15


 魔王城の裏庭では相変わらず半裸の兵たちが木剣を打ち合わせている。けれど、ここ最近は側近たちも城を壊すような喧嘩をしていない。その暇がないのである。


 静かなものだ。


 そう思って頭を抱えたくなった。ハッセルバムに身を置いて半年が過ぎ、どうやら毒されているような気がする。

 マルバドを的にして魔力の使い方を練習していたのが悪かったのか。それともデュラハンへと生まれ変わった影響か。

 どちらにしてもあの騒音を日常にはしたくない。


 裏庭の端を通って厩舎へ向かう途中、木剣を手にした鹿や牛、馬などの獣人がわらわらと寄ってきた。


「青薔薇様! 本日もお勤めご苦労様です!」

「ごきげんよう、みなさま」

「今日もマルバド様との訓練はナシですか?」


 彼らは全てマルバドの軍、第一軍の兵たちだ。下っ端のような顔をしているが、たしか大隊長や中隊長などの役職持ちである。

 第一軍はすべて草食系の獣人で構成される。対する第四軍、狼族ウルが率いるのは肉食系の獣人だ。


 肉食だから強い、草食だから弱い。なんてことは一切ない。たしかに草食は戦えない種族も多いが、それは肉食とて同じこと。

 草食獣人たちは力が強く、そしてなにより視野が広い。


「陛下と沿岸部の視察へ行くの。マルバドも仕事に埋もれているし、しばらくはお預けね」

「ああ! 最近のマルバド様、思い切りやつれてますもんね!」

「わはは! 今だったらおれらでも勝てそうなくらいっすよ!」


 ならば手伝ってやれば良いものを。今はマルバドと文官が一手に引き受けている状態だが、今後はその事務仕事は隊長たちにも引き継がれるのだ。軍務とは戦うだけではないことを、彼らもそう遠くない未来に実感することだろう。


 皇后時代にも訓練の視察のため兵たちの前に姿を見せるのは珍しいことではなかった。けれど、一兵卒ごときが皇族と目を合わせるのは不敬とされ、言葉を交わすなどもってのほか。向こうから話しかけようものなら、アーデルハイトが処する前に罰されていたことだろう。

 つくづく不思議な気分である。侍女、侍従、護衛騎士とすら仲良く話をする機会などなかった。


「そうだ、青薔薇様。今度お礼を渡したいんですが、ノアに渡せばいいですかね」

「お礼? わたくし何かしたかしら」

「あはは! お恥ずかしながら、リィンはうちの妻なんですよ。青薔薇様のところに配属になってから明るくなりまして……お礼と言っても気持ち程度ですが」


 少し照れたように笑う。アーデルハイトの配下には鹿獣人の女が多いのだ。軍人の夫を持つ者のほうが多い。


「あ、じゃあ、俺もこいつと一緒にお礼持って行きますよ。ロニーが世話になってるんで」


 リィンもロニーも、イタチのヒューイらと同時に選んだ鹿獣人の女性だ。必要事項を学びながら、現在は肥料開発に勤しんでいる。

 軍人の妻が多いことは知っていたが、まさかこんなに近くにいるとは。魔族には家名のない者が多く、名前だけではそう言った判断がなかなかできない。


「わたくしが必要と思ってリィンやロニーを欲したのよ。礼を言われるようなことなどしていないわ」

「それでも、です。おれらが感謝してるから、礼を言うんです。青薔薇様にとっては大したことじゃないかもしれないけど、おれら夫婦にとってはすげぇ価値のあることなんですよ」

「……そう。なら、素直に受け取ることにするわ」


 ハッセルバムの者たちには先入観がない。アーデルハイトが自国や他国の農村を焼き払ったことも、歌劇団員の首を広場に晒したことも、侍女や侍従を惨たらしく拷問したことも知らない。贅を尽くして寝所に間男を招き入れる女だと言う噂話も知らない。

