16


 途中何度か休憩を挟んだ先で、実地調査中の街道整備隊に出会った。

 街道設計を担当する岩窟人と、その護衛を任された第四軍の兵たちである。


 第四軍の面々は突然現れたクリセルダに緊張して直立不動を保っていたが、それとは対照的に、岩窟人たちは過酷な労働の中にありながらも生き生きと働いていた。


 ありがとうございます、ありがとうございます。と、しきりに小さな体躯を折り曲げて、こんなにやりがいのある仕事を貰えるなんて、と喜ぶ様が印象的だった。

 対するクリセルダも満足げで、その周囲には威圧感を抑えた魔力が揺らめいていた。クリセルダの内心が良く見て取れる。


 『こんなことなら、もっと早く仕事を与えていれば良かった』と、クリセルダが空の上で呟いた。

 魔族たちは少数種族の寄せ集めで、そのほとんどが土地の恵みによって命を繋いできた。力が弱いから身を寄せ合い、生きるために国を成した人間とは違う。

 住む土地さえ奪われなければ、彼らが人間の真似事をして痩せた土地で国を作ることもなかったはずだ。


 国を成す術さえ知らず、困ったことがあれば力で解決しようとする。餌がなくなったから山を降りてくる、やっていることは魔獣と同じだ。

 ややもすれば、アーデルハイトにとってそれらはひどく野蛮で、本当に文明の中を生きる存在なのかと疑ってしまいたくなることもある。


 けれどハッセルバムの民は、けして魔獣ではない。感情を、心を宿し、言葉を用いて生きている。大国に生きたアーデルハイトからすれば一歩も二歩も遅れているように思えてしまうが、それは人間が優れた生命体の頂点なのだという傲慢な考えでしかなく、このまま頭を悩ませていたらやるべきことさえ見失ってしまいそうだった。


 国と名乗り、一部分の種族は首都で生活を営んでいる。けれど、ハッセルバムを構成するそのほとんどは、未だに小さな集落に閉じこもって生きている。


 空から見渡すハッセルバムは美しかった。広大で、雄大で、複雑で、まるで一つの命のように。

 その景色を切り開くことが、本当にハッセルバムに尽くすことになるのか。否。しかし仕事を与えられた岩窟人たちは喜んでいたではないか。作物を育てねば、魔族はまた飢える。そこに待っているのは、魔獣と変わらぬ生活だ。


「青薔薇、疲れたか? 魔力が安定しない」

「いいえ。少し、考え事を」

「しばし待て。面倒な思惟など忘れさせてやる」


 スラ・ダリナの中腹を迂回するようにグリフォンは飛ぶ。頂上付近を越えるためにはワイバーンの縄張りを抜けなければいけず少々面倒であるという。

 危険だから、ではなく面倒だから、というのが魔王らしい。


 日はすでに傾き始め、空が橙へと変わりつつある。


「この時間になるようにわざわざ調節した甲斐があったな。青薔薇、十数えろ」

「十、ですか?」

「ああ。スラ・ダリナを抜けるぞ! ハイヤ!」


 山腹を横目にグリフォンが再び高度を上げる。急上昇と急下降に伴う気持ちの悪さも、何度か繰り返すうちに慣れてしまった。


「数えろ、青薔薇! 十、九、八!」


 駆け上がるように空を昇る。外套がはためく。


 七、六、五。


「しっかりと目を開けておけ! 三、二ッ!」


 いち。


 クリセルダの声に合わせて、スラ・ダリナを突き抜けるように空へ舞い上がった。


「わあ!」


 思わず少女のような声が出てしまったことに、恥じらう余裕もなかった。


 青、橙、紫、群青、緑。

 目の前に広がったのはコバルトブルーを湛えた広い広い海と、沈みゆく太陽。燃え盛る火の塊が、母なる海に包み込まれていく。滲むように、黄金色の太陽が青い海に溶け出していた。

