3、突然の訪問と贈り物 9

 店の外に看板は一切出ていない。

 以前ハロルドと来店した宝石店へ。

 数回来ただけでは判別しにくいほどに、周りの家に溶け込んでいた。

 ハロルドはそんな並ぶ家々から店のドアを迷わず開ける。

 カランとカウベルが鳴り、店先に並ぶ煌びやかな宝石に迎え入れられた。

「じゃあ、ティアン。俺は少し話をしてくるよ」

 ハロルドはそういうと店主を話をしながら、奥の部屋へと消えていった。

 店先には先日もいた女性店員がにこやかにショーケースの前に立っている。

「すみません、先日お願いしていた宝石を……」

 店員はティアンが言い終わる前にすっと、とり置かれた対の宝石が布張りの箱に入れられた状態で出してくれた。

 光の加減で光りを放つ茶色の宝石は何度見ても惹かれる。

「お待ちしておりましたわ。可愛らしいお嬢様。早速ですが、デザインと彫りはいかがされますか?」

 提示されたデザインのカフスボタンと彫り型の見本が入れられたガラス張りの小箱を宝石の横に並べながら訊ねる。

 無駄のない動きに感心してしまう。

「彫り? 入れるものですの?」

「贈り物としてお渡しされるのでしたら、ぜひ入れられるとよろしいですよ。彫りを入れることで、このカフスボタンは唯一のお品物となりますわ」

 そこまで言われてしまうと、仕立てたドレスと同じで、違いを出したくなってしまう。

 デザインは品のあるシンプルなものに。彫りは店員の勧めで、ティアンとハロルドの名を一文字入れた。

「今日仕上がりますか?」

「宝石を嵌め込む工程はとても繊細です。申し訳ありませんが少々お時間をいただけませんでしょうか」

 デザインを決めたその日にもらえると思っていた。申し訳なく、丁寧に頭を下げる店員。

 宝石はまだ、形の整っていない状態で、小さな宝石を台座に嵌め込む形にするのに、それなりに技術が必要となる。カフスボタンの宝石が入る空洞は小さい。見れば一目瞭然。

 さらに彫りを入れるとなると時間が必要になってくる。

 前回は宝石を取り置いてもらった。そこからの加工はまだ依頼をしていない。

 宝石の買い物はこれまでしたことがある。加工する過程があると知っていたのに、贈ったものを嬉しく受け取るハロルドの姿ばかりが頭をしめていて、まったく失念していた。

「わたくしこそ、大変失礼なことを申し上げましたわ。その……あとどれくらいかかりますの?」

「四日、五日あれば可能かと……」

 ころんとした茶色の宝石は、カフスボタンに入れるにはまだ一回り大きい。ここから小さく削っていき、嵌め込む作業は時間がいる。

 先に請け負った客を押し退けて、ティアンのものを最優先に仕上げてほしいなんて、はじめての店で図々しいこと言えない。

 この店はティアンの行きつけではなく、タイタリア家行きつけの店。迷惑はかけられない。

  出来上がったカフスボタンを店員はフレデリー家の屋敷へ直接届けます、と言ってくれた。馬車を出してもらうにしても、御者に店の場所を教えれる自信はない。屋敷へ届けてもらうことにした。



