閑話 元皇后と狼獣人-1


 アーデルハイトは目覚めてから三日間、棺の中に閉じこもっていた。


 誰も起こしに来なかったし、誰も尋ねてこなかった。用意された一室はまるで皇后宮の使用人部屋のように狭く、卓と椅子、そして質素なベッドがあるだけだった。

 アーデルハイトもはじめはベッドで寝ようとしたのだが、無意識のうちに棺に戻っていて自分でも驚いた。


 体の怠さが抜けず、気を抜くと首が落ちてしまう。そんな状態で、外を出歩けるわけがなかった。

 体は重たいし、起き上がると首が揺れる。水を飲めば切り口から漏れる。爪は真っ青で、髪を整える侍女もいない。


 眠ることで回復できたら良し。そのまま体が腐って死ねたのならなお良し。

 敵しかいなかった皇后時代に比べると平穏だが、魔族の地には敵もいなければ味方もいない。今のアーデルハイトは何者でもなく、そしてなにも持っていなかった。


 アーデルハイトが多くのことを為せたのは、それ相応の地位があったからだ。生まれた時から命じる立場であり、傅かれることが当たり前。

 たとえこの手で暗殺者を返り討ちにしようと、たとえこの手で敵の指を切り落とそうと、それはアーデルハイトに逆らえない道具がいたからできたことだ。


 魔王クリセルダには高らかに大言壮語を突きつけたが、このままでは何もできやしない。


 まずは何をするべきか。現状を正しく把握し、情報を得ること。そのためにはこの体に慣れること。

 心臓は動いていない。血液の代わりに全身を巡るのは魔力。体内にいれた水分は変換効率は悪いものの、ゆっくりと魔力の蓄えになっていくらしい。

 アーデルハイトの体はすでに死んでいるが、作り替えられたこの体は死体ともまた違うようだった。生きているのか、死んでいるのか、自分でもよくわからない。


 アーデルハイトはただ棺の中でじっとしていた。せめてもと思い、日の出ている時間に蓋だけはあけて。



 事が起きたのは三日目の夜だった。


 明らかに空気が違う。ああ、今日何かが起こる、とそう第六感が告げていた。外れることもあるが、そういう日はたいてい何かが起きた。

 人に会わずともわかる。誰かがアーデルハイトに意識を向けている。


 常に暗殺の危機にあったアーデルハイトにとって、その空気を感じ取ることは、もはや呼吸をすることと同じことである。

 アーデルハイトはその日の昼に水差しのガラス瓶を割った。


 彼が血の海に沈んだのは、それに気づくことすら出来なかったから。



 夜、アーデルハイトはただ目を閉じて待っていた。あえて夜になっても棺を閉じず、デュラハンとなっても急所である心臓を晒す。靴は履いたままだ。

 このときにはすでに、アーデルハイトは確信していた。


 痛いくらいの殺気が、肌をビリビリと刺す。


 随分と杜撰な暗殺者だこと。トカゲの尻尾切りに使われた下位貴族ですら、もっと上等な暗殺者を雇っていたというのに。

 ふと気配が近くなった。だが、まだ早い。気配は猫に近い。足音はないが、視線は強く感じる。


「ふッ」

「ッ!? ぐ、ぅ……ぅぁッ……」


「捕まえた」


 凶器が振り上げられた瞬間、袖に隠し持っていたガラス瓶の破片で下腹部を刺した。

 崩れ落ちるように力が抜け、ガクガクと痙攣を繰り返す。


「あなたはどこの誰? 誰に命じられたのかしら」

「ぁ、ぐ……っ、ぅぅ」

「痛くて喋れない? まぁ、黒幕が誰かわかったところでどうしようもないから、構わないのだけど」


 棺のなかで身を起こし、まだ少年とも言える彼を観察する。頭の上には猫のような耳。気配は猫に近いと思ったけれど、そのまま猫であったか。耳の形状からして、犬科ではないだろう。どちらでもいいが。

 猫獣人の痙攣が止まらない。それもそのはず。


 アーデルハイトが刺したのは彼の膀胱だ。


 魔王の服が特殊な生地だったので心配していたものの、予想通り半裸で現れてくれたので助かった。無力化するために耳の後ろ、乳様突起と呼ばれる部位も考えたのだが、獣人である可能性もあったので、あえて膀胱を狙った。

