序、夜会の罠 2
「……大丈夫。俺がキミを守るから」
ハロルドは努めて冷静に、呪文のようにティアンを甘やかしてくる。ティアンを追いかけてくる男性は本日の夜会主催者であり、弟コンラッドの友人の兄ラデリート侯爵令息レオン。
現当主から、のちに侯爵を継ぐ男。ライアン、ハロルドと同年ながら、未だ独身。
整えられた波打つ明るい茶色の髪に同じ色の瞳。整った顔立ちに、令嬢を虜にするには十分な容姿をしている。
彼には、令嬢を失望させる噂があった。その噂に興味を示さなかったら、こんなことにならなかったかもしれない。
――どんなにからかわれても、やっぱり目の前の青年が幼い頃からずっと、変わらずティアンの一番なのだから。
「ティアン嬢、どちらにいられますか? 体調を崩されたのでしょう?」
その声はとても心配をしていると伝わってくる。通路で怒りのままに騒いだ声を聞いた後では、恐怖しか感じられない。相手の猫を被った優しい声でもすくみあがった。
「この声……」
ハロルドは耳を澄ませ、声の主を特定した。独特な物言いは数えるまでもなく、そういない。ライアンも同じで。
ティアンだけが、ハロルドの腕の中で震えていた。
「離さないで……お願い」
見つかりたくない。
ハロルドの胸に縋りついて、小さく呟く。
涙の膜ができたアイスブルーの瞳で、ハロルドを見上げた。瞳がひどく揺らめいて、蠱惑的で。ハロルドは目を見開く。
「どこで。……そんなこと覚えたんだ」
天を仰ぎながら呟いた。
――ティアンに呟きはひとつも聞こえていないのだけれど。
「僕じゃ相手が悪いな。ハロルド、任せた」
ライアンに大切な妹を託されたハロルドは、喜びでゆるみそうな表情筋を引き締め鳶色の瞳を険しく光らせた。
首肯して返す。
「彼となにがあったのか、今は聞かないでおくよ」
兄の問いかけに、侍女が時間をかけて整えたハニーブロンドの髪を振り乱してうなづいた。
聞かないでほしい。冷静に伝えられない。
扉を叩く音が部屋に響き渡った。とても急いていて荒々しい。
「ティアン嬢。こちらに……いますね?」
柔らかく問う声に、ティアンは怯えた。
扉は閉じている。
どうしてここにいると確信を持って言えるのか。部屋に入るところは見られていない。すくみ上がる。
「扉の外にドレスの裾が出ていますよ、ティアン嬢?」
企みの含んだその指摘に、ドレスの裾を慌てて確認する。
なるほど。確かに、扉の外に一部出ているようだった。その裾が外から踏んづけられて、引っ張られたのか、ピンと伸びた。
まるで逃がさないと示されたかのようで。
肌が粟立つ感覚がして、とうとうハロルドの背に腕を回した。
「ほんとに、キミは……。渡さないから、安心して、俺を頼って」
ハロルドは小さくティアンの耳元で囁くと、ティアンの肩に腕を回して引き寄せる。
それが合図だった。
「なんでしょうか」
ライアンが通路の外にいる来室者に勤めて冷静に声をかける。
「……わたしはラデリート侯爵、レオンです。開けてもらえないだろうか」
ティアンだと思っていたところへ、男性の声音。
ティアンがいると確信している部屋にティアン以外の誰かがいることが気に障ったらしく、トゲのある言い方で、名乗った。
こんなときでも、貴族としての礼儀は欠かない。
「フレデリー伯爵ライアンです。こちらの部屋はわたしが休憩に使っているのですよ。どうかされましたか?」
ライアンは、騎士団員らしく細心の注意をして、レオンに対応した。
ティアンの兄とわかると、相手の声音が幾分か柔らかくなる。
「フレデリー伯爵令息か。……こちらにあなたの妹君がおられるだろう、会わせてくれないか」
「いまは取り込み中です。後ではいけませんか」
「取り込み中? 体調が悪いと言う夜会の招待客を、主催者として心配している。ここを開けてくれないか。ティアン嬢はいるのだろう? ティアン嬢、体調はいかがですか?」
いくら主催する側の人でも、今宵休憩室として開放している部屋に許可なく立ち入ることはできない。
扉越しにでもわかるほどの威圧感。
ティアンを捉えれるなら、家族であろうと招待客にも容赦がない。
ティアンの体調を慮るようにみせて、部屋の扉を開けさせようとしていることは、誰しも勘づいた。
もう一人、部屋に潜んでいるとも知らずにレオンはライアンへしつこく高圧的に振る舞ってくる。
体調を崩した令嬢が、兄と同じ部屋にいる。
妹を諦め引き返していく人が大半の中、相手を思いやれない人も残念だがいる。レオンのように、自身の欲望に忠実な男に「取り込み中」と遠回しに言ったところで、察することのできない相手に効力は薄いようだった。
部屋へ強引におし入り、ティアンを連れ出さない限り、レオンは部屋の前を一歩たりとも動かない。男性二人は瞬時にそう判断した。
ライアンがハロルドに目線を送る。しかたないとハロルドが肩をすくめて返した。
「開けますので、下がってもらえますか」
「助かる」
一呼吸。怒りを抑えるための時間をおいて、ライアンが扉をゆっくりと開けた。
開きかけた扉を待っていられないとばかりに、レオンが勢いよく扉を掴み乱暴に開けて。
「ティアン嬢!」
