3、突然の訪問と贈り物 7

 足音と人の声がサロンから遠ざかっていく。

 ティアンは張り詰めていた緊張を解いた。

「ティアン、大丈夫?」

「ええ」

「本当に?」

「ええ」

「へぇ?」

 困ったように笑って、指された左手をたどっていく。彼の上着を両手で握りしめている。

 ぎゅうっと、強く握り締めていた上着には、握り皺をつけてしまっていた。

「……」

 離れなきゃ。頭でわかっていても、震え固まってしまった指先は、離れることを拒絶するかのように動いてくれない。

 手を開こうとしているのに、震えてできない。


 離れないと迷惑をかけてしまう。

 わかっているのに、まだ、離れたくない。


 焦るティアンをハロルドは片腕で引き寄せた。

 ふわりと、ハロルドから香水の香りがした。

「素直じゃないなぁ。――そこがかわいいんだけど」


 背中にまわされた腕は暖かくて、逞しくて。不安と怖さが占めていたティアンの心を安心させてくれた。

「ティアン。よく、頑張ったね」

 頭を優しく撫でる手はどこまでも優しい。

 張り詰めていたものがこぼれ落ちるように、ほろりと瞼から雫が落ちる。一粒落ちると涙が止まらなくなってしまった。


 泣き顔は、見られたくない。

 ハロルドの胸に顔を押し付けた。

 溢れる涙がハロルドの上着を濡らしていく。


「……ティアン?」

 撫でていた手が止まり、ハロルドが戸惑っている。

 止めないとと、思えば思うほどに、止まらなくなる。

 きっと、ハロルドの手がとても優しいからだ。


 一度、彼の前で兄と間違えて、声を上げて泣いてしまったことがある。原因はなんだったのか今はもう思い出せないのだけれど。

 悲しみが落ち着いたころに、兄じゃないと知り、間違えてしまったことを謝った。気になる人に、酷い顔を見られた恥ずかしさもあった。

 慌てて捲し立てていたように思う。

 そんな恥ずかしさを払拭させるように、揶揄ってくるハロルドだったが、この時ばかりは違っていた。

 ふいと顔を背けて、ティアンに可愛くない、と冷たく言った。

 思わず、見上げてしまった後に、慌てて俯かせた。

 いつも泣きたくなりそうになるティアンを揶揄っていたのは、見たくなかったからなのか、と。

 ティアンはハロルドの頬を叩いて、逃げて。

 悲しみをさらに増長するようなことを言われて、ティアンの心はひどく傷ついて、走った。

 涙は止まらなかった。同時に、心の痛みを知った。


 あれからティアンは人前で――特に男の人の前で、泣かなくなった。泣きたいときは一人になって、時にサリマのそばで密かに静かに泣くようになった。

 それから、ティアンは助けてほしい時ほどハロルドと一定の距離を置いてしまったのは、言うまでもない。


 それなのに、今日はなぜか涙腺がおかしい。とまらない。嗚咽を堪えて、静かに泣くティアンにハロルドはどこまでも優しくて、落ち着かない。

「ティアン。俺に慰めさせてはくれないの?」

 ハロルドがティアンの肩に手を置いた。

 ティアンは首を振った。

 嫌だ、見せたくない。

 ハロルドが可愛くないと言った顔を彼に見せたくない。

 化粧も涙で落ちて、見るに耐えない有様。また、過去と同じことを言わて、傷つきたくない。


「キミは俺に恋人の慰めをさせてはくれないの?」

 寂しそうに、声が沈んでいる。ティアンは首を小さく振った。

「どうして?」

「――――私に、言ったでしょ。泣き顔は……醜いって」

「そんなひどいこと、俺、言った?」

 忘れたと言わせない。

 上着に額を押し付けて訴えた。

「言ったわ。十五歳の兄様の誕生日会で……」

「…………ああ、あの時の。――醜いなんて言ってない。あれは……ティアンが悪い。目の前に俺がいるのに、誕生会主役のライアンと間違えるから……えっと、その――意地悪を、したんだ」

