死刑宣告
「少し、休みませんか」
そうやって優しく微笑む先生の言葉は、私にとって死刑宣告にも等しかった。
死刑囚をいつ絞首刑にかけるのか、決定権を持つのは相手。「死にたくない」と言っても、それを自分で覆すことはできない。しかし、逆に言えば『自分の意志では死ねない期間』ができることになる。つまり、私が「死にたい」と言っても、私に決定権はない。
「私を病気扱いしないでください」
「それじゃあどうして、たくさん薬を飲んじゃったり、腕を切っちゃったりするんでしょうねえ」
先生はちらりと私の腕を見たあと、すぐに視線をカルテの方へ向けた。
「誰だって死にたくなることくらいありますよ」
「それは、一過性のものですよ。行動に移す人はほとんどいません」
「なにが言いたいんですか」私が怒ったように言うと、先生は再びこちらを見た。
「下がアスファルトだったら、死んでたかもしれないですよ」
「じゃあ、次からはちゃんとアスファルトに向かって飛べるよう気をつけます」
「そういう問題じゃないです」
先生の言うとおり、地面がアスファルトだったら死んでいたかもしれない。『1メートルは一命取る』という安全衛生の標語があるように、脚立から墜落する死亡災害というのはよくある話だ。
一週間前、私は家から少し離れたところで飛び降りた。しかし、アスファルトの上にではなく、ビルの3階程度の高さしかない橋から一級水系である荒川に落ちたのだ。体にはいくつもの痣ができ、一時的に体温が33.7℃まで下がったが、水面がクッションになったため一命を落とすことはなかった。
どうして橋の上から飛び降りたのかは、あまり覚えていない。飛び降りたのは夜中だったようだけれど、日中は普通に生活していた。そもそも、ここしばらくは元気に暮らしていたのだ。新宿にある病院でアルバイトを始めたし、退学した学校に入り直そうと、勉強だってやり直していた。
なので、自分でもよくわかっていない行動について注意をされても、嫌味で返すしかなかった。
先生はため息をついた。
「部屋が空き次第、入院しましょうか。今度は、お母さんと一緒に来てください。それではお大事に」
新しい処方箋と次回の予約票、それから精算用の書類が入った袋を私に渡すと、この日の診察は終わった。
会計が終わるまでの間に電話ボックスへ行く。それから開口一番、「次の診察は一緒に来いってさ。入院だよ、入院!」と買ったばかりのスマートフォンに向かって怒鳴りつけた。
「じゃあ、お泊まりセット用意しておくよ」電話口の相手は、特になにも驚かなかった。次の診察日を告げると、私はすぐに電話を切った。
入院当日は、母も一緒に診察室へ入った。そこには主治医の他にもうひとり医師がいて、「ごめんなさいね、そういう決まりがあるので」と主治医が断りを入れた。
もうひとりの医師が、手に持っていた紙切れの内容を読み上げる。それから、一番下の署名欄に名前を書くよう私にうながした。
ここでサインを断っても意味がないことは、先ほど読み上げられた紙切れの内容でわかっていた。そういう決まりなのだ。それに、私はすぐにでも拒否権のないこのやりとりを切り上げたかった。前回の診察で処方されたヒルナミンが体に合わず、頭がふわふわして気分が悪かったので、さっさと終わらせてくれと願った。
一連のやりとりを終わらせて診察室を出ると、看護師に声をかけられた。「ご本人様ですか?」と声をかけてきた彼女は、私よりも2、3つ年上くらいの若い看護師だった。
「それじゃあ、病棟に案内しますね」彼女に案内され、私は母とわかれた。
「病棟って遠いんですね」
長い廊下を渡り、何枚もの扉をくぐることに飽きた私がそう言うと、看護師は「そうですね、外来からはちょっと離れてます」と苦笑いを浮かべた。
「これじゃあ逃げられないですね」
「逃げるつもりですか?」
「さあ?」
逃げるかどうかという問いに、私はしらを切った。
「体調は良くなりましたか?」
「全然。むしろ悪い。第二世代の薬があるのに第一世代の薬を出すなんてどうかしてる。ヒルナミンを飲んでからずっと体調が悪い」
「今回は副作用が強く出ちゃいましたけど、先生も考えがあって処方してるので……早く良くなるといいですね」
看護師の言葉は、社交辞令で言ったわけでも、同情で言ったわけでもなく、ただ事実として『早く良くなるといい』という気持ちが込められているような気がした。
ずっと真っ直ぐ廊下を歩いていると、道が二手にわかれた。こっちです、と看護師が案内した先には、エレベーターが2台ある。私たちはそれに乗り、看護師が3階のボタンを押した。
それを見たとき、私はものすごくどうでもいいことを思い出した。こんなしょうもないことを思い出せるくらい心に余裕があるなら、私は入院するほどの大した病気ではないのではないか。そんなことを考えたりもしたが、エレベーターは止まることなく、目的の階へと昇っていった。
到着したフロアには扉が2枚あった。ここまで来る間に渡ってきた廊下にもたくさんの扉があったけれど、あれらは自動で開いた。しかし、この扉は勝手に開いてはくれない。看護師が首から下げていたキーをかざして、ようやく1枚目の扉が開いた。
中に入ると、金属検査が行われた。それから、タバコやライターを持っていないか聞かれたので、看護師の質問には答えず「吸うように見えますか?」とからかうように言ってみせた。院内でタバコを吸う人間がいるのか知らないが、少なくともこの病院は敷地内の全てが禁煙らしい。ヘビースモーカーはきっと、精神をすり減らすことになるだろう。
一通りの検査が終わってようやくもう1枚の扉が開いた。右手にはテレビが置いてある食堂のような空間があり、その奥はおそらく病室があるのだろう。左手にはナースルームがあり、数人の看護師が忙しそうにしている。
看護師は、左右どちらでもなく、目の前にある廊下を指差した。そこにもまた扉が2枚あり、それらはどちらも開いていたが、ここでようやく《閉鎖病棟》に入院するという実感が湧いてきた。私の部屋は、その扉の奥にあると言う。
《保護室》と書かれたそこは、どれも部屋の扉がきっちりと閉められていた。小さい窓がついているのか、ピンクのカーテンまで取りつけられている。その中で、ひとつだけ扉が開いているそれが私の部屋だった。
自分のことを死刑囚に例えたのは、あながち間違っていなかったようだ。簡易的なベッド、小さな床頭台、それから部屋の奥には、なにかを隠すような中途半端な長さの壁……そのさらに奥には檻がある。檻の向こうは人ひとりが通れそうなスペースと、磨硝子でできた窓があった。しかし、磨硝子の窓から外の景色なんて見えず、光がかすかに入るだけだった。
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