異心伝心

天ノ箱船

鏡花水月のドッペルゲンガー


「異心伝心 ────

────鏡花水月のドッペルゲンガー」






────生きるとは、この世で一番稀なことだ。大抵は存在しているだけである。



オスカー・ワイルド




〈 ── 零 ── 〉




人は自分には無いものに憧れるそうだ。

才能とか正義とか平和とか、神様でも持っているか怪しいものを、人は自覚もなく求め続けている。


しかしそれは一般人の話で、一般的に純真無垢な人の話で、何も持っていない人間、つまりこの僕にはあまり関係がない。


それはなにも、僕が全てを所有していて他人に焦がれるものが無いとかそういう話ではなく、むしろその逆、僕は何も所有していないからこそである。


何も所有していない僕は、つまり『憧憬』すら所有しておらず、そうであるが故に憧れといった感情を知らない。一般人であれば、一般的に純新無垢な人であれば知っているであろうことを、僕は知らないまま生きていた。


そんな僕を救い出してくれた人がいる。何もない僕に、僕という存在を与えてくれた人が。

────きっと、僕はこの人に憧れていたのだろう。




目を開くと、世界は溺れたように青かった。

その世界においての僕は何であり、そして誰であるのかというビットにすら満たない情報を考察しながら辺りを見渡す。


その世界は空と水面以外は存在しない、どこまでも澄み渡るような空っぽの世界だった。

そんな、青くて何も無い世界にかつて『藍色』と呼ばれた女が立っているのが見える。


『久しぶりだな』

彼女はそう挨拶をした。


────挨拶を、した。


……なるほど、どうやらこれは夢らしい。

だって、が目の前にいるわけがないんだから。

『なぁ、透見』


これは夢であるのだから、特別な感慨はない。いや、たとえ現実であっても僕の心が動くことはないと思う。そもそも心がないのだから。


『人が生きている理由ってなんだろうな?』

「簡単さ。生まれたからだよ」

『生まれたから生きている。まあ、道理だな。それならはどうなる。 ──生きている意味。それは、生まれた事が回答になったりはしないだろう』


「意味や価値なんて、いくらでも後付けできるフィクションだと、僕は常々考えているよ」

自分の人生は価値のあるものだった、生きている意味があった。


────そう思えるのは幸せなことなのだろう。でもそんな価値観には自己弁護以外の意味はない。

それは、根本的には無価値で無意味で無理矢理な言い分だ。


『……つくづく、人は生きるのに向いていないな』

呆れたように、彼女は笑った。そんな笑顔をいつまでも見ていたいと思った。


「そりゃそうさ。命は常に前を向いているんだから」

先に進むということは終わりに向かうということ。ならその先に待っているのは死だ。


しかし、そんな心にもない自分の言葉が何処かに深く突き刺さった気がした。それが何なのか、どこにあるのか、まるで分からなかったけれど、何故か呼吸が苦しかった。


『そんな状態を、生きていると言えるのか?』

「言えなくても、生きてはいけるものだと僕は最近気がついたよ。生きるだけなら、自動的だから」


────────。


レールの上を走る音が遠くから、だんだんと近づいてくる。音が近づくにつれ、視界にも違和感が生まれる。


            瞬き。

音は更に近づく。


視界に違和感が生まれ、視線を落とす。目線の先の水面には無数のレールが無秩序に敷かれている。

──いや、レールは水面に敷かれているのではなくて、空中に敷かれたレールを水面が反射しているようだ。


空中を縦横無尽に駆け回る列車は陽光を遮り、無色の僕と死んだ藍色に影を落とす。

……そうだ、忘れていた。僕は今、列車の中にいたのだった。


「 ……そろそろかな」

その言葉が合図であったのか、青い世界が端の方から凍る音がした。温もりが徐々に失せていくのが視覚的にも、そして見えない部分からも感じられる。


凍てつくような感傷を乗せ、列車は次の駅へ向かう。

『 ──── 』

────切ないな。


彼女は、もしかしたら、そんな決まり文句を口にしたのかもしれない。

あるいは僕がを望んでいたからこその幻聴だったのかもしれない。



「………………」

体が揺さぶられ、夢見の脳が叩き起される。どうやら眠ってしまったらしい。


特別焦ることも無く現在時刻を確認する。

十一時少し前。

僕が降りる駅はもう少し先だ。寝過ごしていないことを確かめつつ、車内の音に耳を傾けてみる。


レールの上を走る音。夢の中で聞いた、全てをかき消してしまう音。

それは、彼女の声すら例外ではなかった。


『まもなく ────』

次の駅を報せるアナウンスが入る。何処に着くかは分かっているので、取り立てて聞きはしない。


到着までにはまだ少し時間があり、手持ち無沙汰になってしまった。することも無く、ただ呆然と窓の外に目をやる。


さっき見た夢の続きを追うように、過ぎ去る街並みを視界に収める。そこに広大な水面はなく、近代的な建物で溢れるばかりだった。


何だかんだで一年の時を過ごした土地から離れたことに何かしらの感傷を抱いているのか、私生活をするという名目では久しぶりに目にする都会に驚いているのかは分からないけれど、僕は少し浮ついているような気がした。

もしくは、ただ目が覚めていないだけなのかもな。


少ししてから電車が駅に着いたので、僕は少ない荷物を持ちながらホームへ出る。郊外ということもあってか周囲に人はいない。


「……こんなものかな」

溜め息のように呟いて少し落ち着く。

意識を外に向けるとホームには次の電車の到着を告げるアナウンスが響いていた。


振り返ると、僕が乗ってきた電車は既に動き始めていて、もう戻ることは出来ないのだと言外げんがいな不可逆性が感じられた。まあ、戻る理由があるわけではないけれど。


特別待ち人の居ない僕は、これといった感慨もなく今日入居予定のアパートへ軽いバックを担ぎながら向かうことにした。


春の風は未だ涼しく、温暖な車両での微睡まどろみから冴えていくのを自覚する。眠気覚ましには最適だ。

段々と目が覚めていくにつれ、街を見つめる瞳のように僕は夢から冷めていった。




アパートに到着してからは夢を見ているような浮ついた感覚もなく過ごすことができた。


部屋に荷物を置いてから大家や他の入居者に挨拶をして回ったのだが、その際大家からこのアパート、特に僕の部屋に関する少し不気味な噂を聞かされたり、就寝時の諸注意などを聞かされた。


というのも、最近この街は何かと物騒であるらしい。そういうことは入居前に教えて貰いたかったな……


とはいえ、大家も他の入居者も悪い人ではなさそうなので特に心配するようなことはないだろう。

まあ、何かあったとしても取り立てて気にすることもない。そういった異常には少し慣れすぎてしまった節がある。


その後、何事もなく新しい高校への転校も終え、これといった問題もなく代わり映えのない日々を過ごしている。徒然と存在しながら、新天地での生活は一ヶ月が経過した。


……いや、問題なら起きていた。それは僕自身に降りかかったものではないけれど、無視することも忘却することもしてはならないことだろう。





〈 ── 壱 ── 〉



その日は夢を見なかった。

僕が思っている以上に新しい生活に体が慣れていないらしい。


転校するに当たって、僕は学校からそう遠くはない格安アパートに引越をした。家賃はなんと五千円。大家いわく、事故物件だそうだ。


なんでも、元の住人だった女性が浴室で手首を切って自殺したらしい。それ以来、この部屋の住人は手首に掴まれたような赤い痕が残るらしく、あまりに恐ろしいので一週間耐えられた者はいないそうだ。


────もっとも、この部屋、『デラシネ荘201号室』には浴室がないのだけれど。

まぁ、根も葉もない噂話にも花が咲いた。という事だろう。なんとも春らしい話だね。


しかし、このアパートの住人は誰一人として自殺の件を知らない。大家から話を聞いていないのか、或いは知らないふりをしているのか。それとも、今の住人が入居する前の話なのか。何れにしても、僕が気にしても仕方のない話だ。


起床してからしばらく呆けていると、インターホンが鳴った。

時間は朝六時。訪問にしては少し早い気もするが、まあ、起きているのだから気にはすまい。ただ、こんな時間に僕の部屋を訪れる人間に、心当たりがない。突然の来訪者というだけで、自ずと警戒が高まる。


……自意識過剰だな。

これは自惚れだ。今はただのでしかないのだから。意識を切り替え寝癖も直さぬまま玄関へ向かう。


インターホンはおろか、ドアスコープすら僕の部屋にはないので、来客を確認するには扉を開けなければならない。チェーンは付いているので半開きだ。


その隙間から外の様子を窺うと、「私だよ」と扉を開くなりぶっきらぼうな声で呼びかけられた。

聞き覚えのある声に安堵あんどし、外へ出る。


そこには柵によりかかり腕を組んでいる女性がいた。上から下まで真っ赤な衣装に身を包んだ目つきの悪い女性。適度に引き締まった長身は初対面であればどこか威圧的とすら思えるだろう。


「何? 緋名さん」

この人はお隣の『デラシネ荘202号室』の住人である『椎名シイナ 緋名ヒナ』さん。バイクが趣味で、僕の一つ上の高校三年生。この人とは昔馴染みで、色々とお世話になっている。


引越した先で出会ったのは偶然でも運命でもなく作為的な必然によってのことだ。

「ちょっと付き合いなさいな」


そう言って、緋名さんは下に止めてあるバイクに軽く目線を移す。

「今日学校なんだけど……」


「心配ないわ。朝礼までには帰すから」

それとない辞退のニュアンスは一蹴されてしまった。というか緋名さんも学校なのでは……


「今日は仕事で学業はお休みなのよ」

僕の疑問を予想してか、緋名さんは答える。仕事というのは勿論労働の事で、物理の話ではない。仕事と大仰に言っているが、アルバイトに行くために学校を休むわけではなく、一般的解釈の仕事をしに行くのだ。


しかし高校在学中の緋名さんが就職などしているわけもなく、その内容は一般的とは言えないのだけれど。

「僕は仕事の代わりに学業に励みたいんだけどね」


後者に関してはそんなことはないのだが、仕事がしたくないというのは割と本当だ。

「大丈夫よ、ただの散歩だから」


どうやら仕事ではなくツーリングのお誘いだったらしい。

それならば。と、誘いに乗ろうとしたが緋名さんに、「……とは言え、そのパジャマは流石に着替えてきなさいね」と、指摘され、自分の姿を一瞥する。


裾の長さが微妙に足りていない青のズボンと青いTシャツの全身真っ青な寝巻きに僕は身を包んでいた。

「ダメかな」


「パジャマで外出ってのは、さすがに非常識が過ぎるわよ」

尤もだった。


緋名さんは何でもないふうを装ってはいるけれど、おそらく想起させてしまったのだろう。僕らを遺していってしまった藍色のことを。


「服のことはよく分からないから、週末にでも一緒に買いに行こう」

そのことを誤魔化したかったのか、申し訳なさから謝罪したかったのか、僕の言葉はどこかぎこちないふうに思えた。


「うん。そうだね、なんせゴールデンウィークなんだから」

すっかり忘れていたが、今週末からはゴールデンウィークが始まるのだった。自然な会話となった僥倖ぎょうこうに安堵し、僕は一旦部屋へ戻る。


かくして、僕は寝巻きから外出用の服に着替えた。

「結局制服なのね」

なぜか苦笑いをされてしまう。


しかし、これは仕方なかったというより他ない。制服以外に普段着として使える衣類は全て青系統だったのだから、学生服を手に取るのも必然と言えるだろう。


「学生だからね」

「そうとも限らないわよ。うちの学園じゃ、関係者全員で仮面舞踏会をやるんだもの」


緋名さんの通う学校はこの街のみならず日本でも名の知れたお嬢様校で、端的に言ってスケールが違う。いや、正確を期すならば、常軌を、常識を逸しているというべきだろう。


噂の域を出ない話だけれど、普段の制服ですら校門でドレスコードがあるのだとか。

「仮面を被った少女が誰かの真似をしたり、普段と違う行動をしたりすると全く誰か分からないわ」


普段の格好でもクラスメイトの判別なんてできない僕としては、仮面をつけてようが大した違いはないんだろうなあ。


「透見は覚える努力をしなさいな」

僕の思考を読んだように緋名さんは少し呆れて言ったけれど、直ぐに「あ」と、何か思いついたようだ。


「戸籍上は私の親類になるんだから、透見も招待できるわね。あんた顔はかわいいし」

くだんの仮面舞踏会に招待するという話だろうが、しかしそんな邪悪な考え、よくも思いつくものだ。


「顔は関係ないんじゃないかな」

「そんなことないわよ。ある程度かわいくないと仮面をつけても男だってバレるじゃない」

僕を連れていかなければそんな心配しなくて済むんだけどなぁ。


緋奈さんはニッと笑いながら、着替える前は持っていなかったゴーグル付きのハーフヘルメットを投げ渡してきた。僕が着替えているうちに取ってきたのだろう。


ヘルメットには大小様々な傷が付いていたり、塗装も所々剥げている。この傷の数だけ僕は緋名さんとドライブしている。というのは誇張だが、過言という程ではないのも事実だ。


緋名さんとのドライブの度に渡されるこのヘルメットには、今思えば色々と想起させるものがある。

と、回想をしていると、


「ぼさっとしない。行くよ」

「……はい」

いつの間にか階段を降りていた緋名さんに急かされ、僕はヘルメットを被りながら階段を降りた。




「それじゃ、真面目に授業出なさいよ」

赤い残像を残しながら一陣の風となって走り去っていく緋奈さん。見送るまでもなくその姿は見えなくなった。


いつまでも緋名さんの方を見ているわけにもいかず、校舎へと向き直る。

携帯で時刻を確認すると……、電子の針は午前十時を示していた。明らかな遅刻だ。


一体どこまでツーリングしていたのか検討もつかず、緋名さんの行動範囲の広さに少し呆れてしまう。

一時間目はどうせ欠席になっている事だし、このまま、いっそのこと学校自体サボってしまおうとも考えたが「真面目に授業出なさいよ」と言われた手前、それは気が引けた。


「……仕方ない、か」

観念して、大人しく登校する事にする。


────授業中の学校は時が止まったように静かだった。



春の妖精は花弁を纏い、その季節の終わりまで踊り明かすのだろう。


その舞踏の熱気は人々にも伝播でんぱするようで、六時間目終了のチャイムが流れた頃には教室全体がどこか浮き足立っていた。この現象をの一言で済ますのは短絡的だろうか。往々にして学生なんてのは季節を問わず、地に足着いていない気もする。


今日中に提出するよう言われていた進路希望表は空欄のまま、誰もいなくなった教室で一人、そんな益体もないことを考えていた。


この調子では明日も居残りになりそうだなあ。なんて、どこか他人事のように思いながら空の教室を後にした。


斜陽が廊下を橙に染める中、僕はぼんやりと放課後の学校を歩いている。特に目的があるわけでも、なんなら意思があるわけでもなく、僕は足を進めている。


────長い廊下に足音が響く。


こうして一人でいると昔の事を思い出してしまう。まともな学生生活なんて送っては来なかったからこそ思い出すのだろう。僕が救われた、救われていた五年間を。


「……」

思考の隅でくすぶっている記憶。それは郷愁きょうしゅうではないけれど、確かに僕が経験した事で、何となく走馬灯のように思えた。


そんなものに思考のリソースを割いてしまっているけれど、今僕が注視するべきは他にある。それはここが校舎のどの辺りなのかということだ。


窓の下を覗く限り、恐らくだが、ここは別棟の四階。文化部の部室と物置と化した教室が大半を占めている場所だったはずだ。文化部といっても、その殆どが同好会や形だけの存在となっているため、実際には物置としての側面が強い。


しかしどうして、この学校はこんなにも広いのだろうか。緋名さんが言うにはただの高等学校であるらしいけれど、今まで自分が歩いてきた時間を思い返すと、短いとは言い難い距離を歩いていた気がする。普通科には小学校の五年間しか身を置いてないので、もしかしたらこれが通常なのかもしれないけれど。


いや、

「僕がそう感じてるだけか……」

生徒も居ない校舎内は静まり返っていて、普遍ふへん的な白い床は無限に続く迷路のようだった。だから、僕はこんな違和感を覚えているのだろう。


何故、部活にも入っていない僕がこんな所にいるのか、それは単に僕の気まぐれに起因する。


転校して一ヶ月が経とうとしている僕だが、「そういえば、別棟はまだ見ていなかったな」などと考えたのが運の尽き、というか浅慮のツケだったのだろう。現在完全に迷っているのだから。

自分を絞め殺してやりたい。そんな自業自得だった。


日が完全に沈む前に帰る為、散漫になっていた意識を現実へ向ける。廊下は未だ終わりが見えず、永遠のように感じられた。不思議な所感を抱きながら、見知らぬ廊下を一定のリズムで歩く。


───コツ、

足音は一つ。宛もなくさまよっている僕のものだ。

───コツ、コツ……


そして、足音が二つ。根無し草が揺れる音と、もう一つ。僕以外の誰かがそこにいるという確かな証拠。予兆も前兆もない突然の来訪。


その足音は、今まで気づかなかった間抜けな僕に対する嘲笑のように聞こえた。

烏有うゆうくん ────」


の声が放課後の廊下に響く。

声は後ろから、無遠慮な親しみを携えながら発せられた。声質から推察するに女性、未成年、たぶん学生だろう。


「……」

唐突に、前触れもなく現れた人物に対し警戒のレベルを上げる。回想に入っていたとはいえ、僕に全く気取られなかったというのは、それだけで宣戦布告と同等の意味を持つ。何より、気配を消して後をつけるなんて、まともな人間の、ましてや普通の高校生のする事ではない。そんな手段をとったということは、何かしらの意図があってのことだ。


