1、夢のような婚約 2
「僕の友人が来るんだ。ティアン、今日一日大人しくしていてくれるよね?」
歳の離れた兄ライアンは、屈んで涙目で不貞腐れているティアンの頭を優しく撫でる。
癖のある黄色がかった茶色の髪に絡みついた草くずがはらはらと落ちた。
庭を駆け回った後の子供用ドレスは草木の汁と泥で汚れていた。
ティアンは庭を駆け回って遊ぶのがこの頃はなによりも楽しかった。ドレスが汚れても気にも留めない。
見咎めた乳母は怒りはじめると、彼女の気持ちがおさまるまで誰も止められない。一方的な言葉に、なにがいけないのか理解できず、ティアンはただ唇を引き結んで、涙を堪えていた。
庭へ出てきたライアンが、乳母からティアンを助けてくれた。
友人にティアンを会わせたいから大人しくして欲しいと言われて、乳母が怒っていた理由をようやく理解した。
「わかりましたわ、お兄様」
「ありがとう。もう少ししたら来るんだ。着替えておいで」
ティアンが頷くと、ライアンは「いい子だ」と微笑んでくれた。
着替えを済ませたティアンは、ライアンを探した。
薄いピンク色に、ふんわりとスカートが膨らむドレスはお気に入りで、このドレスは汚したくない。
侍女はそのことを知っていて、着せた。
庭に出ると、珍しい蝶がティアンの前を横切った。綺麗な透き通る青色が陽に当たってきらりと輝く。あまりの美しさに見惚れた。蝶に誘われるように、止まった足は再び走り出していた。
蝶がティアンに驚いてか、空高く上昇する。
「あ、待って!」
思わず手を伸ばした。とたん。硬いなにかに足をとられ、つまづいた。前につんのめり、そのまま地面に転ぶ。
とっさに出た両手がずさっと、舗装道を滑った。
「……っ」
手で支えきれなくて、額を地面にこすってしまう。
遅れてくる痛みに、涙が溢れた。
痛いと声を上げて泣き叫べば、聞きつけた大人が駆け寄ってくれるが、着替えたばかりの、それもお気に入りのドレスを汚してしまったことの方が痛みよりもショックだった。
このドレスを着ている間は、汚したりしないように大人しくしていたのに。蝶に気を取られてしまい台無しにしてしまった。これからお客様が来るというのに、怪我をした顔ではとてもライアンの友人を迎えられない。
ティアンを世話してくれる、三歳年上の侍女の呆れた顔が頭を過った。
このドレスでもダメだった、と。
頭を抱えさせることになる。
なんとか知られずにしようと隠そうとしても、ドレスはすでにひどい有様で、隠せそうにもなくて。
それでもなんとかしないと、怒られてしまう。
「うぅー……」
いつまでも地面に顔を伏せているわけにいかない。
転んで飛び出してしまったのが、玄関前の道になる。兄の友人を乗せた馬車が通れば、
起き上がろうにも、両掌は擦りむいてじんじんと痛くて力を入れられない。つまずいた足は痛みを訴えてきて、立ち上がれそうになかった。
「ティアン!」
ライアンがティアンを呼ぶ。
「兄さま、たすけてくださいぃぃ」
小さくて細い両腕を地面からあげると大きな影がティアンの前に来て、脇に手を入れる。持ち上げられて、ゆっくり起き上がらせてくれた。
両足を地面につけると額ばじんじんと痛みを訴え、引っ掛けた足はなにかが乗っているかのように重痛い。
「兄さま」
痛くて今にも泣き出しそうな顔をぐっと堪えて目を開く。と、綺麗で整った顔をした男の子がいた。
ティアンやライアンのアイスブルーと違った瞳。ティアンは瞬きを忘れて魅入ってしまう。
「きれい……」
「そうかな。君のほうがとても可愛らしいよ」
透き通るような肌は、滑らかで、庭を駆け回るティアンの傷まみれの肌と全然違う。
キラキラと輝く銀色の髪の隙間から鳶色の瞳がのぞいている。