 ショーケースの上からカフスボタンのサンプルがすべて片付けられた頃、ハロルドは奥の部屋から店先に戻ってきた。

「ティアン、待たせたね。こちらの用は終わったよ……どうかした?」

 ティアンはゆっくりと振り返った。

 貼り付けた笑顔が若干怖い。

 ハロルドに贈るものを選んでいたなんて知られたくない。けれど、ティアンは隠し事があまり得意でない。

 口角を不自然に上げながら、平静を装う。


「せ、世間話をしてましたの」

 女性店員に同意を促す。

「ええ。ハロルド様が選ばれた先日のネックレスが、本日のドレスにとてもよくお似合いですね、と」

 店員は、笑顔でハロルドの選んだ品を褒めた。

 ティアンの瞳の色と合わせたネックレスはとてもティアンに似合っている。

「ティアンの瞳に似た宝石もので作ったんだ。よく似合っている」

「ええ、ハロルド様が半年もかけて何度も当店へ足を運ばれて探された甲斐がありましたね」

 ハロルドが知らせてほしくないことを、世間話をするかのように店員はあっさりとティアンに明かした。

「ミ、ミレイニー!」

 ハロルドが瞠目して声を荒げた。カツカツと足早に歩き、店員に掴みかかる勢いで、ショーケースから身を乗り出す。

「それは言わない約束だ!」

「あら、まだ、お嬢様にお伝えしていませんでしたか?」

 店員は馴染みのある上級層の客でも容赦がない。

「ミレイニー!」

 ハロルドが、それ以上喋るなと牽制の声を上げる。

 すました顔で、仕事をこなしながらも店員の口はそれでも止まらない。

「ネックレスの仕上げにも大変お時間をおかけになっておられますものね、お嬢様は気に入られているそうですよ」

 ティアンがハロルドと婚約をしたのが一ヶ月程前。婚約する前からネックレスにする宝石を探して、何度も、店を訪ねて、デザインを決めて。

「ようやく婚約が成ってよかったですね、ハロルド様」

 そんなにも前からかけてくれていたなんて知らない。ハロルドはおくびにも出さなかった。

 ティアンはハロルドを見上げた。

 そっぽを向くハロルドの横顔は珍しくほんのり赤い。

「そんなにも前から計画されていたのですか?」

「………………ああ、そうだよ」

 罰が悪そうに小さく呟く。

 そんなにも前から。

 ティアンは緩みそうになる頬に力を込めていたけれど、耐えられそうになくて、笑顔が弾けた。

 ハロルドの腕に飛びつく。

「ありがとうございます。大切にします」


 店を出る前。

 女性店員が若い恋人たちに、優しい笑みで見送った。

 ショーケース前から離れていくティアンを女性店員は呼び止めた。

「大切にしてくださいね」

「……はい。教えて下さりありがとうございます」

 女性店員にティアンは小声で感謝を囁いた。


 ◇


 フラム庭園ガーデン公園。

 広大な面積を誇る公園は、至る所に季節の植物が植えられて、訪れる人の目を楽しませている。

 夕方ともなれば、散策をする人はまばらになる。

 ティアンは日傘をさして、ハロルドと公園を歩いていた。

 彼の腕に手をかけて、歩調を合わせてくれているのを感じるのに、ティアンはハロルドを何度も見上げるも、視線が合わない。

 店を出て馬車に乗り、公園に着いてからも、ハロルドは一言も話してくれない。


 装飾品を半年も前から準備をしていたこと、男性にとって知られたくないことだと分かっている。恥ずかしいと思っているだろうことも。

 それ以上に、ティアンがレオンの罠にかかってしまう前から婚約の準備をしてくれてたことが、嬉しい。

 嬉しさに胸がいっぱいで。この気持ち、伝えないとおさまらない。


 ティアンは足を止める。

 ハロルドの腕が引っ張られて、彼の足が止まって。

 ティアンは日傘をわずかに持ち上げた。

 足を止めたティアンをハロルドが不思議そうに見下ろしてきて。

「お店で言えませんでしたけれど、ネックレス、改めてありがとうございます。大切にしますわ。指輪も……」

 ぐい、と引き寄せられた。

「そうしてくれ」

 耳元で囁かれて、恥ずかしくなる。

 イジワルされることもあったけど、昔から彼にもらったものは大切に持っている。


 日傘がいい塩梅にティアンたちの顔を隠してくれていたから、余計に少し大胆になってみる。

 ティアンはハロルドの耳元に唇を寄せた。

 「…………はい」

 顔が見えないのをいいことに、小さく囁いた。

 まだ、彼の目を見て、お礼を言える勇気はない。

