第25話「クレア覚醒」

 憎悪──。


 それがクレアの心を支配していた。

 目の前に映る黒いマントを羽織った魔族の姿。そのすべてを斬り殺してやりたい。

 その想いが、純粋だった彼女の顔つきを変えていた。


 真っ黒だった瞳の色が血の涙で赤く染まり、小さな唇はブルブルと小刻みに揺れ、怒りを押し殺すかのように虚ろな表情で彼らを見つめている。

 魔族たちはそんなクレアの変化よりも、彼女の前に転げ落ちている仲間の首に驚きを隠しきれないでいた。


「なんだ、貴様……」


 そう言いながら、レイピアを斜めに向けて構える華奢な少女に注目する。


「貴様がやったのかッ!」


 そう叫んだ魔族の首が、さらに転げ落ちた。

 悲鳴を発する間もない、一瞬の出来事である。

 緑色の血しぶきをあげて崩れ落ちる仲間の姿に、周囲の魔族たちはいっせいに身構えた。

 目の前の女は微動だにしていない。少なくともそう見える。

 しかし、何をしたかがわからない。


「な、なにものだ、お前……」


 つぶやくより先に、クレアの身体が前方に跳ねた。

 それに反応して、正面にいた魔族たちが横へと飛ぶ。


「──ッ!?」


 彼らは飛んだつもりだった。

 しかし、気が付けば太ももから下を斬り落とされ、地面に転倒している。

 あまりの速さに、痛みさえもなかった。

 地面に崩れ落ちた魔族たちが顔を上げる。

 その目には、レイピアを握るクレアが映っていた。

 いつの間に斬られたのか。


「あ……あ……」


 恐怖に引きつる魔族。


(こいつは本当に人間か)


 そんな疑問を抱きながら、彼らは次々と首を刎ねられていった。



 ギンガムは遠巻きにその光景を眺めながら、いまだかつて感じたことのない感情を胸に抱いていた。


 知らぬ間に、部下の首がことごとくね飛ばされている。

 いったい何が起きているのか。

 レイピアを構えた女が消えたと思ったら部下の死体が増えている。

 このことは彼にとって理解の範疇を超えていた。


(これが“恐怖”というものか……?)


 ギンガムは生まれて初めて逃げ出したい衝動にかられていた。

 魔王と相対した時とはまるで違う恐ろしさ。

 魔王の時は、その圧倒的な存在感に歓喜にも似た悦びを感じていたが、彼女の意味不明な不気味さはそれとはまるで違う。


 真の恐怖。


 殺される、という想いが彼の心をむしばんでいた。

 あまりの出来事にギンガムは逃げることさえできずにいた。

 いや、そもそも彼らの中に“逃げる”という選択肢ははじめからない。

 人間相手にそんなことはあり得ないと思っていたからだ。


 

 気が付けば魔族たちは一人残らず斬り殺され、辺りは血の海と化していた。

 いつの間にか、レイピアの女だけが立っている。

 あとに残されたのはギンガムだけであった。


「う……あ…」


 彼は信じられないといった表情で一歩二歩と下がっていった。

 逃げるしかない。

 何がどうなっているかわからないが、ひとまず全速力で逃げるしかない。


 そう思った矢先、クレアが初めて口を開いた。


「逃げる気?」


 凍りつくような冷たい声だった。

 オドオドとしていたさっきの姿とはまるで別人である。

 ゾクリ、と背中に戦慄が走る。

 ガチガチと牙の生えた口が音を立てて震えていた。


 刹那、クレアの姿が視界から消えた。


「──ッ!?」

「残念だけど、逃がさないわ」


 背後から声がする。

 慌てて振り向くと、彼の後ろにクレアが立っていた。

 いつ移動したのかわからない。

 圧倒的な速さを誇る魔族の目にすら追いつかないほど、彼女の動きは見えなかった。


「あ……あ……」


 ひゅん、と風を斬る音が耳を突き刺す。

 と、同時にギンガムの右腕がボトリと落ちた。


「ひ……ひああぁっ!?」


 大量の血しぶきが切断された腕から飛び散る。


「ぐ、ぐうう……」


 ギンガムは腕を抑えながら後ろへ飛び跳ねた。

 そして、クレアの前で残った手から炎の塊を作りだした。


「に、人間ごときに……、人間ごときに……」


 炎の塊はどんどん膨らんでいく。

 それはライトニングを包み込んだ光球よりもさらに大きくなっていった。

 魔力のすべてを注ぎ込む。

 自身の身体の2倍はあろうかという大きさになったところで、ギンガムはその燃え盛る火炎球をクレアめがけて投げつけた。


「消え去れぇいッ!!」


 彼の叫びと、クレアのレイピアの動きは同時だった。

 彼女が刃を縦に割くと、炎の塊が真っ二つに割れた。


「な、なに!?」


 二つに割れた塊は中央のクレアを通過して背後の壁に激突し、消滅した。


「バ、バカな……」


 いまだかつて、炎を剣で割いた者などいない。魔界の剣士ですら、不可能である。

 彼女の剣戟は大気をも割くということか。


 ギンガムは、ワナワナと震えながら足を後ろに動かそうとした。

 しかし、足が動かない。

 恐怖のためか、魔力の使い過ぎか、あるいはその両方か。自分の意志ではまったく動こうとしなかった。

 そんな彼に、クレアはゆっくりと近づいていく。

 レイピアをだらりと下げ、虚ろな表情で見据えるその顔は、まさに死神のようである。


 ガクガクと唇を震わす彼にクレアは言った。


「あなただけは許さない。恐怖と絶望を味わいながら、死になさい」


 そう言って、レイピアを一閃させる。

 刹那、ギンガムの首が飛ぶ。

 地面に落ちていく彼の目には、バラバラと切り刻まれた自身の身体が映っていた。

 ゴロゴロと転がって行く頭。その顔は、恐怖に歪んでいた。



 静寂に包まれた洞窟内で、クレアはかすかに息を吐いた。

 気持ちが高ぶっているのか、息は白いが寒くはない。

 ふと、ライトニングが最期にいた場所に目を向ける。

 そこには、高熱によって黒く染まった地面だけが残されていた。


「クレア」


 そう呼ぶ彼の声が耳に残る。

 炭と化した地面を眺めながら、彼女の赤い瞳からツーと一筋の涙が流れ落ちていった。

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