第52話 聖女の書

 塔にあるフィスラの私室で、聖女の書を前に私は固唾を飲んだ。

 聖女の書自体は、なんて事のない茶色の皮っぽい表紙の古そうな本だ。


 しかし、ミズキの言葉が気にかかっていた。


 それまでは、ミズキはやる気はなかったもののフィスラの指示に従っていた。しかし、聖女の書を手に入れた結果、すぐに行動に出た。


 聖女の書を手に入れたのは、単にフィスラを出し抜きたかっただけだと思われた。

 しかし、この本を読んだ結果……なのかもしれない。


「まさか呪われていたり、しませんよね」


 怯える私に、フィスラはお茶を用意してくれながら笑った。


「呪いなんてものを信じているのか?」


「えっ。魔法はあるのに呪いはないんですか?」


「当然だろう」


 全然当然じゃない。

 私の不満顔を誤解したのか、今度はフィスラが驚いた顔をした。


「えっ。魔法がないのに呪いはあるのか?」


「ありません」


 思わず吹き出してしまう。異世界への理解はお互いまだまだ浅いな。


 ……私達には時間はまだまだたくさんある。

 まずは、第一歩としての聖女召喚だ。


「まったく、ツムギの言葉はわかりにくいな。気をつけなさい」


 ため息と共に、お茶をもって私の隣に座った。

 いつの間にかこの距離に違和感がなくなっていることに気が付く。


 隣に居るだけで、驚くほどの安心感があることも。


「気をつけます。……やっぱり緊張しますね。甘くして飲もう」


 角砂糖を五つ、カップに入れる。大変な時には甘いものだ。流石にお菓子を食べるわけにはいかないが。


「砂糖の量が……! これでは紅茶本来の味がわからないのではないか?」


「砂糖を入れることによって、際立つものもあります」


「際立つのは甘さだろう……」


 フィスラは私の紅茶に慄いているが、甘くしたところで美味しい紅茶は美味しい。何かがぼやけることなどないのだ。


 軽口をたたいて、少し気持ちが落ち着いた。そっと皮の表紙に触れると、あの時と同じようにふっと光り消える。


「幻想的ですね」


「これは特に聖女の書だからというわけではない。君のベッドにもかけるか? 毎夜寝る前に光らせられる」


「なんだかとっても馬鹿っぽい絵しか想像つかないのでやめておきます……」


 幻想的なところから子供のおもちゃに成り下がってしまった。悲しい。


 気を取り直し、聖女の書を手に取った。表紙はザラザラとしていて、古さを感じさせる。


「うーん。普通の本ですね」


 呪いはないと言っていたので、本を開く。ぱらぱらととりあえずめくってみるが、手書きで作者が何人かいるようだ。字体が何種類かある。


「これは……読むのに時間がかかるな」


「え? 何でですか? 割ときれいな字だと思いますけど」


 中には子供のような丸い文字があったりしてほほえましいぐらいで、読めないような文字はない。


「そうか……聖女の召喚の儀は本当に応用できないか考えた方がいいな。これは、時代がまたがっているせいで、使われている文法や文字が違う。私も読めないものがある」


 一緒に見ていたフィスラは、悔しそうにつぶやいた。

 その姿が背伸びした子供のようで、なんだかかわいく思えて思わず微笑む。


「役に立ててうれしいです。私が聖女の書を読んでいる間、一緒に居てくれればいいですよ」


「一緒に読めないとか心配でしかない」


「でも、呪いはないんですよね?」


「……呪いはないが、呪いのように恐ろしい出来事なら、ある」


「えっ。強制的に元の世界に返されるとかですか?」


「それは間違いなく恐ろしいが……人間がやる事の方が残酷な事もある」


 魔法師団長という立場に居るフィスラには、色々あるのだろう。

 そういう重さを感じさせる言葉だった。


 それでも。

 私は隣に居るフィスラに寄り掛かる。


「そうじゃない人が居るってわかっていれば、何とかなると思うんです。だから、こうやってフィスラ様に寄り掛かって、あったかくて甘いお茶を飲みながら読めば、私の心は大丈夫ですよ」


「……つらくなったら、遠慮せずにすぐに言ってくれ」


 私の頭をぎゅっと抱きしめ、髪の毛にキスをする。とても心配性だ。

 安心させたくて、にっこりと笑いかけるともう一度抱きしめられた。


「これじゃ読めないですよ」


「……私が学びながら読んでもいいんだ」


 どうしても心配してしまうらしいフィスラに、わざと偉そうにする。


「フィスラ様が読んだらいつ内容がわかるかわかりません。仕方がないので異世界より来た才女である私が読んであげましょう」


「読んだ内容がわからなかったらすぐに言うように」


「わー信じてないですね! なんとぱらぱら見た感じ難しい表現はなかったので大丈夫なのです」


「それは威張るべきことなのだろうか」


「フィスラ様には違う表現で見えてるなら、古語のようでしたって言えばよかった」


「君は抜けているな」


 フィスラがこつんと私のおでこをつついて、お互いに笑いあった。


「チョコレートあげたら赤くなったフィスラ様が懐かしい」


「あれは絶対に絶対に他の人にしないように」


「私ももうちゃんと学びましたよ」


「もしかして、この世界に来る前はそんな事を……?」


「いえいえ。喪女だったので男の人とのご縁は全くなかったです残念です」


「そこは全く残念じゃない」


 馬鹿な事を言い合って、いつもの空気に戻り力が抜けた。

 私は本を手に取り、再びフィスラに寄り掛かった。


「じゃあ、読みますね」


 フィスラの体温を感じながら、私はページをめくる。

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