 彼らにとってアーデルハイトとは魔王クリセルダのお気に入りで、国を改良せんと動く魔王の側近でしかないのだ。


 アーデルハイトが、彼らが好まぬ卑怯な暗殺や謀りを企む女だと知れば、この目はどう変わるのだろう。

 彼らもまた、悪女だと、悪魔だと、化け物だと、アーデルハイトに石を投げるのだろうか。ギロチンの刃が落とされた光景に、歓喜の声を上げるのだろうか。


「陛下を待たせているから、行くわ」

「はい! おれらも訓練に戻ります!」


 たとえそうだとしても、アーデルハイトはまた同じことをする。それしか知らないのだから。

 センドアラ公国やヴァリ王国との戦争で工作隊員の心を殺したように。


 あなたの妻にも同じことをさせるのよ。



「来たか、青薔薇。ん……共はつけなくても良いのか?」

「ええ。ノアとラニーユには仕事をさせておりますので」


「そうか。ならこれはデートだな!」


 いいえ、視察という名の仕事です、陛下。


 厩舎へと向かうと、入り口にはすでにクリセルダが待っていた。マントの代わりに分厚い外套を羽織り、さらにもう一着を手にしている。

 差し出されたそれは、着ろ、ということだろうか。


「空の旅は寒いからな。有翼人たちは耐性があるが、慣れねば辛い」

「わたくし、寒さや暑さはあまり感じませんが」

「なんと……はは! 便利な体だなぁ!」


 血の通わない体は外気温の変化に強い。気温変化に疎いとも言うが、便利であることは違いない。

 とは言え王自ら用意してくれたものを無下にすることもない。素直にそれを羽織ると、クリセルダの瞳から金色がとろりと漏れ出した。


 戦いに身をおく者とは思えないほど白くたおやかな手が差し出される。まるでエスコートを待つようで、反射的に手を乗せてしまった。


「こちらだ」


 手を引かれるままに、巨大な厩舎へと踏み入れる。飛行騎獣とやらは知らないが、馬小屋とは比べ物にならないほど大きい。

 そしてなにより、肌をびりびりと焼くような、強い気配を感じる。


 一歩踏み入れて後悔した。


「どうだ、格好いいだろう!」


 グリフォンとワイバーンが各四頭ずつ。


 そう。グリフォンとワイバーンである。ゴルダイム辺境伯領では指定災害級魔獣と定められ、樹海の頭上に姿が確認できた時点で、庶民、兵、傭兵、すべて関係なく避難することが義務付けられている。


 いくつもの命を食い荒らしてきた凶悪な魔物。それが合計八頭。


「さすが青薔薇。動じないか。そこらの魔族でも腰を抜かすか悲鳴を上げるぞ」


 巨大なトカゲ、ワイバーンは翼を畳んで眠る。巨大な獅子鷲、グリフォンはこちらを見て警戒するように嘴をカチカチと鳴らす。


 動揺している。突然現れた凶悪な魔獣はもちろんのこと、なによりも『あ、勝てる』と瞬時に理解した本能に一番動揺している。判ひとつで人を殺してきたアーデルハイトは貴婦人でありながらもけして弱い人間ではなかったが、それは肉体的な強さとは違うものだ。騎士団が動員され、それでもなお死者をだすような魔物に対して、直感で『勝てる』と思う日が来るなどと誰が想像できよう。

 常に冷静たれ、感情を顔に出すことなかれ。そう生きてきたから冷静なふりができているだけで、内心は動揺の嵐であった。


「すべて私の手で捕獲した。ワイバーンはどれも卵から孵し、グリフォン二頭は幼獣の時に捕獲し、残り二頭は勾配させたのだ」


 褒めろと言わんばかりの表情に戸惑いつつ、アーデルハイトは適当に頷いた。

 凄いか凄くないかと問われたら、凄い。人間からしてみたら、ワイバーンの巣に忍び込んで卵を盗み出すことも、幼獣のグリフォンを捕まえて飼育した挙句、勾配して繁殖させるのも、発想そのものが異常と言える。


「まさかとは思いますが、これに乗って各地へ赴いていたのですか」

「そのまさかだ。私は翼を失った身だからな、再び空を舞うためにはこれらの翼を借りるほかない」


 翼を失った身、とは。

 アーデルハイトは未だクリセルダの種族を知らぬが、わざわざ踏み込んで聞いて良いものかも判断がつかない。

 側近たちも知っていて口にしないのか、それともそもそも気にすらしていないのか。


「さて、青薔薇。お前はワイバーンとグリフォン、どちらに乗りたい?」


 どちらにも乗りたくない。


 とは流石に言えず、眠ったふりをしながらこちらに意識を向けるワイバーンと、変わらずにカチカチと嘴を鳴らすグリフォンを交互に見やった。

 そもそもこれらは乗れるものなのか。クリセルダが乗れると言うのだから乗れるのだろうが、そういう問題でもない。


「……違いは」

「ワイバーンは早いが揺れる。グリフォンは遅いが安定している」

「グリフォンで」


 そう言うと思ってすでに用意してある! と嬉しそうに、厩舎の隅に置かれていた鞍のようなものを指した。なぜ聞いたのか。


「オスとメス、どちらが好みだ?」

「……違いは」

「オスは小さくて気性が荒いから楽しい。メスは大きくて大人しいからつまらない」


 聞く必要があるのだろうか。

 言われてみればグリフォン四頭は体格が違う。先ほどからカチカチと嘴を鳴らしているのは中でもいっとう小さく、そのくせ鉤爪は磨かれた剣のように鋭い。アーデルハイトと目が合うと、警戒を強めたかのようにぶるりと震えた。


