48
空が高い。
アーデルハイトはただ、そう思った。
約束を果たした。民の前で高らかに宣言したあの約束は、これで果たされたと言っていいだろう。
アーデルハイトは、ハッセルバムの民へと愛を証明してみせたのだ。
「ふぅ……さすがに緊張するな」
ゴルダイム辺境伯領、レッドラインの街から外れたところにある平原にアーデルハイトはいた。
数歩離れた先にいるクリセルダ以外、この広い平原には誰もいない。誰かの声もなければ、獣の咆哮もない。あるのは、草を揺らす静かな風の音だけ。
約束を果たそう。とクリセルダはそれだけを述べて、ハッセルバムへと戻る前にアーデルハイトをこの平原まで連れてきた。
クリセルダの復讐は果たされたと言っても良いのだろうか。
故郷を返す、と約束はしたけれど、クリセルダの家族を奪ったノルベルト二世はもうこの世にはいない。メルダース帝国の解体だけで、クリセルダは満足だろうか。
「青薔薇。お前が私に故郷を贈ってくれた。ならば私も約束を果たすときがきた」
離れた位置にいるクリセルダが微笑む。
相変わらず、美しいひとだ。髪も、瞳も、立ち姿も、生きとし生けるもの全てを連れてきたところで、このひとよりも美しいものなど存在しないだろう。
クリセルダという女は、在り方そのものがなによりも美しい。
「ここが、私の故郷だ。小さな小さな、龍の里だった。森深くに住まいを築き、この樹海のなかで龍たちは生きてきたのだ」
メルダース帝国が切り開いた樹海。そこにつくられたゴルダイム辺境伯領とレッドライン。
メルダース帝国内では栄光の開拓物語として親しまれていた。開拓隊に憧れてこの地を目指す者がいたほどに。
けれどそれは、龍の血に塗れた歴史。けしてヒト族の知り得ない、哀しい物語。
「全てを奪われ、復讐を誓ったときに、私は亡き家族に誓いをたてた。翼をもがれた痛みをけして忘れぬ、と。ふたたび己の翼で空を舞うのは、この地を取り返してからだ、と」
お前のおかげで、またこの地に帰って来れた。
「喜んで、いただけましたか」
「ああ! 龍の一生からすれば短くとも、六十年は長かったな……けど、けどな、青薔薇」
はい、陛下。と続ける。
『陛下』と声に乗せても、もう迷うことはない。脳裏に浮かぶのは、もうこのひとだけ。
想うのは、もうこのひとだけでいい。
アーデルハイトはもう、父も、弟も、マーティアスすらも愛していなかったことを知っている。ただ知りもせぬ愛という感情に執着していただけだと、アーデルハイトは生まれ変わってから知った。
だから、クリセルダはアーデルハイトが初めて愛したひとで良いのだ。そう思っても、良いのだ。
アーデルハイトが愛する『陛下』はクリセルダただひとり。それで良い。
地獄に堕ちるべきアーデルハイトが、こんな幸福を味わって良いものか。けれど、クリセルダが返す愛に幸福を感じるこの胸は、誤魔化しようもなく
「この地に帰れたことが嬉しいのではない! お前が、私のためにこの地を贈ってくれたことが嬉しいのだ!」
「……はい」
「はは! 本当にわかってるか?」
ぶわりと、風のように金色の魔力が舞い、渦を巻く。離れていてもわかるほどの強い威圧感は、思わず膝をついてしまいたくなるほどの重さがあった。
「お前の! アーデルハイトの愛の証明が嬉しかった、と言っているんだ!」
嗚呼。
このひとは。
このひとは、なぜ。
どこまでも。どれほどの。
「港町で約束しただろう。復讐が果たされたそのときに、お前を背に乗せて飛ぶと。この地に残る最後の龍の、本当の姿を見せてやる!」
力むように、クリセルダが目を閉じた。
渦巻く金色が収縮し、先も見通せないほどの濃度でクリセルダへと戻っていく。
びりびりと空気が震え、ざわざわと草が揺れる。遠くの木々さえも軋むように悲鳴をあげた。
重く、重くのしかかるそれに、アーデルハイトの膝までも折れてしまいそうだった。
アーデルハイトは目をひらく。けして逸さぬように。
膝を折ってはいけない。この金色に、屈してはならない。
アーデルハイトはこの女の妻なのだから。漆黒の龍の隣に立てる、ただひとりの女なのだから。
クリセルダがアーデルハイトの愛を受け止めてくれたように、アーデルハイトもまた龍の愛を受け止める。
そのすべてを、受け止める。
濃度の高い金色がさらに濃度を増し、徐々に徐々に夕陽のように濃く、炎のように赤く、そして夜の帳が下りるように漆黒へと姿を変えた。
金の嵐が落ち着いたとき。そこにいたのは、どんな光さえも飲み込んでしまいそうな漆黒の美しき怪物だった。
両翼の皮膜も、鈍く光る鱗も、四つ足の先で尖る爪さえも、何もかもが闇く輝く。
動きを確かめるように翼を震わせただけで、辺り一体に強風が巻き起こった。
これが、龍。
ただ立ち尽くすように見つめるアーデルハイトの元へ、漆黒の龍が一歩、また一歩と近づく。地が揺れ、大地が鳴く。
触れられるほどまで近寄って、その巨大な銀色の瞳がアーデルハイトの目を捉えた。
