結婚ですか?承知致しました

「メリッサ、お前には、結婚して当家を出ていってもらいます」


 珍しく一家が揃った朝食の席で、その言葉は唐突に降ってきた。


「お相手は……えっと、あなた」


 美麗な顔立ちに似合いの高飛車な口調で切り出した母が隣に座った父を視線で小突こづく。ただの視線に物理的な力なんてあるはずがないのに、母ににらまれた父は実際に叩かれたかのように小さくき込んでから声を上げた。


「ノーヴィス・サンジェルマン。あまり社交界では有名な方ではないが、伯爵位を持っておられる、立派な方だよ」

「お父様が見つけてくださった方よ。お前も文句はないでしょう?」


 父を視線で小突いた母は、次いでメリッサに視線を向けた。エメラルドの瞳に宿る険は父に向けられた時よりも何倍も鋭い。小突く、などという生易しいものではない。『殴る』や『はたく』といった表現こそふさわしい、さげすみが込められた目だ。


 ――お父様が朝食の席にいらっしゃった時点で、何かあるとは思っていましたが……


 いつも通りの母の視線を、こちらもいつも通りの無表情で受け止め、メリッサはしばし考えを巡らせる。


 ――さすがに『結婚』は想定外でしたね。


「お前なんかをこころよくもらってくださる奇特な方が見つかって良かったわ。こんな不出来で変人なお前を」

「お姉様、ご結婚なされるんですの?」


 メリッサが考えを巡らせている間も、母は刺々しい言葉を重ねてくるし、状況把握がイマイチ遅い妹は母と揃いの瞳を輝かせ、母と同じ金の髪を揺らしながらおっとりと両手を合わせる。


「おめでとうございます、お姉様」

「メリッサが出ていったら部屋が空くから、エドワードに住んでもらいましょうね。先方ともそのようにお話がついていますから」

「まぁっ!」


 妹のマリアンヌは母の口から出てきた婚約者の名前に頬を染めた。恐らくもう、『姉の結婚』という話は『婚約者が結婚式よりも早く同居する』という話に塗りつぶされて頭の片隅にも残っていないだろう。


 当事者であるメリッサはまだ何ひとつとして言葉を発していないのに、話はすでに決まった物として一行の間を流れ過ぎていく。


 実際問題、母にはメリッサの意思も言葉も関係ないのだろう。いや、強いて言うならば『鬱陶しいもの』ではあるのだろうが。


 メリッサは食べかけだった半熟の目玉焼きがドロリと喉を通っていくのを感じながら父を見つめた。母と妹が当事者そっちのけで盛り上がる中、唯一メリッサを真っ直ぐに見つめた父と視線が絡まる。


 メリッサと同じ漆黒の髪と瞳を持つ父は、控えめで穏やかな性格と相まっていつも華やかな母に付き従う影のような印象を受ける。その影の中に常にうれいがあるように感じられるのは、何も父の体が病におかされていることだけが理由ではないのだろう。今日も雨に濡れたような悲しみとあきらめをたたえた瞳でメリッサを見つめた父は、メリッサと視線が絡んだことを覚るとわずかに首を横に振る。


『何も言うな。何を言っても悪いようにしかならない。全てを飲み込んで、こらえなさい』


 それが父の口癖で、それがいつでも父からの答えだった。


 だからメリッサは、半熟の目玉焼きと一緒にすべての言葉を飲み込んで、小さく父に頷き返した。


 ――大丈夫よ、お父様。お父様が見つけてきてくださった相手ならば、まだマシだと信じられるから。


 入り婿である父は母に逆らえない。だけど父は母と違ってメリッサのことを愛してくれた。表立ってかばえなくても、精一杯メリッサを支えてきてくれたことを、メリッサはきちんと知っている。カサブランカ家の中で『不出来な黒』とさげすまれてきたメリッサを『魔法学院入学』という名目で外に解き放ってくれたのは、何を隠そう父であるのだから。


 ――でも、そんなお父様の優しさに甘えていられる日々も、もうおしまい。


「お話、うけたまわりました」


 一度ゆっくり瞬きをして、胸の内に湧き上がった言葉を全て心の奥底に沈める。


 何も思わない。何も願わない。


 一度感覚を身に付ければ、それはとても簡単なこと。


「いつ、出ていけば良いのでしょうか?」


 無表情のまま母に問えば、母は美しい顔を醜く歪めて吐き捨てるように言い返した。


「今日中には出ていってちょうだい」

「荷物の用意や、嫁入り道具の準備は……」

「つべこべうるさいわよっ!! 今日中と言ったら今日中なのよっ!!」

「マリアンヌの護衛の引継ぎや、魔法学院の手続きなどは」

「わたくしに口答えするのっ!? 今日中と言ったら今日中よっ!! 物分かりが悪いわねお前はっ!!」

「……失礼致しました」


 それでもやはり母との会話は、いつも通り上手くいかない。自分ではこれ以上の対処法が思いつかないし、母以外との会話ではここまで叱責を受けるほど酷い受け答えにはならないのだが。


