32.お気に入りはどれ?
黒服のお姉様がBARの店員のようにして、カウンター向こうで食器棚からクリスタルのグラスを準備したりしている。
乃愛と海人先輩はふたたび夜の海を目の前にソファーに並んで座る。食事をしたテーブルにチョコレートの箱を置いて開けてみる。
芸術的に作り込まれたショコラアソートが美しく並んで、夜の柔らかな照明の中、輝いている。
「わあ、綺麗ー。実は、冷蔵庫で見た時に、明日から艦に乗ったら甘い物とあんまり出会えなくなるから、一気食いしたい~とか思っちゃっていたんですよね~」
「遠慮しないでと言っているのに。でも、藍子さんも最初に来たときには遠慮して置いていったから、それからエリーは『お土産に』と帰る時に渡すようにしたんだ。これからここに泊まるときには持って帰らないと、そのたびにエリーが追いかけて来てしつこく押し付けてくるよ」
そこまでならばもうほんと遠慮いらないんだなと、乃愛もだんだんと御園の流儀がわかってくる。
「藍子さんもいまは、エミルさんとここに家族で泊まりにくると、なにも言わないで喜んで持って帰ってくれているよ。城戸家もね。それから、この箱のアソートは全部味わっておいたほうがいい」
「どうしてですか」
乃愛が首を傾げると、海人先輩が50個ほど入っているアソートの中のひとつを指さした。
「これ、俺が毎回外さずに食べるお気に入り。こっちは、俺の妹が絶対に誰にも譲らないお気に入り。母さんはこれ、父さんはこれ……」
ひとつの箱の中で、分けて食べ合う時にそれぞれのお気に入りが決まっているということらしい。
「藍子さんはこれで、エミルさんはこれ。城戸家の心美はこれ。双子のユキはこっち、ナオはこれ。ナオの奥さんのルルちゃんはこれ……。皆それぞれあって、この箱を開けた時にどれを先に選ぶか決まってるんだ。不思議なんだ。最初の一個は被らないんだよな」
そこで隣に座っている先輩が乃愛へと視線を向けた。
「君はどれになるのかな。次に教えて。皆で集まる時にけっこう重要なことになるんだ」
「そ、そうなんですね。わかりました。次には決めておきます!」
「でも俺のお気に入りと被るかもしれないから、今回は俺のも食べて覚えておいて」
「はい。んじゃあ……まず先輩のお気に入りからいただいちゃいます」
「じゃあ、俺は第二候補の妹のお気に入りから行こうかな」
二番目に好きなショコラは、妹さんの一番お気に入りらしい。
兄妹だから、それとなく似ているのかなと思ったりした。
そこでエリーがこれまた美しい所作で、空気のようにさっとブランデーグラスを乃愛と海人先輩の前に置いてくれた。
薄めていないストレートのブランデーが、高級そうなクリスタルグラスの底にほんの数センチだけ入っている。
ショコラを頬張ったあとにブランデーを含めると、口の中は大人の華やかな香りでいっぱいになった。たぶんブランデーも特級品なんだろうな。ああ、これは父ちゃんに味わってほしいやつだとか思ってしまった。
「おいしいですぅー。遠慮した自分をいま殴っています」
「ちょっと……。殴ってるって……」
また先輩が笑い出す。あんまりにも可笑しかったのか、口元を手で覆ってなんか堪えているようになっている。
乃愛ももぐもぐした顔を向けてみたのだが、それも笑われてしまった。
「先輩のお気に入り。ビターなんですね。ちょっとほろ苦い」
「子供の頃は妹が気に入っているミルクチョコのほうがお気に入りだったんだ。でも、兄ちゃんだからさ。譲っているうちにビターのほうがしっくりしちゃったんだよ。妹は大人になったいまもまだミルク味が優先」
