第83話 新たな来訪者

 ユリナはその日、帰宅した麗央がどことなく、そわそわしている様子にそれとなく、気が付いた。

 しかし、その理由の推察は叶わなかった。

 いつもであれば、麗央が外出する際、にと何らかの手を打つ彼女にしては珍しく、急を要する事項が多かったからだ。


 それでも二人はかれこれ、長い付き合いである。

 麗央は真っ直ぐで分かりやすい男だった。

 彼が気付かれにくいように送って来る視線にユリナも気が付いた。

 麗央の目は熱を帯びており、注がれるのは自分の口許と胸であることに気が付いてしまった。

 会いに行った友人とやらが例の青年根津であることを察したユリナは、また何かを吹き込まれたに違いないと考えた。


 麗央が青年に会ってくる度、二人の秘め事に何らかの新しい要素が加わった。

 それが偶然ではないとユリナが気付くのにさして、時を要さなかった。

 故に麗央の様子が不自然であり、唇と胸ばかりを見てくるのもそういうことなのだろうと容易に推察が出来たのだ。


 ユリナは確かに性的な知識に乏しい。

 しかし、それは単に興味が無いことに対して、極端なまでに冷淡なのに過ぎない。

 一種の性癖に近いものだ。

 その代わりとでも言うように彼女には高い知的好奇心が備わっていた。

 幸いなことに勉強の場は彼女自身が用意したものである。

 YoTubeだった。


 数多あまたある怪しげな動画がユリナの学習材料となった。

 秘め事が夫婦の絆をより強く結びつけるものであると学んだ。

 だが、相変わらず、ユリナの中で赤ちゃんはキャベツ畑にやって来るものと認識している。

 そこに変わりはない。


「ねぇ、レオ。今日はダメだからね?」

「え!? なんで?」


 夕食の席でユリナに切り出された麗央はそわそわとした浮ついた様子から、一転した。

 麗央はあからさまに落胆する表情を隠そうともしない。

 五十六から聞いたあれこれを早速、試してみたい欲求が強かった。

 麗央はユリナの全てを受け止め、ユリナは麗央の全てを受け入れる。

 この関係は未来永劫変わらないものであると信じて、疑いもしなかった。


あの子ゼノビアを呼ぶのなら、今夜が最適なの」


 呼ぶ、あの子と聞き覚えのない単語の連続に麗央は暫し、戸惑う。

 そして、思い出した。

 先日の九十九島の『迷宮』でユリナがユグドラシルに必要なマナを手に入れることが出来て、喜んでいたことを……。


「今夜は満月だもん」


 常に自分に向けられる重苦しいまでの愛情とはまた異なる愛を感じさせる柔らかい表情を浮かべたユリナに麗央の心臓がうるさくなった。

 ユリナが母親になった姿を想像し、さらにうるさくなった心臓が恥ずかしくなり、麗央は無意味に大きな声で「そうだね」と返事をした。

 かくして雷邸の平和な夜は更けていく。




 満月が終わり、数日が過ぎた。

 雷邸の住人が一人増え、少々騒がしくなった頃、かつて出雲と信濃と呼ばれた地でも一波乱の起きそうな気配がしていた。


 気温が低くなった時に起こる神秘的な自然現象『御神渡り』で知られる諏訪湖。

 諏訪湖は三都市をまたがっており、N県で最大の湖沼でもある。

 その三都市の内の一つ、S市に小さな教会があった。


 旧教カトリックの教会は湖畔にひっそりと建っていた。

 歴史的な趣きや重みを感じさせる建物ではない。

 そのような情緒を感るほどに古めかしい訳ではなく、どちらかと言えば現代的なエッセンスが強かった。


 教会の前でベールをかぶり、スカプラリオを身に着けた女性が掃き掃除に勤しんでいる。

 ベールから、日本人にしては珍しいブルネットがはみ出していた。

 ウェーブが一切、かかっていないストレートヘアと同じく、深淵を思わせる闇夜の如き双眸から意志の強さを滲ませる美しい女性だった。

 八坂彼方やざか かなた

 教会唯一の修道女シスターにして、教会のぬしと呼ばれる女傑である。


「神の慈しみに感謝し、汝の罪を告白なさい」

「シスター。僕はとんでもない罪を……」