 ――血が繋がった母娘おやこなのに、どうしてここまで上手くいかないのでしょうか。


 せめて結婚相手は、こちらの意図察知能力に寛容な人がいい。


 そんなことを願いながら、メリッサは今しがた名前だけを伝えられた結婚相手の元へとつぐべく、飾り気のないポニーテールを翻しながら自室へと取って返したのだった。




  ※  ※  ※




「……というわけでこちらまでうかがったのですが、こちらはノーヴィス・サンジェルマン伯爵様のお宅ではなかったのでしょうか?」

「大丈夫だよ。ここは間違いなく、ノーヴィス・サンジェルマン伯爵邸だ」

「居間と思わしき場所のソファーで爆睡されていた貴方あなた様をノーヴィス・サンジェルマン伯爵だと判断したのですが、間違っておりましたでしょうか?」

「それも間違いないから安心して。ここは間違いなく居間だし、僕がノーヴィス・サンジェルマンだ」

「それでは、なぜ貴方様は私との結婚話をご存知ないのでしょうか?」

「さて。何でだろうねぇ?」


 ボサボサの黒髪に分厚いレンズが入った丸眼鏡をかけた男……自分こそがノーヴィス・サンジェルマンだと名乗る青年は、寝転んでいたソファーに崩れるように腰かけたまま腕を組んで首を傾げた。その拍子に三人掛けソファーの肘置きに詰まれていた本が雪崩なだれて落ちる。


 居間だと家主が認めた部屋は、屋敷の奥深くにありながらも光にあふれていた。丸い部屋の奥側半分以上が天井から壁まで総ガラス張りになっているせいだろう。床が石畳であるのと、無秩序に置かれた植物、ついでに雑多にあふれた何かよく分からない品物と書物達のせいで、雰囲気は『居間』というよりも『温室』と言った方が近い。


 そんな部屋の中央より奥側に置かれたソファーの前で、メリッサはノーヴィスと対峙たいじしていた。ソファーに書物と一緒に……というよりも書物に埋もれるようにして座るノーヴィスに対して、メリッサは石畳の上に直接正座している。かたわらにチョコンと置かれた革のトロリーケースと日傘、身にまとった魔法学院の制服だけがメッサの持参品だ。


 そういえば持参金やら持参財と言える物をほとんど持ってこなかったな、と今更思い至ったが、そもそも先方は結婚話すら知らなかったという話だから、そこを気にする以前の問題だなと、メリッサはふと浮かんだ考え事をそのまま彼方かなたへ押し流す。


 そんなメリッサの前で、ノーヴィスが傾げた首をさらに傾げた。


「ところで」

「はい」

「どうして君はそんなに固い床の上に、そんなに足が痛くなりそうな形で座っているの?」

「他に座れそうな場所がなかったものですから」

「あれ? 椅子なりソファーなりがどこかに……」


 真っ先に問うべきことは他にありそうなものなのに、ノーヴィスはおっとりと首を巡らせると再び首を傾げる。恐らく自分が脳裏に思い描いた『椅子なりソファーなり』が見つからなかったのだろう。


 結果、ポリポリと頬を掻いたノーヴィスは、己の傍らの書物の山を盛大に崩しながら一番下に埋もれていたクッションを取り出した。


「はい、どうぞ」

「ありがとうございます」


『そんなに立派な革装丁の本をそんな風にあつかったら、後々泣くことになりますよ』とは思ったが、メリッサを気遣ってくれた彼の厚意はありがたい。


 メリッサは両手を差し出してクッションを受け取ると、今度はクッションの上に膝を抱えるようにして座り直した。そんなメリッサに向けてノーヴィスが指を軽く振れば、クッションはモコモコと厚みを増してあっという間に簡易のソファーへ変身する。


「便利ですね。あらかじめ術式を仕込んであったのですか?」

「ううん。これくらいなら、簡単だからね」

「さようですか」

「驚かないんだ?」

「貴方様が血で貴族の地位を継いだわけではなく、己の才能で魔法伯という貴族にじょせられたということは、調べさせていただいたので知っております」

「あれ? 今朝急に結婚話を聞かされて、ここまでは自力で来たんだよね? で、今はまだお昼過ぎ。調べる時間はそんなになかったはずだ。僕の名前しか知らなかったはずなのに、よくそこまで分かったね?」


 背筋に力を入れて重心を安定させれば、座る物の高さが急に変わろうがモコモコと揺れようが体勢を崩すことはない。


 一切表情を変えることなく優雅にクッションに座り続けるメリッサに、ノーヴィスは再び首を傾げた。


 突如とつじょ押しかけてきたメリッサに起こされてから、ノーヴィスはずっと首を傾げっぱなしだ。そうでありながら、ノーヴィスはメリッサに不快感も不信感も向けてこない。


 メリッサはそんなノーヴィスに内心だけで首を傾げながらも、一切変わることがない無機質な声で問いに答えた。


「慣れておりますので」


 魔法学院の生徒だったメリッサにとって、分からないことを自力で調べるというのは至極当然の行為だ。疑問を疑問のまま置いておいても誰も答えはくれないし、そのまま放置しておくことは己の好奇心が許さない。