目が眩まないように夕日に背を向け、呼び掛けに反応した体を装い後ろを向く。丁度半身だけを相手に見せる体制になる。

「……」


しかし、警戒をしながら振り向いたはいいものの、背後に広がっていたのは僕がこれまで辿ってきた廊下だけだった。不可思議な声の主は姿形も、声の残響すらもなくなっている。廊下は静寂そのもので少し動けば衣擦れすらよく聞こえる程だった。


「後ろ後ろ、烏有くん」

さっきの声が今度は後ろ……先程まで僕の進行方向だった場所から聞こえてくる。

僕が振り向いた方と、ちょうど反対に回ってしまったのだろう。要はすれ違いだ。


正面、もとい、今は背面となった方に振り向く。

「すれ違っちゃったね」

すれ違い。僕が後ろを向いた時に誰もいなかったのはそういう事か。しかし、ああも完璧に後ろに回れるだろうか。ただ単に僕の不注意。気が抜けているだけだと言われたらそれまでだが。


目の前の少女は手を後ろにまわし、前かがみで笑う。ショートカットの黒髪は真面目な印象を抱かせる。

「……」


突如現れた少女に対して、僕は閉口した。その少女の姿に、どこか違和感を覚えたからだ。

違和感の正体を確かめるために少女の姿をくまなく観察する。


制服に着崩した様子はない。スカートは少し短いように思えるが、性的な助長も過剰ではない。

「烏有くん?」


鞄には何かのキャラクターのストラップと御守りが揺れている。これも過剰という事はなく、きっと何か思い入れのある品を付属させているのだろう。

幼さの残る顔立ちに、控えめな髪留め。


清楚で真面目な普通の女子高生。普通は存在しない普通の女子高生が、そこにはいた。果たして、それが違和感の正体なのだろうか。それ以外の答えがあるようにも思えてしまう。それは視界の内に既にあるような気がして、疑念が蟠る。


しかし、周囲に特に変わった様子はない。先程と同じく僕は廊下に立っているし、この女子生徒もそばにいる。強いて挙げるにしても、照りつける夕日が先程よりも少し傾いた程度だ。


「あれ……烏有くんだよね? 間違えちゃった!? 私

!?」

なぜ倒置法なのか気になったが、聞いたところで特に意味はないだろうから、「間違えてないよ」とだけ伝え、言及はしない。


「ほんと? よかった〜」

安堵したのか、ほっと息を吐く少女。話し方からはあまり伝わらないが意外と緊張していたようだ。


「あの、何か用? 僕は君と接点があったようには思わないんだけど」

「接点? ほら、同学年でしょ、私たち」


どうやらこの少女と僕は同学年であるらしい。

僕は高校二年の春という時期に転校した所為か他の生徒との関わりが薄く、同学年の生徒はおろか、クラスメイトすら記憶していない。


まあ、たとえ初年度から在学していようと、状況が変わっていたとは思わないけれど。

「同学年……そうか、じゃあ、同学年である僕に何の用?」


というか、同学年という理由だけで人は会話をするのだろうか。知人以外とはロクに会話をしていない僕としては未知の領域だ。


「そうだった。気になったんだ、なんでここに居るのか。入ってなかったよね? 部活」

「ああ、そういう事。特に理由がある訳じゃないよ。ただ迷ってただけ」


「迷う……? そっか、広いもんね、うちの学校。入学したばっかりの時はよく迷ってたな〜私。周りの子も迷ってたよ、結構」


新入生とはいえ、そんなに迷子が発生する学校は構造的に問題がある気がする。 と、率直な感想が浮かんだが、案外学校というのはそういう物なのかもしれない。普通の学校生活をおくったことのない僕には、よく分からない話だ。


そんな事を考えていると、少女は突然表情を明るくした。

「そうだ、案内するよ、私が!」

少女は目を輝かせながら、正に名案! と言わんばかりの得意げな表情で意気込んでいる。しかし、


「いや、これは僕の自業自得だ。巻き込む訳にはいかないよ。それに、ここに君が居るってことは部活があるんだろ?」


さっきこの娘も触れていたが、ここは文化部の部室が軒を連ねる別棟だ。一般の生徒が居るとは考えづらい。ここにには物置としての側面もあるが、物置から引っ張り出すような物がこの時期に必要になることはまず無いだろう。


「そこは大丈夫! 時間にルーズだし、うちの先輩。それに下駄箱まで近いから、部室」

時間にルーズだからといって、それは遅刻してもいいという事になるのだろうか。まあ、僕も遅刻をしているので人のことは言えないけれど。


「行こ、ほら!」

返答を待たず、彼女は僕の腕を引きながら先行する。


それから暫く、この少女、『水鏡ミカガミヒビキ』に先導してもらいながら廊下を進んでいた。

話しているうちに、僕がクラスメイトの名前を全く覚えていない事がバレてしまい、改めてお互いに自己紹介をしたのだ。


水鏡の家は社家であるらしく、その姓や付けている御守りは祖父が神主を勤める神社が由来らしい。

目的地に着くまでの間、最近何かと話題になっている事件のことや試験対策の話など、他愛のない話が続いていた。何の変哲もない普通の会話だ。


「そういえば、出かけたりするの? 週末?」

「どうして?」

「ほら、ゴールデンウィークじゃん。週末から」

ああ、そういえば今朝もそんな話をしたな。


「うん、出かけるけれど、それがどうかした?」

「行くのかな、家族と?」

「まあ、言うなればそうかな」

緋名さんと血の繋がりはないけれど、説明が面倒なのでこれくらいファジーでいいだろう。友達というわけでもないしね。

「……そうなんだ。楽しんでね!」


その時、水鏡の笑顔に校舎の陰が重なった。ただそれだけのことではあるのだが、何か含みがあるように思えてしまう。


気になった点としてはそれくらいで、概ね普通であろう会話が繰り返されていた。きっと、これは僕が忘れてしまった時間なのだろう。

傍から見れば無為な、意味などないことが過ごす意味である環境。


……この微睡みのような状況にうつつを抜かしていたから僕は気づけなかったのかもしれない。彼女の、水鏡響の異変に。陽炎なんかじゃなく、確かに揺らいだ彼女の影に。


そんな感の鈍い僕だから、彼女の問いかけが随分と唐突なものに感じられたのかもしれない。

「 ────ねえ、信じる? 神様とか……」


相変わらずの倒置法だが、その声はどこか無機質で、今までの感情表現豊かな彼女から発せられたとは思い難かった。


なんと回答するべきか迷い、「……えっと」と言いながら首の辺りをさすった。すると、水鏡も同じように首をさする。僕は正面に視線を移しそれに気づかないフリをした。何となく凝視してはいけない気がしたからだ。


「神様か……」

「そう。信仰心とか、そういうの。あるのかな、烏有くんには」

「何かを信仰したことはないかな。心の方も、多分ないよ」


「心って……どうして?」

「僕の両親は心無い人だったからね。きっと遺伝しなかったんだろう」


「遺伝性だったの、心って!? でも、だったら隔世遺伝とかで……」

「……覚醒しなかったんだろうね」

蛙の子は蛙と言うし。


「じゃあ、信じてないんだ。神様」

実際のところ、本気で神を信じている人間はそう多くはないだろう。大抵の人は、信じるといっても形式として初詣をするのが精々ではないだろうか。現代において、神や霊、都市伝説なんかは半ばエンタメ化しているし、解き明かそうとすればいくらでも明かせる世の中だ。敬虔けいけんな信奉はそれだけ薄明なものとなっている気がする。


「信じてないよ。『信じた者は救われる』っていう選民思想が気に入らない」

「ひねくれてるなぁ、随分と……」


水鏡は若干、辟易へきえきしている。

ちょっと申し訳なく思った。

「……というのは冗談で」


「冗談だったの!?」

「本当は信じているよ。ほら、困った時の神頼みとか人間らしくていいよね?」

「全然信じてないじゃん……」

今度は呆れているようだった。


もしかしたら僕はユーモアのセンスが致命的に欠けているのかもしれない。

「そういう君はどうなんだい。信じてるのかな、神様ってやつを」


神主の孫にこんなことを聞くのは失礼かもしれないけれど、回答してばかりというのもつまらない。仕返しというわけではないが、こっちのターンがあってもいいだろう。


「私? 信じてるよ、勿論」

まあ、聞くまでもなく予想通りではある。

「でもね、思うんだ、私。本当は、何かを信じている自分を信じたいんじゃないかって」

……その返答は予想外だった。こういう娘は信じることに懐疑などないと思い込んでいたから。


「自分を信じたい?」

「何かを、例えば神様を信じるのは、神様っていうルールに従っている自分は正しいんだって肯定したいからなんだと思う」


続けて水鏡は、

「だから加えてこうも思う。たぶん、烏有くんの神様は死んじゃったんじゃない?」

と、言った。


それはあまりに決定的な、ある意味、タブーとも呼べるものだった。

その衝撃に僕は自ずと口を閉ざす。

「……」


僕よりも背の低い彼女は、必然、上目遣いに僕を見つめる。大きく丸い目は、普段ならば愛らしい容姿のはずだけれど、今は圧倒されるような言外の力強さがあった。


「というのは冗談で」

「……冗談、ね」

「勿論。信じるということは許されているのです、万人に」

雰囲気が普段の水鏡に戻った。といっても出会ってから数分の彼女しか知らないけれど……、ともかく圧倒されるような気配は消えていた。言葉遣いも倒置法に戻っている。


胸の内で溜息をつきながら、手に持っていた鞄を肩に担ぐ。すると水鏡も同じように鞄を担いだ。水鏡のような娘がするにはあまりに野暮ったい動作で、正直似合っているとは言いづらい。


しかし、そんな彼女の動作を指摘できるほど、僕に余裕は残ってなかった。先程の水鏡の言葉が脳内を廻ってしまい、なかなか忘れられない。


「……信じるというのも簡単じゃないね」

誰にでもなく呟く。低く小さな呟きは長い廊下に反響することもなく、ほとんど僕の胸中で消えたように思えた。


けれど、水鏡にはそれで十分だったようで、

「……そうなんだね。でも、そうなのかな、君は」

と、答え。もとい応えがあった。


囁くような声は不明瞭で、そして意図は不鮮明だった。その発言にどんな意図があったのか、僕にはまだ判断がつかない。

けれど、水鏡にとっては答えになったのかな。


「何の話?」

「ううん、何でもない! ごめんね、変なこと聞いて……あ! 着いたよ部室!」

少し慌てているようだったが、そんな水鏡の様子よりも、僕は目の前の教室に意識を割いていた。


そこは水鏡が話していた通り部室の前であるらしく、扉の前には部活名が記されたプレートが掛かっている。

────《オカルト愛好会》

同好会ではなく、愛好会。


確か、部員の数が足らないとか、顧問がいないとかで、同好会よりもランクが下がるんだっけ。

「それじゃあ、そこの階段降りて渡り廊下通ったらすぐだから、玄関。またね、烏有くん!」


部室に着くなりまくし立てるように説明する水鏡。どこか急いているようにも見える。もしかして遅刻したことに対して、言い訳のために演技でもしているのだろうか。


先輩は時間にルーズなんじゃなかったか? と、疑問に思ったが、そんな細かな事情は僕には関係の無い事だ。……いや、水鏡の遅刻には僕も関わっているし、自業自得だと知らん振りするのは不誠実かもしれない。


道案内の感謝と遅刻させてしまったことへの謝罪をしようと口を開いたが、それと時を同じくして水鏡が部室の扉を開けた。中に入ろうとした水鏡の肩越しから、部室の様子が目に入ってくる。


その様相に、半端に開いた口からは驚愕に喘ぐ息が漏れ出るのみで、ついに謝罪の言葉は出なかった。

驚嘆のさなかではあったが、半ば無意識に視覚情報を分析する。


……部室内は文化部の割に、過剰にスペースがとられていた。オカルト愛好会と言うくらいだから、魔法陣なんかを描くためのスペースという線も捨てきれないでも無いが、それでもこの空間は異質に思える。部室の後ろ側には、使われていない椅子や机が煩雑に追いやられていて、この部屋の異質さ、不気味さというものをより強く印象づけた。


そして、机の上に置かれた一体の人形。左目に眼帯を付けた見蕩れるほどに美しいそれは、無表情に水鏡の方を見つめている。こんな人形がいたとて不思議な場所ではないが、何か胸を騒ぎたてるような焦燥が気色の悪い汗となって全身にまとわりついている。


教室の真ん中に設置されている机。その上に設置された人形に対して、僕は考える。

室内の夕闇と同化するほどに黒く長い髪。その髪から覗く塗り分けられたかのような白い肌、そしてその肌よりも尚白い、左目の眼帯。

そこまで分析してから、僕の体は意に反しはじめた。


────動けなかった。

     衝撃的だった。


魔術や呪いにでもかかったかのような、理由の分からない衝撃が心臓を叩いている。

後ずされず、声も出ない。


水鏡に対する言葉を今の僕は口にできない。今はただ、目を覆いたいと叫ぶ本能を喉元で咬み殺すことしかできない。

僕を支配する『何か』の正体を金切り声を上げる理性をもって探す。


唯一動く目が人形の体を捉える。

瞳が、鼻が、口が、耳が、髪が、似ている ────


似ている。

                   今はもういない藍色に。

似ている。

                  未だ存在する無色透明に。


────その人形は、相違した僕らとの相似だった。


停滞は一分であったか、或いは一時間であったか、もしくは一秒もなかったかもしれない。その判然としない時間感覚のさなかにあっても世界は残酷に動いているらしいく、水鏡は教室に入り、後ろ手に扉を閉めていた。


その間際、扉が閉まる僅かな瞬間に、

………目が、合った。

人形の瞳は透き通るような色をしていて、しかし色とも呼べない程に澄んでいる。


目を疑いたくなるほどの存在が、扉一枚隔てた先にいる。僕にとっての重要事項。究明すべき謎、明快にすべき神秘がそこにいる。


……一年ぶりに出会った恩人。いや、本人ではない。明らかに他人だ。それは視覚的にも生物的にも、そして心理的にも間違いない。


それでも……


彼女の瞳があんまりにも似ている所為か、下瞼に僅かな疼きを感じる。

────もしかしたら……

そんな考えが頭をよぎる。


いや、その考えは否定しよう。あいつがここに居るはずがないと否定しよう。あいつの死に様は確かにこの目で見たのだから。


無意識に愛好会にいた人形の、彼女の瞳を思い出す。色のない右眼だけでなく、眼帯をしている左眼からも見透かすような視線を感じた。それは見えないからこその重圧か、或いは、それ以外の要因があるのか、今はまだ判断材料が足らない。


思考は空回りを繰り返すばかりで、脳は視覚から得た情報を全くと言っていいほど処理できていない。

そのくせ瞬きも出来ないから、僕はその瞳を凝視する以外には何も出来なかった。


人形が動いたという衝撃よりも、故人に類似しているという現状に僕の脳内はあらゆる要素において飽和している。 まるで魅入るかのように、惹かれているかのように。


────そして、完全に閉じられた扉を呆然と眺めていた。

夕日は、その殆どが沈んでしまっている。


その僅かな残光を反射した水分が溶けた硝子のように目から頬にかけて流れる。それはきっと長いこと目を開けていた所為だろう。

「はあ……」

そこでようやく、一息くつことが出来た。尤も、青色吐息ではあったが。




水鏡の言う通り、渡り廊下からしばらく歩くと、そこは下駄箱だった。こんな単純な道で迷っていたのか、と少し自分が情けない。


下駄箱のある新校舎は昨年、改修工事が入ったらしく、掃除の行き届いた廊下は綺麗な白を湛えている。しかし、いくら改修があったとはいえ、学校という施設が迷子が頻発するほどの入り組んだ設計をしているわけが無いのだから、ここまで迷っていた事が不思議でならない。これも春の魔法の為せる技だろうか。


……まるで自分が正常であるかのような現実逃避をしてみても、あの邂逅かいこうが、部室での出会いが脳裏をよぎる。僕の人生を全て内側から破壊してしまいそうな、存在自体が僕に対しての凶器であるかのような、人間味がまるでない人間のことが。


そんな彼女について脳は勝手な思慮を重ねている。意識しないようにすることが、余計彼女を意識させる。動揺しているのだろう。


このままでは自我すら壊れてしまいそうに感じたので、少し別の角度から、あの女について考えるとしよう。


部室内に彼女しかいなかったことを鑑みるに、水鏡の言っていた先輩というのはおそらく彼女のことだ。あの様子では時間にルーズというより無関心なだけとも思えるが。

「……結局はこれも逃避だな」


ふと窓外を眺めてみると、さっきよりも明らかに日が暮れているのが分かった。このままだと本当に夜になってしまうので、少し歩調を早めた。夜に不安があるというよりは、面倒事を避けたいという思いが強い。僕のような人間は、特に。


そんな思いを胸に下駄箱を出ると視界の端に違和感を覚えた。それは水鏡と出会った時の違和感とは違い、明確に原因が理解出来るものだった。


あの女が、オカルト愛好会の部室に居た人形のような女が、玄関に立っている。それが違和感の正体だ。

「こんばんは、転校生さん。いえ、烏有ウユウ透見トウミさん」


暗さが増した紫の空を眺めながら、女は宵の挨拶をする。そこに感情と呼べるような、そう推測できるような表情はなかった。


「……」

部室からここまで、そう距離がある訳では無いし、走っていた訳でもないのだから、僕より早くここに着くこと自体は可能だろう。


問題は可能だからといって、なぜ行ったのか。

それは勿論、僕に要求があるからだ。こればっかりは、僕の自意識過剰というわけではないだろう。


「不思議? 説明するけれど、その前に」

敵意はなさそうだけれど、いや、そう信じたいだけかもしれないが。兎も角、得体の知れない何かがこの女にはある。警戒するに越したことはないだろう。


顔には出さず警戒していると、「あなた、神様って信じる?」と、女は口を開いた。

それは水鏡と同じ質問だ。


女の顔には表情と呼べるものがなく、その質問は淡々とした、機械的なものに思えた。だが水鏡の時とは違い、違和感を感じることがなかったのは、人形のように表情のない顔の所為だろうか。或いは、やはり似ている所為だろうか。


