第572話 酢漬けとのファーストコンタクト
屋台の少女はヨハネからゆで卵の代金を受け取ると大事そうにそれをしまう。
「そういえば名前も聞いてなかった。君の名前はなんていうんだ?」
「アンって言います。それじゃあすぐ用意しますね」
アンはさっと串を取り出すと、器用に酢に浸かっているゆで卵に刺していった。
酢のような粘度のある液体の中にあるゆで卵を串で刺すのは難しいと思うのだが。次々と準備していく。
「はい、どうぞ。よく漬かっていて美味しいですよ。ここ数日昼までには売り切れる自慢の商品です」
「ありがとう。まずは食べようか」
串に刺さったゆで卵は表面が薄っすら黄色くなっている。
酢に浸かっていたからだろう。
匂いは当然酢のツーンとする匂いだ。
まずは一口齧ってみる。
白身は柔らかく、黄身はよく火が通っていた。
酢のおかげか思ったより喉も乾かない。
淡白なゆで卵に酸味のある味わいは結構いける。
パンに挟んでもいいかもしれない。
酢漬けといえばニシンなどの小魚か野菜のピクルスくらいしか食べたことはないが、中々美味いな。
健康にもいいと聞いたことがある。
アズとエルザも美味しく食べているようだ。
その中でただ一人ゆで卵と険しい顔でにらめっこしている人物がいた。
ティアニス王女だ。
ゆっくりと口に近づけては酢の匂いで顔をしかめて遠ざけている。
どうやら王女殿下は酢漬けが好きではないようだ。
年齢を考えたらそれほど不思議ではない。
独特の匂いと味に馴染めないのだろう。
奴隷になる前は悲惨な食生活を送っていたアズと粗食を主とするエルザに対して、食うに困ったことなど一度もないだろうティアニス王女。
きっと食べ物も新鮮なものばかりで保存のために酢漬けにされたものなど口にしたこともないのではないか。
だが、これから民衆の味方にならんとする人物がその人たちの食べ物もろくに知らないのでは話にならない。
寄りそうには理解が必要なのだ。
理解なく寄り添うものを誰も歓迎しない。
「ねぇ、ヨハネ……これ」
「きちんと食べて下さい。これは朝食として多くの人が口にするものです。その意味は分かりますね」
「うぅ、分かった」
ティアニス王女は意を決し、ゆで卵にかぶりついた。
三分の一ほどが口の中におさまり、ギュッと目をつぶりながら食べている。
だがその表情は次第に和らいでいった。
「これ結構おいしいじゃない!」
「ありがとうございます!」
アンが笑顔でお礼を言った。
気に入ったのかティアニス王女はお代わりまでして二個食べる。
勢いよく食べて喉を詰まらせそうになったので水筒のお茶を渡して飲ませる。
そうしてすぐにゆで卵はなくなって容器はつけていた酢だけになった。
「余った酢はどうするんだ? 捨てるのかい」
「いいえ、そんな勿体ないことはしません。残ったお酢は掃除用に専門の人がまとめて買ってくれます」
「ほう。酢で掃除か」
「鏡なんかピカピカになりますよ」
「そうなの? 私の部屋の鏡は最近曇ってきていて気になってたんだけど」
「それは大変ですよ! 少しだけお分けするので持っていきますか?」
「貰おうかな……」
たしかに酢は汚れを溶かすと聞いたことがある。
掃除のためだけに酢を買うと割高だが、こうして使用済みのを再利用する分にはいいかもしれない。
酢漬けの保存食は冒険者が味の変化を求めて買っていくことも多いから、うちでも扱っているのだがもう少し規模を増やしてもいいかもしれない。
そうすれば保存食を売り切った後にそれなりの酢が手元に残る。
そして今帝国産の鏡は高品質で人気がある。
最近は量産が進んだのか値段も安くなってきて裕福な家庭なら一枚は置いてあることも多い。
鏡の掃除ができると銘打っていけば市場開拓もできそうだ。
おっと、頭で算盤を弾き始めてしまった。
今は別の用事で来ているんだ。