 地平線は丸く、その向こうさえ見えない。空の果てはまだまだ遠く、群青色の夜が帳を下ろそうと迫り来る。


 なんと。なんと美しい景色だろう。


 この海はメルダース帝国よりも広いのだろうな。そして、それすら包む空は、もっともっと、なによりも広い。

 悪竜から人々を守ったという初代皇帝。神の血より生まれたとされるかの英雄すら、きっと見たことのない光景だ。


 自慢げな言葉を掛けてくるかと思いきや、クリセルダは少し身を乗り出して、アーデルハイトの顔を覗き込むだけだった。

 目が合うと、とろりと魔力を流しながら微笑み、また前を向く。


「気に入ったか?」

「はい……まるで、陛下のようですね」

「ん?」


 クリセルダに覗き込まれて気が付いた。海に溶け出す黄金色の太陽。ゆらり、ゆらり、と揺めきながら、眺めているこの時も沈み続けている。群青色の夜がそれを追いかけ、すでに銀色の星々がぽつぽつと姿を現し始めていた。


「……陛下の瞳みたい」


 子どものような言葉遣いで漏れた心の声に、クリセルダは笑うこともなく、そうか、と呟いた。


 銀の瞳からとろりと溶け出す金の魔力。暮れかけの空に浮かぶ銀の星と、海に滲む黄金色の太陽。美しく雄大な眺望に降りてくる夜。


 この情景こそまさに、アーデルハイトの見るクリセルダ・ハッセルバムであった。


「私はお前のようだと思った」

「わたくしはこれほどまでに美しい存在ではありませんが」

「はは! それでは私を美しいと褒めているようなものだぞ」


 褒めている。樹海で薄らと目が覚めたあの時も、アーデルハイトは真っ先に美しい人だと思ったのだから。


「青い薔薇に埋もれて眠るお前は作り物のように美しかった。青と金が入り乱れる瞳も、穢れも無垢も受け入れるその様も。お前は強くて美しいんだ……」


 アーデルハイトはたしかに弱い女ではない。弱い女は自ら間者を招き入れて殺したりはしない。首と胴体の離れた化け物になっても冷静でありはしない。

 アーデルハイトは穢れを受け入れたりはしていない。ただ己の方から地獄へ歩み寄っただけのこと。そして、無垢など知らぬ。


 アーデルハイトがハッセルバムの民を傷つけぬ保証などどこにもないというのに。



 短い時間しか見ることの叶わぬ景趣に、もったいないな、とそれだけを思った。



 突然連れ出された空の旅に始まり、この日は驚きの連続であった。


 日も沈みきり既に人通りはないものの、最西端の町は想像以上に発展していた。

 木造の家々が立ち並び、各家の前には生活のための用品や、おそらく漁で使用する道具などが置いてある。道も広く、はっきりとした町の息遣いを感じる。

 意外なことに木造の家はどれも新しく、古びた建物はほとんどない。


 海辺というのは相変わらず独特の臭気を漂わせている。

 この町を歩いていると、イリシャが頑なにここに道を繋げたがったわけが良くわかる。


「海の近くは木がすぐに腐るらしくてな。人魚がそのあたり潔癖なんだ」

「魚人、ブルーフェアリー、人魚、ワーラードの四部族でしたね、ここで暮らすのは」

「ああ。ワーラードたちには会えるかわからんが」


 この沿岸部の町には名前がない。海や海辺に生きる四部族が力を合わせて生きている町だ。

 霊峰に切り取られたハッセルバムの地で、さらにスラ・ダリナに切り取られて孤立している。


 魚人、ブルーフェアリー、人魚、ワーラードの四つは、魔族の中でも際立って異形であるとされ、人間との確執が深い者が多い。クリセルダについて暗い町を歩きながら、今のところは数人しか見かけていない。


 魚人とは言うものの、その特徴はサメに近いものがある。否。ほぼサメと言っていい。黒々とざらついた肌に尖った顔つき。白く濁った目と大きな口から覗き見える細かく鋭い歯は、たしかに人間から見たら恐怖の象徴だろう。

 大きく筋肉質な体で海に潜り、銛を使って漁を行うのだそうだ。


 ブルーフェアリー。ここでは魔族の一員として認められている彼らだが、人間たちは魔族としてすら認めていない。

 人間たちにとってはもっとも恐ろしい海の魔物と言われ、青い肌にヒレのような耳、人間でいう肩甲骨の位置にふたつのエラがある。なんといってもその特徴は、魚人以上に真っ白なその目であろう。陸地ではほとんど見えておらず、しかし海中では誰よりも広い視界を持つ。ブルーフェアリーが出す独自の音で海中を掌握する、彼らに死角はない。

