第72話 色彩の時間 下
白い小さな一軒家。そこが、
家の前には長い坂道が横切っており、たまに、自動車や自転車が行き交っている。
光は水の塊から飛び降りて、自宅のドアをノックする。でも、いくら待っても反応がない。人の気配もなかった。
「あれ。もしかして留守なのかな。光、家の鍵は持ってないの?」
幸人が問う。
「鍵は、異世界に転移した時に無くしちゃったの」
「そう。どうする? このまま、家の人が帰るまで待つ? それとも、窓を割って侵入する?」
と、幸人が悪い顔をする。だが、光は首を横に振り、家の敷地を出て歩き出した。
幸人と光は、長い坂道を下ってゆく。坂道からは遠くまで街が見渡せて、富士山も見える。浮かない顔で歩き続ける光の背中を、幸人はぼんやりと眺めていた。
「あたしね、あまり友達って出来た事ないの」
ふいに、光が言う。
「そう。意外だね。光は明るくて、とっても話しやすいのに」
「でも、そういう人間が好かれるとは限らない。この世界の人は、とても残酷で弱いから」
「世界、か……」
幸人は言葉に詰まり、考えを巡らせる。光は、シャングリラという世界からの帰還者だ。資料で調べた範囲では、シャングリラは、とても平和で、優しい人々が住まう夢のような場所だったらしい。
「ねえ、光。シャングリラってどんな場所だったの? 確か、宗教なんかもあったんだよね?」
「うん。シャングリラの信仰については詳しくは言えないんだけど、あたしはね、あの世界では上位神殿騎士にまでなったのよ。ナーロッパ風に言うなら、
「恐竜? 肉食恐竜、とか?」
「うん。あの世界では恐竜が生き残っていて、独自の進化を遂げて強く大きくなっていたりもするの。
と、光は得意気に言う。水色の瞳が陽光を湛え、幾分、表情も明るくなった。幸人はそれを見届けて、視線を前に戻して足を止める。
光も、ピタリと足を止めた。
前方に、光とよく似た女の子の姿があったのだ。女の子は白杖を突きながら、ゆっくりと坂を上がって来る。
光の肩が震え出す。
「
呟いて、光は弾けるように駆け出した。
「玉ちゃん、玉ちゃん。玉ちゃああああん!」
光は何度も叫びながら、女の子に駆け寄って抱きしめる。女の子は突然抱きしめられて困惑しながらも、やがて、何が起こったのかを理解し始める。
「その声。
「うん。うん。逢いに来たの。ずっとずっと、逢いたかった!」
光は泣きながら、
「うええ。お姉ちゃん。お姉ちゃん……!」
姉妹は固く抱きしめ合って泣きじゃくり、互いを呼び続けた。
★
やがて、光は蒼い小瓶を取り出して、
「本当に、これを飲んだら見えるようになるの?」
「うん。騙されたと思って飲んでみて。お姉ちゃんの事、信じてくれる?」
玉ちゃんは光に促されて、【グレイス・エリクサー】の蓋を開け、中の液体を口に含む。玉ちゃんは、身長こそ光より低いが、顔は光にそっくりで、一層、優し気な顔をしている。髪は黒く長髪で、目も黒い。それでも、二人が姉妹である事は一目でそれと判る。
「どう?」
光が、玉ちゃんの顔を覗き込む。直後、玉ちゃんの身体が薄く輝きを放ち、眼に、輝きが宿る。
「あ、あ、あああ……。見える。見えるよ。お姉ちゃんが見える! お姉ちゃん、大きくなってる。髪も水色で、凄く綺麗」
玉ちゃんは光に目をやって、次に、辺りをぐるっと見渡した。
「空が、青い。こんなに青いんだね。ずっと忘れてた。こんなに……」
呟いて、再び玉ちゃんは泣き出した。光も声を上げて泣く。幸人も、思わず目頭が熱くなった。
「良かったね」
幸人が呟くと、玉ちゃんは幸人に気付き、「あっ」と、声を上げる。やがてその口角が上がり、光に、悪戯めいた微笑を向ける。
「あ、その。その人はもしかして、お姉ちゃんの、彼氏さん、なの?」
「え? 違うわよ。幸人はあたしの友達で、同じ学校に通ってて」
「ふうん。お姉ちゃん、カッコイイお友達が居て良かったねえ」
「な、なによ。本当に違うからね。あ。幸人はね、魔法の薬を手に入れる為に、凄く凄く、頑張ってくれたのよ。せっかくだからお礼を言って」
光に促され、玉ちゃんはおずおずと歩み出る。
「あ、その。ありがとう、ございます」
玉ちゃんがぺこりと頭を下げる。