 それに。


 ――情報は、時として剣よりも強力な武器になる。


 メリッサにとって、それは物心ついた時から自明の理として分かり切っていたことだった。


 知っていれば、無駄に質問しなくていい。知っていれば、失敗しなくていい。


 それは結果的に、『知っていれば無駄な叱責を受けずに済む』に繋がる。少しでも日々を平穏に過ごしたければ必須スキルだ。むしろ、なぜそうあらなくても日々を平穏に生きていくことができるのかが、メリッサには分からない。


 ――……まぁ、少々行き過ぎていたと、最近は自覚できるようになりましたが。


 ふと、その自覚をするに至った出来事が脳裏を過ぎる。


 だがその風景をじっくり噛み締めるよりも、ノーヴィスが能天気に笑う方が早かった。


「そっか。君は優秀なんだね」


 そんなノーヴィスに、メリッサは思わず目をしばたたかせた。


 優秀。まさか、そんな風に言われるとは。


「……恐縮です」


 この国では、優秀な魔法使いは金髪であると相場が決まっている。色素が薄い人間ほど生まれ持った魔力が強く、結果、優秀な魔法使いに育つ。


 昔から高名な魔法使いを多く輩出してきたメリッサの家も『カサブランカの金』と呼ばれる金髪と、金の光彩を散らした碧眼へきがんが特徴的な一族だった。実際母も、妹も、今は亡き祖父も、皆この『カサブランカの金』を見事に体現している。


 そんな中で、メリッサだけが漆黒の髪と瞳を宿して産まれた。幸いなことに一定以上の魔力は持ち合わせていたが、異端児であることを跳ねのけるほどのずば抜けた強さや才能はメリッサにはなかった。メリッサが母に『出来損ないの黒』と忌み嫌われた根本はそこにある。


 優秀、という評価は、今までのメリッサの人生には縁遠いものだった。


 ――と、いうよりも、今のこの状況でそんな呑気のんきな評を私に付けていても良いものなのでしょうか?


 自分が知らない間に自分が知らない人間がいきなり家に上がり込んできていて、自分は相手のことを一切知らないのに相手はある程度自分のことを知っていて、そんな相手が『結婚相手です』などと名乗っていたら、普通は気味が悪いと思うのだが。


 状況が状況だっただけに仕方なくこうしてしまったメリッサだが、もしも自分がやられる側の立場だったら、目覚めた時点で相手の首筋に短剣を突き付けて交戦待ったなしだと思う。


 ――普通の貴族令嬢だったら、『短剣を突き付ける』は、ないんでしたっけ?


 そもそも相手が部屋に入ってきた時点で気付ける自信はあるのだが、それはそれ、これはこれ。


「まぁ、この部屋に自力で辿り着けたって時点で、君が魔法使いとしてとても優秀で、用心深い子だってことは分かってたんだけどね」


 そんなことを考えるメリッサの前で、ノーヴィスは穏やかに笑ったまま続ける。何やら賛辞の嵐のようだが、メリッサとしては何がそこまで褒められる要因となっているのかが分からない。


「門の鍵も、玄関の鍵も開いておりました。私は開いていた門を通り、呼び鈴を鳴らし、返答がなかったから勝手に玄関に入り、この部屋から漏れてくる光を頼りにここへ辿たどり着いただけです。無作法なことをしたとは思いますが、この程度のこと、やろうと思えば子供でもできることだと思いますが」


 結果、メリッサは無表情のまま素直にそれを口に出すことにした。何となくここまでのやり取りで『この程度のことならばストレートに言っても怒らせはしないだろう』と読み取った結果である。


 現にノーヴィスはメリッサのストレートな物言いに怒ることはなかった。


 それどころか首を傾げて、今度は楽しんでいるかのような笑みを口元に広げる。


「ここが普通のお屋敷なら、ね?」

「普通のお屋敷ではない、と?」

「一応、防犯用に色々仕掛けはしてあるし、独り暮らしをいいことに厄介な魔法道具をそこら辺に適当に放置している自覚はあるから」

「……ああ」


 ノーヴィスの物言いに数秒記憶を掘り起こしてみたメリッサは、心当たりを得て小さく納得の声を上げた。


 ノーヴィスは結婚話を知らなかったというのだから当然だが、屋敷を出たメリッサの元に迎えの馬車は来なかった。唯一の手がかりであった『ノーヴィス・サンジェルマン伯爵』という名前からお屋敷の住所は調べてあったし、それが同じ都の中でも乗合馬車を乗り継げば自力で辿り着ける場所であることも調べてあったメリッサは、『迎えを待っていても望み薄』と判断して自力でこの屋敷の前までやってきた。


 門の前に立っても出迎えはなく、門の鍵は開いていたが普通に開くと落とし穴に落ちる仕様になっていた。門の隣の使用人通用口は普通に使えるようだったので、ヘアピンで鍵を開けて中に入り玄関まで進んだわけだが、呼び鈴の取っ手には握った瞬間仕込み針が刺さるように細工がされていた。臭いや仕込まれた針の材質から『仕込まれているのは麻酔薬のたぐいだろう』と簡単にだが特定したメリッサは、『これを仕込んだ人物はひとまず来訪者を殺す意図はない』ととりあえず安心したものだ。


