夢を引き寄せた男
石花うめ
俺は全てを手に入れた
まるで飢えた獣みたいだ。
人混みの中を歩く俺は、寒さに凍える自分を客観視して、そう思った。
新宿の街は、刺激的な物や人で溢れている。
ショーウインドウには、ゼロがいくつ並ぶか分からないブランド品。
目の前には弾力の良さそうな生脚の女の子が大勢歩いている。
特大ビジョンに映るのは、いつもSNSで見る身近な存在でありエンタメ日本代表でもある、
そのどれもが目の前にあるように見えて、実際は遠くて手が届かない。
ブランド品を買うことも、生脚の女子と一発やることも、アイドルと結婚することも、年収三百万円で独身の俺には叶えられない。
欲しいと思っても手に入らないものばかり。それなのに、すぐ近くで誘惑してくるわけだから、手に入れることを夢見ずにはいられない。
その全てを自分のものにしたいという、満たされることのない欲は、常に俺の中で暴発寸前まで膨らんでいる。それをどうにか飼い馴らして、まともな顔をして歩いている。
誘惑の多いこの街は、俺が歩くには刺激が多すぎる。
金とかコネとか、何か一つでも俺に武器があれば、欲しい物を何でも手に入れられて幸せになれるのに。
しかし、社会のほんの小さな歯車の一部でしかない俺には、武器を手に入れるチャンスすら訪れない。
どうせ世の中は弱肉強食だ。
自分の欲を満たすことすら、強者にしか許されていない。
新宿駅東口の右側。飲み屋街である思い出横丁へと抜ける高架下を歩く。
目の前には腕を絡ませた男女が、肩を寄せ合って歩いている。俺の進む道を遮っているみたいだ。
他人の幸せそうな姿ほど鬱陶しいものはない。別れちまえばいいのにと思う。
その横ではホームレスと思しき不潔な男が、段ボールの上に座り込んでいる。
伸びっぱなしの白髪に、黒く濁った肌。目の前にはワンカップ焼酎の空き瓶が何個も転がっている。救いようがなさそうな老人だ。
薄汚れたジャンパーのポケットに手を突っ込み、恨みのこもったような目つきで、通り過ぎる人を眺めている。
カップルとホームレスの二つを見比べ、世の中の格差を思い知る。
社会という概念には、勝者と敗者が確かに存在している。
誰も惨めな思いはしたくないから、勝者になれなくても、敗者にはならないように生きている。
自分はどちら側だろうか──そう思いながら、俺はホームレスの前を通るとき、タバコを一箱投げてやった。
俺はお前には負けちゃいないという、意地のようなものだった。
結果的に偽善っぽいことをしてしまった。
自己嫌悪に陥りながら足早に立ち去ろうとする。
「おい」
後ろから声がした。喉に痰の塊がこびりついたような声だ。
振り返ると、さっきの不潔な男が俺を見ていた。俺は足を止めた。怒られるのかと思って身構えたが、彼は黄ばんだ歯を見せてニヤっと笑った。
不気味だが、なぜか気になる。
気付いたら俺は、彼の目の前に立っていた。
彼は一組の手袋を俺に差し出した。「これやるよ」
「ああ、大丈夫ですよ。手袋あるんで」
「そうじゃない。特別な手袋だ」
言うのと同時に、俺の右手首が掴まれる。抵抗しようとしたが、無理やり手袋をはめられてしまった。
「何すんだよ!」
「いいから!」彼が怒鳴り返す。「いいから、欲しいものを、頭の中に思い浮かべろ」
——何言ってるんだ、この爺さんは。それなら、さっき俺があげたタバコ返せよ。
ふと、右手に何か当たる感触があった。見ると、なんと俺はタバコを持っていた。爺さんが黙って俺の手に握らせたわけではない。俺は絶えず彼を睨みつけていたが、彼はタバコの箱に触れてすらいなかったのだ。まさに瞬間移動だった。
「驚いたかね?」彼は不気味に笑う。
「それは、引き寄せ手袋だ。自分が望んだ物を、文字通り、手中に収めることができる」
本当かよ、と疑う気持ちもある。しかし今、俺の右手が感じたのは、たしかに引力のような不思議な力だった。伸ばしたヨーヨーが戻ってくるように、気付いたらタバコの箱が手の中にあった。
いや、もしかしたら偶然かもしれない。このタバコは元々、俺の所有物だった。それが何かの拍子で元の位置に戻っただけかもしれない。他の人の所有物はさすがに無理だろう。
ちょうど、ブランド物のバッグを提げた女性が俺の横を通り過ぎた。
俺は咄嗟に、そのバッグが欲しいと頭の中で願った。
するとそのバッグは、最初から俺が持っていたかのように、俺の手に収まっていた。
——おいおい嘘だろ……?