「その質問、流行ってるんですか? 別の生徒にも聞かれましたよ」

茶化すように軽口を叩いたが、女は表情一つ変えず、答えを求める。

「答えてくれないの」


「……信じていないのかもしれません」

「それはどうして」

「ある女子生徒曰く、僕の神様は死んでいるらしい。ないものは信じようがありませんよ」


少し茶化してみたが彼女の顔には相槌レベルの微笑みも浮かばない。

「リアリストなのね」

「ニヒリストですよ」

「……そう。そうなのね」


何かを確かめるように女は目を伏せている。少し窺ってみても、やはり感情らしきものはなかった。

もし、僕の答えについて真剣に考えているのだったら少し申し訳ない。僕の言葉に意味が含まれていることなんて殆どないのだから。


しばしの沈黙の後、長いまつ毛が持ち上がる。

そよ風に揺れる黒く柔らかそうな髪は作り物のようで、気を抜けば見入ってしまいそうだった。


不可思議な雰囲気が彼女を謎めいたものに仕立てあげているのは言うまでもないが、何よりもその神秘性を強調しているのは、被造物のような色の無い瞳だろう。


「……」

「ん、わるかったわ。説明するために来たのに」

僕が閉口していたのはこの人の説明不足に対してでは無いのだが……まあ訂正する必要もないか。


僕が逡巡していると、先輩はその間に話を進める。

「あなた、ドッペルゲンガーって知っている?」

「ええ。残念ながら面識はないですけど」


「それはいいわね。初対面になれるんですもの」

……対面したら死んじゃうんじゃないかな、僕。

と、ちょっとした疑問を抱いたが、特に言及はしなかった。


代わりに少しの沈黙をもって返答し、相手の意図を見定める。

「……オカルト愛好会の人間からその話題が出たってことは、僕を勧誘にでも来たんですか」


その質問に女は無表情に答える。

「ええ、でもすぐに決める必要はないわ」

そう言って、女は校舎へ戻っていく。黒い髪を揺らしながら、まるで夕闇に溶け込むように。


数歩進んだところで女は振り返り、「ただ、興味なり関心なりが少しでもあるのなら、明日、オカルト愛好会にいらして。歓迎するわ」と言った。


その言葉を最後に、人形みたいな先輩は校舎の中へと消えていく。その後ろ姿は、ぬばたまよりもなお黒い髪のせいで夕暮れの陰と区別がつかなかった。


すぐに見えなくなった先輩の後ろ姿が、未だに見えるような気がして、僕は暫く校舎内を眺めていた。

しかし、眺めるのもいい加減にして僕は黄昏の街へ足を踏み出す。

────彼女の死線は、もう感じない。





〈 ── 弐 ──〉



学校を発ってから数分が経過した。

既に日は沈み、建物や街灯が夜の闇に抗うように光量を増している。


帰宅するにあたって、僕は駅前に来ている。この駅は僕がこの街に来た時に利用した駅だ。それが一ヶ月前。もう、と言うべきか、まだ、と言うべきか分からないけれど、それなりに見慣れた駅周辺を眺めながら歩を進める。電車通学をしているわけではないので、駅に向かうのではなくただの通り道としてだが。


春の夜はいまだに涼やかな風が吹く。上着がなければ震えていたかもしれない。


「……」

周りに意識を向けると、どこからともつかない声が聞こえてくる。仕事や学業から解放された歓喜の声だ。無論、悲観もあるだろうが、大抵は声にならない声として、街の喧騒に掻き消える。

────それが聞こえてしまうのが、僕らなわけだけど。


自らの呪いのような性質に嫌気がさしつつ、僕は駅から離れ住宅街へ向かう。目的地へ近づくにつれ人は減っていき、今は僕一人が月のない夜を歩いている。


コツ、コツ、とアスファルトを叩く音が空気を、そして自らの脚を通して聞こえてくる。


────、 ──────。


その律動に声が混ざる。明瞭ではないが、それほど遠くというわけでもなさそうだ。

……小路を挟んだ先の路地に目を向ける。


なんら変哲はない。どこの街にでもあるような普通の路地。

『 ────、 ──』

しかし、それが内包する事情は、普通とは言えない。

『 ──、 ─、 ───!』

声の方へ走りだす。


……駆け出した足が路地の陰を踏む。暗く冷たい悲観が足の裏から全身に染み込む様だった。

街灯や建物の明かりが届かない路地には無明の闇が広がり、他者の関与を妨害している。


暗闇に目が慣れてくると、路地はそれほど広くはないことと、立ち回るには不足しない程度のスペースがあることが分かった。そして目が慣れるにつれもう一つの事実が見えてきた。


僕が聞いた悲鳴の主であろう女性の姿が見当たらない。どころかすら見当たらないことを鑑みるに、運良く逃げおおせたか、僕が嵌められたのだろう。


「 ────!!!」

僕が立ち止まった途端、明かりの消えた街灯の下からが蠢きだした。

僕を取り囲むように前、後ろ、左右からの包囲網。徒手である僕からすれば分が悪い。


────けれど、


 横に薙ぐ。

前方、そして右の怪物は一斉に霧散する。流れのまま構え直し後方と左も切る。しかし、全滅には追い込めず未だ多くが残存している。


怪物の間で刹那の逡巡があったようだが、すぐに攻撃が再開された。

斬っても斬っても数は減らない。無尽蔵に現れる怪物をこちらも無制限に切り祓っていく。


感動はない、叙情もない。機械的に体を駆動させ、一切の憐憫れんびんすら持たず合切を断つ。

経験的にあと数分もすれば終わるだろう。と、考えはじめた瞬間。僕が路地に侵入してきた小路から声が、悲鳴が聞こえた。


「 ──、 ──!!」

逃げ道を阻まれているような女性の声が聞こえる。体を掴まれているのだろうか。


「……ッ」

反射的に声の方を向く。運良く逃げおおせたものとばかり考えていたが、僕がここへ向かう際にすれ違ってしまったのか。


暗闇に順応してきたといっても、離れればそれだけ視認性は悪くなる。今、女性の正確な状況は分からない。

助太刀に向かおうとする僕を怪物達は強固に阻む。

一瞬ではあったが手を止めた所為で、一層数が増してきた。


────女性の声が遠くなる。目の届く範囲で誰かが、死ぬ。


「……」

……特別な感慨はない。ただ死ぬ時間が来ただけだ。

そうと割り切れば、楽なんだろうけれど。


僕と女性を阻む奴から優先的に斬る。大雑把に切り払ったところで、女性のシルエットが視認できた。そのまま女性の元へ向かおうとしたが、背後の二体が僕の体にしがみつく。一体はおぶさるように、そしてもう一体は足を固定してくる。


動きが阻害されるため振り払おうとするが、それを阻むように正面の一体が拳を掲げながら跳躍した。

回避は不可能。排除してから向かおうにも一刻が惜しい。


「 ────────!!」

声にならない声と共に怪物の拳が迫る。


……拳が接触する瞬間に左腕を振り上げ防御の姿勢をとる。予想通りの軌道で拳は僕の左腕に直撃した。バットで殴られたような痛みが左腕を通して脳を揺さぶる。


これほどの衝撃であれば、あえなく吹き飛ばされるだろう。本来であれば。

しかし今の僕には二つの重りがついている。ご丁寧に一体は足を固定してくれている。


そのおかげというべきか、僕は元いた座標から動くことはなく、狙い通りの行動がとれた。

出口へ向けて女性諸共、


しかし刃が女性を傷つけることなく、周囲の靄のみを切り祓った。そして拘束から解放された女性は一目散に光の中へと消えていく。


「……やれやれ」

この靄は人の多い場所には現れない。これで彼女の安全は確保されたといっていいだろう。


いい加減重くなってきたので背後の二体を切る。もう一度飛びかかってきた正面の一体を体を捻って躱しながら回転し、前後左右の怪物を巻き込むかたちで一蹴する。


「……!」

が、振るった刃はちょうど一回転するあたりで動きが止まる。今まで滞りなく靄を祓っていた”不可視の刃”が何かに引っかかったようにその凶刃を停止した。


刃の止まった先を見る。一見すると何もない暗闇だが、簡単には見えないからこそ存在するものがある。

それは瞭然とした悪意、判然としない心象。かつては人であったもの、今は人の形をしている物。


────つまりは人でなし。


闇より出でた『それ』は先程の靄とは違い、ハッキリとした形がある。今、目の前にいる怪物は人の形をしているけれど身体は黒く全身には赤いラインが走っている。


……刀を構え直し、『それ』と対峙する。

相手の顔に表情と呼べるものはない。どころか、目や鼻などの顔面を形成する部位が、眼前の『それ』には存在しない。


無関心、無感動。感じられる空気感は絶無であるが、しかし確かな悪意だけは全身から滲み出ていた。


「……ァァァッ」

小さな呻き声を上げながら、怪物は突進してくる。先程の靄とは比べ物にならない速度。防御も回避も間に合わない。

「ぐ……!」


正面からの衝撃にあえなく吹き飛ばされる。

しかし、壁に衝突することはなく、僕の身体は宙で方向を変えながら地面に叩きつけられた。


「ッ……!!」

吹き飛んだ僕の身体を怪物が掴み、改めて地面に投げたのだろう。


強引な方向転換で節々が悲鳴をあげ、叩きつけられた衝撃で呼吸が止まる。

停止した酸素の供給を急ごうと、心臓が早鐘のように拍動するが明らかな過負荷だ。


酸欠で真っ黒になっていた視界に赤い線が走った。


────!


振り下ろされた足をすんでのところで躱す。僕が転がっていた場所には大きく亀裂が入っていた。

もしあのまま倒れていたら。と、考えるとぞっとする。


ふらつく足取りで立ち上がる。

僕の斬撃が通用しないのは一太刀目で、いやそれ以前から認識済みだ。


刀から手を離し徒手に戻る。どちらにせよ有効打とはならないが、女性を逃がした今、僕に戦う意思はない。

「……ァァァ!」


技巧がまるで関与しない拳を、ギリギリのところで躱す。

しかし、急速に旋回した怪物は改めて腕を突き出し僕の手首を掴み、無機質な路地に投げ捨てた。

「ゔ……!」


地面に投げ飛ばされ、服の上から身体が摩耗する。

立ち上がろうとするが阻まれ、首を掴まれながら体が持ち上げられる。


「 ────っ……! ……!」

首にかかる圧力が増す。苦しみに悶え動く喉が新たな嗚咽を生み、辛苦の悪循環に陥る。


……分かってはいた事だ。圧倒的に膂力りょりょくで勝る相手側が有利であること。対抗手段がないこと。全部知っていたはずだ。それでも逃げなかったのは……ああ、クソ。本当に呪いみたいだな。


しかし、その呪いは自業自得であるし、お陰で僕はのだ。軽口は叩いてもついぞ恨むことはない。


「……」

抵抗していた手が力なく垂れる。指先から冷たい死が這い寄るのを、自分の意思に反して動く心臓が察知している。


今ほど、自分にがないことを安堵した瞬間はないだろう。これならば心置きなく ────……


遠くから、あるいは意識が遠のいているからそう感じるのかは分からないが、どこからか軽やかに響く鉄の音が聞こえた。


視界には赤い線しか映らない。それでも目を動かし、音の出処を探す。僕は不思議と音を求めているようだった。


────。

さっきよりも音が近づいている。その音が頭上から聞こえることを理解し、視線を上へ向ける。


全てが暗闇であった世界に、一つだけ、見ていると網膜が焼けてしまいそうな青白い光が現れた。それは一条の矢のように闇を裂きながら落下してくる。


────!!!

鈍色の一閃と共に目の前で音が響いた。絞首の力が弱まり、すり抜けるように地面に落下する。


「……っ」

背中を打ち付け、体内に僅かに残存していた酸素が大気へ還る。


「 ────は……ッ! げほッ、げほ……!」

苦しみに悶えながら肺に空気を送る。


調子が戻ってきた目で自分が持ち上げられていた場所を確認する。僕の首を絞めていた怪物は腕を上げた姿勢のまま硬直していた。


その硬直の原因と思われるのは、怪物を脳天から突き穿った『刀』だろう。

少しすると、僕を死の淵にまで追い詰めた怪物は黒い靄と同じようにあっさりと消失する。


……………………。


やっと終わった。そう気を抜くと、僕を覆うように陰ができた。怪物を貫き地面に突き刺さった刀の上に誰かが立っている。


「……次に会うのは明日だと思っていたのに、意外なこともあるのね」

刀の上には、人形のように表情のない少女が静かに立っていた。


いつの間にか姿を現していた月が闇に溶け込む少女の輪郭を細く撫でている。さっきの青白い光はこの月だったのだろう。


────黒い髪、白い眼帯、色のない瞳。

彼女を形成する色が、ゆっくりと目に染み込んでくるのを僕は痛みの引かない首を撫でながら感じていた。赤いよりも目に優しいく、青よりも感傷を抉らないモノクロ。


そして何より類似した無色。

やはり似ている。

その感覚が感傷を抉る。


「……どうして、先輩、が、ここに」

痛みの所為で上手く発声ができなかったが、何とか言いたいことは伝えられたのだろう。先輩は表情を変えず僕を見下ろしながら返答した。


「帰宅途中だったのだけれど、女の人が血相変えてこっちの方から走ってきたものだから、気になって」

なるほど、僕は図らず助けた人に助けられたことになるらしい。


「その人は無事、でしたか」

徐々に痛みも落ち着いてきて、喉の調子も戻ってきた。

「今は駅前のベンチで休んでいるわ。彼女を休ませていたから、ここに来るのが遅れたわけだけれど」


結果的には助けられたのだから文句はないし、その筋合いもない。

「……ありがとうございます」


「お礼なんていいわ。私がいなくても、あなたの意思通りの結末にはなっていたでしょうから」

「……どういう意味ですか」


「あなた、諦めていたでしょう。そういうものなのかしら」

あの瞬間、僕が諦めていたということは傍から見ても分かってしまったらしい。


「そういうものかは分かりませんけど……。とりあえず、女性の様子を見てきます」


先輩が休ませてくれたようだけれど、とりあえず無事かどうかの確認がしたい。

「そう」

先輩の短い返答を聞き、僕は女性の元へ向かった。




来た道を辿り、僕は駅前のベンチが見える場所まで戻ったきた。女性は俯いてはいるが大きな怪我がある様子はない。大事無いなら、僕が死にかけたことにも意味はあったのだろう。

と、考える一方で、別件ではあるが疑問がある。


「なんで着いてくるんですか」

てっきり帰宅するものだと思っていたが、先輩は何も言わずに着いてきている。女性が心配だから、という理由も否定できないがあまり確率は高くないだろう。


「あなたがこれからどうするのか、見たいのよ」

「……面白いことなんてないですよ」

こんな行動には意味すらないのだし。


「人の行動原理は快だけではないのよ」

それは裏があるということなのでは……

言及しようか逡巡していると、先輩は先に言葉を紡いだ。


「さ、行きましょう」

そうは言うが、先輩が先導する様子はない。あくまで僕が行動する必要があるらしい。


「行きませんよ。僕は彼女の無事を確認に来ただけですから」

「ヒーローは名乗らない、と」


「そんなんじゃないですよ」

これはただの自己満足だ。勝手に助けた気になって、挙句の果てに助けられた僕に名乗る資格などありはしないだろう。


「恩なんて着せるに越したことはないでしょう」

「返せない恩を着せるのは僕の主義に反します」

それじゃあ、僕のやったことはまるっきりの徒労になる。僕に対して報いたいのなら、早くこんな夜のことは忘れることだ。


「……もし、あなたが彼女の状態を気にしているというのなら、伝言をお願いします」

そうすれば、僕の仕事はこれで終わりにできる。


「気にしてはいないけど、聞いておくわね」

気にしてないんだ……。想像通りではあるけれど。

「……『は警察が追い払いました』と伝えてください」


「……それがあなたのやるべきこと」

僕の話を聞いてから、先輩は不思議そうに言った。いや、抑揚も表情も希薄なこの人から正確に意図を汲み取れているかは定かではないが、そう感じた。


「やるべきこと、ではないんですがね。結果的にやってしまっているというだけで」

本来なら僕が直接やれば済むことだ。しかし僕が彼女の前に現れては、恩着せがましくなってしまうだろう。


「そう、少し意外」

そう言った先輩の表情からは意外性など感じられなかった。一切の叙情じょじょうのない人形のような姿は美しいけれど、故に危うく思える。僕のような人間ですらそう感じるのだから、一般人からすればわけの分からない恐怖だろう。


僕がそんな感想を抱いていると、先輩は路地の方に顔を向けながら普段と変わらないトーンで話し始めた。


「……それにしても、今回はドッペルゲンガーじゃなかったわね」

「ドッペルゲンガー?」


「あら、水鏡さんから聞いてないかしら。最近話題になっている事件で……それより、あなた随分と勇敢ね」

指摘され、自分の姿を確認する。


路地では暗くて見えなかったが、僕は制服の上からでも分かるほどに満身創痍だった。制服は所々擦り切れているし、殴られた左腕が自覚するにつれ痛みを増してくる。これを勇敢と呼ぶのは随分な嫌味だ。


