第6話

 フィオナ・フェルグランドはブリーフィングルームで後片付けをしていた。

 ほぼ毎日の講義は、基地司令官である高遠慎哉たかとうしんや准将からわれたものだ。いや、命じられた、というのが正確なのかもしれない。

 これは、フィオナがこの横須賀基地に――MUFに身を置く条件だ。

 イグドラシルからすれば、敵に寝返った、背信行為、となる。当然だ。今日までMUFの将官から兵士(中には軍属も混じっていたが)にまで伝えたものは、魔法の概論にとどまらず、その運用方法に加え、ハルクキャスターそのものについても説明している。それらは当然、イグドラシル連合の軍事機密だ。

 講義中は、五〇人の受講者のうち半数以上が舟をいでいたが、それを指摘するつもりはなかった。あれだけの受講者がいながら、実際に説明を求めていたのは高遠慎哉とその他数名――横須賀基地内で新兵器開発に関わるスタッフだけだ。だから、説明内容を嚙み砕くつもりはほとんどなかった。最悪、高遠さえ理解していればそれでいいのだから。それは質問者が高遠だけだったことからも明白だ。

 これでいい。

 というやつだ。見返りのためには、まずは与えなければならない。フィオナがイグドラシル連合の情報を提供し、高遠からはフィオナの希望を叶える。そういう取引だ。連合からの攻撃を受けたあの日、世にも珍しいイグドラシルの捕虜という存在に対して、本来なら会うこともなかったであろう基地司令官。職域を逸脱していたであろう、この基地の最高権力者との接触で、交わした契約だ。

 祖国のために。

 自身の責任を果たそうと、フィオナ・フェルグランドは動いているのだ。


 機材を片し、ブリーフィングルームを出る。

 と、そこで肩がぶつかった。

 珍しくもない、日常茶飯事の出来事だ。今はMUFで准尉の立場を得ているが、そう簡単に割り切れるものではない。基地内では、フィオナを『スパイ』や『上手く取り入った捕虜』と、不信感や侮蔑を込めて呼ぶ者もいる。肩がぶつかるのは、せめてもの意思表示だ。

 しかし、普段なら相手からあからさまな舌打ちが聞こえるものだが、今回はそれがない。

 切れ長の目を、正面からぶつかったまま通り過ぎた人物へと向ける。

 栗色のショートボブ――動きやすさや巻き込み防止、CQCを意識してか、この髪型は多い――の若い女だ。グレーのフライトジャケットを着た背丈は、フィオナよりも気持ち高いくらいか。

 正面から殴り倒されるような事態には今のところなっていないが、彼女をはじめ、フィオナに対する感情はあまりいいものではない。一部歓迎の声が上がっていることも、余計に火に油を注ぐような効果を果たしている。自分の嫌いな人間が、他方でちやほやされている構図が、余計に苛立たしさを引き立てているのかもしれない。

 フィオナとて、覚悟はしていた。

 覚悟はしていたが、だから何も感じないかと言われれば、当然そんなことはない。

 自分が選んだ道なのだからと、人知れず歯を食いしばる。それが、なのだと言い聞かせながら。


 フィオナは一度、ローカールームに寄る。日中帯でシフトの合間にも被らない時間帯であれば、ほとんど人がいない場所だ。気持ちを落ち着けるにはちょうどいい。

 ずらりと数十のロッカーが並ぶ空間には、案の定、人はいない。

 自分のローカーがある奥側へと進むと、そこで違和感を覚える。

 中途半端に開かれたロッカーがある。

 自分のロッカーだと気づき、歩み寄る。

 扉を開け放つと、ハンガーにかかるフィオナの白いTシャツが目に映った。

「またか」

 龍斗りょうとと出会った翌日、何着か同じものを買ってもらった、その内の一着だ。

 そのシャツは、胸の部分が鋭利に裂かれ、そのすぐ下には口紅のような赤で、『Bitch』と書き殴られていた。

 昨日は『Witch』だった。

 昨夜洗濯してみたが、赤が薄くなるだけで消えはしなかった。『何をしようがお前は敵だ』と言わんばかりに、痕跡を消すことは叶わなかった。ゴミに出すしかないと思い、ひとまずほとんど物が入っていない洗面所の戸棚の奥に突っ込んだままだったことを思い出す。

