第92話 たかが、金だ
領主の息子であるアバウスが言った金貨2万枚。
奇しくもそれは、主人の奴隷を除く全財産だった。
店も土地も現金も仕掛金までも合わせた額だ。
狙って言ったのか、あるいは本当に銅像に2万枚をつぎ込んだのか。
それともただ適当に言ったのか。
突きつけられた剣を主人は見る。
首筋にピタリと添えられており、神殿騎士であるエヴリスが力を入れれば即座に首が飛ぶだろう。
広場は、冒険者達と神殿騎士達との間で一触即発の空気が漂っていたが、主人が剣を突きつけられていることにより今は抑制されていた。
アバウスは主人の答えなど分かっている、という風にニヤついている。
「聞きたくない、やだやだやだ……」
アズは耳を塞ごうとしているが、エルザが肩を掴んでいるせいで身じろぎも出来ない。
アズは主人が奴隷の首を差し出して金を選ぶと思っているようだった。
エルザはただ静かにこっちを見ている。
相変わらず、何を考えているのか分からない。
アレクシアは戦斧を握って主人に抗えと視線を送っていた。
主人は今、たった1秒が無限に感じられる。
金。彼にとって金は大切だった。
命の次に大事だと言って憚らなかった。
金で幸福を買う事は出来ないが、不幸を防ぐことが出来ると固く信じていた。
金を稼ぎ続ける限り、多くの困難が解決できると。
大怪我が元で亡くなった父親はもっといい治療が受けられた筈だし、母親は苦労で命を縮めずに済んだ。
今の道具屋がそれなりに儲かるようになったのは彼の代からだ。
両親の代の頃は良心的すぎる価格でやっており、清貧が過ぎていた。
奴隷はまた買えばいい。
金貨2万枚を失えば取り返しのつかない損失だが、奴隷はまた手に入る。
商人として考えがそう囁いた。
しかし、その声はすぐに消える。
アズ達を選ばなければ、彼女たちは永遠に失われる。
もはや、彼女たちが居ない日々など主人には考えられない。
アズが最初に家に来た日を今でも彼はすぐに思い出せる。
弱々しかった少女が、彼の元で成長しているのを見るのはただ楽しかったと感じた。
「お前達は俺から命の次に大事な金を奪って」
感情が先走り、主人の口から思わず言葉が出る。
「今度は俺の命より大事な奴隷を奪おうっていうのか? ふざけるな」
首筋に添えられた剣が、主人の皮膚を裂いて血が垂れる。
「たかが、金だ。金が欲しいならやるよ。こいつ等は渡さない」
金はまた稼げばいい。
どの金貨も金貨だ。
奴隷は、例え買いなおしてもアズではない。エルザでもない。アレクシアでもない。
だから後悔はない。
「そうかそうか。随分色ボケしておるのだな。確かに見た目は良い。ならお前を殺して金を奪い、奴隷も貰おう」
アバウスがそう言った瞬間、エヴリスが力を込めた。
主人の体が絶体絶命の瞬間を予期してこわばる。
だが、主人の首は無事だった。
代わりに、エヴリスの右腕が鮮血をばら撒きながら空を舞う。
「ンンンンンンン!?」
エヴリスが左手で右腕を抑え、座り込んだ。
そして、いつの間にかエルザの拘束を解き、剣をただ振り上げることでエヴリスの右腕を斬ったアズを見る。
「神殿騎士である私の右腕を鎧ごと……この小娘」
エヴリスはそこまで言って、絶句した。
アズの顔を見た瞬間、エヴリスは言葉が出なかったのだ。
アズの顔は、無表情だった。
しかし、両目から涙が溢れていたのだ。
「奴隷め! 私に逆らうとどうなるかを教えてやる!」
「ご主人様を傷つけるなら、殺します」
「な、なに……」
アバウスの恐喝に、アズは間髪入れずに返答した。
その言葉に感情は無い。
アバウスはアズの目から視線を逸らした。
アズの言葉が余りにも本気だった故に。
「ンンンンンン! ここにいる全員を相手にするとでも」
「はい」
「我々は太陽神教の神殿騎士。我々を殺せば追手が」
「その人たちも殺します。誰も追ってこなくなるまで殺します」
「……ンン」
エヴリスが斬られた右腕を左手で掴みながら、アズから距離をとる。
「私が全員殺せなくても、ずっと抗ってご主人様が逃げる時間を稼ぎます。私が死ぬまで1人でも多く道連れにして」
それは脅しではなく、アズは本気でそう言っていた。
初めてアズは心が満ちるという意味を感じている。
主人が自分を選んでくれたのだという感覚が、アズの体に力を与える。
守るように、主人の前に立った。
「アズ……」
アズの右目の虹彩が、蒼から虹へ変わる。
封剣グルンガウスが魔力を纏う。
「アズちゃん……使徒の器が感情に反応したのね。思ったより早い」
エルザは弾かれた手を癒しながらそう言った。
アズ一人を相手に、神殿騎士達は後ずさる。
エヴリスは右腕を治療しながらアズを見定めていた。
夜が明け始め、太陽が姿を現そうとしていた。
「エヴリス、たかが小娘一人に何をしている! このままでは舐められるぞ!」
アバウスがエヴリスにそう吐き捨て、自ら剣を持ってアズへと構える。
アズは躊躇なく領主の息子であるアバウスへ剣を向けた。
今のアズにとって、主人以外に優先するものは無い。
アズが一歩進む。
アバウスは一歩下がった。
アズが更に一歩進むと、アバウスが二歩下がる。
冒険者達も皆、武器を構えた。
街の住民と領主側との拮抗が崩れはじめていた。
アレクシアが戦斧を握り、神殿騎士に睨みを利かせている。
下がり続けるアバウスの足元には顔を失った銅像が倒れ込んでいた。
アバウスは銅像に足を取られ、倒れ込む。
すると、今まで動かなかった銅像の右腕が突然アバウスを掴んだ。
「な、なんだ? ひぃ」
銅像は彼を潰して、その血を浴び始めた。
銅像が再び立ち上がる。
顔のあった部分に青い炎が現れた。
炎は人の顔を模していく。
「贄が得られなんだ。忌々しい。創世王の子ら」
掠れた声でそう言った。
「アズちゃん、斬って!」
エルザの叫びと共に、アズが銅像を斬る。
真っ二つになった銅像は、頭の火を失い再び倒れ込んだ。
アバウスはどう見ても即死だ。
エヴリスはアバウスの死体を脇目に、剣を握り後ずさる。
だが、そこで足が止まった。
街の外には王国の旗が掲げられている。
徴税官の一団が街に到着したのだ。
「ンンンン、ここまで。退くぞ」
神殿騎士達は空に合図を打ち上げると、一斉に逃亡した。
同時にアズが倒れ込む。
主人はアズを急いで抱きかかえた。
気を失っている。右目は元に戻っていた。
エルザがそっとアズに癒しを施す。
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