右手から全身に広がる興奮を、なんとか押しとどめる。
冷静を装いながら、その女性を観察する。
彼女はカバンを失くしたことに気付いたらしく、辺りを見回し始めた。
すぐに俺と目が合った。窃盗扱いされたらどうしようかと焦りかけたが、彼女は俺のことなど気にも留めず、歩いて行ってしまった。
普通なら悲鳴をあげて警察に通報したり、俺に詰め寄ってバッグを取り返そうとしたりするものだと思うが、そんな素振りは一切なかった。
「その手袋で手に入れた物は、たとえ他人の物だったとしても、全て自分のものとなる。認めるとか、認めないとかではない。それが、当たり前の事実となる」
「何か条件とかあるのか? デメリットは? 値段は?」
俺は思わず矢継ぎ早に質問してしまった。
「値段は、タダでいい。条件は、引き寄せられるのは、自分が見ているものだけだ。空想の物や、遠く離れすぎている物は、引き寄せられない」
「なるほど」
「あとは、でめ……、デ、あれ? 何だっけか?」
「デメリット。この手袋を使うことで、俺が何か不利益を被る可能性はあるか? 例えば、使うたびに寿命が減るとか」
「ないない」爺さんは顔の前で手を振った。「条件に合うものなら、何でも引き寄せられる。制限は何もない」
「そうか。そういうことなら貰っておくよ」
そう言いながら、俺は笑いを堪えきれなかった。
こんな凄い手袋を何のデメリットも無く使えるのなら——爺さんが言っていることが全て真実だとして——なぜ爺さんはこの手袋を使わないんだろう。
俺が爺さんの立場なら、道行く人の財布を全て引き寄せて、こんな高架下での貧しいホームレス生活を卒業するのに。
爺さんは俺の考えを悟ったかのように「おれは、いいんだ」と言った。
「おれが欲しいのは、物じゃない。目に見えないものが、欲しいんだ」
それを聞いて俺は、余計に笑いそうになった。
貧しい人間ほど、そういう綺麗ごとを言うもんだ。そんなんだから、自分より強い立場の人間にいいように利用される。結局世の中は、物質的に恵まれているやつが勝つようにできているんだ。
しかし今は、素直にこの爺さんに感謝している。
「ありがとう、爺さん」
「うむ。達者でな」
爺さんから左手の手袋も貰い、両手が揃った。
俺は軽く頭を下げ、爺さんのところを後にした。
帰る道中、俺は通り過ぎる女のパンツを片っ端から引き寄せた。
低俗すぎる遊びだと自嘲してしまいそうになったが、魚釣りみたいで楽しかった。
パンツの回収にあたっては、さっきの女から引き寄せたブランドもののバッグが役に立った。突然ノーパンになった女たちの恥じらう表情がたまらなかった。
もちろん本来なら、こんなことは犯罪だ。
しかし今は、誰も俺を裁けない。
興奮が止まらない。楽しい。最高に楽しい。
続けて俺は、金持ちそうな人間とすれ違う度に財布を引き寄せた。
手持ちの現金は、あっという間に二十五万を超えた。死にそうな思いをして稼いでいた月収が、一瞬にして俺の手元に集まった。
今日は思い出横丁に飲みに行く予定だったが、高級焼肉店の
次の日、俺はまたしても新宿の街を歩いていた。
家を出るときは手ぶらだったが、気付いたら両腕にブランドもののバッグが何個もぶら下がっていて、首には輪投げをした後みたいにネックレスがいくつも掛かっていた。
ちなみに今日は平日だが、会社を休んだ。無駄な努力をしてまで金を稼ぐなんてアホらしい。帰ったら退職届を出そうと思っている。
今日新宿に来たのは、新しく購入するタワーマンションの目星をつけるためだ。金を手に入れた途端、いま住んでいる家賃五万円のアパートが手狭に感じるようになった。
それにしても新宿には、たくさんのタワマンがある。俺にとって野生のテーマパークみたいな存在だった新宿の街にも、家を構えている人間が大勢いたということだ。そんな当たり前のことを初めて知った。そして、これからは俺がそういう人間の仲間入りを果たすのだと思うと、無性に緊張してきた。
