光が明るければ明るいほど、足元には濃い影が落ちる。ひとつの面が強調されれば、反対側の面も浮き彫りになる。


 このレンシア通りのにぎわいだって、その法則からは逃れられない。


 仕立て屋『カメリア』が店を構える脇道からさらに裏に入ったノーヴィスは、しばらくあてどなく彷徨さまよってから足を止めた。そんなノーヴィスの周囲にはチラチラと雪のように燐光が舞っている。制御しきれていない魔力が勝手にノーヴィスからこぼれ落ちているせいだ。


 ──そろそろ、いいかな?


 フードから零れ落ちる白銀の髪を指先でフードの奥に押し込み、ノーヴィスは視線を巡らせて周囲を見遣る。


 暗くすすけた裏通りに人影はない。だが確かに『何か』がうごめく気配があった。


 形にならない闇。人の負の感情を吸い上げた『何か』。


 それらはノーヴィスが零した魔力の欠片かけらあぶられ、飢餓きがつのらせる。そうなるように、ノーヴィスはあえて仕掛けた。


 スゥッと息を吸い込んだノーヴィスは手にしていた杖で足元を突く。カンッという鋭い音が広がるのに合わせて、まるで波紋が走るかのように空間が揺れた。


「『出ておいで』」


 ノーヴィス以外が口にすればただの言葉。だがノーヴィスが行使すればそれは強力な魔法になる。


 ノーヴィスに命じられたモノは、決してその言葉に逆らえない。


 ノーヴィスの命を受けた影は、壁の中から引きがされたかのように宙に躍り出た。人影のような、あるいは触手のような形をした影は、さらなる魔力を求めてノーヴィスに躍りかかる。


 そんな影に周囲を囲まれたノーヴィスは、一切表情を変えることなくもう一度杖先を石畳に落とした。


 同時に、唇を開く。


「『消えて』」


 たったそれだけで、引きずり出された影は引き千切られたかのように散り散りになって消えた。存在を消される痛みに絶叫するかのように影は大きく口を開いていたが、悲鳴は一切聞こえない。……最も、聞こえていたとしても、ノーヴィスは眉ひとつ動かすことはなかっただろうが。


 影が一掃された裏通りを眺め、ノーヴィスは冷めた表情のまま嘆息たんそくする。


 ──あまり意味がないな。


 ノーヴィスは時折、こんな風に繁華な場所に出掛けてはそこに溜まった闇を蹴散らすことをしている。


 光も闇も、溜まりすぎるのは良くない。強すぎるモノは、モノ自体が良いものであれ悪いものであれ、必ず周囲に影響をおよぼす。


 誰に頼まれた仕事でもない。だが誰かがやらなければ、近い内にこの周囲の土地に影響が出る。


 魔法道具が暴走し始めるのはまだ可愛い方で、最悪の場合は土地に溜まった魔力が魔物を呼び込んだり、土地そのものがけがれてちる可能性だってある。


 そうなればどのみちノーヴィスが動かなければならない。定期的にチマチマ動いて厄介事の芽を摘むか、厄介事が起きてから動くかの違いだけだ。


 だが最近は、いっそドカンと厄介事が起きてくれた方が楽なのではないのかとも思っている。


 ──直近でこの辺りは一度はらっているはずなのに。散らしても散らしてもあっという間にかたむいてしまう。


 内心だけでつぶやきながらノーヴィスは周囲を見回す。先程一度完膚なきまでに蹴散らしたはずの影がまたノーヴィスの視界をぎった。普段ならばこれくらい派手に浄化しておけばひと月程度は持つはずなのに。


 ──何かが人々の心の不安をあおってるんだ。だから駄々洩だだもれる人々の負の心に闇がたかる。


 漠然ばくぜんとその理由も分かっているノーヴィスは視線を上げると瞳をすがめた。こぼれる舌打ちに弾かれてノーヴィスの視界の端で揺らめいていた影が消える。


「……下衆げすどもが」


 ノーヴィスの視線の先は高い建物にさえぎられて何も見えない。だが見る者が見えればノーヴィスが何に向かって悪態をついているのかは分かるだろう。


 ──国王派、皇太子派、第二王子派。……どいつもこいつも、己の利権確保と保身に走る馬鹿ばかり。


 身に収める魔力が強すぎるノーヴィスは、厄介な体質が周囲に影響をおよぼさないようになるべく自分の屋敷に引き籠るようにしている。あり余る魔力を屋敷に喰わせることでかろうじて人としての生活を送れているという状態だ。