 今朝の様子だと、龍斗は何も気づいていない。結構なことだ。今日だって、隣に座った作業服の女に色目を使っていたくらいだ。ちらちらと横を見ては躊躇うように視線を戻していた。気持ち悪い。不愉快だ。龍斗のクセに。

 そんな感情を抱いていた、その時。

「どうしたの?何かお困りか?」

 若い女の声が、フィオナの後ろからかけられた。

 栗色のショートボブにグレーのフライトジャケット――さっきぶつかった女だ。

「わぁお、すっごいじゃん」

 そして、フィオナのロッカーに掛けられたTシャツを見て、口笛を鳴らした。

「クールなシャツじゃない。お似合いだよ」

 その顔に浮かんでいるのは、明らかに嘲笑だ。悪意を隠そうともしていない、下卑た笑い。

 フィオナは犯人を察し、しかし黙った。

 「どういうつもりだ?」と訊いたところで、心の内などわかりきっている。

 さっさと消えろ。失せろ。死ね。

 そういった類の言葉に集約される感情であることなど、火を見るより明らかだ。

「おや、地球の言葉はわからないか?」

 黙っているフィオナに対し、女は口の端を上げる。何を口にしようがしまいが、結果はかわらないということか。嘲弄であることはわかっている。先ほどの講義には、この女も出席していたのだから、言葉が通じることなどわかりきっているだろうに。ついでに、開始早々寝落ちしていたのも認知している。

 胸の徽章――ウイングマークと、肩の部隊章から航空機パイロットでろう。講義出席者の名簿はもらっている。恐らく、ミアリー・ジョンソン中尉。第一五三戦闘攻撃飛行隊所属。龍斗の元所属と同じ飛行群なので、顔見知りかもしれない。

「気遣い無用だ、中尉」

「フン」

 突き放すようなフィオナの返事に、ミアリーは不敵に笑うのみ。

「随分と余裕そうだな。高遠司令やら相模のボンボンやらが後ろ盾で安心ってか?」

 別に高遠の存在は後ろ盾とは思っていない。あくまで利用し利用される関係だ。むしろリターンは高遠の方が多いと思っている。

 だが、相模のボンボン――言い方からして、基地副指令である相模中佐の息子である龍斗のことだろうと容易に察することができた――の方はといえば、それこそねぐらの確保くらいのことだ。あとついでに映画もか。とにかく、相模龍斗を後ろ盾などと思ったことはない。心外だ。

(立場のある人間の親族に向けられる目というのは、イグドラシルも地球も変わらないらしい…)

 むしろ、今の言葉で多少なり龍斗に同情したくらいだ。

「どうせ、帰ったらしこたまあのボンボンの相手でもしてるんだろ?オンナ使ってよ」

 フィオナの内心など知ろうともせずに、ミアリーは口元をゆがめ、切り裂かれたシャツを顎で指しながらわらう。

「セクシーな衣装になったじゃんかよ。スパイにはお似合いだ」

「リョウトはそういうヤツじゃない」

「お?お前の方がお熱かよ」

「黙れ」

「やるか?来いよ」

 わかりやすい挑発だ。もしここでフィオナが手を出せば、軍規どうこうの話では済まない。スパイが本性を現したと、声高らかに喧伝されることだろう。その流れができてしまえば、もしかしたら高遠もフィオナを『切る』かもしれない。

 そこまで考えて、フィオナは鋭い視線を向けるだけにとどめた。

(安い挑発に乗るな。わたしにはやるべきことがある。だから、こんなことで……)

 今すぐ、目の前で下卑た笑いを浮かべる上官に殴りかかりたい衝動を抑え、フィオナは拳を握る。その視線と握り拳だけが、今できる精一杯の抵抗だ。

「チッ、つまんねぇ腰抜けが」

 舌打ちと共に、ミアリーはきびすを返した。

 随分あっさりとした退き際だったが、ただ単に『今日は』これで終わりなのだろう。

 ロッカーの角から消える間際、ミアリーは振り返らずに指を振った。

 これが日常になるのだと、暗にそう告げたのだった。

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