 結局、仕込み針を解除して呼び鈴を鳴らしても返答はなく、開けると隣に積まれた本の山が崩れるようにワイヤーが張られていた玄関にも鍵はかかっていなかったため、メリッサは勝手に屋敷に上がり込むことにした。以降この部屋に至るまで、物理的・魔法的・心理的トラップや適当に置かれた魔法道具の暴発をかわしながらメリッサは屋敷の中を進んできたわけだが。


 ――なるほど。あれは防犯目的だったのですね。


 てっきり、自分は歓迎されていないのだとばかり思っていた。結婚に乗り気でないから迎えを寄越さなかったわけでもなく、押しかけてくるであろう花嫁を撃退したかったわけでもなく、この状態がサンジェルマン伯爵邸の『日常』ということだ。


 ならば、メリッサが言うべきことはひとつだけ。


「あの程度では防犯になるとは思えません。現に私は貴方あなたの寝込みを襲おうと思えば襲えました。たかが小娘に突破できるのですから、プロならばもっと簡単であるはずです。防犯意識をもっと高く持つことを強くお勧めいたします」

「ブハッ!!」


 ひとまず玄関と門の鍵を閉じるという基礎基本的な所から、と続けようとした瞬間、ノーヴィスは噴き出した。何事かと目をしばたたかせればノーヴィスはケラケラと実に楽しそうに笑っている。


 思えば、不思議な人だ。


 ボサボサの適当に伸ばされた黒髪。ヨレヨレのシャツは白でズボンは黒。シャツの襟元には瞳と同じ深い紺色の石が輝くループタイ。その上から夜空の色に似たローブを適当に羽織っている。足元はどうやら革のショートブーツを履いているらしい。


 レンズが分厚い丸眼鏡と長い前髪のせいで顔はよく見えない。声は少年のようにも聞こえるが、体格は細身ながらも明らかに成人を迎えた男性のものだし、まとう空気はどこか浮世離れしていて、すごく歳がいっているようにも、すごく年若いようにも感じる。


 ――人間観察は、得意なはずなのですが……


 そんなメリッサをしても、見ているだけでは何も分かってこない。喋ってみても、よく分からない。


 ――とりあえず、穏やかそうではありますね。


「ご、ごめんね。まさかそんな風に言われるとは思ってなくて……」


 ひとしきり笑い終えたノーヴィスは眼鏡の下に人差し指を突っ込みながら口を開いた。どうやら笑いすぎて涙まで出ていたらしい。


「君は優秀な上に、面白い子なんだね」

「恐縮ですが、そう言われたのは初めてです」

「言われたことないの?」

「『優秀』とも『面白い』とも、本日初めて言われました」

「おや、そうなの?」


 今度はノーヴィスが目を丸くした。メリッサは数少ないノーヴィスのプロファイリングデータの中に『感情が豊か』『表情に出やすい』というデータも書き加えておく。


「僕はすぐに気付いたのに。周囲のみんなは君の何を見ているんだろうね?」

「そこまでは、私の主観では分かりかねます」

「うん、それもそうだ」


 案外、そんなことを思う彼がただの変人なのではないだろうか。


 ふとメリッサはそんなことを思ったが、さすがにそれは心に留めておく。面と向かって『変人』と言われるのは気分が良くないことだと、実際に言われたことがあるメリッサは身を以って知っているので。


 それでも、彼が変わり者であること自体は、間違いのない事実なのだろう。


 ――黒髪の、魔法伯。私を『優秀』だと言う、ちょっと変わった人。


 彼が伯爵は伯爵であっても『魔法伯』であることを知った時、メリッサは勝手に金髪碧眼の美丈夫をイメージしていた。


 国に名を刻むような優秀な魔法使いに与えられる一代限りの爵位が『魔法伯』だ。そんな彼がメリッサと同じ黒髪で、黒とは言わないが暗い色の瞳をしているのだと知った時、メリッサはひそかに驚いたものだ。


 ――髪色が全てではないと、思ってきたつもりではいたのですが……。きちんと認識を改めていかないと、私のことはさておき、ノーヴィス様に失礼ですね。


 そこまでつらつらと思ったメリッサは、ふと我に返った。


 当初の話題であった『結婚』から、かなり話がそれてしまっている上に、まったくもって話が進んでいない。


「あの」

「うん?」

「ご迷惑ならば、出ていきますが」

「……うん?」


 改めて切り出せば、案の定ノーヴィスは首をかしげた。何に対してそう言われているのか分からない、といった風情だ。


 だからメリッサは居住まいを正すと、もう一度真正面から結婚に関する話題を切り出す。


「私との結婚をご存知なかったということは、結婚を承知されたわけではないのですよね? 花嫁として私がここに居座っても、ご迷惑でしょう。ですから『出ていきますが』と申し上げたのです」


