悪評の令息より兄友がいいです
柚希(水城磨菜)
序、夜会の罠 1
「お兄様! 助けて……助けてくださいぃぃ!」
ティアンは休憩室に入って早々に懇願した。
どうしてこんなことに、なんて後悔しても、いまはとにかく夜会の会場となる屋敷から早く両親が待つ屋敷へ帰りたい。
「ティアン? いきなりどうしたんだ」
招待されている屋敷の通路をできる限り急いで歩いてきたせいで、何曲もダンスをした後のようにティアンの息はあがっていた。頬を高揚させて、アイスブルーの瞳を潤ませて、扉に縋りつく。
会場内で別れたときの可愛らしさ溢れ出る気品さはすでになくなり、ハニーブロンドの髪は乱れているものの、新調したばかりのドレスは会場で別れたときのまま。
だが、彼女がこうなったのはダンスをしたせいではなくて。
ライアンと最初にダンスを踊ったあと、他の貴族に誘われて相手を譲ってから、今までの間に何が彼女の身に起きたのか。
妹を大事にする兄ライアンは、妹の変貌ぶりにソファから立ち上がると大股で歩いてくる。
「なにがあった!?」
両親はこの夜会に不参加で、ティアンが頼れるのは兄であるライアンだけ。
扉を支えに、潤んだ瞳で兄をみつめる。そうすれば兄は、助けてくれる。幼少の頃から変わらずティアンに優しい。
ただ、怒らせてしまうと、顔がとてつもなく怖くなるのが難点だった。見てしまった側の表情筋が引き攣って、目を逸らしたくなるほどに形相は怖い。
ライアンは心配げな表情で大股に歩いてくる。その歩が、ぴたりと止まった。
「?」
ティアンは首をかしげかけて、青ざめて、通路を急ぎ振り返った。…………誰もいない。
慎重に通路を遠くまで見渡して、人がいないことを確認した。そんな失敗はしていないはずだった。
安堵したのも束の間。
「ティアン」
ティアンの腕が掴まれた。引かれるままに、振り返る。
そこに立っている人が誰が分かると顔を
兄の学院時代からの友人、ハロルド。
夜会に出るために、いつもは下ろしている銀色の髪を後ろに撫で付けている。鳶色の目がティアンを冷淡に見下ろしていて。
彼もこの部屋で休憩をしていたと知っていたら、急いで来てまで兄に助けを求めてない。
会場内の至る所にいる給仕に助けを呼んでいたというのに。
「ハロルド。ティアンを離せ」
「そんな怖い顔で迫ったらティアンが怖がるよ?」
ハロルドが兄の昂った感情を冷まさせようと、冷静に指摘した。
王城の騎士団に所属しているライアンは、ティアンに甘い。ライアンの知らないところで、ティアンが傷つけられることがたまらなく許せない。怒りの沸点を簡単に超えてしまうことも、過去に何度かあった。
「どうして、冷静になれと?」
「落ち着け。ただ、転んだだけかもしれない。昔のように」
「助けて、と聞いた気がするが?」
友人同士がなぜかティアンのことで睨み合う。
「兄様たち、そんな時間はないのだけれど!?」
怒る兄と、冷静な友。
対局する二人のいい争いを呑気に止めている時間はない。
ティアンは助けを求める相手を間違ったかもしれないと、後悔した。
ティアンが叫ぶように言うと、ハロルドと睨み合う形相のまま、ティアンに向く。
(ひえっ)
ティアンがハロルドの背に顔を隠す。
般若のような形相に、目を瞑りたくなった。
かなりお怒りのご様子。
ここにハロルドがいなければ、ライアンは怒りに任せて会場に乗り込んで行っていたかもしれない。
「落ち着け、ライアン。まだ、わからないから」
ティアンの腕を掴んだまま、ハロルドはライアンの肩を掴んだ。
「とりあえず、座ろうか。ライアン?」
「ハロルド、わかっているな?」
「ああ、ちゃんと」
ハロルドは肩をすくめた。返事の代わりらしい。
ライアンはひと睨みするが、ハロルドの勧めに、冷静さを欠いた兄は大股で座っていたソファへ戻った。
怒り狂う兄がいると余計に事態をかき回して、余計にひどくしてしまうから、離れてもらうのはいい判断だ。
「それで、なにをしたの? ティアン」
さも当然のように、ライアンと同じことを聞いてくる。