 そんな引き籠りであるノーヴィスだが、諸事情あって王宮と無関係ではいられない。そのせいで王宮の内情にも通じているのだが、現王家にノーヴィスが感じている印象を端的に言ってしまうと『性根が腐りきっている』の一言に尽きた。


 まともに国のことを考えている人間などいやしない。その癖、厄介事が起きるたびに『国のため』という大義名分を振りかざして都合よくノーヴィスを使いたがる。


 縁を切れるなら切ってしまいたいくらいなのだが、こちらも諸事情あってなかなかそこまで思い切ったこともできない。おかげで日々不平不満が溜まる一方だ。


 ──そういえば、カサブランカもあの争いに一枚噛んでるんだっけ?


 ノーヴィスはゆったりと歩みを再開させながら思考を転がす。


 ふとそんなことを思ったのは、耳にしている情報の中に無関心ではいられない家名があったことを思い出したからだった。


 カサブランカ。数日前、不意にノーヴィスの前に現れた少女の家名。


 ──カサブランカは、確か第二王子を推してるんだっけ。


 恐らく加担しているのは彼女の母親だろう。


 体が弱いカサブランカ候本人は政治の場にはあまり出てこないと聞くし、彼女の話を聞いた分だと末姫はそういったまつりごとはかりごとには向いていない。


 一番適性があったであろう彼女本人は母親と徹底的にりが合わなかったようだから、恐らく母親が政の覇権争いなどという大それたことに足を突っ込んでいることなどつゆとも知らないはずだ。


 ──というよりも。……多分、気付かれない内に、家から出したかったんだ。


 ノーヴィスは無意識の内に胸元を押さえていた。ローブの下、シャツの胸ポケットには、いまだにあの漆黒の封筒が入れられている。


 ──母親としては、厄介払い。……父親としては、


 ふと、つややかな黒が脳裏をぎった。


 彼と同じ純黒。気配にさといはずである自分が気付けないくらい屋敷に馴染んでいた気配。


 だから、初めて彼女に起こされたあの時、ノーヴィスは一瞬、が帰ってきたのかと錯覚してしまった。


「……リヒト」


 無意識の内に、声がこぼれていた。


 動いていた足が言葉にさえぎられたかのように動きを止めてしまう。


「……あの子は、リヒトの『大切』」


 リヒャルト・カサブランカを差出人とする漆黒の封筒。その中には便箋も、書類も、メモの欠片かけらさえ入れられていなかった。メリッサの父親だというカサブランカ候は、空っぽの漆黒の封筒だけをノーヴィスの元に送ってきたのだ。


 だからこそ、ノーヴィスには分かった。


 なぜリヒャルト・カサブランカがノーヴィスの同意もなく『嫁入り』などと称してメリッサをノーヴィスの元に寄越したのか、その真意を。そしてリヒャルト・カサブランカが今、どんな窮地きゅうちに立たされているのかも。


「リヒトの『大切』なら、僕にも『大切』」


 彼女は、確かに父親に深く愛されていて、深く信頼されていたのだろう。


 だから今このタイミングで、ノーヴィスの屋敷に寄越された。


 彼女の父親が世界で一番信頼していて、一番安全だと確信を持って言える場所へ。カサブランカ侯爵夫人も、王も、国も、世界さえもが手を出せない、絶対安全な場所へ『避難』させられたのだ。


 ──仲良く、したいな。


 最初はリヒャルト・カサブランカからの依頼だったから屋敷に置こうと思った。だが一日も経つとノーヴィスの関心は彼女自身に移った。


 父親から譲り受けたのであろう聡明さ。逆境の中を生きてきたからこそ身についた強さ。そうでありながら思いやりや優しさといったものも彼女は忘れていない。仕事ぶりから勤勉さや誠実さも分かった。