「妹さんは、確か、音楽家でしたよね。何度かお見かけしましたけど、いまも旧島にいらっしゃるんですか」
先輩に妹がいることは知っていたが、乃愛の父が新島の部隊に異動してからは旧島に誰が残って暮らしているかはわからないので、妹さんの現在は知らない。もともとスクールも一緒ではなかったので、一度、二度、見かけただけだ。
先輩が妹さんお気に入りのチョコをつまんだまま、静かに微笑んだ横顔で教えてくれる。
「妹は音楽修行のために、音楽家だった母の従兄に預けて、フランス留学をしていたんだ。音楽学校を卒業して、いっときだけ、妹も小笠原旧島の実家で過ごしていたんだけれど。いまは岩国で暮らしているよ」
「妹さんは岩国!?」
まさかの自分が育った場所に先輩の妹さんがいると知って、乃愛は驚く。
「うん。愛する男を追いかけてね。ついていったんだ、彼が異動した先に」
「妹さんのカレシさんって、岩国の部隊の方なんですか」
漆黒の美しいロングヘアのお嬢様、栗毛白人系の先輩と違って、日本人形みたいに綺麗なお嬢様という印象だった。
海人先輩でこんな御曹司ぶりなんだから、妹さんも相当なクラスのお嬢様のはず。そんなお嬢様に見初められて追いかけられている男性隊員って、めっちゃ逆玉の輿。それはその男だって悪い気はしないだろうし、誰だ――という、ちょっとした邪な興味が生じてしまった。
「その男性、妹さんが追いかけて行くって、かなり愛されていますよね」
「うん。妹はもうその人、ひと筋。子供のときから。だから俺も応援はしているんだけどね。彼の方がね……」
「どうしてですかあ。しかも子供のときから!? 一途にその男性を愛しているんですね。さらに御園のお嬢様ですよっ。私、少ししかお見かけしなかったけれど、すっごく綺麗なお嬢様でしたもん。黒髪がとっても綺麗でお上品で」
信じられない――と乃愛が男性の心情やいかにと訝しんでいると、海人先輩が苦笑いをこぼした。
「えっと……。その男っていうのが、18歳年上で……」
「18歳!?」
その男性、いま何歳なのよ――と、乃愛は口に含んでいたブランデーを噴き出しそうになった。
「あんまりにも年齢が離れているのと、俺たちが子供の時から、御園家で一緒に暮らしてきた兄貴みたいな男性なんで、彼としては家族であって、妹だか姪みたいな存在だから、俺は相応しくないと突っぱねていて――」
男性は年齢差を気にしているようだが、妹さんは諦めていないってこと? 妹さん、もしや私みたいなファザコン?? そんな心情しか乃愛には探ることが出来ない。ほかに心が離れない女心ってなに? と困惑しかなかった。そしてやっぱり海人先輩は困ったように笑って、説明に戸惑いがあるのか口ごもっている。
だが『おふたりの状態』をずばっとひとことで伝えてきた。
「いわゆる、事実婚――なんだよね。妹とその兄貴」
事実婚!? 熱烈に追いかける若いお嬢さんと、父親みたいな年齢の男性が『俺は相応しくない』と必死に突っぱねて、収まりがつかないおふたりなのかと思っていたら、一気に飛び越えて『実は夫と妻とかわらない』と伝えられる。
乃愛は絶句して、ただ先輩を見つめるだけになっていた。
そして海人先輩はまた困ったように緩く笑みを浮かべているけれど、乃愛に告げる。
「ここに出入りするなら、妹も紹介しておきたいから、これ前情報として伝えておくよ」
「そ、そうですか。了解です。でも会える時が楽しみです」
「夏季休暇に帰省してくるよ。君が航海から帰還してからになるかな」
楽しみなのは本心だが、乃愛も繕い笑顔でしか返せなかった。
かなり複雑なご関係と察した。夏季休暇の時期になったら会えるのかな?