 耳から少し離れると、彼の耳がほんのりと赤くなっているのを見つけて、ティアンは嬉しくなった。


 少し背伸びをした足を、地面につける。

 ハロルドの腕の力が緩んで、彼の腕に手をかけようとした。

 途端、再び、引き寄せられる。

 背を支えた腕がぎゅ、とティアンの身体を支えて、唐突に、なんの前触れもなく髪を一房、取られた。

 そのまま、くん、と匂いを嗅がれて、呆気にとられるも、一瞬。

「な、なにをっ!」

 頬をかっと赤く染め、すくいとられた髪を取り上げようとして、ハロルドから先に離された。と思えば、今度は背にある腕に力が入って再び、きつく抱きしめられた。

「ハロルド様!?」

 日傘を取り落としそうになった。

 その日傘すらもやすやすと支えて、ハロルドはティアンに抱きつく。

 声で嗜めるも、彼には何一つ効いていない。

 ティアンの声に、隠された嬉しさが混じっていることに、彼は気がついている。

 少しの抱擁じゃ物足りないなんて、言えるわけがない。

「んー、やっぱりいいね」

 すうっと髪から香る香油を吸い込まれて、あっけにとられた。サリマがハロルドから「夜会の時につけて」と貰った香油。夜会だけじゃもったいないと、サリマは毎日髪につけてくれる。

 ハロルドに会わない日でも、毎日。

「ハロルド様!?」

「良く合っているよ、ティアン」

 贈った香油だけを誉められてなんだか気に入らない。

 香油を贈ったのはハロルドで、ティアンが選んだものじゃない。

 唯一、今日ので悩み選んだと言えば、髪に飾ったアクセサリー。今日のために新しく新調していた。すこし大人びた髪飾りはティアンを少しハロルドと並んでも年の差の違和感をなくしてくれている。

「どうかした?」

 そんなこと、彼が気づくはずもなく。

 不思議そうに、訊ねるハロルドに、ティアンはかぶりを振った。

「な、なんでもありませんわ!」


 ◇


 屋敷の庭にある四阿。

 ティアンはハロルドをお茶に誘った。

 今日、仕事が休みだと、兄から聞いて、急ぎ手紙をしたためたのだ。返事は早急に返ってきた。「必ず行く」と。


 晴れ渡った青い空の下、ティアンとハロルドは隣り合って椅子に座った。

 お茶菓子と、入れられた紅茶を置いて、サリマは四阿から離れたところに待機している。


「お待たせ致しましたわ」

 ティアンはハロルドに昨日届けられたばかりのカフスボタンを手渡した。

 綺麗な四角形の箱に二つの対のボタンが収められている。光の加減で茶色の宝石がが薄くなったり、濃くなったりする。

 予定が狂って、先日の公園で渡さなかった物たち。

「あと、こちらも」

 懸命に縫い上げたハンカチを、隣に座るハロルドにずい、っと押し付けるようにして渡す。

 綺麗に形を縫い取ったつもりが、歪になってしまったところがいくつかある。とくに名前のところなんて、慎重に縫いすぎて、わずかに歪んでるところさえある。

 不得手ではないけれど、刺繍に力が入りすぎて、あまりいい納得のいく出来じゃなかった。

 作り直したかったけれど、そんなカフスボタンが出来上がるまでにそんな時間はもうとれなかった。

 あまり、じっと見られるのは恥ずかしい。

「どうかされましたの?」

「いや、ティアンから何かをもらうなんて、何年振りかと思って。嬉しいな、ありがとう」

 ボタンを台から外して、じいっと見つめる。

 ハロルドの瞳の色に似た宝石、横に彫られた文字をじっと見つめると、つけていたボタンを外して、ボタンを付け替えた。

「どうかな?」

「とても、良くお似合いですわ」

 両手を合わせて褒めた。

 本当に良く似合っている。

 

「ティアン様、失礼致します。お手紙が来ています」

 ハロルドとお茶の時間を楽しんでいる最中、サリマは手紙を持ってきた。

 ティアンは慌てて、握り合っていた手を離そうとするが、ハロルドがそれを許さない。

 絡め取られて余計に逃げられなくなる。

 いまだ、サリマに見られるのがなんだか恥ずかしいと感じてしまうのだ。

 視線で訴えるが、ハロルドはサリマを見上げていた。

「ティアンに、どんな手紙?」

 ハロルドが受け取り、ティアンに手渡してくる。

 この時期の手紙は、遠回しの婚約の打診か、夜会の招待状のどちらかになる。

 ハロルドと婚約後、男性からの婚約を仄めかす手紙は少なくなった。それでもゼロになったわけじゃない。夜会の招待状かもわからないのに、この場で手紙を開くのは躊躇われる。