 彼はメリッサの結婚相手だと言われたノーヴィス・サンジェルマンで間違いないという。


 調べた限り、同姓同名の貴族はいない。しかし彼はこの結婚話を寝耳に水だと言った。


 結婚を嫌がって嘘をついているようには見えないし、嫌ならばもっと露骨に、あるいはやんわりとお断りを告げればいいだけだ。家同士の格式ばったやり取りがあったわけでもなく、まるで猫の子を他家の譲り渡すような……というよりも押し付けるかのような形でメリッサが一方的にやって来ただけなのだ。門前払いでも何でも、やろうと思えば簡単にできたことだろう。


『結婚が決まった』と言い渡されたし、『相手はお父様が見つけてきた』とも言われたが、どうやら全てはメリッサをさっさと叩き出すための嘘であったようだ。


 何せ妹のマリアンヌの婚約者は、メリッサの元婚約者でもある。家族と本人総ぐるみでマリアンヌへの乗り換えを押し進めたのだから、婿に迎えるにあたってメリッサがカサブランカ家に留まっていたら気まずいというのがあったのだろう。


 ――私自身は、あまり気にしていないのですが……


 何せマリアンヌは少々天然で鈍い所はあるが『カサブランカの金』を体現した抜群の美少女で、家庭教師達が揃って『天才』と絶賛する魔法使いだ。出来の悪い姉に似ず、よくぞここまで立派に育ってくれたとメリッサは日々感心していたものである。母にとっても自慢の娘であるはずだ。家督をマリアンヌが継ぐことに異存などないし、メリッサからマリアンヌに乗り換えたエドワードの判断は英断であったとたたえたいメリッサだ。


 ――ああ、でも部屋の数が足りないんでしたっけ?


 ならばやはり自分が出ていくのが妥当なのだろう。侯爵家であっても無駄な出費は控えるに越したことはない。婿を迎えるにあたって屋敷を増築しなければならないくらいなら、やはりメリッサが家を出て部屋を明け渡した方がスムーズである。


「んー、ちょっと待ってくれる?」


 ということは、実家に出戻るのも迷惑なのか、と考えるメリッサの前で、何事かを思案したノーヴィスが立ち上がった。またバサバサと膝の上から書籍が雪崩なだれ、ノーヴィスが座っていた空間も雪崩れてきた品に埋もれて消えてしまうが、ノーヴィス自身はやはりそんなことには全く頓着していない。


「その結婚話、お父さんが決めてきたって言ったよね?」


 自分の足で立ち上がったノーヴィスは、思っていたよりも背が高かった。今はメリッサが座っているし、ノーヴィスが猫背というのもあって分かり辛いが、しゃんと立てばメリッサより頭ひとつ分以上は高いかもしれない。


「君のお父さんの名前は?」

「リヒャルト・カサブランカと申します」

「リヒャルト・カサブランカ……」


 聞き覚えがないのか、ノーヴィスはまた首を傾げた。


 だが今度はすぐに首を戻すとパンパンッと軽く両手を打ち鳴らす。


「ロットさん、パーラさん、キートさん、オウルさん、教えてほしいことがあるんだけども」


 使用人を呼び付けるかのように手を打ち鳴らしたノーヴィスは、次いで人の名前のようなものを口にした。


 ――先程、独り暮らしだと口にしていたと思うのですが……


 メリッサはノーヴィスを見上げたまま内心だけで首を傾げる。


 そんなメリッサの耳を、柔らかな風切り音がくすぐった。先程まで動きがなかった空気が何かの羽ばたきによって震えている。


「最近、『リヒャルト・カサブランカ』を差出人とする手紙とか書類とか、何か見かけなかった?」

『アー? 見テナイヨー?』


 その微かな鳴動を切り裂くかのように、頓狂とんきょうな声は響いた。


『モシカシテ アレカナ?』

『オジイチャン 運ンデタ』


 思わずメリッサは己の頭上を見遣る。その時には素っ頓狂な声に追従するかのように細く幼い少女と少年の声が響いていた。


 だが見上げた先に、人影はない。


『はて? 運んだかのぉ?』


 風を震わせ、声を響かせながらメリッサの頭上を旋回していたのは、極彩色の羽を広げた鳥だった。唯一、最後にしわがれた声を上げた鳥だけが木目を思わせる落ち着いた色彩の羽を広げている。


「オウム……と、インコと、フクロウ?」


 一体今まで屋敷のどこにひそんでいたのか、四羽の鳥達は見た目も存在も騒々しい。宙を旋回し、ソファーの背や机の上に舞い降りてからも互いにやいのやいのと言い合っている。


『オジイチャン 物忘レ?』

『アンナニ 大変ソウニ シテタノニ』

『はて、それは一体いつのことだい?』

『アー! ソモソモォ! 部屋ヲ片付ケナイィ ノーヴィスガァ 悪ゥイ!!』

『確カニ』

『確カニ』

『キット ドッカニ 埋マッテルゥ!』

『イツモノコト』

『イツモノコト』

「はいはい、僕の悪口はいいから」


 もう一度ノーヴィスが手を打ち鳴らすと、かしましい鳥達はピタリとお喋りをやめた。ついでにピッと居住まいを正してメリッサに顔を向ける。


 そんなやり取りを観察していたメリッサは、己が導き出した答えを口にした。


使い魔ファミリア、ですか?」


 魔法使いは時折、ヒトではない相棒や従者を持つ。精霊や動物、あるいは己の魔法で創り出した『何か』であったりとその種類は様々だが、そういった物を大雑把にまとめて『使い魔ファミリア』と呼んでいた。