確信めいた呼び名に、ティアンが肩を飛び上がらせると、レオンはティアンをみつけた。
ドレスを踏んだ足は床から動かさずに、踏んだドレスの先を辿っていって……呆気にとられる。
「な、んな、なっ! これは! どういう!」
ティアンをすぐにでも連れ出すつもりでいたのか、ティアンへ伸ばされた手はそのままに、声を上ずらせる。
「なっにを。なにをしている!」
恋人のように固く抱きしめあう二人の姿に、レオンが目を見張った。
ティアンが抱きつく相手を確認して、さらに言葉を詰まらせた。
タイタリア侯爵家。
同じ侯爵家でもラデリートよりも権力も財産も、土地もある貴族。相手が悪い。
「みたままですよ。取り込み中だと伝えましたが、あなたがどうしても、と仰るのでこの扉を開けたまでです。愛し合う婚約者同士の触れ合いの邪魔をあなたはするのですか?」
呆然とするレオンに、最後のダメ押しとばかりにライアンは、静かに嘆息した。
わかっていてやっているのだから、兄ながら恐ろしい。
「どういうこと……なのだ」
ティアンが抱きついている相手が誰かを知ると、言葉が尻すぼみになっていく。
「今夜はご招待、ありがとうございます。ラデリート侯爵令息殿。しかし、恋人との甘い時間を邪魔して、愛する人をわたしから引き離して、彼女を連れ出そうとする理由はなんでしょうか」
ハロルドは、そうせずにいられないように、ティアンの頭に直接キスをする。
さらに続いて、肩に回った手が顎を支えて。
ハロルドがかがみ込む。ティアンと見つめ合い、ゆっくりと顔が近づいてきて……。
「我が、屋敷ですることではない!」
ハロルドの愛情表現を、レオンは頬を赤くして止めた。
「それもそうですね。こんな可愛い婚約者の顔、人に見られたくありません」
あっけらかんと言った。それでも、ティアンを腕の中から離さない。
がっちりと腰を支える腕は逞しく、とても頼りになる。
ティアンはもう腰から力が抜けていた。
しっかりと支えられているおかげか、座りこむことはなかったけど。
正直、暴れまくる心臓がいつか止まってしまいそうで心配になる。
「ええ、分かっています。彼女の体調を心配していたら、思わず……回復したら帰りますよ。ああ、悪いのですが、ドレスを離してもらえないかな。レオン殿」
歯を食いしばるレオン。ドレスからレオンの足が退いていく。
「ありがとうございます。……ティアン、大丈夫?」
ハロルドはティアンを椅子にうながして、レオンからさりげなく距離をとった。
「夜会はまだこれからだろう? もう帰ると、言うのか?」
「ええ、心配ですから」
レオンの問いかけに、彼を見据えて婚約者として当然と、あっさりと返した。
椅子に誘導するようにみせかけていただけで、椅子には行かなかった。ハロルドは部屋の半ばでライアンと並んでティアンを悪息から守った。
二人の大きな壁に守られていてもなお、レオンから見えないところで、ハロルドにすがった。
腰からハロルドの手が唐突に離れて。
ハロルドとからの言葉と行動で腰砕けにされたティアンは、足に力がまだ入らない。支えを失い、ふらりと身体がふらつき……ハロルドに再び支えられる。
「大丈夫じゃなさそうだ。――急ぎ帰ろう」
レオンへ見せつけるが如く、ティアンの耳元に唇を寄せた。
瞬間、顔にぼっと火がついたように赤く染まる。
「……っ、失礼する!」
狙った獲物を横取りされた気分のレオンは、湧いた怒りの矛先を扉に向け、荒々しく閉じて出て行った。
静寂が残る室内に、遠ざかっていく荒々しい足音がした。
◇
「ティアン? どうかした?」
「やりすぎよ!」
「これぐらいがあれを撃退するにちょうどいいよ、ティアン嬢?」
あれ呼ばわりできるところは、侯爵家であるからだろう。
脅威はもう去った。
それでも、ハロルドはティアンを離してくれない。
顎を掬い取られて、上向かされて。真っ赤になった頬をさらに赤くする。
「そんな可愛い顔すると、続きしちゃうよ?」
レオンはいないというのに、ハロルドの手は止まらない。
ハロルドを止めてくれる兄もいまはいない。
帰ることを主催者に伝えに部屋から出ていた。
「はなしてよ」
「俺の聞き間違いかな? さっきは離さないでって言ってなかったかな?」
小さく訴える。とたんに、おかしいなとばかりに、とぼけられた。
さっきはレオンに連れていかれないためで、いまは違う。
足を思い切り踏んでやろうと振りかぶると、さっと避けられて、体勢を崩した。
支えてくれる腕があって、転ぶこともなくて。
「なにしてるの、キミは」
面白いと声をたてて笑われる。
またしても、遊ばれている。
昔から、彼はティアンを揶揄ってくる。彼の中では当たり前のように。
レオンという脅威から抜け出せても、まだ、心は酷く怯えていた。
そして、彼がもたらしてくれる温かな熱に、とても安堵していることに気づかないふりをした。
ハロルドの腕は、変わらずティアンを守ってくれる。頬がニヤけてしまいそうな嬉しさを必死に隠して、ハロルドの肩を押しやった。
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