 歯切れ悪く、ハロルドは言った。

「意地悪?」

 涙声で問う。

「そう、気になる子に振り向いてほしくて……って、聞き返さないで。正直あの日はどうかしてたんだ。

――嫉妬で言ってしまった言葉がこんなに長くキミの心を傷つけてしまっていたなんて」

 隠した顔の頬をハロルドの手が撫でた。

 切ない声音に、ティアンの胸が切なく苦しくなる。

「ごめん、ティアン。あの時は、友人に、ライアンにひどく嫉妬してしまった。兄さんを心の底から頼りにするキミが可愛くて。兄じゃなく、俺を頼ればいいのにと――。あれほど強く友人を妬むなんて、思っていなかった」

 過去を恥じて、打ち明けられた。

「キミの目はいつもライアンに向いていた」

 少し拗ねている。

 ティアンはいつも兄といるハロルドを見ていた。ただ、ハロルドはライアンの隣にいつもいるから、ライアンを見ているように見せて、本当は友人を見つめていた。

「違うわ。見てたの、ハロルド様を」

「俺を?」

 こくり。うなづく。

「知らなかった」

「知られないようにしてたの」

 知られてしまったら恥ずかしくて、堂々となんてしていられない。

「……ごめん。ティアン、俺も言ってなかった」

 頬を撫でる手が、するりと滑って。

「好きだよ」

 逃げられないように、さらに肩を引き寄せられて、耳元で囁かれる。

 見上げるとティアンを真っ直ぐに見下ろす真剣な優しい目と合う。

 ほろりと落ちる涙を、ハロルドの手が掬いとって、頬を撫でる。

「ティアンがライアンを頼るのを、俺ば何度悔しいと感じていたと思う?」

 知らない。ふるりと首を振った。

「どんなティアンもかわいいよ。驚いた顔も、泣き顔も、笑う顔も、恥ずかしがる顔も。俺に向けられる全部が、かわいいよ」

 涙の膜がはった目に映るハロルドは、とても悲しそうに笑っていた。

 ティアンは思わず左手を伸ばした。ハロルドの頬をそっと撫でる。

「泣いてる顔も、怒った顔も。とてもかわいいよ。許されるならずっと見ていたい」

 かっと、頬が熱くなる。

 恥ずかしいことを、なんでもないように言うハロルドの目から逃げてしまいたくなった。けれど、出来なかった。

「やめて、とても恥ずかしい」

 何度もかわいいと、見ていたいといわれて、もう耐えられそうにない。

 言葉にならない思いを受け止める。

 その手にハロルドの手が重なって、ティアンの手に頬が擦り寄せられた。

「俺が嫉妬に狂って言ってしまった過去の言葉は全部嘘だから。綺麗に忘れて。ティアンはどんな顔でもかわいいくて、目が離せなくなる」

「うそ。うそよ」

「嘘じゃない」

 ハロルドの右手はティアンの頬にあって、俯くことを許してくれない。

「ティアン、好きだよ」

「俺が、ティアンしかみてないことを知ってほしい」

 見つめ合い、ハロルドが掴んだティアンの手のひらに口づける。

「好きだよ、ティアン」

 嬉しくて、力が抜けてしまいそうだ。


「キミの一番はいつもライアンだった。キミの兄で俺の友人なのに、彼にひどく嫉妬するくらいには、キミが愛しいよ」

 ぽかんとしたティアンの頬をハロルドの手が撫でた。涙はとうに引っ込んでいる。

「俺の心の中の大半を占めるのはティアンのことだけだよ」

 嬉しい気持ちで胸がいっぱいになって、言葉にすると、全部こぼれていってしまいそうで怖い。

「ティアン……俺に返事をくれない?」

「……わたし、私は」

 熱を帯びた目がまっすぐティアンを見つめてくる。

「好きよ。ずっと、大好きよ」

 ティアンも、同じように見つめ返した。ハロルドの姿がゆらりと揺れる。瞼に残った滴が頬をすべり落ちていく。

 雫が顎を伝う前に、ハロルドの手が掬い取っていく。

 お互いの距離が少しずつ近づいていって、恥ずかしくなって、ティアンは瞼を閉じた。

 柔らかい唇を最初は額に。次に、瞼に。頬に、感じて、幸福に満たされた。

 長く、とても長い間一方的だった想いがハロルドに伝わって、喜びに震える。

 瞼を開けようとしたら、唇を奪われた。

 すぐに離れた唇は再び角度が変わって重なって。

 確かめ合うように重ね合わせる。

 ティアンが、ハロルドの腕に縋り、ハロルドはティアンの背を支える。

 ハロルドからの愛を受けていたティアンからとうとう力が抜けた。それでもまだ、ハロルドは止まらない。ソファに押し倒されて、初めて、ティアンは待って、とハロルドを止めた。