「うん。普段のちょっとした雑用を手伝ってくれてたり、他にも色々ね」


 メリッサの問いに頷いたノーヴィスは、片腕を上げるとソファーの背に舞い降りたオウムを示した。


「オウムがロットさん」

『ヨロシクゥッ!!』


 ノーヴィスから紹介を受けたオウムはけたたましい声で叫ぶ。


 次いでノーヴィスは机の上の本の山にちょこんと留まった二羽のインコを示した。


「インコの女の子がパーラさんで」

『ヨロシクネ』

「男の子の方がキールさん」

『ヨロシクネ』

「それで、最後が……」


 微かな羽ばたきの音を聞きながらノーヴィスは右腕を宙に向かって差し出す。その腕に最後まで宙を旋回していたフクロウが静かに舞い降りた。


「フクロウのオウルさん」

『名付けが安直すぎて、いささか恥ずかしいのぉ』

「はいはい、ごめんね。あと、彼女にちゃんとご挨拶」

『ふむ。よろしく頼むよ、お嬢さん』


 クルリクルリと顔を回したフクロウはメリッサと視線を合わせると目を細めた。鳥の顔に表情などないはずなのに、そうしているとなぜか笑っているように見える。


「メリッサ・カサブランカと申します。皆様、どうぞよろしくお願い致します」


 紹介を受けたのだから、きちんと名乗り返すのが礼儀。


 そう判断したメリッサは居住まいを正して頭を下げる。そんなメリッサにノーヴィスは柔らかく瞳を細めた。


「君は礼儀正しい子なんだね。偉い」

『エラァイッ!!』

『偉イネ』

『イイ子』

『大変よろしい』


 たったそれだけだったのに、メリッサに返ってきたのは賛辞の嵐だった。思わぬ事態にメリッサは無表情のまま目をしばたたかせる。


 ――この程度のこと、当たり前であって、こんなに褒められることでは……


「さて。そんな偉くて賢くて優秀な彼女のために、みんなひとつよろしく頼むよ」


 だがメリッサがそんな戸惑いを口にするよりも、ノーヴィスが一同に号令をかける方が早かった。


 オウルを宙に放ったノーヴィスはそのまま大きく腕を横へ振り抜く。その動きを合図に羽を休めていた他のファミリア達も一斉に宙へ羽ばたいた。そんな彼らの翼に打たれて、停滞していた居間の空気がフワリと風をはらむ。


「『光の下 机の影 本の隙間 何でもない場所 出ておいで 探し物 失くし物』」


 ファミリア達が羽ばたいた後の空気には蝶が鱗粉を落とすかのように光の粒が舞っていた。そんな空気を巻き込んでノーヴィスの歌声が響く。


 光と風を巻き込んだ歌声は物理的に力を持った波となり、ゴチャゴチャと置かれた品物達は水面に浮かぶ花びらのようにユラリユラリと揺れ始める。


 ――理論も何もない。ただの失せ物探しのまじない歌なのに……


 メリッサとメリッサが座るクッションの周りを避けた波は、水面を波紋が揺らすかのように部屋の端へと広がっていった。その波がノーヴィスによって即興で組み上げられた魔法なのだと理解したメリッサは思わずまじまじと波が進む先を見つめる。


 ――本来この規模で魔法を使おうとしたら、魔法陣ときちんとした呪文の詠唱が必要であるはず。


 ファミリアの力を借りているのだとしても、この展開は規格外すぎる。


 はからずもノーヴィスが本当に優秀な魔法使いである証拠を目にしたメリッサは、息を詰めて波が進む先を追った。


「あ……」


 そんなメリッサの視界の端で何かがフワリと舞い上がる。その『何か』はメリッサが視線を向けるよりも早くノーヴィスの手元に舞い降りた。


「どうやら、これがリヒャルト・カサブランカ侯爵から送られてきた手紙みたいだね」


 ノーヴィスの手の中に納まったのは、真っ黒な封筒だった。ノーヴィスは手の中で封筒をめつすがめつ観察しているが、どうやら封筒には宛名もなければ差出人の名前も書き込まれていないらしい。


 封蝋で閉じられているから中に手紙が入っているのだということは分かるが、それがなければ未使用の封筒なのかと勘違いしてしまいそうなほど封筒には誰かが使った痕跡が見当たらない。


 そんな封筒を耳元で軽く振って中の音を確かめたノーヴィスは、封筒の隙間に指先を差し込んで封蝋を破った。そのままひっくり返すわけでもなく、中に指を入れるわけでもなく、なぜか封筒を顔に近付けて中をのぞき込んだノーヴィスは、小さく息をくと独白をこぼすかのように呟く。


「うーん……なるほど?」


 そんなノーヴィスの様子に、メリッサは内心だけで首をかしげた。


 ――中の手紙を確かめないのでしょうか?