ティアンが困っていることを、ハロルドに助けを求めるのはなにか違うように感じた。
「あなたには、関係ないこと、ですよ?」
あなたの助けはいらないと、掴まれた腕を振り払うも、相手の力が強くて出来ない。
「へえ? 妹のように可愛がってきた僕には言えない事?」
悲しみを込めて、嘆息された。
これまでの彼のティアンに対するものすべてが、“妹のように可愛がった”ですまされてはたまらない。
口端が意地悪く見えるのは気のせいじゃない。
「か、かわ!? なに馬鹿なこと……っ」
ティアンは忘れてない。
彼は屋敷へ遊びにくると、ことあるごとにティアンをからかってきた。
新しいドレスを着てめかしこんだ姿を、ドレスに着られていてまるで人形みたいだと笑われて。
庭で小難しい本を読んでいると、いつのまにか来ていたハロルドに、まだ早いと、あっけなく奪われて。
巷で流行りの小物を誕生日に欲しいと両親にねだれば、なぜかハロルドから一昔前流行したものを嫌がらせのように送られた。
ティアンの初恋は、ハロルドだった。
そんなにも、気に入らないならほっておいてほしい。
そう訴えると、意地悪く笑って、僕の趣味だなんて、言われた日に、淡い恋心があっけなくガラスのように砕け散ったのはいうまでもない。
ティアンには時間がない。
遠くから声が聞こえた。探し人を見つけられないことに、怒りが混じった男性の呼び声は、ティアンをビクつかせるには十分だった。
さらに反論しようとした口を、おのれの両手で慌てて塞いだ。
「ふぶっ」
空気が指の間から漏れて、変な声になってしまう。
ここで抗議すれば、誰もいない通路に声が響き、
休憩室で、ハロルドを相手にしている時間はない。
けれど、このまま部屋の前でのんびりする時間もなくて。
「兄様、ごめんなさい」
「あ、ティアン!」
怒りの収まらない兄だけに退室することの無礼を謝ると、兄が声をあげる。
兄につかまると厄介だ。スカートをたくしあげた。廊下を振り仰ぎ、慎重に周りを確認した。通路の端にティアンを悩ます問題の大元がいる。
見つかればもっと厄介だ。慎重に、一歩を踏み出そうとしたティアンの腕が強く引かれて振り返る。ハロルドの手がまだ、ティアンの腕を掴んだままだったことを失念していた。
「離してくださる?」
「どこへ行こうとしてるのかな?」
「どこって、あなたがいないところよ」
「へえ?」
剣呑な声音に嫌な予感がした。
「離し……ぃった!」
嫌味とトゲを含んで言うと、ティアンの要望は聞き入れられないと、強い力で引っ張られ、部屋に連れ込まれて、そっと扉が閉じられる音がした。
「ちょっと!」
すぐそばの壁に背を押しつけられ、抗議しようとハロルドを見上げると、真剣な鳶色の瞳とぶつかる。
真剣な眼差しで見下ろされて。さらなる抗議の言葉を飲み込んだ。驚いた。
こんな人だっただろうかと。
ティアンをからかうことが生きがいのような人なのに。
「ティアン。なにがあった」
しごく当然のように真剣に、ティアンを気遣ってくれる。
こんなこと、これまでにあっただろうか。
ハロルドは幼少の頃から知っている。けれど、こんな表情みたことない。真剣なその眼差し。胸が高鳴った。
「な、なんでも……なんでもないわ」
真っ直ぐに見つめる瞳から逃れるように、目をそらした。
「へえ」
顔をそむけたことが気に入らないのか、それとも通路の足音に全神経を持っていかれていることが気に入らないのか。するりと首筋を下から撫でられて。
意図がわからない。
ソファから兄の抗議の声がした。ティアンの耳には入ってこない。
ハロルドの手は止まらない。
そのまま、首のラインを辿っていって……顎に到達した。顎を持ち上げられて、目線を合わせられる。
「逃がさないよ」
彼の鳶色の瞳は、ティアンの瞳からなにかを感じ取るかのよう。ひどく動揺した瞳は揺れ動き、ハロルドを見返す。
「は……はなして」
ハロルドはティアンの抗議を目を眇めて受け流す。
