星を食む

浅緋 アル

星を食む

 放課後、定期テストの三日目。

 僕は家や塾で勉強をするわけでもなく、友人を誘って遊びに出かけるわけでもなく、駄菓子屋の薄く柔らかいビニール袋を片手に一人で公園のベンチに座っていた。袋の中には、手のひらほどの大きさの瓶がひとつ。中には色とりどりの“星”が詰められている。

 君は、星を食べたことがあるだろうか。

 僕は幼い頃、小学校のグラウンドで、天使に貰った星を食べた。


 小学校の体験入学__僕が通っていたのは地元の公立の学校だったから、入学前の説明会と健康診断を兼ねたものだったと思う__が終わった後、子供たちはグラウンドの周りの遊具で思い思いに遊んでいた。どちらかと言えば内向的な子供だった僕は途中で仲間内の遊びについていけなくなり、母親と約束した時間までひとり砂場にしゃがんでいた。

 「ねえ。何かいてるの?」

 突然、頭上が暗くなり、声が降ってくる。驚いて顔を上げると、小学校高学年くらいの女の子が手元を覗き込んでいた。

 「なにも、かいてないけど」

 実際、枯れ枝で砂をいじっているだけで何を書いているというわけでもなかった。


 夕暮れを背にした彼女のふわふわしたやわらかな髪は夏の太陽のような金色と、こちらを見つめる色素の薄い淡い瞳は、今まで見たことのない色をしていた。

 「……天使みたい」

 目を奪われるとはこのことか、など、就学前の子供は思わなかったけれど、今思い返せばきっとそうに違いないと思う。

 「てんし?……天使、ふふ。そうだよ。私は天使なの。」

 彼女は内緒だよといたずらっ子のような顔で笑うと、おもむろに手提げかばんから小瓶を取り出す。

 「それ、なに?」

 「知らないの?甘くておいしいんだよ。」

 ほら、食べてごらんと僕の手のひらに何粒か転がす。淡くて優しい色合いのピンクや黄色や水色の、角の取れたウニみたいな形をした小さいビーズみたいな物だった。

 「……学校にお菓子持ってきちゃだめなんだよ。」

 「む、天使だからいーの。」

 「だって、遠足じゃないときはだめだって、先生言ってたもん」

 天使はうーん、としばらく悩んでから、真面目な顔になりこう言った。

 「……そうだね、仕方ないから教えてあげる。これはね、星なの。」

 「星?」

 「そう、星。だからこれは、お菓子じゃないの。」

 「星って食べられるの?」

 「……そうだよ。ほら、食べてみて。」

 天使も手のひらに一粒“星”を落として、口に入れる。僕も恐る恐る口に運ぶと、優しい甘さが口いっぱいに広がった。

 「すごい!甘いね、星って、甘いんだ!」

 幼少期にあまり市販のお菓子を買い与えられなかった僕は、子供の世界の常識のようなものを知らなくて、そして素直すぎたのだ。天使はくすくすと笑うと、

 「おいしいでしょ。でもね、これは誰にも内緒だよ。ね、小指出して」

 約束を破ると針を千本飲むだなんて物騒な誓いをしたところで、スピーカーから夕方のチャイムが流れる。歌詞の通りに日が暮れて、カラスが鳴いていた。時計に目をやると短い針は「5」を指している。午後五時。母と約束した時間だ。グラウンドを挟んだ向こう側、来年も1年生が使うことになっている靴箱の前で母がほほえましそうにこちらを見て、手を振っている。

 「またね」と言って別れたけれど、僕はそれきり天使に会っていない。


 それから十年。

 僕は、日本語を話す人が皆カラスのように黒い髪と瞳を持っているとは限らないことも、コーラは骨を溶かさないことも、あの星と呼ばれた甘いものが金平糖という名前の一般的に出回っている砂糖菓子だということも知っている。

 そして、天使を名乗ったあの女の子との「また」はきっとないことも分かっていた。

 いたずらっ子のように笑う表情と、きらきら輝く色素の薄い瞳と、陽の光そのもののような色をしたやわらかな髪。天使のような女の子。印象ばかり鮮明だけれど、きっと記憶は補正されているし、もし仮に再会したとして十年前に一度だけ会った人に気付けるだろうか。それでも時折、障子紙を挟んだくらいぼんやりとした輪郭の天使を思い出しては懐かしい気持ちになっていた。


 夕方の五時。人気のない運動公園の防災無線からゆうやけこやけのメロディーが流れ始める。

 僕はまた一つ、金平糖を口に運ぶ。甘い。そういえば“星”が金平糖だと知ってすぐの僕は、毎日でも食べたがったものだけど、ただの砂糖の塊のようなものなのに、あの頃はどうしてあんなにも美味しく思えたのだろうか。

 そんなことを考えていると、後ろの方からキイィ、と音がする。ところどころ錆びた古いフェンスの扉が開く音だ。無意識的に音のなる方を見ると、大型犬を連れた大学生くらいの女性が入ってくるところだった。「こんにちは」と軽く頭を下げ笑う彼女に、僕も会釈を返す。

