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「やっと帰ってきたー! 人間の街も悪くなかったけど、やっぱりハッセルバムが落ち着きますね」
「まずは陛下のところへ挨拶にいくわよ」
「えっ……魔王様に会うんですか!? え、いやだ、ちょ、アーデルハイト様! 俺も行くんですか!?」
ゴルダイム辺境伯領レッドラインでの調査はおよそ十日ほどを要した。ノアが貧弱なせいで行きも帰りも樹海で足止めを食らったのだ。遠征が長引いたのはノアのせいである。
しかも帰りは土産の酒も背負わせていた。もちろんアーデルハイトが背負うわけがない。そういうものはすべてノアの仕事だ。
レッドラインに長く滞在したのは肥料の調査のためだけではない。アーデルハイトの頭の中には今後やるべきこと、できそうなことがちらほらとあり、その下準備も兼ねていた。
なにより、アーデルハイト死後の帝国の様子を探れたのは大きい。まさか帝国に巣食った女悪魔として、アーデルハイトの悪行が吟遊詩人の歌になっているとは思わなかったけれど。
クリセルダが普段から使用する執務室の扉を叩く。内部はそれなりの広さで、クリセルダの寝室に繋がっている。
帝国の中枢と違い、魔王や側近に護衛などいない。扉の前を守る騎士も存在しない。クリセルダはハッセルバムでもっとも強いからこそ魔王なのであり、側近たちは各種族でもっとも強いからこそ側近なのだ。
魔族は自由だ。
「入れ」
「失礼いたします。アーデルハイトでございます」
「帰ったか。話を聞こう。座れ」
大きな執務机に肘をついて、「久しぶりの里帰りはどうだった?」と世間話のように聞きつつ、クリセルダがソファーを指差した。
休憩に使用しているのだろうテーブルの前に二組のソファー。テーブルには酒の入った小さな樽がのっている。
休憩中に飲むものが茶ではなく酒とは、いかがなものか。
言われた通り素直に座ると、ノアは緊張でガチガチに固まったままアーデルハイトの後ろに立った。
この国の者たちにとってクリセルダ・ハッセルバムとは生きる伝説の英雄であり、憧れであり、そして恐れの象徴だ。憧れの人を前にした緊張もあるが、ノアからは強い恐怖の感情も伝わってきた。
「お土産もございますよ」
「酒か?」
「酒です」
メルダース帝国は北上すればするだけ、水資源が足りなくなる。帝国で生産されている葡萄酒は、帝国人にとって水の代わりだ。
クリセルダや側近たちのお土産として買ってきたのはその葡萄酒ではなく、葡萄酒を蒸留した強めの高級酒である。人間にとって強め、というだけで、ハッセルバムの酒に比べたらジュースのようなものだが。
なんといっても、ハッセルバムの酒は燃える。
「で、農地の改革だったか。できそうか?」
「やってみなければわかりません。レッドライン周辺の土は予想通りハッセルバムの黒い土と似たものでした。ハッセルバムで用意できるものから肥料を作ってみようと考えております。その際にいくつか手配の必要な物品が……」
「ああ。私の名前を出してもいいし、必要があれば私も動こう」
ハッセルバム建国当初に試された肥料は糞尿を利用した堆肥だと聞いている。しかし、ゴルダイム辺境伯領で使用されているのは糞尿による堆肥ではなかった。それを使っている農地もあったのだが、辺りに漂う臭いにノアが悶絶していた。
顔をしかめたノアに老婆が笑いながら「畑の香水って言うんだよ」と教えてくれた。
「帝国内の情勢は今のところ落ち着いているようですが、周辺国家は今後動いてくるでしょうね」
「お前が死んだ影響か?」
「……私が起こした戦争の残火、ですね」
魔王が立ち上がり、丸めた大判の羊皮紙を取り出す。ノアがビクッと肩を揺らす気配がした。
あえて魔力の圧を垂れ流しているのか、それとも体内に納めきれないのか。ノアが震えるのも仕方ない。
アーデルハイトの目の前に座ると、その羊皮紙を広げる。なかなか詳細な大陸の地図だった。ただ、だいぶ情報が古い。
「こちら、何年前のものでしょう」
「三十年くらい前かな」
三十年もあれば情勢は大きく動く。少数民族が多い東部などは常に小競り合いの繰り返しだ。
大陸西部の北に指を置く。
更新するのはひとまずハッセルバムが位置する大陸西部だけで充分だろう。
「まずこちらですが、この二国はもう存在しません。メルダース帝国に吸収されております。それと、ジーピスタ、キャスタフ、センドアラは今はまとめてセンドアラ公国となっております。センドアラの下部、ここですね。現在は名前を変えてヴァリ王国、その下に位置するここはヴァリの属国ケイマンです」
「そんなに変わっているのか……」
魔王に渡されたペンにインクをつけて、喋りながら書き足していく。数年前の戦争で、メルダース帝国はまた領地を広げていた。