なにやら不穏なものを感じた。別の意味で身を震わせる。
「困りました。こんなにもひどく綺麗だった髪を乱していて、なんでもないってこの口は言うの?」
下唇をふにりと、親指で押さえられる。
なに考えているのかわからない。わからなくて、動けない。
通路から再び呼ぶ男性の声。ここへ近づいてきている。
声が大きく、足音が荒々しい。
忘れていたのに、声だけで小刻みに震えだした身体は止められない。ハロルドに気づかれた。
逃げ道を塞がれてしまう。
普段はおだやかなライアン。いまはティアンのことで、頭に血がのぼっている。怒らせると周りが見えなくなるのがたまにキズだけれど、兄は頼りになる。
ハロルドよりも。
「に、兄様!」
ハロルドの腕の中から、兄へ助けを求める。
通路に出ていこうものなら、声の主に確実に捕まる。
気持ちばかりが急いて、視界の隅に映り込んだ兄に手を伸ばした。
すると、その手をハロルドに捕られた。
掌が合わさり、指が絡み合う。
絡み合った手を持ち上げられて、その甲に唇が寄せられた。
ちょんと唇が当たっただけなのに、じんわりと手の甲に熱が広がった。
「そこは僕にでしょ? ティアン。相手を間違えてはいけないよ」
なにも間違っていない。
この男に助けられるくらいならライアンがいい。
頬がひくつく。
今日は厄日か。
ハロルドが与えるドキドキと、通路の声のビクビクと。とても感情が忙しい。
ひどく青ざめた顔でティアンは、
ハロルドから助けてほしい。どうしてこんなことに。潤んだ瞳で訴えるも、冷静さを取り戻したライアンは友人を止めるどころか、二人を微笑ましく見守っていた。生暖かくも遠くをみるような寂しげな顔で首を振った。
あんなにも怒り狂っていたのに、なぜ。
いまこそ、助けてくれるべきだ。妹が、いまにも襲われているように見える体制なのに、助けてくれないらしい。
裏切り者! と心の中で罵ったところで。
「ティアン嬢!」
通路で一喝した男性に、肩が飛び上がった。
ああ、もう逃げられない。
「どうか……されましたか、レオンさま」
偶然通路を歩いていた男性が恐る恐る訊ねている。こうも怒る相手になかなかの、肝の据わった持ち主だ。
「どうもしない! いいからさっさと仕事に戻れ! 邪魔だ、行ってしまえ!」
案の定、令息の怒りを買うことになる。
声をかけたのはこの屋敷の使用人らしい。
「くそ、あの娘。どこ行った」
盛大に吐き捨てる声も聞こえてきてしまう。男性は非常に休憩室に近い。
「なにがあった、ティアン」
ハロルドがティアンを小声で問い詰める。
ティアンが逃げ込んだ部屋が見つかってしまうのも時間の問題だった。
声に反応するように、ハロルドを見上げる。
その顔に絶望感が漂っていることに、ティアンは気づいていない。
ハロルドの顔が引き締まる。通路につながる扉に視線を逸らされた。緊張にこわばった横顔はとても秀麗にみえた。
誰でもいいから助けて。
あんなに怒る人に目をつけられたなんて、怖くて言えない。
全身を震えさせながら、ハロルドの胸に手をついた。……離してほしくなくて、服を掴んでしまう。
「ティアン……」
嬉しさと困惑のないまぜになった声が降りてくる。
「し、仕方ないでしょ」
ハロルドがティアンを離したら。
部屋の外から声が聞こえて。
不安でどうしようもない。
「はなさないよ」
腰に手が回り、頭を引き寄せられた。
思いが読まれてしまったのか。
それでもいい。
トクンと、脈打つ胸の音に、堪えた涙が一筋落ちる。
「ティアン、大丈夫だから。もう大丈夫。俺に任せて、安心して」
耳元で優しく囁かれて、青ざめた顔で見上げた。
これまで見たことのない柔和な微笑みで、ティアンを見下ろして、目尻の涙を指先で拭う。
「ゆっくり。呼吸して」
背中を優しく撫でられて、酸素を求めるようにして呼吸する。
ぼうっとする頭で恐怖に、呼吸すら止めてしまっていたことに気付かされた。
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