 そろそろ帰るか、と立ち上がろうとした時、ざらざらざら、と音を立てて蓋を閉め忘れた瓶から金平糖がこぼれ落ちていく。決して大きな音ではなかったはずだけれど、運悪く丁度鳴り終わった夕方のチャイムの後の静寂に包まれたこの空間では音が響いているかのようにさえ感じられた。少し離れたところで、わう、わう、と犬が鳴き、女性はこちらを見ていた。

 僕は小さくため息をつく。どうせこんな量食べきれやしないのに、天使の持っていた瓶を思い出して小さなプラカップではなくこちらを選んだ近い過去の自分を恨みつつ、そのままにしておくのは忍びなくて、地面にしゃがんでひとつひとつ、小さな砂糖の塊を指でつまんでは袋に入れる。

 「ね、大丈夫?」

 「あ……大丈夫です、すみません。」

 彼女は「手伝うよ」というなり、隣にしゃがんで、散らばった金平糖を拾い上げる。礼を言うと、気にしないでいいと微笑まれた。

 「懐かしいなあ、金平糖。大きい瓶なんて子供の頃の夢だよね。金平糖好きなの?」

 「いや、そういうわけじゃないんですけど。たまたま寄った駄菓子屋で見つけて、なんか懐かしくて。」

 「そっかそっか、たまに食べたくなるよね。……あ、こら。君は食べちゃダメ」

 窘められた犬は不満そうに鳴き声とも言えないような小さな声を出し、鼻先で少し遠くに転がった金平糖をつつくだけに留めた。彼女はいい子、と頭をなでていて、そこで会話は途切れた。

 「あの、」

 あらかた拾い終わっただろうかというところで、僕は何を思ったか口を開く。

 「星を食べたことって、ありますか。」

 「え?今なんて……」

 「……すみません。今の、忘れてください。」

 改めて礼を言うわけでもなく、何故かそう問うてしまった。試験前の一夜漬けで頭が働いていないのだろうか。どう言い訳をしようかと必死に考えていると、彼女は慌てて首を振る。

 「あ、違うの!そうじゃなくてね、丁度考えてたことに似てたから、びっくりしちゃって。星を食べるって、どういうこと?」

 「……笑わないで聞いてくれますか?」

 それから僕は話をした。瓶入りの金平糖が懐かしくて買ったけど、本当はもっと小さい瓶のものを探していたけどなかったこと。瓶に残った残りも食べきれない気がすること、そして、十年前に小学校のグラウンドで“星”をくれた天使のこと。彼女は、うんうん、と聞いてくれたが、最後の方につれて相槌の声は小さくなっていった。十年間律儀に約束を守って誰にもあの天使の話をしたことがなかったから、余計に僕は不安になった。引かれてはいないだろうか。きっと初めて会った知らない人の変な話なんてさほど気にしないものなのかもしれないけれど、それでも僕は少しの沈黙が怖かった。

 少し間をおいて、彼女は気まずそうに言う。

 「それ、私だ……。」

 「え!?マジ!?そんなこと……」

 予想もしなかった発言に驚き、勢いよく顔を上げ、はじめてちゃんと彼女を見る。目の色は夕焼けに逆光になっていてよく見えなかったけれど確かに明るく見えたし、彼女のふわふわとした猫毛も、大学生ならきっと髪を明るい茶色に染めているんだろうと思って気にしていなかったけれど、夕日に透かすと金色のようにも見える。

 「ほ、ほんとうに?」

 「私、金髪じゃないけど。流石にそんな嘘つかないよ。」

 「たしかに……。」

 「まさか覚えてるなんて思わなかった、私もさっきまですっかり忘れてたし。あの時は嘘ついてごめんね。お菓子持ってきてるってバレたら怒られると思って咄嗟に言っちゃってさ。きっと嘘だー!って言われると思ったのに、今みたいにたしかに……って納得しちゃうんだもん。これは金平糖っていうお菓子で、私は普通の人間なの。」

 「それは知ってます。もう僕、高校生だし」

 「そっかそっか、知ってるかぁ」

 “天使”は笑いながら「知ってたんだってーよかったねぇ、」なんて言いながら犬をなでる。


 「ねえ、天使さん。」

 「ふふ、なぁに?」

 「今も金平糖、好きなんですか?」

 「こんぺいとう?“星”、でしょ?……なんて。今も好きだよ、たまに食べてる。」

 「あはは、そうだった。それなら、これ……残りの“星”貰ってくれませんか?」

 「いいの?」

 「甘くて、こんなにたくさんは食べきれないから。」

 「そっかそっか、じゃあ貰おうかな。」

 「ありがとうございます。落とした分、減ったけど……」

 「いいの。こっちがありがとうだし……あ、でも。」

 “天使”はふふ、と笑って、続けた。

 「私、そろそろ帰らなきゃいけないんだけど、その前にさ。もう一度いっしょに“星”を食べてよ。」

 その笑顔は朧げな記憶の中の天使のように、いたずらっ子のようだった。

 僕は頷いて、金平糖を一粒手のひらに出して、残りを瓶ごと彼女に渡す。

 誰かと食べると味が変わるなんて魔法はなくて、噛むと変わらず砂糖の甘みが口に広がる。

 「……“星”、甘いね。」

 「そうだね。」

 僕の顔がよほどおかしかったのか、そう言うなり“天使”はけらけらと笑った。

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