メルダース帝国は北部に長く、西大陸の中央に領土を広げている。最北は沿岸にぶつかり、最南端には樹海がある。大陸最西端に構えるのは聖ツムシュテク教皇国で、背後は海に、そして陸地の国境はすべてメルダース帝国に接する。メルダース帝国の東側は、北部からセンドアラ公国、ヴァリ王国、そしてヴァリ王国の属国ケイマン。
ハッセルバムは大陸の地図で見ると、いわゆる半島になった最南端にある。
「お前がやった戦争の残火というのは?」
「ヴァリ王国の内乱中に蹂躙しまして……ここですね、この領地を奪いました。ですが、いまだこの領内の民が……というより、残った下位貴族が反発を続けており、いずれ反乱勢力にまで発展するでしょう」
「ほう」
当たり前だ。内々の争いに横から入り領地を奪い、そのあとも頭から押さえつけているのだから。ただ、弱った国に他国が漬け込むなんてことは、繰り返される歴史の中で何度も起こってきたこと。強い者が生き残る。
反発する貴族を抑えることも簡単にできたのだが、アーデルハイトはあえて放置していた。反発が反乱へと姿を変えようとしたタイミングで、さらに領土を広げるつもりでいた。
今後、マーティアスが彼らをどう扱うのかはわからない。あの人にこの反乱勢力をうまく扱うことができるだろうか。
「もともとこの反発を利用してヴァリ王国を丸ごと乗っ取るつもりだったのですが、温めているうちに死んでしまいました。残念です」
「はは! 怖い女だな」
クリセルダが笑いながら酒を飲む。まったく執務中とは思えない。アーデルハイトも勧められたが、丁重にお断りした。
「あとは……メルダース帝国を囲む周辺国家との国交に歪みができ始めておりますね」
「それもお前が死んだからか?」
「……現皇帝とそれを支える皇妃が不出来だから、ですね」
国は数多の人間によって形作られる。ひとりが死ねば、その穴に代わりの者がつく。誰かが死んで駄目になる国など、その程度でしかなかったということだ。
北部沿岸から南部の樹海までを支配するメルダース帝国はこの西大陸において最大の強国である。西大陸はメルダース帝国以外にも、聖ツムシュテク教皇国、センドアラ公国、そしてヴァリ王国という三つの勢力が存在するが、メルダース帝国はどこの国と戦争になっても、一対一なら敗戦を喫することはないだろう。
「ツムシュテクは海に面し、陸地はすべてメルダースと接しております。故に、メルダース以外の国と交易をするためには海路を用いるか、メルダースを経由するほかありません。しかし北部の海域にはホロホロ族の海賊が、南部の海域には強大な魔物がおります」
「なるほど、それで?」
「また、センドアラとヴァリはメルダースに宝石と砂糖を卸しておりました。両国にとってメルダースは最大の取引相手だったのです」
ツムシュテクからは布を、センドアラからは宝石を、ヴァリからは砂糖を。その代わりに、メルダースからは酒を高額で売りつけていた。
大量の宝石と砂糖を安価で買う、酒を売る。これは戦後の国交回復のためにアーデルハイトが積極的にとった措置である。
メルダース産の蒸留酒は西部国家のあいだでは高級品として取引されている。
「メルダース帝国は武を重んじ、質素堅実を良しとする国柄です。高級な布や役に立たない宝石、腹に溜まらない砂糖に金を払うのは無駄遣いとされておりました」
夜会のたびに新しいドレスと宝石を身につけることで、アーデルハイトは流行を作った。アーデルハイトと敵対したくない貴族や皇帝派の貴族は、無駄遣いだと陰口を叩きながら、その流行に追随してきたのである。
その根源が死んだ今。
「ふふ。三国の皆さんはこれからどんどん鬱憤を溜めるでしょうね」
「ツムシュテクはたしかに被害が大きいな」
「はい。他国からの交易品は帝国を経由することで多額の関税で膨らみ、そのくせ帝国は特産の布を買ってくれない。海路は蛮族に抑えられ、直接の貿易もできない」
「……青薔薇、なにか企んでいるだろう」
人聞きの悪いことを言わないでいただきたい。
アーデルハイトはハッセルバムの国力を回復するので精一杯だ。
なんてことは言わない。
「企んでおりますよ? わたくしの本分でございますから。ただ、それを利用するためにはハッセルバムがあまりにも弱すぎます。貧弱も良いところです」
「違うと言い切れないのがな」
「ですから、各国に鬱憤を溜めてもらっている間に、ハッセルバムをなんとかいたしましょう」
クリセルダがぞくっとするほど妖艶な笑みを浮かべた。
「青薔薇、やっぱり私と結婚しないか?」
「しません。が」
「が?」
アーデルハイトも笑う。青い薔薇が他の生命力を吸って咲くように、アーデルハイトは他者の命を吸って咲く。
「陛下におねだりをひとつ」
「可愛い女のおねだりなら、なんでもやろう。なにがほしい」
咲かせてみせよう。ハッセルバムに美しい花を。
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