 上がってしまった息に、呼吸がままならない。

 それでも、ハロルドは物足りなさそうに、覆いかぶさってきて――

 タイミングよく、扉が大きくはっきりと聞き取れるようにノックされ、わざとらしく咳払いがした。

 ハロルドは我に返り、ティアンがハロルドの胸を押した。

 ぴったりとくっついた二人の間にようやく隙間ができても、ハロルドは起き上がれずにいた。

 ソファの背が二人を隠しているにしても、侍女の前に出て行きづらい。

「ハロルド様、お迎えが来ております。お支度をお急ぎくださいませ」

 サリマは淡々とした業務連絡をして、サロンから離れた。できた侍女は違う。サロンで何が起きているかを、察しているようだった。

 お互い見つめ合い、どちらともなく恥ずかしさに笑い合った。

「起き上がれる?」

 ハロルドに手を差し出されて、躊躇いながらも手を重ねた。

 ソファに座り直しても、居心地は悪い。

 いま、ここでティアンは、ハロルドとたくさん口づけをしたのだ。

 レオンを見送る両親がいない隙に隠れてしたことを自覚すると、後ろめたさに上気した熱は一気に冷めてしまった。



 ハロルドが帰る支度を始めたので、手伝った。

 仕事途中に抜けさせてしまった罪悪感はあるけれど、来てくれてよかったとも思ってしまう。

「来てくれて助かりました……」

 とても一人で対処するには相手の身分が高く、フレデリー家の者では容易に彼を屋敷から帰すことができない。

「他でもないキミの窮地に間に合ってよかったよ」

 手を伸ばして、支度を手伝うティアンを抱きすくめた。想いが通じ合っているとわかっているので、少しの触れ合いでも、嬉しくて、恥ずかしい。

「しばらくはいいと思うけれど、困ったらすぐに手紙で伝えて。今日のように、飛んでくるから」


 レオンへははっきりとハロルドがいると言った。

 もう屋敷に近づいてもこないだろう。用心はしないにこしたことない。ハロルドのためにも、家のためにも。

「もうないと思いますよ?」

 大きく深くため息をつかれた。

「いい、ティアン? キミはそう思っていても、違っていたら?」

 今日みたいに、と付け加えられたら、何も言い返せない。

 両親が所在中、常識からはずれ事前の連絡も無く訪問なんて、ティアンは考えてもいなかった。

「ごめんなさい。ハロルド様を呼ぶわ」

「ああ、どんなに小さなことでもいいから、困ったらすぐに俺を呼んで。――ライアンよりも先に。いいね?」

「……なぜ、兄様?」

 いじけた声に、ティアンは目を瞬いて小首を傾げた。

 ライアンは小さい頃から変わらず、ティアンを助けてくれる。困った時は力になってくれる。

 ライアンは王宮の騎士を務めていて、頼りになる。武のラデリート家の力に抵抗するには、家族の中でライアンは非常に適していた。

 すると、ハロルドから大きなため息が吐き出された。

「ティアン? もう一度、教える必要があるみたいだね? 誰と婚約をしているか」

 ハロルドに腰を引き寄せられて、顎を掴まれる。

 口の端が意地悪く上がって、その瞳に楽しそうな色を浮かべる。

「ちょ、ちょっと!」

 腕をぺちりと叩いて抗議した。

 サロンの扉は少し空いていて、扉の外でサリマが二人を待っている。ハロルドを迎えに来た人も。

 ティアンは少し開いた扉が、不意に開け放たれてしまわないかと、ひやひやする。