「ううん。お役に立てて良かったよ。でもね、一番頑張ったのは光だよ。良いお姉ちゃんがいて良かったね」
「はい。はい。自慢のお姉ちゃんです」
幸人と玉ちゃんが言葉を交わす。一方、光は「もう、もう、もう!」と、玉ちゃんを抱きしめて頭を撫でまくる。シスター・コンプレックス丸出しだが、幸人は見なかった事にしてやった。
光と玉ちゃんは、暫く歩きながら話し込んでいたが、やがて家へと辿り着き、足を止める。
「じゃあ、あたしはもう行かなきゃ」
と、光は沈んだ調子で言う。
「え? もう行っちゃうの? お家に入らないの? もう少し待ってたらお父さんとお母さん、帰って来るよ。会いたくないの?」
玉ちゃんは光の服の裾を引っ張って引き止める。それでも、光はぐっと、玉ちゃんを引き離す。
「会いたいよ。凄く会いたい。でもね、あたしたち、本当はここに居ちゃいけないの。玉ちゃんも、あたしと会った事は秘密にしてほしい」
「で、でも。急に目が見えるようになったら、お父さんもお母さんも気が付いちゃうよ。だって、お姉ちゃんは魔法の国に行ってたんだよね。魔法の薬があったから、私も目が見えるようになったって」
「うん。だから、お父さんたちにも内緒にするよう言って欲しい。それから、一つだけ伝えて欲しい」
「なあに?」
「大好き。お父さんも、お母さんも、玉ちゃんも。みんな大好きだよって」
「うん。必ず伝える!」
玉ちゃんと言い合って、光は水の塊を呼び寄せた。水は渦を巻きながら、光の身体を持ち上げる。幸人も妖精の翅を広げ、空へと舞い上がる。
「じゃあね、玉ちゃん。元気でね」
「うん。お姉ちゃんも元気でね。また、帰って来てね。必ずだよ!」
「うん。またね……」
言い残し、光と幸人は飛び去ってゆく。玉ちゃんは、小さくなってゆく二人の姿を見送った。
★
あっという間に、幸人と光の姿は見えなくなった。
一人取り残された玉ちゃんは、改めて、辺りを見回した。
家は白く、庭木の葉は深緑。空は青くて、地面はこげ茶色で、遠くには白い雲が浮かんでいる。陽の光が眩しい。
何年も見る事がなかった色彩が、いっぱいに溢れている。もう二度と、見えないと諦めていた光景が、目の前にあるのだ。
ふと、視界に自転車が映り込む。
玉ちゃんがその自転車に最後に乗ったのは、もう、三年も前の事だった。当然、自転車は古くなり、やや錆びついている。サイズも、中学生の玉ちゃんにとっては少し小さい。
それでも、玉ちゃんは自転車に乗った。
「赤」
呟いて、赤い自転車のペダルを踏む。意外にも、自転車はすんなり動いてくれた。多分、両親が手入れをしてくれていたのだろう。
玉ちゃんは、敷地の外へと漕ぎ出した。
長い坂道を、風を切って下ってゆく。途中に見える家々や、ポストや木々や花々。それらを指差して、叫ぶ。
「赤。白。緑。黄色。青! あはははは! 茶色。黒。白。灰色。紫!」
指差して、指差して、叫んで、叫んで。涙が溢れて止まらない。なのに、口元に笑みが溢れて来る。
途中、玉ちゃんは坂道で、見知らぬ女子高校生とすれ違った。女子高校生はセーラー服姿で、何処となく猫みたいな、優し気な眼をしている。女子高校生は驚きを浮かべながら、玉ちゃんに視線を向けている。
玉ちゃんは視線を気にせずに、女子高校生を指差した。
「美人!」
叫びながら走り抜ける。
光を取り戻した玉ちゃんは、何処までも、自転車で坂道を駆け降りていった。
★ ★ ★
中学校の校庭に、光と幸人が舞い降りる。校庭の隅の木陰には、既に、
「思ったより早かったわね。妹さんとやらには会えたの?」
「ええ。松永さんにも恩が出来たわね。ありがとう」
光が言うと、久枝は軽く舌打ちをする。
「そういうの良いから。前にも言ったけど、私、あんたの事嫌いなのよね。あ、これは照れ隠しとかじゃないわよ? 明智光。あんたの事は、いずれ潰すから」
「あら。どうして? あたしは松永さんの事、嫌いじゃないわよ?」
「だからやめなさい。そういうの、やり辛くなるから」
言い合う光と久枝に、幸人が割って入る。
「どうであれ、目的は達成したね。まだ少し早いけど、帰ろうか」
久枝は頷くが、光は、ぐっと幸人の袖を掴む。