開いた口の中には、尖った肉食の牙が整然と並ぶ。あぎと、と呼ぶにふさわしい。
それはまさしく、恐ろしき獣。
「怖いか」
不思議な感覚であった。
その大きな口から響くのはいつもどおりのクリセルダの声で、巨体から発せられているとは思えないほど、空気も震えない。
これは、どこから出ている声なのだろう。
「いま、怖くはなくなりました」
美しき獣が、アーデルハイトの愛するクリセルダだとわかったから。
銀色の瞳は、たしかにクリセルダのものだったから。
その爪がアーデルハイトの身体を引き裂いたりはしないとわかるから。
この
手を伸ばして、鼻先に触れる。
冷たくはない。けれど、温かくもない。
手のひらをあて、滑らかな鱗をなでる。
「怖いもの知らずめ」
クリセルダが笑った。
「龍とは、美しいものですね」
「……そうか」
「……はい」
銀色の目から流れた大粒の涙が、アーデルハイトの手を濡らした。
涙はあたたかく、この恐ろしくも美しい獣が生きていることを実感させる。
身を寄せ、頬を寄せる。硬い皮膚に、くちびるを押し当てる。
「痛い。痛いな」
アーデルハイトには、その痛みはわからぬ。これから先、どれだけ永く共に生きたとしても、その痛みをわかる日は永遠にこない。
アーデルハイトとクリセルダは違う生き物だ。アーデルハイトの胸の痛みをクリセルダが知らぬように、アーデルハイトもまたクリセルダの痛みはわからぬ。
「私は、はは! そうか、私は大きくなったのだな。この姿を最後にとった日、私はまだ幼い子どもだった。それもそうだ。私は大きくなったんだな」
クリセルダが翼をもがれてから、もう何十年も経った。何十年も、経ってしまった。
その痛みをひとりで抱えながら、クリセルダはクリセルダ本人も知らぬままに大人になったのだ。
その哀しみも、その辛さも、その虚しさも、アーデルハイトにはなにひとつわかってはあげられない。
わかろうなどとおこがましい。その痛みはすべて、クリセルダのものなのだから。
ゆえに、わかりたい、と願った心をアーデルハイトは疎ましく思う。
「大きくなんて、なりたくなかったな……ずっと、あのままでいられたらよかった」
「……そうですね」
アーデルハイトの前にたたずむ大きな身体は、アーデルハイトの腕では抱きしめられない。
貴女を抱きしめたいから、いつもの姿のほうが好ましい。そう告げるのは、酷なことだろうか。
口付けたときにあたたかいから、いつものあなたがいい。それを告げては、このひとを傷つけるだろうか。
そんなことで悩む日が来るなど、アーデルハイトは想像もしていなかった。
心とは、感情とは、なんと疎ましいものか。自身の力で制御できぬものなど、為政者は持つべきではないのに。
なのに、どうして。なぜ、想うことをとめられない。なぜ、想うことが幸福なのだろう。
「それでも、わたくしが出会い、愛したのはいまの陛下です。わたくしが愛しているのは、いまの陛下です」
アーデルハイトはクリセルダの若き日を知らないのだから。知った気にはなれても、本当を知ることは出来ないのだから。
ゆえに、アーデルハイトが愛せるのは、憎しみを抱き、龍の掟を破りながらも、優しさを捨てきれなかった、このちぐはぐな龍しかいない。
この愛のためならばなんだってしてみせるけれど、過去を贈ってやることはできない。アーデルハイトはただの女であって、けして神ではないのだから。
そして、その過去にはアーデルハイトはいないのだから。
クリセルダの隣に立てる女は、アーデルハイトだけでいい。
「そうか……そうだな。それもそうだ。ハッセルバムをつくったからこそお前を拾い、ハッセルバムがみっともない国だったからこそ、お前に愛されたのだったな」
クリセルダが笑うと同時、漆黒が鈍く金の光を放ち、どろりと溶けるように霧散した。
そこに立つのは、涙で頬を濡らし、背に翼を携えたクリセルダであった。姿が戻ったことを確かめるように、何度か手のひらを握っては開く。
そのまま、何かを言う前にあたたかな両腕がアーデルハイトを抱きしめる。
そっと腕をまわして、たしかに、自らの意思でその身体を抱き返した。
「私と、飛んでくれるか、アーデルハイト」
「ええ、喜んで」
貴女が望むだけ。
アーデルハイトはクリセルダと飛ぼう。
もしも目指す先が空を超えた先にある太陽なのだとしても。
原初の龍しか辿り着くことの叶わなかった空の果てでも。
クリセルダが共に来てほしいというならば、アーデルハイトに断るという選択肢はない。
たとえそこに辿り着くまでに、アーデルハイトが二度目の死を迎えようとも。
どこまでも、貴女と飛んでみせよう。
クリセルダが望むのならば、アーデルハイトは喜んで空へと赴こう。
クリセルダの愛が『死ぬまで共に生きたいと願うこと』ならば。
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