 先程の魔法で探し当てられたこの手紙は、ノーヴィスの言葉を信じるならば父から差し出された物であるらしい。ならばその中に入っているのは、メリッサとの結婚に関する書状なり手紙なりであるはずだ。


 手紙は中を改めてみてこそ意味がある物だし、ひとまず読めば何も知らないメリッサが説明したこと以上の事情を知ることができるはずなのだが。


「ねぇ。質問、いいかな?」

「何でしょうか?」


 だというのに、結局ノーヴィスが封筒の中から手紙を取り出すことはなかった。


 封筒の中を覗き込むだけ覗き込んで再び蓋をしたノーヴィスは、両手で封筒を持ったままメリッサに向き直る。


「お父さんって、お母さんのおうちに婿入りしてたりする?」

「はい。父は先のカサブランカ侯爵の一人娘であった母と結婚して、カサブランカ家に婿入りしています」

「お父さんの旧姓って分かる?」

「旧姓、ですか?」

「うん」


 唐突な質問にメリッサはしばらく瞳を伏せて記憶をあさる。だが残念なことに父方の実家のことは家名を含めてとんと聞いた覚えがなかった。父に身寄りがないことは何となく察していたから、どことなく話題にするのを避けていたのかもしれない。


 仕方なく、メリッサは視線を上げると素直にそのことを口にした。


「申し訳ありません。父の実家のことは、家名を含めて聞き覚えがなくて、存じ上げないのです」

「そっか」

「はい」


 よどみなく答えると、ノーヴィスは再び封筒に視線を落とした。手の中で封筒をもてあそびながら考えにふけるノーヴィスは、何かを思案しているようにも、何かに迷っているようにも見える。


「……あの」

「もうひとつ質問いい?」


『やはりご迷惑なようなので出ていきます』という言葉を口にするよりも、ノーヴィスが再び口を開く方が早かった。


 もう一度真っ直ぐ向けられた視線を受けたメリッサは、口にしかけていた言葉を飲み込むと居住まいを正す。


「何なりと」


 ――この方は、言葉を向ける時、きちんと視線まで私に向けてくれるのですね。


 それが、新鮮だった。こんな風にしっかりと話し相手として向きあってもらう経験が、最近あまりなかったものだから。


「君が優秀で、面白くて、賢くて、礼儀正しくて、魔法も使えるってことは、もう知ってるんだけども」

「過分なお褒めの言葉、重ねて恐縮です」

「他に何か、できることってある? 家事とか、得意なこととか。掃除とか炊事とかできるならありがたいんだけども」

「家事、ですか?」


 またもや唐突な発言にメリッサは思わずしっかりと首をかしげた。


 家事、掃除、炊事。それは本来、貴族令嬢に求めていいスキルではないと思う。せいぜい求めていいのはお片付けとお菓子作りまでだろう。


 だが幸いなことにと言うべきか否か、『カサブランカの不出来な黒』と呼ばれてきたメリッサは、生きる道を模索すべく色んなことに手を出してきた過去がある。


 ――まぁ実際の所、それを免罪符として己の知的好奇心を満たしていた部分が大半だったのですが。


「炊事、掃除、洗濯等、『家事』と呼ばれるものは一通りこなすことができると思います。買い出し等はあまり経験がありませんが、ご指示、ご指導いただければ遂行も可能かと。他にできることと言いますと、実家では妹の護衛の真似事のようなことをしておりましたので、護衛、諜報活動等も、さわり程度ならば」

「妹の護衛?」

「姉は妹を守ってしかるべき、と育てられましたので」


 ノーヴィスの疑問の声にメリッサはごく当然のこととして答えた。


 幼少の頃より母からは『不出来なお前はせめてマリアンヌを守る壁くらいにはなりなさい』と言われてきた。姉は妹を守るものであるとも聞いている。美しく才もあるマリアンヌを実家から出された今日まで無傷で守り抜くことができたのは、メリッサの数少ない誇りだ。


 ――今後、マリアンヌとうまくやれる護衛が現れると良いのですが……


「うん。僕が思っていた以上に、君はうんとすごい子だったんだね。それに、家族思いで優しい子だ」


 そんなことを思っていたメリッサはノーヴィスの声で我に返った。改めて視線を向け直せばノーヴィスはフワリと優しい笑みを浮かべている。


 そんなノーヴィスが、不意にメリッサに向かって腕を伸ばした。


 ――? 何でしょう?