少年らしさの残る顔。
心配げに細められた眼は、ティアンがこすった額に向けられた。
ゆっくりと手を伸ばして、前髪をすくいとると、怪我した場所からうっすらと血がにじみ出ていた。
「大丈夫?」
こくり。頷く。
顔立ちが整った綺麗な男の子。ライアン以外の人とはじめて会った。
「ティアン!」
男の子との間に別の手がわりこんで、ティアンの肩を掴み、そちらへ向けられた。
「兄さま」
「怪我は!?」
兄に聞かれて、掌を見せる。すった手は両方とも痛々しい。
「あと額も、だね」
男の子はティアンの前髪に隠れた額をライアンに教えた。ライアンは乱暴に前髪をかきあげる。
「やっ!」
ティアンは反射的に拒否した。兄は容赦ない。
髪をかき上げて、額の赤くなった場所を見つけてしまう。
「頭は打った?」
ふるりと首を振ると、くらりと眩暈がきて身体がかしいだ。それを男の子が支えてくれる。
「擦ったの」
擦っただけといっても、頭を打っていないと判断することはできない。
「ハロルド、妹をみててもらっていい?」
ライアンは立ち上がり、友人へ妹を預ける。
「いいよ」
屋敷へ走り出しそうなライアンの腕を引っ張った。
「やだ、呼ばないで」
屋敷の人を呼ばれたら怒られてしまう。お転婆も大概にして下さい、と。盛大な溜息と共に。
「大丈夫、僕も一緒にいてあげるから」
兄を止めるティアンの手を、男の子が掴んだ。
心配ないと、笑う。
ティアンは不思議とその笑顔を信じられた。
「ほんとう?」
「本当だよ。キミ、ライアンの妹のティアン、だよね? ライアンから色々きいてるよ」
色々とはどんなことだろう。
いつも母から怒られている話だと嫌だな。あまり人に知られたくない。
「僕はハロルド。君のお兄さんの友人です」
「は、はじめまして。ティアンと申します。ライアン兄さまの妹です」
「よろしくね、ティアン」
ハロルドはティアンの細くて柔らかいハニーブロンドの髪を優しく撫でてくれた。
この時。
ティアンはハロルドの隣に立てる、淑女らしく清楚な女性になると決めて、この日を境に庭を駆け回ることをきっぱりとやめたのだった。
◇
「ライアンに可愛い妹がいるって、言われていたんだ。会ってみたらライアンが言うように本当に可愛い子だなって、思ってたんだ。なにも間違ってない。ティアンは、会った頃から変わらず可愛いよ」
当時を思い出して、ライアンがティアンに笑顔を向けた。
あの日のことを、ティアンは忘れたいのに、ハロルドに恋をした日を忘れることなんてできない。
いいところだけを思い出に、悪いところは綺麗さっぱり切り捨てて。
無邪気に庭を駆け回っていたこと。
膝を擦りむいても、気にしなかったこと。
階段の手すりを滑り台の代わりにして、腕で滑り降りていたことなんて。
……なにがあっても、思い出したくない。
恥ずかしくて、土の中に埋めて葬り去りたいくらいおてんばな過去だ。
「そんなことありえません。可愛いなんて」
「そうかな? すごく可愛かったよ?」
「遊んでます?」
「違うよ?」
意地悪な笑みが向けられた。
からかわれている。
「楽しんでますよね?」
訝しげに見上げると、意地悪な表情はさらに意地悪くなって、ティアンははっきりとわかった。彼は遊んでいる。昔のティアンを思い出しながら。
当時の姿は本当に覚えていてほしくない。
「もう、忘れてください!」
ティアンは、恥ずかしくてたまらない。
そんなこと覚えていなくていい。
ハロルドに覚えていてほしいのは、淑女らしく成長したティアンの姿で、おてんばな過去の姿はきっぱりと忘れてほしい。頬が羞恥に赤くなって、そっぽを向いた。
「ごめん。そんなに忘れてほしい?」