上を見て歩いていると、誰かに肩をぶつけられた。
振り返ると、股下の緩いズボンを履いたラッパー風の男が、俺を見て舌打ちした。
「よそ見してんじゃねえよ」
そいつは俺を睨みつけて怒鳴った。
そいつの隣には、ミニスカートを履き太腿を丸出しにした、如何にもバカそうな金髪ロングの女がくっついている。
女は男の靴を見て、「あ、靴汚れてるー。今のキモ男に汚されたんだ」なんて喚いている。それから俺の方を見ると、「え、なにこいつ。ブランドものたくさん持ってんのに、汚い手袋してんだけど。キモ」と言った。
女のスマホが俺の方を向き、シャッター音が鳴った。
女にいい所を見せようとしているのか、男は大股で俺に近付いてくる。
「お前、どうすんの? この靴高かったんだけど。オレ、ボクシングやってんだけどさー、喧嘩でもしたいわけ? おい、なんとか言えよ」
男の靴を見てみたが、もちろん汚れなんて付いていない。
以前の俺だったら、内心文句を言いながらも睨まれた瞬間に土下座して、泣きながら一万円札を渡していただろう。
しかし今の俺は違う。
武器を持っている。
俺は咄嗟に、すぐ真横の靴屋に偶然飾られていたスニーカーを引き寄せた。
ジョウダンの最新モデルだった。値札を見たら五万円と書かれていた。
「ほら、履けよ」
差し出すと、男は一瞬驚いた表情をした後、満足そうな顔で去ろうとした。
「へへ、ありがとなー」
しかし俺も、タダで帰らせるつもりはない。
男に凄まれている間、俺の頭には一つの疑問が浮かんでいたのだ。
——この手袋、人間は引き寄せられるのか?
俺は金髪バカ女の顔を見た。
引き寄せたい——そう思った時には、既にその女が俺の隣にいた。
「ねえ、次はどこ行こっか?」と、甘えた声で俺に尋ねる。
俺は驚きのあまり動けなくなってしまった。
思わず自分の手を見つめる。
信じられない。物だけでなく、人間まで引き寄せられるなんて。
顔を上げると、俺に喧嘩を売った男が寂しそうな顔で立ち竦んでいた。
しかしもう、女は俺の所有物だ。彼には元から恋人なんていないことになっている。
歩道の真ん中で突然佇んだ彼は、周りの歩行者から避けられた。
俺の隣にいる女は、元カレであるはずのそいつを見て「は、何あいつ。キモ。邪魔だし、服も靴もダサい」と吐き捨てた。
俺は愉快でたまらなくなった。
彼に背を向けて歩き出す。
いい実験台になってくれてありがとうと、心の中で嘲笑した。
俺の彼女となった金髪バカ女は、腕にしがみつきながら「どこ行くの?」と再度甘い声で尋ねてきた。
明らかに誘っている。
彼女の胸が腕に触れた瞬間、思考回路のショートする音が頭の中で響いた。
何も言わずホテルに連れ込んだ俺は、頭のネジが外れるくらい行為に興じた。
彼女はさっきまで他人だった俺に犯されるのを悦んでおり、終わった時には脚がプルプルと震えて立てなくなっていた。
昨日まで「持たざる弱者」だった俺は女性との経験も少なかったが、今日だけでその分が帳消しになるくらい放出した気がする。
それでもホテルを出る頃には、他の女を目で追うくらい性欲が回復していた。
それからの俺は、仕事を辞め、好き放題な生活を始めた。
住所は新宿のタワマンの最上階で、バカ女と一緒に住んでいる。
食事はいつも、徐々園か個人経営の高級寿司屋だ。
おかげで俺の体重は百キロを超えたが、別に気にならなかった。
見た目なんかに気を使わなくても、欲しい物は何でも手に入るからだ。
バカ女はそんな俺のことを嫌いになるどころか、むしろ好きになってきたようで、最近は彼女の方から求めてくるようになった。
しかし毎日同じ女とやっていても飽きてくる。
そんな時は街へ出て、違う女を引き寄せた。特に、他人の女を自分のものにするのは快感だった。そのまま家やホテルに持ち帰り、また飽きたら他の女を引き寄せた。
