日々の徒然

今村広樹

本編

 わたしの母が犬を飼うきっかけは、父が亡くなった淋しさだったという。

 飼った犬がいわゆる大型犬だったので、わたしが犬の世話を担当することになったのだが、そのうち、わたしはせきや鼻づまりに悩まされるようになる。

 耳鼻科の医者に相談すると

「ああ、犬アレルギーですね」

 と、言われた。

 しかし、母は老い、エサをやるくらいしか出来ないという。

 そんなわけで、わたしは苦しみながら、犬の世話をしている。 それにしても、動物というのは本当に不思議なものだなあと思う。

 犬も猫も、飼い主にはとてもよく懐くし、人なつっこい顔をして寄ってくるのだけど、いざこちらが離れようとすると、急に悲しげな顔になって、行かないでくれと言うように引き留めるのだもの……。 猫好きの友人から聞いた話だが、彼女が野良猫を可愛がり、餌をやっていたら、ある晩その猫が自分のベッドにもぐりこんできて、彼女の体をよじ登りはじめ、ついに肩の上にまで登ってきたそうだ。 そして彼女は夜通し寝られないまま苦しんだそうである。 そういえば、子供の頃、近所の子猫を飼っていたおばさんの家に行った時、「遊んであげてね」と言われてその子猫を抱いた途端、その子猫はわたしの顔中をなめ回しはじめたことがある。

 その時はその感触がくすぐったくて面白かったけれど、今にして思えばあの子は遊びたいのではなく、母乳を求めて甘えていたのかもしれない…… などと想像する。

 人間以外の生き物って、人間が大好きなのだ。

 また、犬の場合、愛情を示す方法として、主人の足下にお腹を見せてゴロンゴロン転がったり、尻尾を振り回したり、まとわりついたりする。 愛しているということを全身で表現しているわけだ。

 ところが、我が家の飼い犬の場合はどうだろう? 彼は決してそんなことはしない。 彼の愛情の表現方法はただ一つ、それは、わたしのお尻を噛むことである。

 これはもう、ほとんど虐待である。

 しかし、噛み方にはちゃんとした法則があるようで、わたしが何かしようとすると必ずと言っていいほど邪魔をする。 例えば、台所に立って夕飯の準備をはじめると、何度言ってもすっ飛んできて、わたしのズボンを脱がせようとする(ズボンなんて脱いでしまったらパンツ一枚になってしまうではないか! )。

 ある時など、新聞を読んでいたところへ彼が来て、今度はわたしの上着に手をかけてきたので、わたしは彼の頭をポカっと殴ってしまった。 すると、この犬はたちまちシュンとして、その場で丸くなって動かなくなってしまった。

 こんな調子なので、彼には時々イラっとさせられることもあるけど、憎めない奴ではある。 ところで、昨日テレビを見ている時に気がついたことなんだけど、以前に比べて人間の体臭が薄くなってきているような気がした。 以前は男性でも女性でも、部屋に入った瞬間に「うわー!」と叫びたくなるほどの強烈な匂いを発していることがあったが、最近はそういうことが少なくなったと思う。 もちろん、加齢による臭いの変化もあるとは思うが、それだけではないような気がする。 おそらく、家族の中で一番元気なのはうちの父だと思うが、父は毎日ゴルフの練習に出かけているし、仕事が終わった後にジムに通ったりしているらしい。 きっとそのせいもあるんじゃないかしらと思っている。

 そういえば、友人の一人が言っていたのだが、昔に比べると最近の若い女の子からは体臭がほとんどなくなったという。 その理由は、化粧品や石鹸などの化学製品が発達してきて、それで洗えばきれいになるということを覚えたからだという。 確かにそうかもしれないなあと納得してしまう。 ところで話は変わるが、最近、わたしは料理を作る際にハーブを使うようになった。 といっても、それほど大層なものじゃない。 ニンニクを切った後に出るスライス・ガーリックを使って炒め物を作ったりとかね。 それくらいなら誰だってやってると思うし、みなさんもよくご存知のことと思う。 そこでわたしは先週あたりから、ミントの葉っぱを使うことにしたのである。