「……明日もありますから、僕はこれで」

気分を害したわけではないが、療養も意味も込めて早く帰宅したかった。


それは本心のない僕としては珍しい本音だったのだけれど、そんな僕を先輩は呼び止める。

「私の家、近いから寄っていきなさいよ。治療もできるし、事件の話もそこなら落ち着いてできるもの」


「……」

ここまで意図の読めない人間というのも珍しい。大抵は表情や抑揚、前後の会話で心情というのは読み取れるのだが、この人はそれが希薄で、故に判断もしづらい。


「僕の家だってそう遠くはありませんし、治療もできますよ」

事件の話は気になるけれど素直について行く気にはなれなかった。


それに治療と言えるほどの行為ではないが、傷を宥めることくらいならできる。僕の住んでいるアパートはここから少しした場所だし、痛みに耐えかねて辿り着けない、なんてことはないだろう。

……それに、この程度の傷ならどうせ直ぐに治ってしまう。


「そう。本当に近いのに」

ここから近いとなると、いわゆる一等地の方だろうか。この人のイメージとしては確かにイメージ通りだ。


「お気持ちだけ受け取っておきます」

そう言って、僕は月を標に歩き出す。首を回らせて後ろを確認するが先輩はついてきていなかった。


「また明日」

先輩は静かに呟いて、その場に儚く咲いている。

「……」


こんな時、なんと返せばいいのか分からない。別れの言葉はどこかに置いてきてしまったみたいだ。

僕は痛みの増した身体を携えながら、月の眩しい夜の街に消えていく。






〈 ── 参 ──〉



部屋に戻るなり、肉体は傷を癒すためかいつも以上に睡眠を要求してきた。僕はそれほどまでに消耗していたらしい。


目が覚めたのは午後を過ぎてからだった。当然の帰結として遅刻をし、ただぼんやりと午後の授業に取り組んでいると、いつの間にか空が暗くなっていた。


昨日の反省から足早に帰ろうと教室を出ると、後ろから「おーい。烏有くーん」と声を掛けられた。

それは暮れ方の残響ではなく、確かな響きとして耳に届いた。


「烏有くん、昨日は道大丈夫だった?」

「大丈夫って?」

声を掛けてきたのは水鏡だった。といっても、僕に声を掛けてくる人間は水鏡と先輩、あとは教員くらいだから何となく分かってはいたけれど。


「え!? ほ、ほら、あの後ちゃんと道分かったかな〜って」

何故かとても驚いているけど、なるほど、僕は相当な方向音痴だと思われているらしい。あんな場所で迷っていたのだからそれも当然か。


「うん、君のおかげで何とかなったよ」

もしかしたら、本当に僕は方向音痴なのかもしれない。と、そんな余念が生じてしまったので弁明はしなかった。


「そっか、役に立てたなら私も嬉しい。あ、それとね、烏有くん。先輩が部室に来てほしいって」

「僕が? ……ああ、そういえば呼ばれてたったけな」


昨日の出来事を思い出すと、確かに玄関の辺りでそんな話をした気がする。色々とあった所為で忘れていた。

「えっ、烏有くん先輩と会ったの!?」


さっき以上に驚いている水鏡。はて、あの先輩に会うことはそんなに凄いことなのだろうか。確かに凄烈せいれつといえば凄烈な人ではあったけど。


「うん、明日……つまりは今日、部室に来てほしいって」

「そうだったんだ……。烏有くん、先輩に気に入られたのかもね」


「気に入られた? あれで?」

「先輩はなんて言うか、分かりずらいかもだけど、いい人だよ」


「そう。で、そのいい人は来ないのかな」

道理なんかを気にする性質ではないけれど、今更水鏡を介して僕と会う必要はないように思える。


「『私が行くより、水鏡さんが行った方が警戒されなくていいわ』って、先輩が……」

妙に似ている先輩の真似に内心驚いて、返答が少し遅れた。


「……そう。まあ敵視されていないならそれでもいいか」

対処する必要がないというのは楽でいい。

「先輩、ちょっと怖いけど、美人だし優しいよ」


「そうなの? あの人、他人とか気にしないって感じだけど」

「気にしないのは烏有くんもでしょ」

それもそうだ。


「さ、そろそろ部室に行こうか。あんまり遅れると先輩に悪いしね」

先輩は時間にルーズなのではなかったか? いや、待たせるよりはいいか。


まだ道順を覚えていない僕は水鏡に連れられ、部室へ向かった。

そういえば、あの倒置法を多用した話し方はやめたのだろうか。



「先輩、烏有くん連れてきましたー」

水鏡は明るい口調で報告しながら部室に入る。幾許いくばくかの抵抗があったが、意を決しその後に続く。


部室内は昨日窺った通りの構造で、部室と呼ぶには活気が無いように思える。

「おつかれさま。水鏡さん」

先輩は相変わらずの無表情で労いの言葉を発した。



「あなたも来てくれてありがとう。今はもてなせないけれど、歓迎します」

そう言われて、僕は先輩の対面に置かれた椅子に着席を促された。


僕と先輩の間には長机が設置されていて、この構図が意図したものなのか定かではないが、心做しか空気が張り詰めているように感じる。


ちなみに水鏡はというと、僕と先輩の間の黒板側の席に座っている。

「気づいていると思うけど、烏有君を呼んだのは部活勧誘の為ではないの」


まあ、薄々そんな気はしていた。僕みたいなやつをわざわざ部活に勧誘する理由はないだろうから。

「あなたには ────水鏡さんを守ってもらいたいの」


何から。とは聞くまでもないことだろう。

「ごめんね、烏有くん。何言ってるか分かんないかもだけど……」


申し訳なさそうに、水鏡の視線は床へと向かっている。

本来であれば、何も知らない一般人に対してであれば、その感情も正しいのだろうが、僕には不要な気使いだ。


「いや、だいたい分かってるよ。僕を呼ぶ理由なんて一つしかないから」

「話が早くて助かるわ」


無表情に先輩は話を進める。

「水鏡さん、昨日言ったことは覚えているわよね」

「昨日? え、ええと……、超能力みたいな話でしたよね……?」


水鏡は腕を組み思い出そうとしているようだが、しばらくしても答えは出なかった。それを受け、先輩が「おさらいしましょうか」と話を切り出す。


────それから先輩は、『心核しんかく』について説明を始めた。

『心核』と呼ばれるもの。水鏡は超能力みたいと言っていたが、あながち間違いというわけではない。超常的な力という点ではその視点も正しいのだから。


『心核』とは文字通りである。

────心。

それから生じた心情が形を持ったもの、つまり実体化したものを僕らは『心核』と呼んでいる。

心が実体化するには条件があるのだけど、明確な基準があるわけではない。ただ、『心核』を持つ人間には共通点があるといわれていて、それは『が人よりも強く心に刻み込まれている』という点だ。


恐怖と

嫉妬と

殺意と

渇望と

愛憎と

友愛と


そして、失望と。


救済を望む願い。トラウマとしての過去の記憶。

そういったものが感情と結びつき、固有の形を持って現出したものが『心核』と呼ばれている。


『心核』は人によって形が異なる。それは同じ心を持った人間はいないということの証明であり、その事実が彼ら『発現者』をより孤独にさせる。


『心核』を使用できる人間を『発現者』と呼び、『心核』を使用する行為を『発現』と言う。これは『心核』が深層心理に隠れたであることが由来であるらしい。


次に語られたのは『心残り』について。

────これは『発現者』の願望が満たされず、志半ばで亡くなった際に『心核』が幽霊のような状態になる現象のことだ。


「安易な言い方をすれば未練タラタラな幽霊よ」

とは、先輩の談。安易な言い草だが、先輩の言う通りだ。


彷徨う魂である『心残り』は『心核』が原型となっており、その性質をそのまま受け継いでいる。つまり、『心核』が生まれるにあたって当人が抱いた心情が『心残り』の行動原理になっていて、先輩風に言わせてもらえば、未練のある『心核』が幽霊のように彷徨い、その未練が解消されるのを待ちわびているのだ。


そして、基本的に無害な『心残り』が対照的なまでに変質することがある。


「変質って?」

水鏡の疑問に答える。

────その名を『心霊』


それは『心残り』の願いを叶えるべく行動する意志を持った存在だ。ただ、願いを叶えるといっても、その方法は穏やかではない。『心霊』は願いを叶えるためには手段を選ばず、どれだけ善良な『心残り』が元であったとしても利潤のためであれば親でさえ蹴落とすように変質する。


『心霊』となった『心核』は自分の意思で消滅することも、時間が解決してくれることもなくなり、過去の自分が抱いた願望が叶うまで暴虐の限りを尽くすようになる。


「心霊……心の霊」

それは慈しみだったのだろうか、哀れみだったのだろうか。水鏡が静かに呟いたのを僕は聞き逃せなかった。


「『心霊』の中でも特に強力な存在は場所や時代によってはなんて呼ばれることもあるわ。もっとも、荒ぶる神だけれど。元となった『心核』の性質をより強い力を以て引き継いでいるのだから、当然と言えばそうなのかもしれないわね」


先輩は水鏡の様子を窺うこともなく説明を続けていた。

『心残り』は時間経過で自然消滅するが、『心霊』はそうではない。


『心霊』を消滅させるには僕らのような『発現者』が『心核』によって取り憑いた負の感情、心の蟠りを祓わなければならないのだけど、『心霊』は、『発現』が出来るだけの人間では手に負えないほど強大な存在だ。『発現』ができても対処の仕方を知らなければ意味がなく、『心霊』に狙われた者は襲われるのをただ待つことしかできなかった。


そんな状況を打開すべく発足されたのが、


────『羊飼い』と呼ばれる組織だ。


『羊飼い』は『心霊』関係の事件を専門とする組織であり、

「烏有君はそこの人間というわけ」


僕がこの場に呼ばれた最大の要因。それは『羊飼い』という組織に所属していた過去があるからだ。


しかし僕は、肩書きとしては『羊飼い』だが、現在は事情が異なる。『羊飼い』というのは『心霊』を祓えて初めて『羊飼い』足りえるのだが、僕にはそれができない。僕が対処できるのは昨夜に遭遇した黒い靄、ランクが低い『心霊』の相手がせいぜいで、『羊飼い』としての能力は下から数えた方が早いだろう。


厳密にいうのであれば僕が祓えないのは『心霊』というよりも、その元になっている『心核』だ。


昨夜の『心霊』に刀が弾かれたのは、負の感情が完全に『心核』と同化していて、それぞれを切り分けることができなかった。という事情がある。


僕の力では『心霊』はおろか、『心核』にすら文字通り刃が立たない。

────僕は、心が切れないのだ。


という旨を先輩に伝えると、

「だから、あなたに頼んだのよ。『相思相藍そうしそうあい』のお弟子さん」


……そう、返答があった。

。その言葉が意味するところは僕の事情を、過去を、知っているということだろう。


やはり、この件は降りるべきだろうか。いや、そんなことが可能ならとっくに降りているけれど、ともかく先輩の話だ。


『相思相藍』は名が知れているにしても、僕について知っているというのは関係者だからの一言では片付けられない。


僕が逡巡しているうちにも先輩は話を続ける。

「心霊現象という点においては、あなたも無関係ではないでしょうし」


「……」

見透かしたようなことを言う。

「さて、説明……というよりおさらいはこれで終わりね」


その一言を合図に、息の詰まるような空気が解けた。

水鏡は呼吸を再開したかのように息を吐き、伸びをしている。


「やっぱりフクザツですね」

水鏡は腕を組み「う〜ん」と唸る。

「……まあ、『心霊』だなんだと言っても、結局は他人だからね。自分とは考え方の違う存在を理解するなんて容易じゃないさ」


「確かに、烏有くんが何考えてるかとか全然分かんないかも。「僕が新世界の神になる!」とか?」

……彼女の中で僕はどんなイメージなのだろう。しかし話の内容はともかく、真似という観点においては妙にクオリティが高い。いや、そんなことはどうでもいいんたけど。



「さて、そろそろ本題に移るわよ」

無駄話に区切りがついたところで、先輩が話を先に進める。

「烏有君は今この街で起きている事件を知っている?」


事件……事件。一件も問題の起こらない街など存在しないだろうけど、これといって思いつくものがない。僕が周囲に無関心ということは否定できないが、こんな小さな街で発生する事件など、なかなか目にする機会もない。


いや、それはやはり僕が周囲に目を向けていないということなのか。

思考が逸れてしまいそうなので、そうならないうちに適当な返答をする。


「花火工場が爆発……とか?」

「はずれ」

「大事件じゃん!」


水鏡にはツッコまれ、先輩には単純に否定されてしまった。

僕が無知であることを察してか、水鏡が答えを口にする。

「……『ドッペルゲンガー事件』、ですよね?」


水鏡は何か含みがあるように口を開いた。それほど暗い話題なのだろうか、その事件は。

「ほら、昨日ここに来るまでに話したでしょ?」


どうやら、僕はこの事件の話を既に聞いていたようだ。言われてみればそんな話題もあったような気がしてきた。

「ああ、そうだね。うん、そんな話もあった」


僕が全く真面目に聞いていなかったことが露呈する前に適当な相槌を打っておこう。

先輩はそんな僕を気にした風もなく口を開く。


「この事件の被害者は二人。そして二人ともこの学校の生徒なのよ」

「……それで二人とも、私の友達」


さっきの表情はこれが理由か。

「友達が襲われたから、次は自分かもしれない。ってこと?」


「ちょっと違うわね。水鏡さんの所属するグループは、水鏡さんを含めて四人いるの」

ということは、


「襲われていないのは水鏡を含めてあと二人……」

「ええ、次に襲われるかもしれないのは、水鏡さんだけではないということ」


水鏡を僕に守ってもらいたい、ということはもう一人は先輩が担当するということだろうか。

「なるほど。じゃあ、先輩がもう一人を?」


「ええ。水鏡さんをお願いできる?」

「……拒否権はないんでしょう」

この人を前にして、そんな甘えが通用するとは思えない。


「ありはするけれど、それを行使した人は皆去ってしまったわ」

それは先輩の前から、という意味だよな……?


とはいえ、特に断る理由もない。そもそも選択する自由自体、僕は所有しているか怪しいのだ。

「まあ、やるならそれでも構いませんけど」


というか、助けを求められた時点で僕には断る自由がないのだ。

「ほんとに!? ありがとう烏有くん!」

水鏡は心から嬉しそうに僕に笑顔を向ける。


しかし、その笑顔に「ただ、一つ質問が」と水を差した。

「何かしら」

「なぜ、正式な『羊飼い』ではなく僕に頼むんですか。奴ら、尊厳に関しては厳格ですよ」


こんな、所属も定まらず、実力も伴わない人間に頼むよりプロに任せた方が正確だ。それに気づけない人でもあるまいに、なぜこの人は僕に依頼をしてきたのだろう。


「それについては、あなたから説明した方がいいわ」

「は、はい」

水鏡は僕に説明を始める。


「別にその人たちが嫌ってわけじゃないの。てか、面識もないし。それより、あんまり大事にしたくないって言うか、襲われた娘も自分が関係してる事件を取り沙汰されるとプレッシャーになっちゃうかと思って」


水鏡なりに友人のことを思っての行動。ということだろうか。

「OK、理由は分かったよ」


「それじゃあ……!」

「うん……、守るだけでいいんだよね」

僕がそう言うと、水鏡は笑顔を向けた。


守るだけ。思わず口走ってしまったけれど、僕に、烏有 透見という男に、そんな実力がないことを僕は知っている。


しかし、それでも水鏡の命を明日に繋ぐくらいなら辛うじてできるだろう。それすら出来ないのなら、僕は殺されても死ねない気がする。


「お礼はちゃんとするから! ラーメン奢るよ!」

仮にも傷害事件から守るのだから、それはリーズナブルが過ぎないだろうか。


そんな文句を僕が思いついたように、水鏡も何か思いついたようだ。

「あ! 替え玉も付けちゃうよ!」


「……」

それは真摯しんしな眼差しで、誰であれ文句を言う気など失せてしまうような、そんな瞳だった。そもそも言うつもりもないけれど。


「あら、ごめんなさい烏有君。事件についてもう少し詳しく話したかったのだけど、時間みたい」


窓の外を見てみるとだいぶ暗くなっていた。これ以上は『心霊』の動きが活発化し、日中よりも危険が増す。水鏡を守るという僕の役割上、できるだけリスクは避けるべきだろう。

「続きは明日ですね」


「ええ、また明日ここにいらして」

その言葉を聞いてから、僕と水鏡は部室を後にした。おそらく先輩は水鏡の友人の方に向かうのだろう。



たかが数メートルの違いで道は表情を変える。そんなことをぼんやりと考えながら僕らは水鏡の家をへ向かう。その道のりは順調で例のドッペルゲンガーに遭遇することもなく今日の務めは終了した。