「待って、幸人」
「ん。どうしたの?」
「あたし思ったんだけど、このまま、
光の言葉を聞き、幸人の顔に驚きが浮かぶ。こんな簡単な事を、見落としていたのである。
「そうか……! 確かに、今なら会いに行けるかも。どうして、僕はそんな事も思いつかなかったのか……」
「ま、幸人は頭が良いくせに、たまにそういう肝心なところが抜けてるわよね」
と、光は微笑みを浮かべる。
そして、光と幸人は久枝に視線を送る。久枝は不思議そうな顔をして、首を傾げる。
「ん。話が見えないんだけど。竹美って誰よ?」
と、久枝。
「幸人の恋人よ」
と、光が答える。
「え。真田君って彼女いたの?」
「え、あ、まあ。そうみたいなんだよね。詳しくは言えないんだけど」
幸人が照れながら言うと、久枝は暫し逡巡して、
「嫌だ」
と、頼みを断った。
「ど、どうしてさ?」
「嫌なものは嫌なのよ!」
「でも、もうそんなに時間がないんだ。頼むよ」
「そう言われても……」
「どうして、そんなに気に入らないのさ? あ、もしも報酬が足りないのなら、上乗せするから」
「そういう問題じゃないのよね」
「じゃあ、どういう問題なのかな?」
「兎に角、嫌なの」
久枝の強情さに、幸人は肩を落として座り込み、深く溜息を吐いた。その様子を見て、何故か光は微笑を浮かべる。
「ねえ。松永さん」
光はそっと久枝の肩に触れ、ちょっぴり寂しそうな顔をする。
「松永さんの気持ち、解るわよ。松永さんがあたしを嫌う理由って、その、あれなんでしょ?」
「な、なによ。解ったような事言わないでくれる?」
「あたしもね、正直落ち込んだわよ。でも、どうにもならない事ってあるから。あたしからもお願いする。幸人に力を貸してあげてほしい」
「そんな事言ったって……そういうのってズルい。私は、嫌だから!」
言い放ち、久枝はシュっと姿を消した。幸人と光は「あ」っと声を上げ、茫然と立ち尽くす。
「ごめん。なんか怒らせちゃったわね。瞬間移動で逃げられたらどうにもならないわ」
「うん。それにしても、松永さんはどうしてあんなに協力を拒むんだろ?」
「え。幸人、まさか気付いてないの?」
「気付くって、なんの話?」
「うわ。鈍いわねあんた。信じられない」
「え?」
幸人は暫し言葉を失って、しかる後、あっと声を上げる。光は小さく頷いて、その気付きを肯定する。幸人も光も、苦笑いを浮かべる。
シュッと空気を切る音がして、再び、
「わかったわよ。気は進まないけど、一度だけ強力してあげる」
「本当? 松永さんありがとう」
「でも、一つだけ条件がある」
「条件って?」
「もし、真田君の彼女って人が見つかっても、声をかけないで。絶対に見つからないように、遠くから見るだけ。約束できる?」
久枝に言われ、幸人は暫し思案する。だが、頷く他なかった。
「わかった。約束する。僕からは恋人に声をかけない。こっそり遠くから見るだけ」
「それと、力を貸すのは一度だけよ。それに、私は受け入れた訳じゃないからね!」
久枝は、言うだけ言って俯いてしまった。
やがて、光が水の鏡を作る。幸人は鏡に腕の紋章を映し、一通の手紙を取り出した。手紙には、大谷竹美の住所が記載されていた。
「熊本県のこの湖の近くで、ええと……」
幸人は、携帯端末の地図アプリで場所を表示して、久枝に差し出した。
「行けそう?」
「ええ。もう、見えたから。とりあえず、この湖に行けば良いのよね?」
久枝は地図を確認して、幸人と光の肩に触れる。幸人は期待に胸を膨らませ、興奮を抑えきれないといった表情をしている。
「じゃあ、飛ぶわよ」
そう言って、久枝は瞬間移動能力を発動させる。
シュッと風を切る音だけを残し、三人の姿はかき消えた。
★ ★ ★
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作者です。
次回から、竹美編へと再突入します。
コンテストの為に暫くおやすみを頂いて、作品が完成してから連載を再開する予定です。
竹美編は短い章ですが、楽みにして頂けたら嬉しいです。
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