 実はこれも結構面倒な作業だったりする。 まず、スーパーに行って必要な葉を見つけなくてはならない。 たいていはパック詰めされているものを買えばよいが、たまに生のものしかない時があって困ることもある。 それでもなければないで別にかまわないのだが、やはりある方が心強い。 それから、それを刻まなきゃならないわけだが、これが大変なのだ。 手でちぎればいいじゃないかと思われるかもしれないが、それがなかなかうまくいかない。 指先でつまんで茎の部分を持って引っ張ろうとすると、葉は簡単に千切れてしまう。 ところが、包丁で切ろうとしても、刃が滑りやすくて、すぐにボロボロになってしまうのだ。 結局、苦労して一束分を切り取った頃には手が痛くなっている。 そして、いざ使おうとする時にはすっかり乾燥してしまって使い物にならなかったりするのだ。

 しかし、わたしもそうそう諦めたりはしない。 今回は手を変え品を変えて挑戦してみた。 その結果わかったことは、ある一つの切り方をマスターすれば他のやり方は不要だということだ。 つまり、わたしが選んだ方法は、切る前にあらかじめ水に浸しておくという方法なのである。 そうすることで、葉の水分が刃物に付着して、切れないはずのものが切れるようになるのだ。 こうすることによって、今まで何時間もかかっていた作業が数分で終わってしまう。 ただ、これはあくまでも一時凌ぎの方法であって、いずれまた同じ問題に突き当たることになるのだけど……。

 それにしても、この年になって新たな発見をすることになるとは思わなかった。 というのも、わたしにとっての「食」というのは、栄養補給のためだけにあるからだ。 だから、食事の時間が苦痛で仕方なかった。 しかし、今は違う。 どんな食べ物にもそれぞれ美味しい部分があり、そして、そこにはその食材を作り上げるための工夫があるんだなあと思うようになってきた。

「おいしいものを食べるということは、幸せになることなんだなぁ……」

 わたしは今、しみじみそう思っている。

 もうすぐ桜の季節がやって来る。 日本の四季の中で春が一番好きだ。 特に、花が咲く直前の風景が好き。

 何故なのか? 理由はいくつかあるけれど、その中でも一番大きなものは、「命の始まりと終わりを感じることができるから」だろう。

 例えば、公園の花壇。 チューリップが咲き始めると、「ああ、これから新しい生命が誕生するのか」と感慨深くなる。 また、梅の木の下を通ると、木そのものにはなんの力もないはずなのに、何故か気持ちが安らぐ。

 また、春の風に乗ってやってくる香りを嗅いでいると、不思議なことに胸の奥がきゅんとなる。 それはまるで、自分の中の何かが目覚めるような感覚。 もし、自分が死んだ後に誰かが自分のことを思い出してくれるとしたら、その相手は、やっぱり自分と同じ植物を愛する人が良い。 例えば、タンポポとか、シロツメクサみたいな可憐な草花のそばで死にたいと思う。

 人は生まれてきた瞬間から死に向かって歩きはじめる。 でも、死んでしまった後も、きっと自分はどこかで生まれ変わるような気がする。 その時に、もしも生まれ変わった場所があの世ではなく、別の世界だったらどうしよう? そこでは、自分は人間として生まれてこられるだろうか。 それとも、もっと違った生き物に生まれ変わってくるのだろうか。 いや、そもそもそんなことって有り得るのかな。

 でも、仮にそうだとしても、わたしは決して後悔したりしないと思う。 だって、人間は生きている間にしか生きられないし、死ぬ時になって「あれがやりたかった」「これがしたかった」なんて思っても、もう遅いわけだしね。 さて、今日は何を食べようか……

 最近、よく思うことがある。

「どうして、こんなに沢山お店があるのに、どこもかしこも同じようなものばかり売っているんだろう?」

 少し前までは、コンビニやスーパーで売られている食品を見ているだけでうんざりしていた。 それが今では、毎日のようにあちこちのお店で買い物をしている。 別に食べたいと思えるような味のものがあるわけではない。 でも、見慣れたパッケージを見ると、つい買ってしまう。 これは一体どういう心理状態なのだろうと不思議になる。 もちろん、わたしだって時には冒険したいと思うこともある。