「ありがとね、烏有くん。また明日」

水鏡はそう言って屋敷みたいな自宅の門に入っていった。それを確認した後、沈む夕日を見ながら僕も帰路につく。



次の朝。

目覚ましは鳴らなかった。というか、僕の部屋には目覚ましがなかった。


というのも、この部屋にある時計は悉くアラーム機能が壊れてしまって、三本の針が回るだけのカラクリとなってしまうのだ。


それは携帯のアラームも例外ではなく、結局この部屋に携帯以外の時計を置くのは辞めてしまった。


昨日は疲労が蓄積していただろうに、眠りは浅く、かといって夢を見ることもなかった。

綿の少ない布団はフローリングの硬さを幾分か軽減する程度で、保温以外には大して役に立っていない。


時間は七時を少し過ぎた辺り。

時間だけ見れば、僕にしてはよく眠った方だ。しかし眠りが浅かった所為で睡眠の質自体は低いだろう。


緋名さんは早朝から仕事があるそうで、既に部屋を出ている。そのため昨日のように呼び鈴がなることはない。


つまり、今朝は椎名バイク便に頼ることができないということだ。まあ、昨日はそのバイク便の所為で遅刻した訳だが。

……いや、それよりも今は水鏡響についてだ。


彼女を取り巻く環境はあまり穏やかではない。既に彼女の関係者二人が被害にあっているのだ。ただ、その二人についても水鏡響の関係者ということだけで、それ以外の情報は分かっていない。相関関係は因果関係を含意しないのだ。被害者二人が水鏡とだけ関係を持っているのであれば因果関係も分かりそうではあるけれど、現実はそう単純ではないし。


真実は何も分かっていない。分からないからこその不快感と、初めて彼女と出会った時の違和感が朝から僕の思考を支配していた。


「……」

時計の針の音すら、この部屋にはない。

あるのは薄い布団と、フローリングに直に置かれた数えるばかりの本だけ。


時間は七時過ぎを更に過ぎ、アナログの時計であれば長針が二の算用数字を渡りきっている頃だろう。

と、僕は携帯のサブディスプレイを見ながら想像していた。


「……仕事だ」

いつまでも寝ている訳にもいかず、身体にパルスを送信する。


水鏡の家までは徒歩で向かわなければならない。今から行っても早すぎるという事はないだろう。

僕は簡単な身支度を済ませ、制服に着替え、閑静な街へと歩きだした。


昨日水鏡を送り届けた道を思い出しながら、彼女の家へと向かう。その道すがら、携帯に表示されていた記事を確認する。トップニュースは『ドッペルゲンガー事件』。僕が知らないだけで世間では随分と話題になっているようだ。


記事を確認しようとしたところで信号が青に変わった。護衛である僕が事件とは関係のないところで行動不能に陥っては目も当てられないので、大人しく携帯を閉じ目的地へ向けて歩きだす。


ぼんやりとした目でしばらく歩いていると一際目立つ屋敷が目に入った。なんだか伝統のありそうな日本家屋。この家が昨日目にした水鏡の家だ。


下手に近づくと黒服の男たちにつまみ出されそうだなあ。なんて馬鹿な妄想も程々に、くぐり戸傍のインターホンを押す。

少しして『はーい……』と、明らかに起き抜けであろう少女の声がスピーカーから聞こえてきた。


「響さんと同学年の烏有透見です。響さんはいらっしゃいますか」

恐らく声の主は水鏡だろうが、念の為礼節を欠かぬよう名乗っておく。ここで下手な挨拶をして本当に黒服が出てこられても困る。


『烏有……。え、烏有くん!? なんで! どうして! どこで! 誰! いつ!』

ご丁寧に5Wボケをかましてくれた水鏡に「何を!」と、1Hを添えてみた。


『わーわー、怒んないで! え、何に!?』

ボケはボケでも寝ぼけていたらしい水鏡は軽くパニックになっている。ちょっと申し訳ない。


「ごめん、悪ノリが過ぎた。それで、響さんはいらっしゃいますか」

『私だよ〜!!』

と、少女の慟哭が朝に響いた。


『もー、朝から驚かせないでよ。驚いたじゃん』

ひとしきり呼吸を整えてから話し始めた水鏡だったが、どうやらまだ驚いているようだ。


「ごめんね。早いようだったら出直すよ」

『ううん。準備するから待ってて』

そう言ってから数分後、制服に着替えた水鏡が戸をくぐり外に出てきた。


「お待たせ、烏有くん」

「急かせたね、水鏡」

「大丈夫だよ。今日は予定もあったから、烏有くんが来てくれてよかったかも」


「予定? 何かあるの?」

「うん、おじいちゃんに神社の手伝い頼まれちゃって」

そういうことなら早く来て正解だったかな。まあ、暇だっただけなんだけど。


「そう、じゃあ行こうか」

水鏡は「ありがと」と、短く微笑んでから神社へ向けて歩き出した。


それからしばらくはお互い無言のまま歩いていた。その道すがら、ふと疑問に思ったことを質問してみる。

「そういえば、狙われてるって気づいた時、家ではどうしてたんだい? 家だから安全ってわけでもないと思うけど」


「そこは大丈夫なんだ。私の家、塩とか凄い盛ってるから!」

……盛り塩って量で効力が変わったりするのだろうか。


いや、そもそも水鏡の家は社家なんだっけ。それなら『心霊』も無闇には近づいたりはしない、のだろうか。寺に住んでいたことはあっても神社は経験ないからなあ。


「そういえば、烏有くんってどこ住んでるの? この街には引越してきたんでしょ?」

今度は水鏡から質問をされた。特に隠すことでもないけれど素直に答えるのは少し抵抗がある。それは昨日感じた違和感がまだ水鏡に残っているからではない。彼女に対する違和感はそれこそが不自然であるほどになりを潜めている。


だからこれは僕の問題なのだろう。

「うん。今は『デラシネ荘』っていうアパートに住んでるよ。それよりもさ ──」


それ以上の追求を避けるように半ば強引に話をそらした。

「 ──君の家……水鏡家って、何の神を祀ってるのか聞いてもいいかな」


「私のおじいちゃんが神主をやってる『水上みかみ神社』には水と鏡に関わりがあるんだ。その昔、私のおじいちゃんが生まれるよりも昔、この街に来た旅人が道だと思って歩いていた場所が実は水面に映った山だった。っていう言い伝えがうちの神社の始まりなんだって」


「そのはなしを神聖視して、社を建てたと」

「うん、その社を代々守ってきたのが、水鏡家なんだ」

水上神社についてあれこれレクチャーを受けているうちに僕らは話題の中心である水上神社に辿り着いた。


目の前には外界からの干渉を精神的に阻むように一基の鳥居が聳えている。

「じゃ、行こっか」


水鏡は軽快な足取りで物理的に僕を阻む石段を上り始めた。

見上げる限りの石段である。


「……実は裏道があったり?」

「急がば回れだよ!」

別に急いでないんだけどね……


現在地から推測するに境内までの道のりはまだありそうだ。回ろうが回るまいが、大した差はないだろう。

つい一ヶ月前まで山で過ごしていたというのに、足への負担が早々に蓄積してくる。最近、鍛錬をサボりがちだったのが祟ったのだろう。


「少し休憩する?」

「問題ないよ」

多少体温が上がっている程度で休むほどではない。


「烏有くんって、思ってるより体力あるんだね。体も鍛えてるみたいだし」

人並みに鍛えてるつもりではあるけれど服の上からも分かるほど僕はマッシブじゃない。水鏡に鍛えてるなんて自慢をした覚えはないし、彼女はよく人を見ているのかもしれない。


「この街に来るまではね。最近はサボりがちだけど」

「やっぱり鍛えてたんだ。よかった〜、この石段のせいで烏有くん帰っちゃうかな? ってちょっと心配だったんだ」


「いくら僕でもここで放り出したりはしないよ」

「ありがとね……私、ここに友達連れてくるの初めてなんだ。この石段のせいなのか、私の家で遊ぼーって誘っても断られちゃって」


────友達。その一言に少し引っ掛かりを覚えたけれど、訂正も面倒なのでそのままにしておく。


「階段以前に神社で遊ぶのは抵抗があるんじゃないかな……」

たとえ信仰していなくとも、何となく罰当たりな気がするし、何よりそんな所で遊んでいたら怒られると思ったのだろう。


「そういうこと!?」

なぜ今まで気づかなかったのか……、いや、水鏡にとってはこれこそが日常なのだろうから、責めるのはお門違いか。


そこからしばらくして、ようやく狛犬が見えてきた。手入れの行き届いた石像からは感受性の乏しい僕でも威厳というものが感じられた。


「さ、もうちょっとだよ。烏有くん!」

水鏡はそんな雰囲気を気にした様子もなく、階段を登る速度を上げた。


程なくして、水鏡は石段の最上段を乗り越える。僕はその少し下から街の様子を眺めていた。

頂上からは日に照らされ始めた地上を望むことができた。街の陰は夜が過ぎるのを惜しむように背を伸ばしている。


水上神社の建つこの丘はいち早く日を浴び、その威厳を春風とともに街に運んでいるかのようだ。


「……ホントのこと言うと裏道あるんだ」

僕よりも何段か上にいた水鏡が呟くように声を発した。

「だろうね」


神社と言えど、道がここだけでは利便性に欠ける。関係者用の通路くらいはあってもおかしくはないだろう。

「でも私、この階段が好きなの」


それは信仰心から来る敬虔さ……、という訳でもなさそうだった。

「 ────昔、ここで神様に会ったから」


僕の疑問を先回りするように水鏡は答える。

「神様……?」

「そう、神様。まだ私がちっちゃい頃だった」


水鏡はひっそりと語り出す。

「この階段に座ってたら、急に現れてね。あはは、もうびっくりしちゃって」


過去を懐かしむような笑顔は、どこか寂しげに見えた。

「それから何度か会うようになって、ああ、この人はきっと神様なんだな。って思うようになったの」


────幼い頃に出会った神様。


「それで神様にお願いしたんだ」


────幼い頃に願ったこと。


「何を願ったの?」

「えへへ、秘密っ」

そう、イタズラっぽくはにかんだ。


願い事なんて個人的なもので本人が語らない限り聞くようなことではない。それでも、気にならないと言えば嘘になるのかもしれない。秘密が知りたいとか暴きたいとか、そんな野次馬根性ではなく、僕が今知るべきことが隠されているような、信じるに値しない直感が働いてしまったから。


「ごめんね、いつかちゃんと話すから」

「いいよ、気にしてないから」

そう言うと、水鏡は少しムスッとして、「それはそれで複雑……」と呟いた。


「何か悪いこと言ったかな?」

「ううん、大丈夫。烏有くんはそういうの鈍そうと思ってたから」


何か心外なことを言われた気がするけれど僕にはそもそも心がないので、この言葉は適切ではないな。では何の外なのかを考証してみると、それは明らかに蚊帳の外だった。


「なんか別のこと考えてない? そういうとこだよっ!」

「そう、ごめん」

「ま、いいか。ごめんね、付き合わせて」


水鏡は明るく謝ってから「それじゃ、ちょっと待ってて。すぐ戻ってくるから」と、境内へ向けて走り出した。


十分ほどで水鏡は戻ってきた。

「ごめんね、待たせちゃって、ここで」

戻ってきた水鏡は初めてあった時のような倒置法になっている。ユニークな話し方だとは思うが、話しにくくはないのだろうか。


「構わないさ。仕事なんてそんなものだから」

「じゃさ、お願いしていい? お仕事ついでに」

「内容によるけれど」


「烏有くんがいないと自由に散歩もできないじゃない、私。だからいいかな、散歩しても」

保護観察が求められているわけでもないのだから、それくらいは構わない。窮屈な思いをして気が滅入ってしまってもよくないだろうし。


「まだ時間もあるし、君が望むなら従うよ」

「やった! ありがとう烏有くん」

水鏡いつも通りの笑顔で返事をして、長い石段を下り始めた。


「……」

裏道を使うべきだと進言すればよかった。と、小さくなった水鏡の背中を見ながら先に立たぬ後悔を少し恨んだ。

「 ──── 」

────春風は時間とともに熱を帯び始める。夏は、存外すぐそこにいるのかもしれない。



街路樹が陽を遮り海風が髪を揺らす。僕らは今、海沿いの遊歩道を歩いている。

先導する水鏡を眺めている分には優雅な散歩とも取れる状況だが、正直なところ不安要素の方が勝っていると言わざるを得ない。学校をサボっている事にではなく、今の水鏡を取り巻く状況を僕は危惧している。


現状、水鏡は心霊に命を狙われている可能性があって、一人で出歩くには危険が伴う。だからこそ僕が護衛に回っているわけだけど本人からは緊張感というものが感じられない。


過剰に心配する必要はない。かといって、まるで気にしないのも危険だ。まあ、僕がしっかり守ればいい。と言われてしまえばそれまでだけど。


「鳴門海峡って出るらしいよ。怪獣が」

海を見ながら、こともなげに呟く水鏡。

「僕が頑張るしかないのか……」


どうあっても水鏡は平常運転であるらしい。

水鏡を見ていると、噂になっている事件だってただの都市伝説のように思えてしまう。夢物語が現実を侵すことはないと、なんの根拠もなしに思ってしまいたくなる。


しかしこれは紛れもない現実で、今更投げ出す事のできない事件だ。

伸ばされた手を掴まないとあれば、僕は内から殺されてしまうだろう。


「学校にはもう慣れた? 烏有くん」

「特に問題はないよ。どうして?」

「人付き合いとか苦手そうだからどうなのかな〜って。いいんだ、問題ないなら」


問題がないというより、問題が起きようはずもないというのが正確なのだけど。まあ、僕の交友関係はこの際考えないものとしよう。そんなことに頭を使っても友達は増えないのだし。


僕がそんな実存的な思考に陥っている間も、水鏡はいつも通り笑っているのだろうと思い目を向けてみるが、意外なことにその顔は曇ってしまっていた。何か気に障るようなことを言ってしまったかな。


「……ちょっと問題ありかもなんだ、私」

「何かあったの?」

「時々ね、疲れちゃうんだ、みんなといると」


あの神社の石段を顔色ひとつ変えずに登りきる水鏡を疲れさせるとは、体育会系は恐ろしいな。

「随分と活発なグループなんだね」


「そうそう、全力ダッシュするんだよ、購買まで……ってそうじゃない!」

ノリツッコミができるのを見るに、疲れるとは気苦労のことなのだろう。


確かに、水鏡は周りをよく見ている娘だ。それ故に溜め込んでしまうものがあるのかもしれない。

「そう。人付き合いって面倒だね」


人との関わりが少ない僕には、どうも理解し難い話だ。疲れるくらいならやめた方が楽だと思う。まあ、それができないから疲れるんだろうけど。


「面倒、か……そうかもね。実際、話合わせたり、行きたい場所も妥協だらけで、偽物みたいだって言われても多分できないかな、否定とか」


「そんな関係性でも、友達と呼ぶんだろ?」

嘘も妥協もあるけれど、それでも一緒に居て楽しいことがあるから、友達でいる。僕にはやっぱり向いてないな。


……いや、嘘つきで妥協ばかりしている僕にはむしろもってこいの関係性かもしれない。そんな関係が長続きするとは思えないが。


「うん。一緒に居て楽しいからね、なんだかんだで。だから、これは我儘」

二三ステップを踏んでから、水鏡はこちらに振り向いた。


そこにはいつも通りの明るい笑顔が湛えられている。無理に振舞っている様子はないが、それは心からの笑顔ではないように思えた。


「そのくらいの我儘はいいんじゃないかな。君の友達は君に我儘を言わせるほどのことを強いているんだろ?」


昨日今日の関係だが、水鏡はそれほど我欲が強いタイプではないと思う。そんな水鏡だからこそ、少しの愚痴や弱音くらい許容されて然るべきだろう。


「はは、言い方……。強いているって程ではないんだけどね。悪気があるわけじゃないしさ、みんな」


悪気がなければ何をやっても許されるってわけじゃない。その行為によって被ったものがあるのなら、それは間違いないく被害だ。


口にはしなかったけれど、そんなことを考えていた。

「烏有くんってなんだかんだで優しいよね。こんなことにも付き合ってくれて」


こんなこと、というのは学校をサボっている事についてだろう。

「別に優しいからやってる訳じゃないよ。この仕事にはラーメンと命が掛かっているからやってるだけだし」


と、おどけてみせたが、口にすると馬鹿みたいだな……

「……なるほど。この仕事で延命するのと、ラーメンで長寿になるのとでかけてるんだね!」


「長寿になるのは蕎麦じゃないかな。あとかけてないよ」

「かけ蕎麦ってこと!?」

「かかってないよ……」


そんな取り留めもない会話をしながら、僕らは街を歩いていた。知らない場所を見て、歩いていた。水鏡からしたら生まれ育った街であるから、物珍しさもないのだろけど。


登り始めた日の光をコンクリートが反射し、地表の温度は次第に上がっていく。


夏がすぐ側に居るかのような暖かさ。しかし真横から吹く海風も手伝って、体感気温はそれほど高くはないように思える。

この散歩に特別目的はない。どこに行くともわからないけれど、土地勘のない僕を水鏡はまたも先導する。


海沿いのちょっとした広場。隣町とを繋ぐ橋。図書館。公園。案内がてらゲームセンターにも行こうと水鏡が言い出したが丁重にお断りし、そろそろ学校に行くことにした。


散歩というくらいだから十分程度で終わるだろう、何て考えは甘かったみたいだ。あちらこちらと連れ回されて、結局学校には遅刻してしまった。




学校に着いてからしばらくして、そこが少し不気味な状態であることに気がついた。

────校舎内が異様に静まり返っている。


ちょうど二時間目が始まったあたりなので生徒の声がしないのは理解できるが、教鞭を執る声がないというのは率直に怪しいという感想を抱く。


どういった状況なのかを確かめるために三年生の教室や職員室を覗いて見たけれど、中には誰もいなかった。


誰もいない。

つまり、空室。

…… 学校全体が、である。


基本的に心霊というのは人目の多い場所には現れない。それを考慮して水鏡とは下駄箱で別れたのだけど、周りに人が居ないとなれば、水鏡の身の安全は保証できない。


水鏡のことが気にかかり、彼女のクラスへ向けて走り出す。生徒はおろか教師もいない学校だ。咎める者はいないだろう。


走り出してからしばらく。二年生の教室がある階へ足を踏み入れると ────


────コツ、コツ……

また、足音が聞こえた。

一瞬水鏡かとも考えたが、それは直ぐに否定した。水鏡の足音は、なんというべきか、特徴的なのだ。特徴がないのが特徴的。と表現するのが的確か。


兎も角、水鏡ではないことはある程度確信が持てている。今は音の方へ意識を割くべきだ。

音の出処は背後。それも大した距離はない。立ち止まっていればいずれ追いつかれるだろう。


緊迫を飲み下し、強く地面を蹴る。

「廊下は走らない」

「うぐっ……!」


女性の声と共に後ろ襟を掴まれた。加速したタイミングとそれが重なった所為で、僕の首は純粋な運動に押し潰される形となった。ボタンを外していなかったら喉にめり込んでいたかもしれない。