 ハロルドは瞬時に不機嫌になった。

 その証拠に、絡め取られた手が強く握られて少し痛い。

「あとにするわ」

 一度受け取るも、ティアンは確認もしないでサリマに返した。

「ハロルド様にも関わりがあるだろうと、旦那様の判断です」

 サリマは手紙を受け取るどころか、父の許可は得ているからすぐに見て下さい、と存外に伝えてきた。

 父の判断と言われれば、この場で手紙を開封しないわけにいかなくなる。


 ティアンは手紙を裏返し、封蝋を確認した。

 輝くベルの周囲を蔦が囲う紋章。

 公爵ベルメルト家。

 辺境の地を与えられた公爵家。

 年に一度開かれる夜会への招待状。


「ティアン、交流があるのか?」

「ええ、ベルメルト家のご令嬢と友人ですの。毎年招待が来るのよ」

 ライアンの婚約者となった親友とも呼べる友人アメリアとはまた違う。心から何もかもを話せるわけではないが。

「夜会で、ちょっとした小競り合いを助けたの。そのお礼にかわからないけれど、毎年招待状がくるの」

「そうなのか。ライアンはそんなこと言っていなかったな」

「子爵家へ嫁いだ叔母様が出席されていて、この夜会で会っているのです。毎年兄さまと出席してるのよ」

 子爵家へ嫁いでいった叔母は、実家であるフレデリー家へ一切近寄らない。

 かわりに、ティアンが出席する夜会の中で、ベルメルト家の夜会のみ、叔母も出席している。

 実家に寄り付かなくなった叔母と姪が会う唯一の方法は夜会で会うしかない。

 しかし、レオンも出る夜会になる。ベルメルト家の夜会に彼は気まぐれに出席する。出欠を知らせず当日に急に現れる。主催側からすると迷惑な招待客なのだ。

 招待状を出さなければいい話が、ラデリート家とベルメルト家は何代か前に婚姻を結び親戚関係にある。招待しないわけにはいかないのだ。


「フレデリー公爵が俺にも、という意味、わかったよ」

 ハロルドが嘆息しながら、ティアンに届いた招待状を見る。

「そ、そうね」

 レオンが出席してくるとティアンと会うことになる。いまだ、レオンが夜会に出ないことも考えられるが、気が変わって出席するかもしれないのだ。その場にハロルドがいれば、ティアンは安心できる。

 レオンと一人で対峙しなくても良くなるのだ。

 彼が、あの日、屋敷でハロルドとの仲を見せただけで、諦めてくれていればいいのだけれど。

「ティアンをエスコートさせてくれる? 約束、デビュタントでは叶わなかったから、今度はきちんと、勤めさせてもらうよ」

 ハロルドはティアンににこりと笑顔を向けた。

「そんな、子どもの口約束覚えていましたの?」

 というティアンも忘れていない。


 ハロルドが先にデビュタントを終えて、その隣に別令嬢がこれから立つことになるんだと思うといても立ってもいられず、ティアンが社交デビューするまでは、誰も相手を作らないでほしいと言う願いを込めてした口約束。

 その効果はあったのか、なかったのか、ハロルドはティアンが社交デビューするまで、どんな令嬢とも婚約はしなかった。多少なりとも噂は何度かあった。けれど、その度にライアンから「違うからな」と、切に伝えられていた。