 以前、都会に行った時に食べたラーメンはとてもおいしかった。 その時は、たまたま行った店が当たりだっただけだと思っていたが、今考えてみると、実は他にも何軒か行ってみたいと思った店があった。 だけど、わたしはなぜかそういう気になれなかった。 いつも同じところで買い物をして、同じところで食事をする。 そういう生活にすっかり馴染んでしまっていた。 ところが、ここにきて心境の変化が訪れた。 いつの間にか、近所にある小さなスーパーへ足を運ぶことが楽しみになっていたのだ。 そこは、確かにどこにでもある普通のスーパーマーケットなのだけど、そこに行くと、心が落ち着く自分に気づいた。 別に珍しい商品が並んでいるわけでもない。 値段が高いものも安いものもある。 しかし、わたしにとっては、それが全てであり、それで充分満足できた。

 また、時々ふっと「あそこで買ったパンを車の中で食べるのも悪くないな」などと考えてしまうこともあったりする。

 要は、わたしは自分の知っている範囲内でしか行動できないということだろう。 それは、多分誰しもが持っていることではあるけれど、わたしの場合はちょっと極端すぎるのだ。

 しかし、こうして考えると、わたしは本当に狭い世界で生きていたんだと改めて実感してしまう。

 今のわたしは、この限られた空間で一生を終えるつもりはない。 もっともっと広い世界に飛び出していって、もっと色々なことを知り、そして、いろんな経験を積んでいきたいと思っている。

 でも、いくらそう願っていても、現実問題としてはなかなか難しいことだ。

 結局のところ、わたしはわたし自身から逃れることはできないし、わたし以外のものに変身することも出来ないのだ。

 だから、せめてこの限られた時間を有意義なものにしていこうと思う。そうすれば、いつかまた違う形でわたしの前に道が開けるかもしれないから……。

 わたしは最近、近所の公園でよく散歩をする。

 家の周りは割と緑が多くて、空気がとても澄んでいる。

 特に冬の間は、葉っぱがすっかり落ちてしまって寂しくなっていた公園の木々たちも、ようやく少しずつ芽吹きはじめたようだ。

 朝、犬の散歩をしながら外を歩いていると、時折顔を出し始めた桜の木を見かけることがある。

 それは、まだ五分咲き程度なので、満開になった時の光景を思い浮かべることは難しいのだが、それでもわたしは密かにその瞬間が待ち遠しいと思ってしまう。

 そして、それと同時に不安にもなる。

 何故なら、桜の花が咲いて散っていくまでの時間は、あまりにも短いからだ。

 どんなに長く生きていても、一瞬で過ぎ去っていく時間というものは存在する。

 そして、その時間の長さは、年齢を重ねるごとに短くなっていくものだ。

 つまり、これから先ずっと何十年も生きることができたとしても、その間に感じることができる「感動」の数は限られているということを意味している。

 だからこそ、わたしはその貴重な体験を出来るだけ多くの人と共有していけたらいいなと思う。

 わたしの遠い親戚は会うたびに、よく訳知り顔でこんなことを言っていた。

「人生とは、自分の生まれた場所から始まるのではなく、自分が育った場所で終わりを迎えるものなんだ。もし、その場所でやりたいことや成し遂げたいことが出来たら、それは素晴らしいことだと思うよ。でも、その夢が叶うかどうかは別だ。たとえ、その目標が達成できなくても、それまでの過程こそが大切なんだよ。そうやって、人生の歩みを進めていくことによって人は成長していくのさ……」

 わたしはこの人の言葉の意味がよくわからなかった。

 でも、今になってその意味がなんとなくわかるような気がする。

 わたしにとっての人生とは、生まれた瞬間から始まったものだった。

 しかし、今までの自分を振り返ると、そこにはただ単に「生きてきた」という事実しかない。

 もちろん、たくさんの人に出会って、いろんなことを学びながら育ってきたわけだが、わたしにはそのことを誰かに語る資格がないと思う。

 何故ならば、わたしがこれまで行なってきたことは、所詮その場しのぎのことに過ぎなかった。

 本当は、もっときちんとした生き方をしたかったはずなのに、それが出来なかったのである。

 だけど、わたしは自分の歩んできた道を後悔していない。

 むしろ、「これでよかったんだ」と思っている。

 何故かと言うと、わたしはわたしなりのやり方で精一杯生きたと思うからだ。

 こうしてつらつらと書いているうちに、最後に、母が言ってたことを思い出す。

 コロナ前に回転寿司に行ったときの話。

 ガヤガヤとごった返す店内で、母とわたしは黙ってモシャモシャ食べている。しばらくして、母はしんみり呟いた。

「ほんと、いつまでも、こういうときが続いていくといいわね」

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