 無防備に視線を向けていたら、ノーヴィスの手がポンッとメリッサの頭に載った。思わぬことに固まっていると、ノーヴィスの手はそのままよしよしとメリッサの頭を撫でていく。ポニーテールに根っこを避けるようにメリッサの頭を撫でる手は、ひょろりとした外見に似合わず、固くて、かさついていた。


 ――……手、大きい。


「さて。そんな君に、提案がある」


 メリッサの頭を撫でたいだけ撫でた手は、何事もなかったかのようにローブの袖の中に収納されてしまった。思わず撫でられた頭を両手で押さえてノーヴィスの手を視線で追うが、指先だけがわずかにのぞく袖口だけではメリッサの頭を撫でた手の全容は分からない。


 ――頭を撫でられたのなんて、一体いつぶりなんだろう……


 昔は父にああやって撫でてもらっていたような気がするが、それも一体何年前のことなのだろうか。


「君、とりあえずここで働かない?」

「……え?」


 そんなことを思っていたものだから、うっかりノーヴィスの言葉を聞き逃した。さらには間抜けな声まで漏れる。


「僕は君との結婚話を知らなかったし、君だってこの話を今朝言い渡されたわけでしょう? お互い相手のことを知らないどころか、存在だってついさっき知ったばかりじゃない? そもそも、いきなり結婚とか言われても気構えとかさ、心の準備とかさ、色々あると思うんだよね。女性の方は特にさ」


『言われたことは一度で聞き取ること』。叱責を受けないためには基本中の基本とも言うべきことを成せなかったことに、一瞬メリッサは血の気が引くのを感じる。


 だがノーヴィスはそんなメリッサを叱責するどころか、のほほんと説明の言葉を追加してくれた。


「だからさ。とりあえず『お嫁さん』じゃなくて『メイドさん』として、この屋敷にいてくれないかなって思って」

「メイド、さん?」

「そう。一緒に生活をしながら、お互いのことを、時間をかけて知れたらいいなって。『お客さん』でもいいけど、君の能力を生かさずに放置しておくのはとてももったいないことだと思うから。だから『メイドさん』で」


 思わずシパシパとゆっくり目をしばたたかせたメリッサは、しっかりとノーヴィスの言葉を頭の中で噛み締めた。


 どのみち『迷惑になるなら』とここを出ても実家には帰れない。現実的に考えれば、メリッサはどこかに住み込みの働き口を探すことになる。


 一応、魔法学院の伝手つてを頼れば、どういった場所でどのような手続きを踏めば働き口が見つかるかは知ることができるはずだし、運が良ければ働き口そのものを紹介してもらえるかもしれないとは思っていた。自分にできることは家事と魔法を使うことくらいしかないから、どのみち就ける仕事はどこかのお屋敷の使用人か、あるいは魔法を生かせる職種になるとも思っていた。


 ――ならば、特に今提示されている仕事と、大差はありませんね。


 勤務地と仕える主の人柄が多少なりとも分かっている分、ゼロから探すよりもかなりプラスと言えるだろう。ノーヴィスが善意から提案してくれていることも分かっている。この話を断る理由がメリッサにはない。


うけたまわりました」


 何より、ノーヴィスは、メリッサのことを褒めてくれた。


 慣れない言葉を不思議には思うが、何だか心地良くもあった。この部屋の空気を温かく感じるのは、部屋の造りが温室に似ているから、という理由だけではないはずだ。


「本日より、よろしくお願い申し上げます」


 メリッサはフワリと立ち上がると白いプリーツスカートの端をつまんで優雅に頭を下げる。


「こちらこそ、よろしくね。……時に、君」


 そんなメリッサに緩く頭を下げ返したノーヴィスが不意に表情を改めた。その変化にメリッサも頭を上げて気を引き締める。


 だがノーヴィスの口から飛び出てきたのは、気が抜けるような質問だった。


「目玉焼きって、どれくらいの固さが好み?」

「目玉焼き、ですか?」


 ノーヴィスが真剣なのは分かる。だが問いの内容はこれまた突拍子もないことだった。なぜ今この問いが出てきたのか、意図をはかることができない。


 ――ここは空気を察して相手の好みを答えるべきなのでしょうが……


『目玉焼きの固さの好み』が分かる情報など、今までの会話には出てこなかったと思うのだが。あるいはこれはメリッサの諜報能力を試す試験的なものなのだろうか。


 ――情報が足りません。お手上げです。


「スプーンでつついた時、黄身がポロッと取れるくらいに固焼きにするのが好みです」


 一般的に好まれると聞く『半熟卵』と答えるべきかと迷ったが、結局メリッサは自分の好みを素直に口に出した。今までの会話の流れから、最悪の場合でもノーヴィスが突然怒り出したり、答えが気に入らなかったからと屋敷から叩き出すようなことはしないだろうと判断したから、というのもある。


「そっか」


 案の定、メリッサの答えを聞いたノーヴィスが怒ることはなかった。


 それどころかノーヴィスは嬉しそうに笑みを深める。


「実は僕もそうなんだ。食べ物の趣味が合うみたいで嬉しいよ。この話を振るとみんな『なんて悪趣味な』って半熟卵を勧めてくるものだから」


 そう言うノーヴィスがあまりにも嬉しそうだったから、メリッサは思わずポロリと自分の思いを口にした。


「あのドロッとした感じが、私は嫌いです」

「そうだよね、僕もなんだ」

「ポロッと、ホロッとした黄身の方が、美味しいです」

「だよね。僕もほんとにそう思う」


 そう言ってノーヴィスはホケホケと笑った。


 そんなノーヴィスを見上げて、メリッサは深く同意を瞳に浮かべていたと思う。




 これがメリッサ・カサブランカとノーヴィス・サンジェルマンの、少々変わった出会いであった。

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