 そして、待っていたデビュタントの日。

 彼は当時の噂の令嬢に捕まってしまい、ティアンのデビュタントの相手を務めてはくれなかった。その令嬢は今年、別の令息と先日結婚をした。


「ああ、忘れない。大切な約束だから、ね? ティアンは――忘れてしまったのか?」

 首だけでなく、腰から曲げられて、さらりとした前髪の隙間から、憂えた瞳がティアンを真っ直ぐに見つめてくる。

「〰︎〰︎っ」

 心臓が撃ち抜かれたような衝撃に、頭がクラクラしそうだ。

 悪戯が見つかった飼い慣らされた仔犬のように見えてしまうから困ってしまう。

 ぷい、とそっぽを向いてしまう。嬉しさに頬が染まった顔を、みられたくない。

「ティアン、逃げないで」

 ハロルドは、片手で、顎を掴むと、無理やり力で、顔を戻した。

 やだ、と訴えるのに、離してくれない。

 ぎゅん、と正面を向けられて、ティアンは瞼を閉じた。

 不満な顔を見たくない。

 ティアンはやっぱりどうしても、ハロルドとの過去に囚われてしまう。

 ハロルドは素敵な人だった。ティアンを優しく褒めてくれた。それなのに、ある日突然、イジワルになった。

 ハロルドの腕を両手で掴んで離そう力を込めるが、女の力が男の力に叶うはずもなく。

 瞼を一度伏せて、訴えかけるようにして、恨めしく見上げる。

 もう、顔だけじゃなく、耳も、首元も恥ずかしさで、染め上がっている。

「……みないで」

 小さく訴える。

 昔のように、罵詈雑言を彼の口から再び聞きたくない。

「かわいすぎる……」

 しかし、ぎゅ、と閉じた目とちがい、耳ははっきりと音を拾った。

 それも、今にも息を忘れてしまいそうな声を。

「な、なんで。

「可愛くないじゃ、ありませんの?」

「そんなこと言うわけないよ」

「い、言いましたわ、昔。あなたからはっきりと。だから、私――」

 ハロルドの前で可愛くするのをやめたのだ。今は全然、できていないのだけど。

 その当時を思い出してしまい、鼻の奥がつんと悲しくなる。

「もう、縛られないでほしい。ティアン、俺が嫉妬に駆られていった昔の幼稚な言葉を信じないで」

 

「そうおっしゃるなら、そう信じさせてくださいませ!」

 ぱしりと、顎を掴む腕を叩いた。

 ハロルドはわかった、と言うと、ティアンの片手を取った。

 狭い東屋の中、彼は片膝をつく。

「ティアン・フレデリー」

「は、はいっ」

「このティアンからもらった大切なカフスボタンに誓うよ。俺はティアンを傷付けない、裏切らない。ティアンが笑えるように努力するよ」

 腕にの袖に留められたカフスボタンに唇を落とすと、今度は手で捕まえたティアンの指先に口付けた。


「は、はい」

 戸惑いながら、ハロルドの誓いを受ける。

 そして。

「王子様みたい」

 思わず小さく呟いた。

「それ、昔も言われたな」

「そうだったかしら?」

 強気に返すと、ハロルドの瞳の色が輝き出した。

 あ、よくないかも、と思った時にはもう遅い。

「覚えていないかもしれないけれど、僕ははっきりと覚えてるよ。キミ……ぐむっ」

「言わなくてもいいのよ!」

 油断すると、すぐに揶揄ってくる。いまだ、取られた手は解放されなくて、開いてる片手で、ハロルドの口を押さえつけた。

 これ幸いとばかりに、今度は手のひらに口づけられてしまい、声も出ない。

 手をはなすと、彼の温度が触れられた手のひらににじんと残っていて、なんとも言えない幸福が胸をじんとさせる。

「ティアンを揶揄うのは僕の特権だ」

 心底真面目な顔で至極当然のように言うものだから、ティアンは、彼に取られたままの手を振り払った。

「何よ、その意味わからない主張は!!」

「僕だけに許されていることだから、かな」

 ハロルドが可笑しく笑う。

 戸惑いながらも、つられてへにゃりと失敗した笑みを浮かべた。

 怒りの混じった笑いはあんまり可愛く笑えなかった。

 それなのに。

「ティアン、いまの、絶対、他の誰にも見せないで! いいね!?」

 ハロルドは衝撃を打たれたように、ティアンを腕の中に閉じ込めた。

「え、は、はい?」

「絶対だからね!」

「え、ええ?」

「忘れないでね!?」

「――――え、ええ?」

 戸惑いながらよくわからない約束をさせられる。

 そんなに可愛くないはずなのに。ハロルドにとってかわいいと思ってもらえるならそれでいい。

「よかった」

 ぎゅ、と手に力が入った。

 そんなささやかなことでも、喜んでしまう自分が恨めしい。

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