 四部族の中でも特に気性が荒く、人族との確執が大きいのもブルーフェアリーだ。まあ、魔物呼ばわりされ殺そうとしてくるのだから、鬱憤が積もるのも仕方のない話か。


 この町にいて唯一、水中での呼吸器官を持たないのが人魚だ。人型の上半身に、魚の下半身。体の半分が魚であるが、生活は陸地である。

 手を器用に使いながら蛇のようにズリズリと這い回る様子には驚いた。移動方法然り、移動速度然り。追い越されたと思った次の瞬間には、背中がずいぶん遠くにあった。


 最後のワーラードはほとんど陸地に上がってこないそうだ。深い海の底を好み、海底に町を築いているのだそう。あまりにも深すぎるそこにはワーラードしか辿り着けず、ブルーフェアリーですら深海の圧に耐えられないという。

 その体長も魔族一。体が大きく、トロールが成人男性二人分だとすれば、ワーラードは四人分。真っ黒な肌に大きな口。それでいて性格は四部族一、温厚で臆病。

 ようは鯨である。魚人がサメ人、ワーラードが鯨人と言ったところか。


「ところで陛下。これはどこに向かわれているのでしょう」

「家だな」


 翼を畳んだグリフォンがトコトコと後をついてくる。アーデルハイトの犬、ラニーユを思わせる。

 綺麗に石が詰められたこの道も、潔癖な人魚によるものだという。土の上を這うと汚れるから嫌なのだそうだ。


 人魚と岩窟人。話が合うのではなかろうか。


「ついたぞ」

「家、ですね」

「だから言ったろう、家だ。ワーラードの族長の持ち家でな、こいつらをそのまま入れられるから使い勝手がいい」


 ワーラードは海中に町を築いているとは言え、この町の一員でもある。一応家を構えているが、ほぼクリセルダの宿として利用されているらしい。

 ワーラード用の扉と、クリセルダ用の普通の扉が並んでいる。

 外観に反して一部屋しかないことと、置かれた家具が異様に巨大であることを除けば、案外普通の屋敷だ。


 否。屋敷とは言ったが、これはただただ巨大な小屋。必要最低限の巨大な家具が、狭い広い部屋に詰め込まれている。


 椅子も机も冗談みたいな大きさで、椅子の高さだけでもアーデルハイトの背丈ほどある。机に至っては、もはや下に潜ってしまえば馬小屋ほどの空間だ。

 まるで自分が小人になったかのような気分を味わえる。


「ワーラードという種族はこれほどまでに大きいのですね……」

「ああ、でかいぞ。でかすぎて意味がわからん。前に立たれると顔も見えないくらいだ。ただそのぶん陸地ではやたらノロマだな。巨体のくせに歩くのが遅いんだ」


 圧倒されているアーデルハイトを横目に、クリセルダはばさりと外套を脱ぎ捨て、そのままどさりと巨大なベッドに倒れ込んだ。グリフォンは大人しくベッドの下で伏せている。

 このベッドだけでいったい何人が横になれるだろう。ワーラードの族長がどれだけ大きいのかがよくわかる。


 シーツの海はどの角度から見てもベッドには見えなかった。


「青薔薇も来い」

「わたくしもそこで寝るのですか」

「寝具はこれしかない」


 棺桶でないと寝れないなどとわがままを言うことはできない。ここにそんな気の利いたものはないのだ。

 ベッドに歩み寄ると、いつクリセルダが訪れても良いようにか、シーツは清潔に保たれていた。


「座れ。話せ」

「何を、でしょう」


「悩んでいただろう、空の上で」


 ああ。と頷いた。話すべきか、話さないべきか。

 帝国にいたときは、そのほとんどが独断であった。マーティアスの利となるものを判断し、害となるものは排除する。マーティアスはアーデルハイトの報告を聞き、ただ頷くだけ。

 自分の何が悪かったのか、などと愚かなことを申すつもりはない。アーデルハイトはアーデルハイトの為してきたことが悪であると理解している。なにより、己の行いに忌避を感じなかったことこそ、アーデルハイトの悪なのだ。