 首元の羽毛が逆立っている。その理由に思い当たって、やはり頭を抱えたくなった。


「一番大人しい子でお願いいたします」

「……つまらん」


 不満そうに言われても困る。選ばせたということはアーデルハイトの意思を汲んでくれると言うことだろう。

 先ほどからご機嫌斜めなそのグリフォンの首元を撫でると、小さくよしよしと呟いた。


 まるで親の庇護を受けた赤子のように、グリフォンがクリセルダに擦り寄る。


「こいつはまだ若いんだ。甘えん坊で臆病だが、誰よりも狩りが上手い。自分が青薔薇に勝てないことを既に察している、賢い子だよ」


 ああ、やはり。


 彼は警戒していたのではなく、ただアーデルハイトに怯えていただけなのだ。これの目は、拷問されても最後まで情報を吐かず、アーデルハイトに噛みつこうとした侍女の目に似ている。

 アーデルハイトは一介の貴族令嬢であり、剣を持たぬ后でしかなかったというのに。指定災害級魔獣に怯えられる存在になってしまったことに、なんとも言えない気分になった。


「わたくし、皇子妃となって社交界に出るまでは深窓の美姫と噂されていたのです」

「はは! 似合わんな! いや、だが、うむ……美姫であることは変わらんか」


「……それなのに、こんな恐ろしい魔獣に恐れられる存在になったことに、わたくしは動揺しております」


 くく、ははは! と突然上がった大きな笑い声に驚いたのか、眠ったフリをしていたワイバーンがびくりと身を震わせる。

 笑わせようと思って冗談を口にしてみたのだが、通じたようでなによりだ。


 クリセルダの瞳からはときおり、金色の魔力がとろりと流れ出す。けれど、こうして楽しげに大きく笑うと、その魔力がきらきらと粒子になって宙を舞うのだ。

 アーデルハイトはそれが……それが?


 それがなんだと言う。自分でも理解し難い感情であったが、ただそこにある事実といえば『アーデルハイトがクリセルダを笑わせようとした』ことだけ。


「動揺していると言うのなら顔に出せ。強いお前が好きだが、たまには可愛らしく驚いてみせろ」

「善処いたします」

「はは! する気ないだろうが、この鉄仮面め」


 きらきら。まるで物語の妖精が舞うように、金色がクリセルダの周囲を踊る。


 アーデルハイトの魔力は膨大だ。生前、これが神聖力だった頃から変わらない。魔王の側近たちも皆、その身に多大な魔力を宿している。

 けれど、誰もこんなふうに感情によって魔力の形を変えたりしない。意識して可視化することはあれど、とろりと流れたり、粒子となって舞ったりはしない。


「どうした?」


 宙に伸ばした手を取られ、当たり前のように握り込まれてしまった。


 無意識の行動に自分でも驚いてしまう。ハッセルバムに身を置いてから戸惑うことばかりだ。

 触れてみようと思ったのか、この手は。クリセルダの周囲で輝くそれに。


「いえ……お気になさらず」

「そうか。では……」


 握り込まれた手がクリセルダの口元へと寄せられる。


 お嬢さん、私と一曲踊ってくださいますか。そうやって誘う貴公子のように。

 冷たい手に、クリセルダの体温が流れ込んでくる。ともすれば、それはアーデルハイトにとって熱湯のような熱さであった。


『ソアラ。俺と踊ってくれるか』


 ああ。ああ。

 十五だ。アーデルハイトとマーティアスが十五歳だったとき。誕生日を迎えていないアーデルハイトは、まだ十四だったか。

 皇宮の夜会を模した聖帝学院のパーティーで、マーティアスはアーデルハイトの手をとってはくれなかった。並んで入場したはずのふたりには人ひとりぶんの隙間があって、ワルツの合図にマーティアスは笑ったのだ。