 ハロルドの真剣な眼差しは、そんなこと構わず近づいてきて――。

「もちろんよ!」

 ハロルドの近づく唇に両手で防御する。

「すぐにハロルド様を呼ぶわ」

 防御した両手に口づけがされて、ティアンは頬を真っ赤に染めた。

 ティアンはもう、ライアンよりも先に頼れるべき相手がいる。ちゃんと、わかっている。

「そうしてくれる? キミはすぐにライアンを頼るから。身内の友人相手に嫉妬させないでほしいよ」

 尤もすぎて、何も言い返せない。

 嘆息したハロルドに、身体を引き寄せられた。

「俺は知のタイタリア家で、キミの婚約者。――ティアン忘れたらいけないよ?」

 確認するように、かがみ込んで問われた。

 ハロルドの悪戯めいた表情。どきりと心臓が高鳴った。

「わ、忘れるわけないわ」

 恋を自覚した日、タイタリア家が“知”をすべる家の人だと兄が教えてくれた。それから一度だって忘れたことはない。

「ハロルド様の知力に敵うご令息はどこにもいないわ。勉学にとても励まれたお兄様でも勝てないのですから、あなたがタイタリアの名を継ぐ日も近いですわね」

「違う。そっちじゃない。まったく、キミはほんとに……」

 わざとなの? と小声で問う声は聞かなかったことにした。

 わざとだと答えても、違うと答えてもどうなるのか、意地悪が顔を出したハロルドの表情に気づいてしまったから、口を閉ざした。

 こういう顔をした彼に、ティアンはこれまで勝てたことがない。これからも、勝てそうにない。

 頭を引き寄せられて、額同士がくっつく。

 とても近い距離に、高鳴る心臓はこれ以上にないくらい、鼓動を早める。

「ティアンの婚約者は誰?」

 ハロルドの声は艶めいていて、再び口づけられティアンは声だけで逃げたくなった。けれど、後頭部の手がそれを許さない。

「……ハロルド様」

「うん、忘れないで。ティアンが頼っていいのは、ライアンよりも先に俺だよ?」

 笑う顔がとても無邪気で、見惚れてしまう。

「忘れないわ」

 ハロルドの上着を掴んで、気づく。

 普段のものではなく、王宮勤めの制服を着ていた。

「ごめんなさい。お仕事の途中に」

 ティアンの手紙を受け取って、制服を着替える時間も惜しんで駆け付けてくれたのだ。

「急いでいたから、これをレオン殿にみられなくてよかったよ」

 苦笑いで、見えないように上着を寄せる。

「ティアンは良いんだけどね」

 嬉しさに頬が緩んでしまいそうになる。と同時に滅多に見られない姿に、興味が湧いた。

 王宮の制服姿は、それこそ王宮内でのみ着用が許される。王宮にいなければ見られない姿を食い入るように魅入ってしまうのも仕方がない。

 上着を脱いで全身を見せてほしいけれど、要望するのは気が引けてしまう。仕事に戻る人をあまり引き止めるのも憚られた。

 貴族の夜会に出席する姿は素敵だった。

 あまりみられない幻の姿は、頭の奥に焼き付けなければと思わせる魅力がある。

 上着に隠されてしまった姿に、少し残念さはあるけれど、一瞬見えた姿を頭の中に必死に焼き付けた。

 ハロルドも同じように、ティアンの目を輝かせる姿を目に焼き付けるように見つめていたことは、サロンの中を覗き見てしまったサリマだけの秘密だ。

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