 たとえ悪でも、それがアーデルハイトの愛だった。


 よじ登るようにしてベッドの上にあがる。クリセルダから離れた位置に腰を下ろすと、質の悪い硬さが伝わってきた。


「わたくしの為そうとすることが、本当にこの国の利となるのか。それを考えておりました」


 クリセルダは何も言わない。高すぎる天井を眺めたまま、黙ってアーデルハイトの言葉を待っている。

 アーデルハイトの悪事は『帝国のため、マーティアスのため』という名文が立ってこそだ。ハッセルバムのためにならない悪事はただの害悪であり、それは愛ではない。


「わたくしが生まれたときにはすでに、帝国は強大な大国でした。先人たちにお膳立てされ、地盤のできた帝国を夫のものにするために生きてきたのです」

「元だろ、元。今は私の妻だ」

「いえ、それも違いますが」


 立場の弱かった第一皇子を皇帝にのし上げるため、第二皇子派、第三皇子派の貴族を牽制した。彼に功績を捧げた。一番良い機を見て、先代皇帝を殺した。


 故に、マーティアスはわずか十八という若さで皇帝の位についた。


 それがアーデルハイトの生きる道であり、愛であったから。


「わたくしの常識は帝国で培われたものであり、人間が基準です。この身が死霊となろうとも、それが突然変わるわけではございません」


 ハッセルバムを強い国とすること。たとえその過程で民がいくらか死のうとも、たった数十人が傷つこうとも、それが結果として大多数を守ることになる。

 疫病で数十万人が死ぬよりも、数百人のうちに皆殺しにしてまったほうが良い。それと同じこと。

 アーデルハイトから見て今のハッセルバムが弱い国ならば、強い国へと変えていけば良い。


 けれど、わからなくなった。


 ハッセルバムは本当に弱い国だろうか。


「弱い者が五十年もたったひとりきりで生きていけるでしょうか」


 ぎい、と大きすぎるベッドが軋み、衣擦れとともにクリセルダが起き上がった。


『青薔薇様にとっては大したことじゃないかもしれないけど、おれら夫婦にとってはすげぇ価値のあることなんですよ』


 空から見たハッセルバムはなによりも美しかった。深い森も、荒れた土地も、沼地でさえも。


「人間の国にも劣らない強い国にしたい……」


 強い国とはなんなのだ。


 あの力強く雄大な眺望こそ強さだとしたら、アーデルハイトの考える強さなど、なんとちっぽけなこと。

 今のままでも五十年を生きられる力があると言うのなら、農耕地を改革し道を繋げるだけでも充分ではないのか。

 ノアやヒューイ、落ちこぼれであった彼らは生き生きと働いている。第一軍の彼らは喜んでいる。雇用が生まれ、皆楽しそうに働いている。


 ドワーフは小さな体を折り曲げて、泣きそうな顔で礼を言う。


 国の発展とはなんなのだ。すでに発展した地で生まれ育ったアーデルハイトには、もはや答えの出しようがない問い。


「国を開き、諸外国と渡り合う。陛下、ハッセルバムには本当にそれが必要なのでしょうか」


 青薔薇。とクリセルダが呟く。

 見事繁栄させてみせよ、とそうおっしゃった。これからの計画は、本当にこの方の意に沿うものになるのだろうか。


 この人は。


 この人はマーティアス・ノルベルト・ラ・メルダースではないのだ。


「魔族どもは私があれらを救った英雄だと勘違いしている」

「虐げられてきた少数部族を救ったのですから、間違えてはいないでしょう」


「そうではない。そうではないのだ。私は……」


 するりと音もなく立ち上がり、分厚い衣を一枚、また一枚と無造作に脱ぎ捨てる。

 なにを、と聞くこともできなかった。


 高い位置に置かれた窓から差し込む月明かり。暗闇の中に浮かぶその肢体が、あまりにも美しく、そして痛々しいものであったから。


「私は復讐がしたくて国を作ったのだ。ひとりの手では限界があったから……人間どもを嬲り殺すためには力が足りなかったから」


 白い肌。布に隠されていた肩や腕、太ももの一部に黒色の鱗。

 そして、その背に走る、二つの大きな傷跡。



 そこにいたのは、翼を失った美しいひとつの生き物だった。



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