それを繰り返しているうちに、俺の家にはいつの間にか、何人もの女が住むようになった。日本では馴染みのない
さらに、俺の女が友達を連れてきたりもするので、人脈も広がった。
新しく出来た友達のなかには、大企業の社長や有名な起業家もいた。
いつか見た栄道系アイドルもいた。
そのアイドルは知らぬ間に、俺の家に住むようになった。
俺はいつの間にか、幸せな勝ち組生活を手に入れていた。
しかしある日、事件が起きた。女同士の喧嘩が勃発したのだ。
事の発端は、俺が
別に俺は、そのアイドルのことが好きなわけではない。
ただ、知名度のあるアイドルと結婚したいという願望を叶えようとしただけだった。
もう普通の恋愛には飽きていた。
男なら誰しもが結婚したいと思うような女と結婚すること——それを実現してこその勝ち組だ。
しかしそれを、他の女たちが許さなかった。
「その子だけズルい」
「私との恋は遊びだったの?」
などと言いながら、続々と俺に詰め寄ってきた。
なかでも、最初に俺の彼女になった金髪バカ女は一番ひどかった。
「私以外の女、彼女って認めねぇから!」
と怒鳴り、部屋にある色々な物を投げ散らかし始めた。
他の女たちも、自分の身を守るように物を投げ返して対応していた。
おいおいおい、みんな俺の所有物だろうが。大人しくしてろよ。
しかし騒ぎは収まらない。
「痛い!」
ひと際大きな声がした。見ると、アイドル女の額がパックリと割れ、血が流れている。周りには飛び散った破片。
金髪バカ女が食器を投げやがった。
血を見た金髪バカ女は、急に我に返ってその場に座り込み、今度は泣き始めた。
俺は慌ててタオルを引き寄せ、アイドル女の額に巻いた。血が止まるようにきつく縛る。
今はバカ女に構っている暇など無い。
救急車を呼ぼうかとも思ったが、待っている間にまたひと悶着あったら面倒だ。
俺はそのまま彼女を背中に担ぎ、急いで病院に向かった。
「どこ行くんだよ!」
「逃げんな」
金髪バカ女を筆頭に、他の女たちが追いかけてくる。
俺はそいつらが追って来ないようにと、必死に頭の中で念じた。
しかし女たちは追ってくる。
今になって気付いた。
この手袋、何かを引き寄せることはできるが、反対に何かを引き離すことができない。
マンションを出て新宿の街に逃げた。
女たちはまだ追ってくる。離れろと思う度に距離を詰められる。
俺はすれ違う人の所持品や店頭販売されている商品を引き寄せ、それらを女たちに向かって投げ続けた。
しかし女たちはひるまない。人混みの中でも俺を見失わずに追ってくる。
腕が重い。もうちぎれそうだ。
砂鉄の中に磁石を突っ込んだみたいに、俺の両腕には色々な物が引っ付いて離れなくなった。
もはやガラクタの塊だ。腕に引っ張られて体全体が重くなっていく。
——引き寄せるな! 離れろ! 金もブランド品も、料理も、女も、俺から離れろ!
しかしどれだけ強く念じても、物が俺の手元に集まってくる。
歩くのも苦しい。
女たちが俺のすぐ後ろに迫った時、目の前の歩行者信号が赤になった。
——変われ! 早く! こんな信号どっか行け!
すると雑草をむしり取るように信号が根元から抜け、俺に引っ付いた。
周りの歩行者から阿鼻叫喚が起きる。
信号のボディプレスを食らった俺は、その場にうずくまり動けなくなった。
背負っていたアイドル女に潰され、さらに他の女たちが俺の上に覆いかぶさってくる。
もうダメだ。
その瞬間、うずくまった俺の頭上から声がした。
「そいつに手を出すな」
異物感のある声。俺はその声に聞き覚えがあった。
「あんたは!」
顔を上げると、あの日手袋をくれた爺さんが、俺の目の前に立っていた。
「ありがとう。助かった」
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