 彼女は『リヒャルト・カサブランカ』という存在を抜きで考えても、ノーヴィスにとっては好ましい。


 ──何せ、あの屋敷とこの僕を、平然と『そうであるもの』と受け入れてくれたモノは、リヒト以来初めてだから。


 彼女は類稀たぐいまれなる素質を持った魔法使いだ。学院も余程彼女を手放したくはなかっただろう。


 ……そうでありながら、彼女は己の優秀さに気付いていない。


 周囲の評価に気付いていないどころか、ノーヴィスが直接向ける賛辞さえ受け入れようとはしない。自己肯定感というものも極めて希薄だ。


 ──あの感じを見るに、相当母親にしいたげられてきたんだろうな。


 こちらをよく観察しているくせに、言葉は必要最低限しか向けてこない。疑問があっても、限界まで己で解決しようとしている。事務用件を話す時はスムーズに言葉が出てくるのに、少しでも想定と違う言葉を向けられると途端に言葉に詰まってしまう。


 それらは絶対強者に徹底的に自己を否定され、人格を踏みにじられ、服従する道しか与えられなかった人間の特徴だ。


 感情を表現するすべを忘れてしまった顔。極端に少なかった手荷物。着の身着のままといった身なり。どれも『カサブランカ侯爵の長姫』という素性には似つかわしくない。だというのに当人はそんな状況に疑問も不満も抱いていないようだった。


 ──腹立たしい。


 腹の底で揺れた感情に引きずられて、周囲の空気がユラリと揺れた。魔力をともなった狂暴な揺れに、また影が勝手に引き裂かれていく。


 その光景にはたと我に返ったノーヴィスはまばたきひとつで心を落ち着かせると止まっていた足を動かし始めた。


 ──久々だな。こんなに感情が動いたの。


『リヒャルト・カサブランカ』が絡んでいるからだろうか、と考えて、ノーヴィスは己の考えを否定した。


 この怒りは多分、彼女がリヒャルト・カサブランカの娘でなくても抱いたはずだ。それに自分はすでに自分の中で『リヒャルト・カサブランカの存在を抜きにしても、彼女の存在は好ましい』という結論を得ている。


 何せ彼女の呼び名をすぐには付けられないくらいの入れ込みようだ。これはノーヴィスにとっては相当なことであると言える。


 ──名前は、とても大切なものだから。彼女は優秀な魔法使いだし、とてもいい子だから、絶対にいい名前を贈りたいのになぁ……


 ノーヴィスは言葉を操る魔法使いだ。ノーヴィスが口にする言葉は、少なからず相手に影響を与えてしまう。だから相手の真名まなは軽々しく口にはできない。


 そのためにノーヴィスは必要に応じて呼び名を付けるのだが。


 ──僕が強く願いを込めて呼び名を呼んでしまったら、それもう新しく真名を上書きすることに変わりないんだもの。


 どうでもいい相手に呼び名は付けない。どうでも良くなくて固有名詞で呼びたい相手に呼び名を付ける時だって、大体はふわっと頭に浮かんだ名前をそのまま付ける。


 だが今回は。


 ──ふわっと浮かんだ候補はいくつかあるんだけどなぁ……。これでいいのかって悩んじゃうんだよなぁ……。


 そのせいで早く彼女を名前で呼びたいのに、今に至るまでずっと名前を呼べていない。ファミリアに名前を与える時だってここまで悩むことはなかったのに。


 ノーヴィスは足を動かしながらああでもない、こうでもないと頭をひねる。


 不思議なことに、ちっとも結論が出ないのにこの議論を頭の中で転がし続けるのは決して不愉快ではなかった。蹴散らしても蹴散らしても減らない影のことを考えるよりも、彼女の呼び名を考えていた方が数千倍は楽しい。


 だが楽しくても、やはり今回も結論は出なかった。


 進む先に『カメリア』の看板を見つけたノーヴィスは、深くフードを被り直すと深呼吸をして心を落ち着ける。こぼれ落ちるがままにしていた魔力を体の奥深くに押し込めれば、髪と瞳の色がフッと色を暗くしたのが分かった。


 ──多分、元の色のままでも彼女は受け入れてくれるんだろうけど、こればっかりはなぁ……


 もう一度ゆっくりとまばたきをして、そんな思考も心の奥に封じたノーヴィスは仕立て屋カメリアに向かって足を進める。時間的にも、そろそろ急ぎで頼んだ一着ができあがっている頃だろう。


 ──エレノアの腕は、信頼できる。きっと彼女に素敵な一着を作ってくれる。


 そう思うと、ふわっと心が軽くなった。こんなに心が浮き立つのは実に久し振りだ。


 ノーヴィスは勝手に零れる笑みをそのままに店の前庭を通り過ぎると、カーテンが引かれたドアを開いた。

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