---🍫🌜
アソートのショコラ、美味しくてけっこう食べてしまった。
全部試食は無理だったが、いまのところオレンジピールとコアントローが入っているオランジュショコラが暫定的1位になった。
海人先輩が言うには、オランジュショコラは誰とも被っていないらしい。これにしようかな? ブランデーとオレンジの香りが混ざった素敵な瞬間がお気に入りになりそうだった。
ブランデーの酔いも手伝って眠気が襲ってくる。乃愛は就寝のために先輩のお部屋をお暇することに。
先輩とふたりきりの食事だったが、途中からエリーがずっと気にしない程度の距離でキッチンにいてくれたので、緊張せずにすんだ。御園家の執事のようなお姉さんがずっといたのだから、これで先輩と変な噂も立たないだろうと安堵もしていた。
先輩の部屋を出て行くとき、エントランスで先輩とエリーが並んで見送ってくれた。
「俺は明日、始発のフェリーで早めにここを出て、旧島に帰るんだ。早朝だから、今回はここでお別れとするよ。帰還したら必ず連絡を」
「わかりました。先輩もフライト気をつけてください。帰還したら必ず連絡します」
「明日の朝は、好きな時間に起きて出ていくといいよ。帰る時はエリーに知らせて。彼女が見送ってくれるから」
「わかりました」
そこで先輩と最後に視線を合わせる。
「無事のご帰還を――」
「先輩もご安全に――」
何故か、そこで揃って敬礼を合わせていた。
どちらかが先にしたわけでもない。揃ってしまったのだ。
だがそれはやはり互いに軍人だからだ。そして、いまここから、乃愛と海人先輩は『少尉と少佐』に戻ったのだ。
大きな玄関を出るのだが、ドアがしまりきるそのときまで、先輩は乃愛を見つめてくれていた。エリーは綺麗なお辞儀をそのまま、頭を上げることはなかった。閉まるまでその姿勢を保つようにしているのだろう。
戻って来た白いファブリックの部屋は、もう青い夜に包まれていた。
乃愛はそのまま灯りも付けずにベッドに倒れ込む。酔いも手伝ってもう……。酔い……、それはブランデーのせい? 違う酔いも入っているような気もした。
シーツに頬を埋めて、乃愛は呟く。
「浸水、通路浸水防止処置不可。ブランデー水、前方から大量流入中。バラスト、コントロール不可。左舷側に30度の傾きを確認――……。以後の防水ルート予測不可能、退避不可能、シーツ海へ転覆……かな……」
ブランデーだけじゃない。海人先輩の和の匂いも鼻孔の奥に残っている。すごく上品な貴公子の香り。白人のお顔なのに、なんで和の香りが似合っているのだろう? お父様が純正日本人だから? どこにもない先輩のためだけの香りに思えた。御曹司だから、そんなトワレを持っているような気もしてきた。
あの匂いがブランデーの香りとともに乃愛を包んでいる。
心が、傾いている気がしている。
翌朝、乃愛はもう一度お風呂を堪能させてもらって、身支度を終えてエリーに連絡。駐車場で見送ってくれた。
ご両親も今日は忙しくしているとのことで、ご挨拶は昨日のお暇のもので構わないとエリーが教えてくれる。
「それでは。剣崎少尉、いってらっしゃいませ。またお目にかかりましょう」
「お世話になりました。行ってまいります」
お辞儀を深々とするエリーが、RX-7を発進させる乃愛を軍人として送り出してくれる。
たった一日、たった一泊。昨日のいまごろは、峠で先輩と会うためにこの道を走っていた。でもとても長い夢でも見ていたような一日だった。
夢から目が覚めて、乃愛もハンドルを強く握って気持ちを切り替える。
いまから自分はDC隊員の剣崎乃愛に戻る。
父がひた隠しにしてなんとか前を歩き始めたと知れたから。乃愛は乃愛の出来ることをする。
この日の夕、乃愛はDC隊の作業服に着替え、ウィラード艦へと乗り込んだ。
もう海上、乃愛が陸を踏めるのは一ヶ月後の予定。
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