉の奥から出てくるのはつぶれたカエルの悲鳴のような、言葉にならない喃語ばかりだ。しまいには、咳き込んだ拍子に喉が痙攣し始めて内壁同士がへばりつき、まともな声も出せずにしわぶきを繰り返すだけになってしまった。

 「……あー、出里ちゃん。何言ってるかわかんないよ」

 と電話越しにあきれた様子の麗しい女性の声が返ってくる。んなこと言われたって、こちとら声を出すにも窮してんだ。ほんのちっと、燻ぶった感情が芽生える。

 「出里ちゃんのことだから、好奇心で寄り道しちゃったんだよね、きっと」

 と彼女は言う。……彼女は、あたしの自業自得を見抜いていた。

 「アタシは忠告したはずだぜ。今日はぜったいに寄り道なんてせずに家に帰ること。例え倒れたおばあさんがいても見捨てて家路につけってね。守ってりゃ、そんな怖い思いをしなくて済んだし、痛い思いもせずすんでた」

 ああ、言ってた。言ってたよ畜生。

 話し半分に聞いてたわけじゃないけれど、その時はどこかまだ他人ごとのように感じていたんだ。不審者情報だって、下校前に聞いても自分がその不審者に襲われると思いながら帰るやつはいないだろう。同じで、あたしも狙われるほど重要な立ち位置の人間じゃないと思ってた。

 ……ああまで、事件に首を突っ込んでいたのに。吸血鬼自身が、あたしをマークするほどに。

 あたしがついに咳すら上げず黙っていると、電話向こうから長いため息が聞こえた。

 「……きみの、そういう突飛な性格を見抜いていなかったのはアタシの責でもあるかもしれない。アタシが君のそばにいてやりゃ、ちっとは違ったかもしれないな。血を恐れる君が、剰え血の化け物に襲われてしまった」

 彼女は付け加えて、

 「‥…いいよ、場所はわかってる。なぁんも言わなくていい。……待ってな、すぐ迎えに行ったげるから。だからまあ」

 ――死ぬなよ―― と彼女は続けた。

 その言葉が、ただ何となくうれしくって。今まで自分のなかの水分など枯れてしまったかと思う位、カラッカラだったのに、途端に胸のあたりから熱がぐわりと押し寄せて、鼻膜を刺激して目頭に到達した。

 「がふっ……フヒュッ……」

 喉はまだへばりついているみたいだ。だけれどその押しとどめてた恐怖を、焦燥を、感謝を口に出さずにはいられなかった。



 「ごめん。……やられちゃった。助けて、再恋寺さん」

 薄い板の向こうにいるヒーローは、あたしの情けないコールに、ただ

 「電話はつないだままでいい。アタシの声でも聴きながら、身体を落ち着かしときな」

 と返した。……あたしは、その声を最後に迫る暗黒に身を委ねた。

 きっと大丈夫。問題ない。彼女が、そういってくれるのだから。

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