 膀胱には数多くの神経が通っているとされる。傷つくと尋常ではない痛みに襲われるのだ。


 切れ味の悪い硝子の破片でも、体内にある神聖力……いや、今は魔力となっているが、それに任せて押し込めば届くだろうという確信もあった。


「わたくし、もう寝たいのですが……ご主人を呼んでくださる?」


 アーデルハイトのその言葉に応えたのかどうかは定かではない。

 猫獣人の少年は最期の力を振り絞るように顎を突き上げると、声にならない声で鳴いた。


 少しずつ、痛みに耐えきれなくなった命が消えていく。アーデルハイトの位置からは見えないが、床には今も血が流れ続けているだろう。

 バン! と大きな音を立てて扉が開くと、半裸の犬獣人が部屋に飛び込んできた。


「カイッ!? カイッ! 貴ッ、様ァ!」

「あら、お早いこと……あなたでしたの。まあ、獣人であることからそうだろうとは思っておりましたが」

「お前がッ! お前がやったのかッ!」


 夜中だというのにずいぶんとうるさい犬である。出会ったときにも思ったが、無駄吠えの躾がされていないらしい。


 死にかけの少年を押しのけると、床に転がった彼はそのまま動かなくなった。

 まだギリギリ生きているから、神聖力の治癒さえ施せば助かるかもしれないのに。バカな人。


「殺そうとする者は、殺される覚悟を持つべきですよ。そんなこともわからずに、わたくしの殺害を命じたのですか?」

「黙れ……!」


「彼を刺したのはわたくしですが、彼に死ねと命じたのはあなたです。あなたが、彼を殺したのです」


 誰かの暗殺を命じる際、アーデルハイトはいつも失敗したときのことを考えていた。常に最悪の事態を想定し、それに備えるのは当たり前のこと。

 誰かを殺せと命じたときは、その者に死ねと命じるのと同じことだ。そしてまた、アーデルハイトもいつか誰かに殺されるだろうと思っていた。


 スラリと抜かれた長剣の刃が、月の光に鈍く光る。鋳造品ではなく鍛造品の、質の良い剣だ。物としてはメルダース帝国正規軍の支給品に近い。いや、あの紋章はそのものだ。少し古いものだが、間違いない。

 奪われたのはゴルダイムの軍人だろうか。


 言葉も、やることも、つくづく野蛮である。

 メルダースから奪った剣を、メルダースの元皇后に向けるか。


 言葉もなく一瞬のあいだに迫ってきた影を、棺からまろびでるようにして避ける。棺の真上で止まった刃が、そのまま横凪に振り回された。

 ガシャン! と派手な音を立て、備え付けの椅子と机がなぎ倒された。


「逃げるな、クソがッ!」

「……本当に躾のなっていない犬ですこと」


 獣人の身体能力によるものか、見覚えのないしなやかな動きで距離をつめる。剣筋、視線、重心、筋肉の動きから目を逸らさず、低い姿勢のまま壁際に逃げた。


「追い詰めたぞ、クソアマ」

「どうぞやってみなさい、大きなワンちゃん」


 鋭い犬歯を剥き出して、犬が長剣を振り下ろす。動体視力の良さゆえだろう。アーデルハイトが軽く身を引くそぶりを見せたら、反射的に刃がほんの少し前に寄せられた。

 アーデルハイトの脳天を叩き割る直前、スレスレのところで体をずらす。フェイントにも簡単に引っかかってくれて、有難い限りだ。


 犬の振り回す長剣が壁に突き刺さって鈍い音を立てた。


「クッ、ソがァッ!」

「おバカさん」


 本当にバカだ。

 長剣は室内で振り回すものではない。それもこんな狭い部屋で。

 棺の真上で刃を止めたことからも、それを制御するために充分な膂力を備えていることがわかる。長剣を扱うことにも慣れているはずだ。


 けれどこの犬は、狭い室内での戦闘に慣れていない。なにより、闘う者でありながら怒りの制御ができない。

 怒りは視野を狭める。恐怖は動きを鈍らせる。焦りは判断を遅らせる。


 壁から剣を引き抜こうとした一瞬をついた。

 低い姿勢のまま、体内の魔力を足に移動させて犬の太腿を蹴り抜く。勢いを殺さず膝頭にも踵をいれ、反対側の太腿を思い切り裂いた。隠し持っている凶器がひとつと思うな。


 ひとつ暗器があれば、十はあると思え。それが基本だ。


「グゥ、ガァッ!」

「獣じゃあるまいし」


 ああ。獣だったか。躾のなっていない、おバカな犬ころ。


「犬の急所ってどこかしら」

「ぎ、ざま……ッ!」

「あらあら。痛みに強いのね」


 太腿を抱えて転がった犬を見下ろす。尻尾を切り落としたら痛いだろうか。それとも耳の方が良いか。


 太腿も膝も、膀胱と同じく人体の急所である。太腿は強く殴れば動きを止められるし、出血も多い。体重を支える膝は、体の全ての動作に通じる。

 だから兵士は鎧を身につけるのだ。鎧を着た兵士であれば、今の戦法は取れなかった。ただ、鎧を着た兵士はわざわざ暗殺に出向くことはないが。


 ただ、これ如きでこの犬が死ぬことはない。犬の生命力は、いまだ強い火を燃やしている。

 肉体そのものが強いのか、太ももの出血もさほど多くない。彼は名も知らぬ猫獣人の彼とは違う。


 西大陸の地で魔族を見かけることは非常に珍しいことで、伝説とさえ思っている人間も多い。それでも、伝承されてきたほどに人間は魔族を恐れてきた。否、伝承されたが故、誇大され恐ろしいものとしての印象が残ったのかもしれない。


 実際に魔族と呼ばれる者と対峙して、アーデルハイトは知った。

 魔族とて、生き物。ならば、人の手で殺せないはずがない。


 魔族が隠れ住むわけを、どうやらこの男は身体を張って教えてくれたようだった。


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