「それじゃあ時間を少し貰おうかな。アンの叔父さんに話を聞かせて欲しいんだ」
「では付いてきてください」
「じゃあ屋台を押すの手伝いますね」
「そんな、悪いですよ……って凄い力!」
年齢の近いアンとアズがはしゃいでいる。
そんな二人について行きながら移動した先は市場の近くにある住宅街だった。
この辺りは市場関係者が住んでいるエリアで大きな倉庫が併設されている家ばかりだ。
というか家よりも倉庫の方が大きいし多い。
独特な景観といえる。
隕石による被害はあるようだが、倉庫だけは真っ先に修繕されており家よりも大切に扱っているようだ。
ヨハネも同じ立場ならそうするだろう。
倉庫が彼らにとっての商売道具なのだ。
「こっちです。おじさんに聞いてくるので少し待ってくださいね」
案内された先は他に比べて少し小さめの家だ。
屋台を倉庫に戻し、アンは家の中に入っていった。
倉庫の中はきちんと整理されており、奇麗に掃除されていた。
こういう部分がちゃんとしているのは感心する。
「おじさんは構わないそうです。中に入って下さい」
「じゃあお邪魔します」
家主の許可を得て家に入る。
今では少年がナッツ類を袋からザルに移し替えていた。
外見をチェックしてから入れ物に流し込んでいる。
これから売りに行く準備をしているんだろう。
少年はこっちを見ると会釈だけですぐに仕事に戻った。
「ごめんなさい、弟は愛想が悪くて。でも真面目ないい子なんですよ」
「仕事ぶりを見れば分かるよ」
寡黙だが手を抜いている様子はなかった。
うちで雇いたいくらいだ。
途中でアンは台所でバケツに水を入れ、タオルと共に持っていく。
奥の部屋を開けると、一人の男がベッドに横になっていた。
まるで熊のようなどっしりとした男で、親方という言葉がよく似合う。
包帯を巻かれていた右足だけ少し高くなるようにしており、かなり弱っているように見えた。
「おじさん、この人たちがおじさんの話を聞きたいって。まずは包帯とタオルを変えるね」
「これはどうも。少し話すくらいならできますよ。すまないな……アン。お前も大変なのに」
「気にしないで。おじさんの家に置いてもらって助かってるよ」
アンは嫌な顔一つせずテキパキと男の世話をする。
血と体液で汚れた包帯もあっという間にはずした。
かなりひどい傷だ。これでは下手するともう歩けないかもしれない。
ティアニス王女はそれを見て少し青ざめてしまい、背中を支える。
無理もない。
アンが新しい包帯を手に持ったところでエルザが止めた。
「私の出番ですね。こういう時のために癒しの奇跡はあるんです」
エルザはそっと男の患部に手を添え、祈りを捧げる。
すると瞬く間に酷かった傷が癒えていく。
ある程度治療が進んだあたりでエルザは手を止めた。
治療前に比べれば雲泥の差だ。
「体力が落ちていますから、ひとまずこれで。しばらくすれば歩けるようになりますよ」
エルザはアンから包帯を受け取り、慣れた手つきで巻いていった。
相変わらず見事な腕だ。
ティアニス王女も感心している。
「司祭様、ありがとうございます! 何とお礼を言えばいいか。そうだ、お代を」
「いえ、気にしないでください。信仰あるものが神から奇跡を与えられるのは、その奇跡を人のために役立てるためですから。ただそうですね……お話を聞かせてもらってもいいですか?」
「ええ、もうなんなりと」
男は傷が治ったことに感動しているようだった。
アンもあまりの変化に驚いている。
ヨハネたちは見慣れていたから気にしなかったが、本来の癒しの奇跡では深手だった男の傷の治療が難しい。
すでにアンが連れてきた司祭に治療を受けてあの状態だったのだ。
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