この躊躇のない行動と何より聞き覚えのある声に得心がいって、僕は言葉を発する。

「……走っていた僕に追いついたということは、あなたも廊下を走っていたのでは?」


「《学園》という領域内において、我々教師の全権は保証されています。つまり、ここはあなた方にとってそのものである、というわけです」


その返答を聞いて僕の推測は確信になった。

「……そろそろ離してください」

「えー、せっかく学園異能物みたいな雰囲気になったのに〜」


そんな雰囲気になったのは、おそらくあなたの幻覚の中だけですよ。


「まったく、減点だよ。ホロウ君」

僕は首根っこを掴まれた猫のようになりながら、声の主へ返答する。


「……その呼び方やめてください」

お前のことなど見え透いている。そう言われている気がして余計な神経を使ってしまうから。


「やめて欲しいなら君も遅刻をやめてよね」

「あなたがやめてくれれば僕もやめますよ」

「……ほんと口の減らないガキね」


「本心出てますよ」

「本心は出ないよ。出るのは本性だけ」

「……」


含蓄があるのかないのか、この人の言葉は判断に困る。

呆れているようなあっけらかんとしているような、これまた判断に困る顔をしているこの人、『唯敷タダシキサクラ』さんは僕のクラスの担任だ。真面目そうなショートカットにスーツといった飾り気のない姿は教育実習生と言っても通用しそうだがれっきとした教師である。


人当たりがよく雰囲気も誠実な彼女は学校中から一目置かれていて、生徒人気も高い。


そしてそんな一目置かれている教師に一目置かれているのが僕という訳だが、こればっかりは自意識過剰であってほしい。


「桜さん、なんでこんなに人が居ないんですか? 今日って休校日だったり? あと離してください」

「桜さんと呼ばないで、全校生徒は体育館で集会中、あと離さない」


簡潔に要点だけをまとめた返答は頭の足りない僕でも整理がしやすくていい。

桜さんの配慮に感謝しつつ、疑問をぶつける。


「集会って? 何か表彰でもあるんですか」

「……ココ最近の事件について、全校生徒に向けての注意喚起です」


最近の事件。おそらくドッペルゲンガーの件だろう。

「君も知ってるでしょ。ドッペルゲンガー事件」

────ドッペルゲンガー。


自分とそっくりの人間。という都市伝説で、自己像幻視とも言われる幻覚だ。ドッペルゲンガーと出会うと殺されて成り代わられる、という話が有名だった気がする。


「……ええ、名前くらいなら」

水鏡が関係している事件ということは知っているが、それ以外の情報を僕はまだ知らない。たとえ知っていても、ここは知らないフリが最善だろう。


「ホントに知らなかったのね……。まあ、学校側も大きな対応は見せてなかったし、それも無理はないのかも」


桜さんは少しトーンを落として、話を続ける。

「でも、うちの生徒がも被害に遭っちゃ無視はできないよね」


「三人……二人じゃなくて?」

水鏡の友人は三人で、その内二人は既に被害に遭っている。次に狙われる可能性がある水鏡は僕が送り届けた。ということは……


「あれ、知ってたの? 三人目は今朝、登校途中で襲われたらしいわ」

登下校時は先輩が担当しているはずだ。目の前でみすみす犯行に及ばせるなんて、あの人に限ってないと思うけど。……結局、思っていただけなのかもしれない。

……僕は身勝手にも先輩を『彼女』に重ねている。そんなことは傲りだと気づいているのに。


「とはいえ、誰も死んでないからまだ良かったわよ。死んじゃったら、そこで終わりだもんね」

死んでいないというのは、死んでいることに気がつけていない。つまり、ともとれる。


……それはドッペルゲンガーなんていうオカルトを真に受けるなら、の話だ。

……オカルト、か。


「なるほど……」

「ホロウ君、もしかして何か知ってる?」

「僕は何も知りませんよ」


それは謙遜でもなんでもない。現状を克服する術を僕はまだ見いだせていないのだから。

「ふーん……」


なんだかハッキリしない返事をする桜さんだったが、それ以上追求はしてこなかった。

「それじゃ、僕は行きますよ」


また疑問点が増えてしまったけれど、それよりも今は水鏡が気がかりだ。彼女の教室に向かうために足を動かしたいのだけど、今の僕にそれは叶わない。


「……あの、離してください」

掴まれたままの襟を解放してもらいたいのだけど、桜さんはその手を離してくれない。


「ホロウ君。君、警察に目付けられてるよ」

「……どういうことですか?」

僕が警察に……思い当たる節はあるけれど今回は関係ないはずだ。


「最近、急に水鏡さんに近づいてるでしょ。多分それで怪しまれてるんだわ」

警察としては、当然水鏡に注意を払っているだろう。そんな人物に近づいたのだから、さもありなん。


「そうですか。まあ、僕のパパは弁護士なので万が一はないと思いますよ」

「私の姉は警察だから、姉にだけは捕まらないでね」


そう言って、桜さんは手を離した。

教師としてはそもそも捕まるな。と言うべき場面だと思うよ、桜さん。


さて、解放されたのはいいけれど水鏡が今どこにいるのか分からない。教室に留まっているか、集会に向かったか、それとも皆の場所を聞きに職員室に向かったか。


ここを間違えれば取り返しがつかなくなる可能性もある。どうするか……。

「水鏡さんは今頃、体育館で集会に参加しているはずですよ」


僕の考えを読んだかのように、桜さんは水鏡の居場所を教えてくれた。

「それはどうして」

「君と会う前に遭遇してね。お説教も程々に集会に向かわせたのよ」


集会に参加しているのなら水鏡は無事だろう。なら、僕が向かうべきは、もう一つの方だ。

「一応言っておくけれど、もう遅刻はしないようにね」


「一応言っておきますけれど、しますよ」

「そう。私の仕事が増えるのね」

そうは言っているけれど、桜さんの表情に恨めしさはなく、どちらかというと呆れているような顔をしていた。



集会に向かえ。と言わない桜さんの優しさに甘え僕はオカルト愛好会の部室に足を運んでいる。

どうやら全校集会というのは本当であるらしく、ここに着くまで誰一人として出会わなかった。いや、疑ってはいなかったけど。


一応の礼儀としてノックをしてから入室する。

「失礼します」


返事を待たず扉を開く。

眼前に広がっていたのは昨日と変わらない部室だった。少しの変化を挙げるとすれば机と椅子が向かい合う形で二つになっているところか。


そして、その椅子に目的の人物は座っている。

左眼に眼帯を付けた人形のような女性。彼女は椅子に座りながら目を閉じている。


この人のことだ、寝ているわけではないだろう。と、僕は躊躇いもなく一歩を踏み出す。


すると、その一歩と同時に先輩の目が静かに開かれた。

────本当に、この人は似ている。それは色の無い瞳を含めた見た目に限った話だというのに、僕は先輩から目が離せない。


しかし、だからこそ。『彼女』に似ているからこそ気がかりなことがある。この人がついていながら、なぜ三人目の被害者が出たのか。


「あら、今日は早いわね」

静寂に波紋を広げることもなく、先輩の声は静かに届いた。

「三人目の被害者がでたそうですね」


咎めるつもりはなかったのに、少し語気が強くなってしまった。

しかし先輩は気にしていないようで、淡々と答える。

「そのようね」

「そのようね。って……一体何があったんですか」


「何もなかったわ」

「それはおかしい。現に三人目が出ているんですから」

被害に遭ったのが水鏡であれば納得はできる。何せ護衛が僕なのだから。しかし、実際に襲われたのは先輩が担当していた生徒だ。


この人がミスをすることが僕には信じられない。それが理想を押し付けているだけだと理解していながら、そう思ってしまう。


……あの夜、僕を心霊から救ったこの人の姿がそう思わせるのだろうか。月を背負って現れたかつての恩人に似た女性。僕がいまいち冷静になれないのはそのせいだ。


「ええ、だからおかしいのよ。だって私は”彼女を学校に送り届けている”もの」

「……え」


送り届けた? じゃあ、三人目の被害者はどうなる。学校側の勘違い……いや、それはないだろ。

「どういうことですか」


すると先輩は朝からの出来事を話し始めた。

といっても、先輩は自分の仕事をこなしていただけで、やはり現実とは矛盾している。


「……私がこの目で見たものは今ので全てよ」

話を聞く限り先輩に落ち度はなかったと思う。けれど、気になる点が一つ。


「先輩は対象の少し後ろからつけていたんですよね」

「ええ」

「だったら一瞬、見えなくなるタイミングがあるはずです」


例えば、曲がり角。

僕が水鏡にしていたように横並びで護衛していれば、曲がり角といった死角は減らせるけれど面識のない先輩と被害者とではそれも難しかったはずだ。


「確かに死角であれば気づかれないうちに犯行に及ぶことは可能かもしれないわ。けれど、それだけでは私が彼女を送り届けたことと矛盾したままよ」


「その通りです。でも今回事件を起こしているのは『ドッペルゲンガー』なんですよね。曲がり角で被害者になりすまして学校まで行くってことも考えられるのでは」


「……『ドッペルゲンガー』ね。正直、あなたがこんなオカルトを信じるとは思わなかったわ」


「曲がりなりにも『羊飼い』ですからね。こういった話には耐性があるですよ」


「そういえば、あなたは『相思相藍』の弟子だったわね。……では『羊飼い』として、この事件をどう見るかしら」


「証拠はありませんが、おそらく『心霊』が犯人でしょうね」

「それは勘でものを言っているの?」


よく分からない事件はだいたい『心霊』の所為。というセオリーが『羊飼い』への依頼には多い。実際その通りだし、そうでない場合、つまり犯人が人間であった場合もやること自体は変わらないのだ。


そんな思考停止の通例が『羊飼い』にはある。なんであれ解決すれば同じ。というパワープレイが一部の『羊飼い』の中では常識となりつつあるのも事実だ。


「今はまだ、その非難を受け入れなければなりませんね」

問題なのは勘で動くことよりも強引に事件を解決してしまうことだ。勘はただのヒラメキと断じて、結論はしっかりと証拠をもって出せばいい。


「『今はまだ』。そうね、その言葉を信じてみるのもいいかもしれないわ」

とりあえずは僕の言葉を認めてくれたようで、それ以上の追求はなかった。


先輩側に何があったのかが分かったので、今後の方針をどうするか話し合おう。

そう僕が口を開きかけたところで ────


「 ────こんにちはー!」

と、扉が開け放たれた。

「こんにちは、水鏡さん。もう集会は終わったのね」


何事もなかったかのように先輩は水鏡との会話を始める。

「やっぱり出てないんですね、先輩」


水鏡は『予想はしていた』、というような苦笑いを浮かべた。

まあ、この人は集会なんて出るような性質ではないだろう。会って日が浅い僕でもそれは推測できる。


「ええ、烏有君と話していて」

先輩の視線が僕に移る。どうやら話の矛先が僕に向いたようだ。


「ホントだ!? 出てないの集会?」

水鏡は今僕に気づいたかのように驚愕している。……本当に気づいていなかったのかな。目の前に居たんだけど。


「うん、先輩と話していて」

「話? 何の?」

三人目の被害者が出て、それについて話を聞いていた。と、本人の前で言うのは憚られる。


なんと誤魔化そうか逡巡していると、

「三人目についてよ。水鏡さん」

先輩は自ら告白した。


それを聞いて水鏡は「……あ」と小さく息を漏らす。おそらく既に集会で聞いているのだろう。


「ごめんなさい、水鏡さん。弁明はないわ」

抑揚も薄く表情もない先輩だけれど、その言葉は真摯に感じられた。


事件の内容を知っているであろう水鏡は、しかし先輩を攻めることはなく、少しぎこちない笑顔で謝罪を受け入れている。


「私は大丈夫ですよ。手を抜いたわけじゃないって分かってますから」

先輩は表情を崩すことなく「ありがとう」と言葉を返す。


心霊が関与している可能性が高い本件では例外の方が多い。先輩が責められるいわれはないだろう。

話が落ち着いたところで、水鏡から集会の内容を教えてもらうことになった。


「集会に出てたら済んだのに、説明しないでも」

先輩の謝罪は寛大に受け入れたくせに、僕にはなんだか辛辣だ。水鏡を放って部室に向かったことを怒っているのかもしれない。


「桜ちゃん怒ってるだろうな〜、今頃……」

桜ちゃんとは唯敷桜さんのことだ。まだ若いこともあって、生徒からは親しみをもってそう呼ばれているらしい。本人は嫌そうにしているが。


「ああ、それは良くないな。君から便宜を図ってくれないかな?」

なにも僕は利潤のためにサボっていた訳ではないのだし、水鏡には証人として便宜を図る義務があると思う。どうやって図ればいいのかは分からないけれど。


水鏡はそんな僕の戯言は歯牙にもかけず、「まあ、それはいいとして」と、話題を元に戻した。あんまり良くないんだけど?


「事態が収まるまでは短縮授業になるんだって。危ないから」

と、言われてしまえば僕は反論を飲み込まざるを得ない。


言葉を呑み込んだ僕とは逆に先輩は質問を投げかける。

「授業は午前中で終わりということかしら」

「はい。でももう下校らしいですよ、今日は」


「それなら部活も全面休止でしょうし、今日はお開きにしましょう」

そもそも今は部活動中なのか疑問だが部屋の主が言うのなら従うしかあるまい。


しかし、お開きとは言っても、先輩は教室に顔を出すこともせず普通に帰る気だろう。おそらく僕も付き合うことになるだろうし、やっぱり僕には真っ当な学生生活なんて送れないようだ。


ともあれ、早く帰ることには同意だ。ここに長居しては、いつ桜さんに見つかるかも分からない。

「今日は帰るんですね、三人で!」


昨日はそれぞれで護衛を担当していたから先輩は一緒に帰らなかったんだっけ。仕事をするにしても一人の方が気楽だが……いや、一人よりも二人だ。そうすれば片方は楽ができる。


「そうね。明るいうちに帰りましょう」



HRが終わって疎らに帰路に着く生徒たちに紛れながら、僕ら三人は校舎をあとにした。幸い桜さんには出会わなかった。


水鏡の家に行く道すがら、三人で僕のアパートの前に立ち寄ったのだが、その際二人はなぜか口々にアパートに対する評価を行っていた。「普通だね、烏有くんにしては」とか、「意外ね、烏有君にしては」だとか、極めつけて難解なのは、「烏有君、今夜はベランダの窓を全開にした方がいいわ」と、先輩から全く意図の読めない助言をされたことだ。


「どういう意味ですか、それ」

「なんでも、最近の犯罪心理学の研究では窓を全開にしている家の方が窃盗の被害に遭っていない。という結果が出ているそうよ」


「そうなんですか? 意外ですね」

というかどこ情報ですか、それ。

「泥棒さんによると、窓が全開になっていると歓迎されているような、あからさまに罠であるような気がして、近づきがたいらしいわ」


はて、そんな豆知識のような雑学のようなことを言われて、僕はどう反応すればいいのだろう。

よく分からないので、とりあえず「今夜は晴れるといいですね」と、答えておいた。


先輩は相変わらずの無表情で、水鏡はキョトンとしている。その反応を見るに僕の応えは正解で……いや、よく分からないな。


その後、今朝僕が水鏡を迎えに行くために通った道を三人で辿り、無事に水鏡を送り届けた。僕のアパートに寄り道したこと以外はイレギュラーのない極めて平穏な仕事だったと言えるだろう。


水鏡を送り届けてから僕は先輩と二人で来た道を戻っていた。


「……ねえ」

無言で歩いていた先輩が声を上げる。

「なんですか?」


「なんだか雨が降りそうね」

今は曇っている程度だが、悪化すれば十分雨天となるだろう。現に西の空は青い様相を灰へ、更に黒へと変容させている。


「……はあ、それが何か」

「それでも、窓は開けておいてね。きっと夜は晴れるから」


アパートの前での発言に念を押された。そんなに防犯への意識が高い人なのだろうか。しかし効果があるとしても、強要するのは感心しない。


……いや、もしこれが強要ではなく強調であったとしたら。部室での件もある、これは忠告でありヒントなのかもしれない。


それに、この無表情な人形に押し通したいほどの我欲があるとは思えなかったし、僕を貶めてもこの人には得がない。


だから僕も、

「だったら尚更晴れるといいですね」

そう応えておいた。



「自首しに来たの?」

水鏡を送り届け先輩と別れてから僕は改めて学校へ向かい桜さんの元へ出頭しに来た。わけでは無い。


「それはまたの機会に」と、受け流し「今回は聴取しに来ました」と、目的を伝える。


「ああ、そういう事」

どうやら理解してくれたみたいだ。察しがよくて助かる。

「でも君は傍観者なんじゃなかった?」


「僕が傍観者でいるためにはやらなくちゃいけないことがあるんですよ。努力をしないための努力、みたいなものですね」


「思ってもいないことを」

「今回は一食と一生がかかってますからね」

「……謎かけ?」


「かけてませんよ」

一通りの受け応えを終えてから先生に連れられ、僕は応接室へ通された。そこは他の教室とはまるっきり内装が違い、どこか威圧感がある。内も外も真新しい校舎との違いがそう感じさせるのだろう。