 告解は教会に設けられた告解場にて、誰が罪を告白し、懺悔しているのかが分からないようになっているのが常である。

 だが彼方が懺悔を聞いているのは教会の礼拝室だった。

 シスターと信者が一対一で向き合った状態で誰が罪を告白しているのか、明らかになっている。

 そのような告解はありえないことだった。

 そもそも修道女は告解を聞くことがない。

 本来は司祭にしか、許されていないのだ。


「いいから、早く言いなさい。あたしも暇じゃないんだよ」


 彼方は胸を張り、凛とした姿で佇んでいる。

 そう言えば、聞こえはいいがその両手は腰にしっかりと当てられている。

 視線も慈愛に満ちているとはとても見えない鋭いものだった。


「姉ちゃんのプリンをぶぎゃらあああ」

「お前かあああ。あたしのプリン食べたヤツあああ」


 「主が許してもあたしが許さないよ」と言わんばかりに罪を告白した少年の顎を打ち抜いたのはきれいに決まった彼方の見事なアッパーカットだった。

 赤く、美しい血筋を放物線状に描きながら、憐れな少年の体が宙に舞った。

 人はシスター彼方のことをこう呼ぶ。

 諏訪湖の鬼姫と……。




 一方、黄泉比良坂駅が存在する地であるS県I町にも運命に導かれし、一人の少年がいた。

 彼の名は山都健やまと たける

 とある大神を祀る大きな社がある町で生まれ育った折れるところを知らない真っ直ぐな性格の少年である。

 彼はまず、自分の名が気に入らなかった。

 英雄伝説の英雄と同じ名なのも気に入らなければ、悲劇的な最期を遂げた英雄も気に入らない。

 全てが気に入らない。

 どこかの末弟と同じく、絶賛反抗期真っ只中にあるのが健少年だった。


「たけっちは贅沢だと思うんす」

「んなことないだろ」


 苛立ち紛れに手に取った小石を手に取ると勢いよく、目前の湖に向かって放り投げた。

 ひゅっと小気味いい音を立て風を切りながら小石は、ぽちゃんと音を立て、沈んでいく。

 健はそれを見やりながら、遥か遠くを見るような目でしれっと隣にいる者へと目をやる。


 背丈は小学生の低学年にも満たない。

 少し大きめの幼稚園児と同じ程度しかなかった。

 それよりも不思議なのはその者が纏っているのは目にも鮮やかな赤いちゃんちゃんこ一枚きりな点である。


 それもそのはず。

 その者は全身を真っ白な毛が覆っていた。

 円らな瞳は黒曜石の色で湛えられ、愛らしい口許の端からはこれまた可愛らしいお髭が顔を覗かせていた。

 もっとも特徴的なのは耳で左右に大きく垂れ下がった耳は大きく、長い。

 誰がどう見ても二本足で立っている垂れ耳の白いウサギにしか見えない姿である。


 言葉を喋る白ウサギが、イナバと名乗ったのがいつのことだったか思い出そうとした健だったがいくら考えても答えは出そうにない。

 それよりも彼の頭を悩ませるのは養い親から、手渡された錆び付いた汚らしい短剣の方だった。

 どうにも気に掛かって仕方が無い。

 健の中ではイナバが誰にでも見える存在ではないことも既に記憶の彼方に消えていた。


「たけっちのそれ、きっとスゴイもんですよ」

「そうかな……俺にはそう思えないけどな」

「イナの勘は良く当たるんす」

「まあ、そうだけどさ」


 「でも、こんなのが何の役に立つんだよ」と手にしていた短剣を鞘から抜いて見せる健だったが、その際、うっかりと指の腹を傷つけてしまった。

 すっかり錆びついており、なまくらのようにしか見えない短剣だが剣先の鋭さは失っていなかったのか、血が一滴、短剣の刀身へと吸い込まれていく。

 その瞬間、健は何者かに心臓を直に触られたような不思議な感覚を覚え、辺りを見回す。

 何者もいない。

 健の様子を不思議そうに見つめるイナバがいるだけである。


 気のせいだったかと短剣を再び、鞘に収めた健は柄に嵌め込まれた深緑色の貴石が淡い光を放ち始めていることに気付かなかった。

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