 翻る帝国の赤、マーティアスのマントと後ろ姿。シャンデリアの光を受けた、深い赤髪。


 まだ立場の弱かった第一皇子。その妃。パートナーに捨て置かれた哀れで高貴な女をダンスに誘う物好きなどいるはずもなく。

 アーデルハイトは背筋を伸ばしたまま、ワルツに身を任せるふたりの姿を見ていた。


「……陛下」


 それは誰を呼んだ言葉だったのか。


 アーデルハイトの手の甲に唇を落としたクリセルダが微笑む。

 ワルツはない。シャンデリアもない。葡萄酒もない。あるのは薄暗く獣臭い厩舎と、恐ろしい魔物の吐息だけ。


「青薔薇。私と飛んでくれるか」


 ソアラはあのとき、どんな言葉で応えたのだろう。



 それは豪風であった。外套の裾が暴れ、冷気が襟元から吹き込んでくる。

 いくら外気温の変化に強いとは言え、その風は肌を刺すようだった。


「青薔薇! 首を落とすなよ!」

「ぜ、んしょ……いたします」


「はは! 落としたら一緒に探してやる!」


 言われずとも最大限の注意を払っている。

 左手で鞍を掴み、右手で頭を押さえる。一人用の鞍は二人で乗るには不安定で、クリセルダに抱え込まれていなければ豪風に煽られて首どころか体ごと落下していたに違いない。


 顔面に強く吹き荒ぶ風で、口を開くことも困難だった。そもそも目も開けていられない。


 二頭の母でもあるグリフォンはその翼を大きく広げ、大きな羽毛を撒き散らしながらぐんぐんと速度を上げる。

 馬のように上下に揺れることはなく臀部に痛みはない。けれど、ときおり内臓がふわりと浮くような気持ち悪さがあった。内臓なんてほとんど機能していないくせに。


 ふと顔に強く吹いていた風がおさまる。


「こうするんだ」

「ん……陛下?」

「もう目を開けられる。ほら、目を開けてみろ」


 恐る恐るまぶたを持ち上げる。


 最初に目に入ったのはグリフォンの後頭部。進行を妨げるものを寄せ付けまいと、クアァと鋭い声を上げる。

 薄く膜を張ったような金色。これはクリセルダの魔力?


「あれが鉄壁の山スラ・ダリナだ」

「……雄大ですね」

「下を見てみろ」


 クリセルダの魔力を風除けにした視界の向こうには、頂上に薄らと雪を被せた大きな山があった。麓に生い茂る木々、いまだ天井の見えない空の青。

 山は神の座す土地。昔の人々はそう言った。ああ、なるほどと頷いてしまいたくなるほど、それはあまりにも大きく、そして美しい。


 少し身を乗り出して、グリフォンの翼に遮られた下方を見る。不思議なことに空を飛んでいると言うのに恐怖は微塵も感じなかった。


「これは……」

「首都だ。私たちの国だ」


 あれだけ雑然としていた立体迷路も、空から見るとまるで絵を描いたかのように趣を感じる。皇宮のバルコニーから見た帝都はたしかに美しかった。


 けれど、こんなに高い場所から街を見下ろしたことがあっただろうか。人族の誰にそんなことができただろう。

 あの場所で、まるで麦粒のような命が生きている。ちっぽけだ。そのくせ、なんて大きいのだろう。


 ぐるりと四方を見渡せば、まるで想像もしたこともない景色が広がる。

 その向こうには森がある。その向こうには赤黒い荒野がある。その向こうには人を拒む沼地がある。


 地図を見ただけで見下ろした気になっていた。


 そして、首都を守るように聳え立つ霊峰と、その足元に横たわる樹海。

 樹海を超えた先にぼんやりとゴルダイム辺境伯領が覗いている。


「これはまだまだ一部なのですね」

「ん? そうだな」

「こんなにも……広いのに」


 ああ、空は広いぞ! とクリセルダが笑う。背に伝わる体が、笑うたびに揺れた。


 こんなにも広いというのに。樹海と霊峰で切り取られたハッセルバムは、この大陸のほんの一部分でしかない。メルダース帝国ですらハッセルバムの何倍もあって、それでも大陸西部の全てではないのだ。


 想像もできない。


「失敗したな」

「何か残した政務でもございましたか?」

「そうじゃない」


 クリセルダがハイヤ! と声を掛け、それと同時にグリフォンの首が持ち上がる。

 首都を置き去りにするように、アーデルハイトの意識だけ置き去りにするように、ぐんと高度が上がっていく。引っ張られた体を、クリセルダがまた抱え直した。



「はは! この体勢ではお前の驚く顔が見られないではないか!」



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