桜さんが扉に鍵をかけ、窓側にある革張りのソファに腰を落ち着ける。

「なんで鍵閉めたんですか」

「君が真実にたどり着けば自動的に開くことになっている」


無茶言うな。

「それで、何が聞きたいの」

「事件……ドッペルゲンガー事件でしたっけ。それについて、全て」


「ま、そうよね。知ってることは話してあげる。でも、承知しといてほしいことがあるわ」何だか勿体ぶって少し間を置く。「事件の概要は教えるけど、襲われた生徒の氏名及び住所は教えられない。君が被害者の家に突撃しかねないからね」


まともに学生していなかったからといって、そこまで向こう見ずではない。と思う。

「信用ないんですね」


「私は兎も角被害者にはないだろうね」

それもそうだ。一ヶ月程前に転校してきただけの人間なんて信用に足るはずもない。


「そうですね、それはそうです」

「それとね。ひとつ聞いておきたいんだけど ────君、死ぬのは怖い?」


いまいち要領を得ない質問で、それこそ謎かけのようだけれどとりあえず返答しておく。

「死が怖いのは痛覚があるからですよ。根本的に恐れているのは死ではなく苦痛です」


死へ至るまでの苦痛。人が恐れているのは根本的にはそこだ。まともな神経をしていれば、誰も苦しみたいなどとは考えないはずだけれど、それでも死にたいとは考える。安楽死が普及しない、されていない理由にはこういう背景があるのかもしれない。死への恐怖と感じていたものが、その実、死そのものではなく過程にこそあると気づいているから、安易な手段での死を遠ざけようとしているのだろう。


「それもある意味恐怖だけどね」

達観したように ──実際しているのかもしれないが ──桜さんは憐れむような微笑を浮かべている。

「……あの、要領を得ないんですが」


「腹が決まってるならそれでいいって話だよ」

どうやら桜さんは僕の決意を確かめたかったようだけれど、おそらくそれだけではなく、僕が他人の心に共感できるかを測りたかったのだろう。だとすれば、僕の回答は不正解に近い。何せ僕に心なんてありはしないのだから。


それに、死ぬのが怖いか? なんて問は大袈裟だろう。多分この事件じゃ。それは愚鈍な僕であっても例外ではない。


「じゃあ、そろそろ教えてくれますか」

「うん、冗長だったね」と言って、桜さんは微笑みを消した。「先ず、被害者は三人。三人ともうち生徒。他の学校から被害報告は聞いていないよ」


「全員、水鏡響の友人なんでしたっけ」

「うん。一緒にいるところは結構見てたよ。三人とも優秀な生徒だったし、同情しちゃうわ」

「その三人で他に共通する点は?」


「聞いた話になるんだけれど全員帰りが遅かったらしいわ。あと、襲われた時は一人だったって」

一人だったタイミング。つまり人の目が無い状況というわけだ。これなら先輩の話にもある程度の裏付けができるだろう。


桜さんは少し間を置きながら、「あと一つ、関係があるかは分からないんだけど……」と、前置きをして話し始めた。

往々にして、そういうのは関係があるものだ。


「襲われた三人は、それぞれ週末に家族旅行を計画していたらしいわ」

「週末っていうとゴールデンウィークですね」


今日をいれて、あと二日。それを乗り切れば一週間ほどの連休が待っている。家族旅行をする家庭があっても不思議ではないだろう。


「ゴールデンウィークか……」

すると、何か思うところがあったのか桜さんが呟いた。

「何か?」


「昔ね、ゴールデンウィークのことを金曜日が七日続く一週間だと思ってたんだ」

「ジェイソンも喜んでますね……」


桜さんにも可愛いところあったんですね。と言おうとしたら睨まれたので口を噤んだ。

「七転八倒は七つの天に刀を抜くことだと思ってた」


七天抜刀。

何だその破天荒な勘違い。

「……とりあえず、一般に知られているのはこの辺りまでですね」


話は逸れてしまったが桜さんが知っていることは聞き出せたと思う。いつまでもここにいるわけにはいかないので席を立つと、和んだ空気を戒めるように桜さんに声をかけられた。


「今回も君が解決するのね」

桜さんに事件の話を聞くのは今回が初めてではない。僕が転学してからというもの、この学校……いや、街全体で怪奇現象が多発し、その度に僕はこうして桜さんに話を聞きに来ている。


それは何も苦しんでいる者を救わずにはいられないとか、人として当然だからとか、そんな至極真っ当で高尚な善意による動機ではない。

……僕は僕の責任を取っているだけだ。


「解決なんて一度もしたことないですよ。僕はただジャーナリズムに則って情報収集しているだけです」

「君がそんな言い訳をしているうちに、いつの間にか事件がするのよね」


証拠不十分、犯人不明。そんな事件がいつまでも記憶されるわけもなく、いつしか出来事は自然消滅する。

名前も付かず記録もされない事件。それこそが、僕ら『羊飼い』が追う心霊現象である。


「何であれ被害がなくなるのはいいことでしょ? 多分きっといいことですよ」

「被害はなくならないよ。一度被ったものは一生残るんだから」


今までよりも真剣な声色で桜さんは僕を諭す。心にもないこととはいえ、軽率な発言だった点は反省すべきだ。

「そうですね。失言でした」


「君は失言しない方が珍しいと思うわ」

気を抜いたのか桜さんは軽く笑いながら言った。

僕の至らなさはこういう気使いで救われていることを自覚しなくちゃな。


「さ、君はそろそろ帰りなさい。この状況で外出しているのは危機感低いって感じよ」

桜さんに促され、扉へ向かう。真実にたどり着いてはいないけれど僕は鍵を開けた。


「ありがとうございました。桜さん」

「先生と呼びなさい、ホロウ君」





〈 ── 肆 ──〉



夜になると空は寂しく泣き出した。その雨音を聞きながら、先輩の予想をなんとなく思い出す。結局、夜になっても晴れなかったな。


雨空を思うと窓を開けるのははばかられるが、ああも念押しされては無下にもしにくい。幸いにも今夜は風が穏やかで、部屋が浸水することはないだろうから開けてはおくが……はて、この行為にどれほどの意味があるのだろう? 普段ならこんな迷信めいた話を信じたりしないが、あの人が無意味な話をするとも思えない。


それに、上空は風が強いのか雲が素早く流れている。その様子からして、存外すぐに晴れるのかもしれないな。

そう思いながら、いつも通りの時間に眠ることにした。


二十一時。サブディスプレイに表示されたその数字が、今日最後の記憶だ。

………………そのはずだった。


アパートの屋根が雨雫を受け止める。滔々と降るそれは、眠っている間には止まなかったようだ。


体感時間で一時間ほど僕は眠っていたように思う。ショートスリーパーではないので単純に目が覚めただけなのだが、その理由が少し不可解だった。


────首への圧迫感。

布団が巻きついているわけではない。

そこで一つ推測をする。僕が現在入居しているこのアパートには、厳密に言えば僕の部屋には、大家さん曰くいわくが憑いているらしい。


『浴室で自殺した女の霊』

なんでも入居者を一週間で退居に追い込むのだとか。霊障としては”手首”に掴まれたような赤い痕が浮き出るとのことだったが……手首? 僕が今絞められているのは首は首でも手首じゃない。ましてや足首でもない。


首だ。

切って、

吊るして、

絞め殺す。

そんなロマンチズムの欠片もない行為に用いられる首だった。


デュラハンでもない限り誰もが持ち合わせている部位。水鏡も先輩も、そして僕にも例外なく接合している、人を人として活動させる為の部位。


そこに圧迫感があった。だとすれば、それは大家さんから聞いていた話とは異なる。怪談や心霊現象 ────この場合は《羊飼い》の間で用いられるそれとは違い、広義での『心霊現象』だ。 ────は言い伝えから乖離した現象を引き起こすことはない。なぜなら、それこそが彼らの存在を定義している、言わば命綱のようなものだからだ。


であれば、これはいわくとしての心霊現象ではなく人為という可能性が高くなる。さっきから下半身が動かないのもが馬乗りになっているからだろう。これが金縛りだったら笑えたんだけどね。


しかしこれは、傷つけるよりも排除することを目的とした行為。華美な外傷を与えず殺すことに重きを置いた、明確な殺意を持った犯行だ。


フィクションで見るような乱心した幽霊が行っているにしては整然としすぎている。

────だからこそ、人であるからこそ、対処のしようはある。

と、思っていた。


意を決して目を開くと、……そこには僕がいた。

特徴のない容姿。身長体重はともに平均程度。虚ろな双眸が唯一の個性といえそうだが、これは単純に他人と僕を区別するためのタグとしての機能しか持っておらず、特徴と呼べるほどの誇張がない。


目の前のこれを僕と認識できたのも、全てに失望したような瞳が本物ぼくそっくりだったからだ。


そのぼんやりとした姿は夜の闇にも似て、侵入経路となったであろう窓から差し込む薄明かりがなければ、輪郭すら視認するのは難しかっただろう。


『浴室で自殺した女の霊』ではなく、目の前にいるこれは、噂のドッペルゲンガーだろうか。


僕なんかに成り代わったって、何にもないだろうに……

と、そんな考えが頭を過ぎったところでそろそろ限界だ。

「……ぁ、ぁっ……」


喉仏が奥に食い込み、目に涙が滲む。反射的に相手の手首を掴むが男子高校生一人を止めるには力不足だ。いや、それだけじゃない。このドッペルゲンガーは僕以上に力が強い。加えて、跨られている所為で腰から下を動かすこともできない。


危機的状況。それは間違いない。だがそれでも ────熱くなれない自分がいる。

あくまでも冷静に

努めて冷徹に

だからこそ冷淡に、冷めきっている。


死の淵であっても僕には熱意がないらしい。

自分で命を落とすことは間違いなく自殺だが、自分に殺される場合はどう呼べばいいのだろう? 自業自得であれば、自滅とでも呼ぼうか。


座して死を待つ状況になりつつあるが、ふと、そんなことを考えてしまった。

自分に殺されること、自分を殺すこと。過去の行いが首を絞めているとして、これは因果なのではないか。……何を言っても虚言だけれど。


そんな戯言以前の虚言が、幸いにも僕の記憶を呼び起こすトリガーになった。

……今はもう、随分と遠くなってしまった記憶だけれど、それでも僕は忘れることができないらしい。


────優しく、それでいて悲しい微笑みを思い出す。


彼女が僕に教えてくれたこと。それを誰かに否定されるのは構わない。そんなのは言わせておけばいい。けれど、自分にだけは……姿形だけの自分であっても、否定させたくない。


どうせ死ねない自分だけれど、自ら命を捨てるようなことは彼女に対しての冒涜だ。それは他の誰でもない自分自身が許せない。


そこからは半ば自動的だった。


相手の肘と手首を掴み、それぞれ逆の方向に力を加える。まだ自由がきく膝から下に力を入れ、相手ごと体を回転させる。今度は僕が相手の上になり、立場を逆転させた。


それはいいのだけれど、殆ど無意識で行動していた所為でその後は全くのノープランだった。

「……!」


尋問しようにもドッペルゲンガーと意思の疎通ができるとは思えない。どうしたものかと逡巡しているうちに拘束を無理矢理振りほどかれてしまった。


拘束から解放されたドッペルゲンガーの右腕からフックが放たれる。

「ッ……!」


拳を躱すことは叶わず、顔面へ直撃した。勢いのままに吹き飛ばされ狭い部屋の壁に打ち付けられる。


壁にぶつかった衝撃で意識が朦朧とする。ブラックアウトとも夜の闇ともつかない暗黒が視界を覆う。

だからだろうか。ドッペルゲンガーが僕の姿ではなく、 ────真っ黒な靄に見えたのは。


「……」

開け放たれた窓側にドッペルゲンガーが立ち、洞のような目で僕を見ている。僕も立ち上がり目の前の”それ”を見据える。


「……」

相手の重心が左脚にかかった。どうやら僕を殺すまでは満足してくれないみたいだ。


しかし、今の動きで分かったことがある。ドッペルゲンガーと思われるこの人物は相手と構えが反転しているという点だ。


まるで ────鏡に映ったみたいに。

「……!……!」

ドッペルゲンガーが動き出す。


先程の拘束を振り払った力具合から察するに、単純な走行でも相当なスピードを有しているはずだ。

「 ────」


拳を構えながらの突進。予想通りの、いやそれ以上のスピードで迫る。狭い空間ということもあり、予想していなければ躱せないだろう。短絡的な思考を純粋な力で補おうする行動は制御ができない分厄介ではあるが、目的が透けて見えるという欠点もある。


────つまり見切り易い。

相手の突進を横に躱し、そして背後に回る。一旦いなして体制を立て直そうかと考えたその時。


は宙空で方向を百八十度変え、先程の突進と同じ速度でキッチンの壁を蹴り、再度突進を仕掛けてくる。

予想どうこう言っていたが、逆に言えば予想していなければ躱せないということだ。


人間の処理能力を超える速度で明確な死が迫る。

突進をみぞおちに受け、狭いベランダへ勢いのまま飛び出す。雨でできた水溜まりが弾け、壁に頭を打ち付けた。


「っつ……!」

不快感。鈍痛。

マイナスが反響する。


しかし、目の前の”それ”は同情で手を緩めることもなく僕の首元を掴み、室内へと投げ戻した。

頭を打ったからか、意識が模糊としている。手足に力が入らない。突進を食らったみぞおちが痛む。


さっきは柄にもなく自分を鼓舞してみたけれど、これじゃあんまりにも無様じゃないか。もう少し頑張れないのかよ、僕。


やるせなさを力に変換し、抵抗しようと試みる。が、身体は思うように反応しない。

どうやら限界みたいだ。怠慢な僕は、死ぬ時まで怠慢なのか。


闇が暗く、這い寄るように。

暗い闇が、寄り添うように。

僕は虚言に塗れている。


「……」

は仰向けの僕を何度も、何度も踏みつける。初手を阻害されたことを憤っているのだろうか。だったらますます、こいつは ────


「……!」

何度か踏みつけた後、大きく脚を振り上げた。頭蓋骨ごとぶち抜くつもりだろうか。それは掃除が大変そうだからやめてあげてほしい。大家さんが困るだろうし、僕と親しい緋名さんも迷惑を被りかねない。それに、僕が死んだら本当の事故物件になってしまう。


そうは思いつつも、体は動かない。


……まあ、やれるだけはやった。後のことはに片付けよう。


来るべき終わりを前に、それでも目を開く。僕を殺す相手の顔なんかに興味はないけれど、雨が止んだのか目を閉じる前に知りたかった。


夜の闇に溶けつつある視界に、一つ。強い光が差し込んだ。


なんだ、ちゃんと晴れたじゃないか。

それを確認し目を閉じようとするが、月の光にうなされて目が覚める。


目を細めると、月は一層輝いた。

いや、その輝きは月そのものではなく、月明かりを反射した何かの輝きだ。


それは涙の上がった空からの最後の一雫のように思える。であれば、その輝きと共に聞こえるこの音は嗚咽が終わる合図だろうか。


飛翔体は一瞬の後に僕の部屋へ飛来した。

月明かりを背に受け、輪郭が顕になったドッペルゲンガーの頬を掠め、僕の脇腹から少し離れた辺りへ突き刺さる。


頭を動かし、それが何か確認する。

────刀だ。

飾り気のない直刀。この刀の持ち主を僕は知っている。


「こんばんは。烏有君」

音もなく気配もなく、闇に紛れた黒色が色のない瞳で僕を見ていた。


「……」

ベランダの柵に立ちながら、あの夜と同じように先輩は僕を見下ろす。何を思っているのか、何も思っていないのか、先輩の表情はいつも通り人形のようだった。


第三者の登場に驚いていたのか、しばし停止していたドッペルゲンガーが再び動き出した。先輩の姿に気を取られてはいたけれど視界の端でその動きを捉える。


次の手を警戒し身構えたが(尤も身体は動かないが)それは杞憂に終わった。


ドッペルゲンガーは先輩を見るなり、分が悪いと判断したのか玄関を突進でぶち壊し退散して行った。


後に残されたのは、月明かりが透過しているとすら思えるほど綺麗に澄んだ瞳の女と、無様に寝そべる無色の僕だけとなった。





〈 ── 伍 ── 〉



壊れたように、というか実際壊れた扉を見ながら、色々とあった夜を過ごす。

「怪我をしているようだけど、死なないわよね」


全くの無表情で、そう問うてくる。それが僕を心配してのことなのか、単に状況確認のためなのか、表情も抑揚もないこの人からは読み取れない。


「死にたくても、殺されたくはないですから」

さっきまでの朦朧とした意識はどうやら脳震盪を起こしていたらしい。先輩にそう診断され唯唯諾諾と指示に従ったお陰か今は落ち着いている。


最初の絞首で首に痣が、次のフックで口内に裂傷、突進で頭部の殴打。その他も含めれば大小様々な傷だらけだ。華美な外傷を与えず、とか言った奴は僕に殴られろ。


僕が安静にしている間に先輩は傷の手当をしてくれていた。しかし僕の部屋に医療品の類は置いていなかったはずなので、おそらく自前だろう。ただ何故か救急箱を一式持って来ている。まるで僕がこうなることを予想していたかのように。