「ええ、きれいに」
「しかたない。忘れよう。……ときどき思い出すのはいい?」
「いいわけないじゃない!」
強く睨みつけた。
婚約したその日に婚約者で遊ぶ紳士はそういないだろう。
淑女と程遠い行為に、ハロルドは盛大に笑った。
「ようやくいつものティアンだ」
頭を優しく撫でられた。
少し、緊張していたかもしれない。
ハロルドと会うのは実に二年ぶりになる。中身はそのままに、外見はさらに大人びて、ティアンは直視できない。
昨夜、ティアンがレオンに引っかかってしまって、ハロルドを巻き込んでしまわなければ、彼は屋敷に来ていない。
朝も早くから、屋敷に来させてしまって罪悪感が湧いていた。
昨夜のことはティアンがレオンの裏を、噂を信じなかったから起きてしまったこと。
友人アメリアはティアンにきちんと忠告してくれていた。
レオンに興味を持たれたら、すぐに逃げなさいとまではっきりと言われていた。
今年の社交シーズンはまだ終わらない。
夜会や、舞踏会、パーティーにでなければならないものは多く、レオンがいてものらりくらりと理由をつけてかわせる、と根拠のない自信だけはあった。
「ハロルド様、レオン様を信じさせるために、両親へ婚約の許可をもらってくれてありがとうございます。でも、これ、
レオンに婚約者と言ってしまった手前、両親に挨拶に来ないわけにいかない。
どこかで、ティアンの両親がハロルドは婚約者じゃないと言ってしまえば、ハロルドが嘘偽りを言ったことになってしまう。
真実にするためと、屋敷に来てくれたのはいいけれど。いつまでも続けるのではないのだろう。
彼にも、心に決めた相手はいるのだろうから。
「違うよ。これからもずっとだ。そんな悲しいこと言わないでくれ」
「え、レオン様に婚約者がいると、そう思わせるための間だけですよね? いずれは、きちんと違う方と……」
「ティアン、なに言ってるかちょっと分からない。これからずっとは婚約して、結婚して、死ぬまでずっとだよ」
ティアンの髪を一房もちあげた。
愛しみをこめて、唇がよせられて……。
現実でないようで、目が離せない。
「……レオン様から守ってくれて感謝はしてるわ。けれど、本当に婚約なんて……あなたと、なんて……」
あの場を切り抜けられればそれでよかった。
ぎゅっと、スカートの裾を掴む。
ほんのわずかな夢なら、そうだとはっきり言ってくれればこちらも覚悟をする。
終わりのある夢を見させてもらっているだけなのだと。
「ティアン」
気がつけば、ティアンはなぜかソファの上で押し倒されていた。
頭を肘掛けに打たないように、ハロルドが支えてくれている。
「キミはどうして……」
ハロルドの声が降りてくる。
「俺は、俺の知らないところで、ティアンにこうする人が現れるのがすごく怖い」
ハロルドの顔が近づく。
ふわりと、ハロルドの唇が頬を掠めていく。ぴくりと肩がはねた。
「そ、そんな方いないわ」
「いるよ。ティアンが気がついていないだけで。キミを他の誰かに取られてしまうのは許せない。ティアンは……僕がいらない?」
「……えと、その…………いじわる!!」
ティアンはどん、とハロルドの胸を強く叩いた。
いらないなんて、言えるわけがない。
ハロルドの横に立ちたい。
ずっと、願っていた。
夢を叶えるには、彼の婚約者になれないと叶わない。
「ティアン、キミは可愛いよ。俺はキミとずっといたい。ダメかな?」
何度目かの可愛いに絆されてしまった。頬を真っ赤にして、弱々しく胸を押した。
「もうやめて」
それすらも相手に悦びを与えているなんて、知らずに。
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