……まあ、その点については女子力が高いということにして目を瞑ろう。助けられたというのは事実なのだし。


「そう。生きているのね。ならいいわ」

あまりいい状況ではないが……殺されていないだけましか。

僕の状態が良くなったの確認して先輩は言葉を紡ぐ。


「あなた、傷の治りが早いのね。普通はもっと苦しむものよ」

「僕、実は不死身なんですよ。だからこのくらい、なんともありません」


軽いジョークのつもりだったのだけれど先輩はクスリとも笑わない。やはり僕にはジョークのセンスがないのか、それとも先輩が表情に出さなすぎるのか。おそらくその両方だろう。


「そう、珍しい体質なのね」

軽くあしらわれてしまった。


「それはそうと、災難だったわね」

先輩は白々しくそんなことを言う。おそらくだが今夜の襲撃はある程度想定してのことだったはずだ。


一度ならず二度までもベストタイミングで助けられたことがそう思わせるのだろうか。

「そうでもないですよ。収穫はあったので」


疑念を表には出さず話を続ける。多分口にしたところで満足のいく回答は得られないだろうし、結果としてドッペルゲンガーに接触を図ることができた。それならば疑念はあっても文句はない。


「何か分かったのかしら」

「あのドッペルゲンガーは都市伝説そのものじゃないってことですよ」


「というと?」

「……ドッペルゲンガーから靄が見えました」


「それは、『心核』かもしれない。そう言っているの」

あのレベルの『心霊』から靄、いわゆる負の感情が溢れ出すことは珍しい。となると、完全に融合しきれていない等の事情があるはずだ。その事情とは何なのか、本当に『心核』なのか。まだわからないことは多い。


「……正体が何かなんて今更じゃないかしら。もう分かっているんじゃないかしら」

「僕は理由が知りたいんです。分からないのはもう嫌ですから」


先輩は「……そう」と呟いて口を閉じてしまった。相も変わらない無表情で月明かりのみが頼りの室内に立たれると少し不気味だ。


あまりに黙っているので心配になって声をかける。

「あの、先輩?」

すると、僕の声に反応したのかは不明だが先輩は活動を再開した。


「烏有君、明日の放課後付き合ってくれる」

「何か考えがあるんですか」

「考えがなければ話したりしないわ」


先輩は最後に「よろしくね」と言ってベランダから夜の闇に消えていった。人を助けるだけ助けて去っていった先輩の姿を思い出しながら、まだ礼を言っていないことに気がつく。どうやら明日会う理由ができてしまったみたいだ。


音だけでなく気配もなくなった部屋の静寂を聞きながら、儚く砕け散りそうな壁に寄りかかって目を閉じる。

落ち着きもなく開閉を繰り返す扉が何だか虚しく思えた。



────夢を見た。


一切の隔たりが存在しない青の世界。

だからこそ繋がった心象風景。


けれど、彼女の姿は見えない。

……ああ、今回は『違う』のか。


『そのこと』に気がつくと同時に冷気が這い寄るのを感じる。


────夢を見た。

冷めるだけの夢を見た。




目覚めてからは普段通りの、というか依頼通りの一日を過ごした。水鏡を送迎した後、昨夜の約束に則って先輩に付き合うこととなり、僕は今目的地の前にいる。


「さ、行きましょう」

そう言って先輩はインターホンに指を向かわせる。

「ちょっと待ってください。まずは説明してもらえますか」


僕が連れてこられた場所は何の変哲もない一戸建てで、特別な何かがありそうには感じられない。理由はあるのだろうけど思慮の浅い僕にはその説明をしてもらいたい。


「ここは水鏡さんの友人の家よ」

……水鏡の友人。それはつまり、襲われた三人のいずれかの家ということだ。


「いや、急じゃないですかね。こういうのはアポとか必要なのでは」

桜さんに釘を打たれたから、というのもあるれけど突然来訪しては警戒されるだろう。ましてやそれが僕と先輩の二人となれば尚更だ。


「私たちはが心配でお見舞いに来ただけよ」

「……」

意外と大胆なことをする人だ。呆れとも感心ともつかないけれど。


「それならあなた一人の方がいいと思いますよ。僕は人に好かれないので」


僕という人間は一見に警戒されるのは当然として、最悪の場合は反感を買う人間だ。こういう仕事は別の人間の方が向いている。……この人も警戒されそうだけど。


「確かに烏有君が男友達というのは無理があるかもしれないわね」

自分で卑下していてなんだが随分失礼なことを言われた気がする。いや、いいんだけど。


「でしょう。だから今回は別行動を ────」

「 ────烏有君は私の彼氏ということにしましょう」

「脈絡をください……」


別に構わないけれど、この人の話はいつも突飛なんだよなあ。

「彼女の我儘に仕方なく着いてきている彼氏なんて烏有君にピッタリだと思うわ」


一体僕は何だと思われているのだろう。

そんな僕の疑問をよそに先輩はインターホンを押した。

「あの、僕の意思は?」

……尊重されなかったみたいだ。



「三軒全て周ったわけだけど、どうかしら、烏有君」

結局先輩に言われた通りの設定で被害者の自宅を全て周ることになった。正直上手くいかないだろうと考えていたが僕の予想は大いに外れ、先輩は事件の内容や被害者の現状など次々と聞き出し、想定外の手腕を振るっていた。


僕はというと、親御さんに怪訝な視線を向けられただけで特に何もしていない。先輩の言っていた仕方なく着いてきた彼氏という役割は案外適任だったようだ。


「ゴールデンウィークの家族旅行は気の毒でしたね」

桜さんが言っていた通り被害者は全員、家族旅行を計画していた。しかし僕の実体験、昨夜の事件から鑑みるに襲われた娘は心身ともに相当な傷を負っているはずだ。とても旅行ができる状態じゃないだろう。


「優しいこと言うわね」

「別に、優しさなんかじゃないですよ。本人はそう感じているかも、と思っただけで」

「やっぱり優しいじゃない」

「……」


違う。と明確に否定したいけれど、心が無いってことを理解してもらうのは容易じゃない。ただでさえ無いことの証明は難しいというのに、僕の無い頭では尚更だ。


「それより、先輩は何か気づきましたか」

強引に話を変えた。おそらく、これ以上の弁明に大した意味はないだろう。三十六計逃げるに如かず、だ。


そんな僕の計略に先輩は特に言及せず話に乗ってくれた。

「気づいたことといえば、共通点かしらね」

「共通点、被害者のですか」


「ええ、烏有君は感じなかったかしら。襲われた理由が『水鏡さんの友人』ということの違和感に」


条件というには範囲が広すぎるし、そもそもこの条件自体暫定的なものだ。もし別の共通点に気がつけたのなら大きな手がかりとなるかもしれない。


「昨夜までは候補にありましたけど、それは違うと分かりましたよ。僕は水鏡の友人ではないのに襲われたわけですから」


「そういうこともあって、今日は話を聞きに来たのよ」

どうやら先輩も暫定的な条件は同じだったようだ。なら先輩が気づいたという共通点とはなんなのだろう。


「前置きが長くなったわね。親御さん、言っていたでしょ。『うちの子は真面目に生きてきた』って」


────この『真面目』という生き方が何を含意しいるのかを僕は知っている。罪を犯さず悪に与しないというのは当たり前で、その上で勉強や習い事を人より上手くこなすことが、親の望む『真面目な生き方』なのだ。


「そういえば桜さんも三人は優秀だった。って言ってました。だったら……いや、それは間違いですよ」

「何か違うかしら」


「襲われたのがその三人だけなら僕も素直に認めてたと思います。でも四人目が、僕がいます」

僕は落ちぶれてこそいないけれど、決して優れてはいない。その条件には合致しないだろう。


「襲われる条件は学校の成績ではないわ。重要なのは普通の人には得がたいもの、少なくとも犯人は持っていないものを持っているということ」


襲われた三人は優れた成績を持っていて、そして僕は『羊飼い』という肩書きを持っている。被害者がどれほどの成績だったかは分からないけれど確かに万人が所持しているものではないだろう。極端な話、一位という称号は一位の人間にしか所持できないのだから。


「自分には無いものを持っている……」

……人は自分には無いものに憧れるそうだ。


才能とか正義とか平和とか、神様でも持っているか怪しいものを、人は自覚もなく求め続けている。

────それはきっと、この事件の犯人も例外ではないのだろう。


僕がそんな思考に耽っていると先輩はポツリと空を見ながら呟いた。

「そろそろ日が暮れるわね」


ドッペルゲンガー事件の影響で学校はしばらくの間午前授業になっている。そのため早くから調査に足を進められたのは不幸中の幸いだったが、そろそろいい時間だ。


「僕は調べたいことがあるので失礼します」

「そう。私、夜は暇よ」

「だったら調べてもらいたいことがあります」





〈 ── 陸 ── 〉



先輩と別れて僕は事件現場に向かった。既に二箇所を巡ったけれど収穫はゼロに近く、そして三箇所目も丁度確認が終わったところだが、ここも収穫はなかった。


しかし、収穫がないというのが逆に収穫のようにも思える。一通り目を向けたというのに事件の痕跡が全く残っていないのだから。


現場保存はされたばかりだし、証拠を隠滅した様子もない。規制線を越える人間なんて僕の他にそういるとも思えないので、そもそも『犯人に繋がる痕跡がない』と考えるのが自然だろう。


やはり、この事件は僕の、『羊飼い』の領分らしい。

三箇所目の調査も終え、現場から去ろうとしたところで先輩からメールが届いた。


互いの番号は先輩に調べ事を頼む際に交換した。そしてその調査結果が夜明けを待たずして届いたのだ。一体どんな手法でこの短時間に情報を仕入れたのか、きっと僕には想像もつかないだろう。


メールに目を通しながら海沿いの遊歩道を歩く。ここは水鏡との登校時にも通った場所だ。日が出ているうちはランニングや散歩に活用する人も多く賑わっているのだが、月が顔を見せ始める時間には、その賑わいもなりを潜めている。


水鏡と歩いていた時は事件のこともあり落ち着かなかったが、しかし今は違い心地いいと言える。不安の波が消えたかのような、そんな静かな海のような気分だ。


遊歩道を少し歩くと海側にせり出た広場があって、その中心には風媒銀乱のようなオブジェクトが設置されている。海から吹く風がそのオブジェクトを空回す。


「ここなら誰も見てないよ」

虚空に向かって声を発したが声を向けた先は確かにある。

「……」


その呼び掛けに応えるように夜の闇から『僕』が現れた。正確には僕自身ではなく僕の姿をしたドッペルゲンガーだ。


やる気のない雰囲気は本人そっくりではあるけれど、僕に対する敵意は隠そうともしていない。

しかし、今会いたい人物は他にいる。会わなくてはならない人がいる。


「僕は君自身に会いたいんだよ。水鏡響」

「 ────どうして分かったのか、今後の参考のために教えてもらえるかな」


いつもと変わらない様子で水鏡はドッペルゲンガーと並び立つ。ドッペルゲンガーだと分かってはいるけれど、その姿形は僕と同一で、やはり違和感を覚える。


「参考にはならないよ」

だって、もう今後なんてないんだから。

「それは烏有くんの方かもよ」


臆した様子もなく言葉を返された。もう覚悟は決まっているということだろう。


「 ────それにしても、『羊飼い』ってすごいんだね。それとも烏有くんがすごいのかな」


「僕としては君の方がすごいと思うけどね。三人、僕を含めれば四人か。それだけ襲えば立派な凶悪犯だ」

「まだ烏有くん以外には知られてないんでしょ? だった無罪だよ」


その言葉と同時に水鏡とドッペルゲンガーは同じポーズをとる。臨戦態勢ってやつだ。


「それは無罪とは言わないよ。ただ罰がないだけだ」

空を、『心核』を掴む。鞘どころか柄すらない刀が右手にあることを知覚する。


おそらく、あのドッペルゲンガーは水鏡の心核だ。だとすれば僕の心核は全くの無力だが、攻撃をいなすくらいはできる。というか、しなきゃならない。


「自分がちょっと優れてるからって、説教臭いよ烏有くん!」

水鏡が叫ぶと、ドッペルゲンガーが走り出した。『心核』は発現者の心そのものだ。だからこそ、発現者の感情が高ぶれば、それに感応して動き出す。


以前戦った時は狭い室内だったこともあり動きに制限がかかっていたが、今は屋外で足場も広い。加えて水鏡の心情が影響し、心核の動きも活発になっている。単純なパワーアップではあるけれど僕にとっては十分以上の脅威だ。


ドッペルゲンガーは彼我の距離を瞬時に詰め、拳を振りかぶる。

「……ッ!」


突き出される拳を『心核』で防ぐ。しかし、その勢いまでは殺せず三メートルほど吹き飛ばされた。受け止めた反動が無くなるのを待ちながら、ゆっくりと体勢を立て直す。


その隙をつくこともなく、水鏡は僕と初めて出会った時のことを語り出した。


「……最初は『普通』の人だと思って近づいたんだ。転校生がどんな人なのか気になってたのもあるけど、それ以上に『普通』だと思って近づいた。……でも、全然違った」


「僕の家を確認したのはどんな奴かを知るためかな」

三人目が襲われて短縮授業になった日の帰り道。僕の家の前を通ったのは偶然だと思ってたけど、おそらく水鏡の作為が働いていたのだろう。


「うん」

その発言は力ないものだったが、僕に対する敵意だけはしっかりと感じられた。


「じゃあ、先輩に依頼を持ち込んだのは? 彼女でなかったとしても依頼すれば犯行がバレる可能性はあるはずだ。そんなリスクを犯す理由って何なのかな」


「あの人目立つから。どれくらい優秀なのか知りたくて」


「……!」

動きを止めていたドッペルゲンガーが再び動き出す。警戒を怠らなかったことが幸いし、攻撃を受けることはなかったが、しかし攻勢に出ることもできない。


ドッペルゲンガーの攻撃は激しさを増し、こちらは防御が追いつかなくなる。数発が直撃し、それでもなお攻撃は止まない。


ついに防ぎきれなくなった一撃が腹部を抉り、再び吹き飛ばされ地面に転がる。最初の攻撃とは比較にならない痛みが神経を巡る。


「……なら、この事件、を、起こした理由、ってのは?」

どうにか言葉を紡ぎながら事件の核について触れていく。


「それは単純だよ、みんな『普通』じゃないから。ううん、それも違う。みんな『優秀』だから。先輩に依頼したのはどういう人か知りたかっただけ」


「じゃあ、僕を襲ったのは普通じゃないと思ったから?」

「『羊飼い』なんて肩書きの人間が普通なわけないじゃん」

言えてる。


「じゃあ、どうして三人を襲ったの?」

「言ったでしょ、優秀だからって」

「それは理由であって動機じゃない。……本当は自分でも分かってないんだろ」


「分かってるよ。私は……あれ、なんで……」

今まで雄弁に語っていた水鏡は、当惑したように口を閉じてしまう。

「……」


沈黙の最中、ドッペルゲンガーから夜空よりもなお暗い靄が見えた。

────『心霊』だ。


通常、生きている人間の心核が心霊になることはない。けれど、発現者が心理的に弱っている状態では心霊に付け入る隙を与えてしまうのだ。


「君には襲う理由はあっても『きっかけ』がない。それに、思いつきでこんなことをするとは思えないんだよ」

「……そんなわけないでしょ。私はやるよ。そういう人間だもん」


水鏡は忌々しそうに僕を睨む。しかし怯まずに言い返す。


「もし、君が君の言う通りの人間なら、どうしてで犯行に及んだのかな。君の心核ならアリバイと犯行の両立だってできるはずだ」


三人が襲われていた時間、少なくとも僕が知っている限りでは水鏡に犯行は不可能だ。だというのに、水鏡は犯行をやってのけた。それは協力者がいたとか盛大なトリックがあったとかではなく、水鏡の心核がそれを可能としたのだ。


だが、実際に犯行を行ったのは心核ではなく水鏡自身だ。おそらく、無意識かどうかは分からないけれど心核に任せると取り返しがつかないと考えたのだろ。普段の心核ならともかく、今の自分は普通ではないと感じ取っていたのではないだろうか。


「何、お説教? 鬱陶しいよ。何も知らないくせに、何も分からないくせに!」

水鏡の叫びと共にドッペルゲンガーが僕の襟を掴み持ち上げる。

「ぐ……!」


無表情で人間味のない、空っぽで上辺だけの存在が目の前にいる。それが自分を模しているというのは如何ともし難いけれど。


「じゃあ、どうして三人だったんだ。優れた人なら他にもいるだろ」

「そんなのなんだっていいでしょ! 誰でも襲えるくらい、私は破綻して ────」


「 ────でも、友達だったんだろ」

水鏡と三人がどれほどの絆で結ばれていたかは分からないし、僕にはそれを測る器量もない。それでも友達でいることができる関係だったのは紛れもない事実のはずだ。


「それは……」

水鏡は言葉に詰まり俯く。僕に向けていた注意が薄れたのか、ドッペルゲンガーから力が抜ける。


「三人が襲われたのは優秀だったからじゃない。本当は三人の『家族』が羨ましかったんじゃないかな」

「……!」


本当のところは心霊の所為でブレーキが効かなくっていたのだろうが、本人には全くその気がなかった。なんてことは有り得ない。目には見えない深層心理であったとしても、それは紛れもなく自分の感情なのだから。


「家庭が破綻して、一番親しいと言える人間が友人になっていた君からすれば、幸せな家庭なんて妬ましくてしかたなかったはずだ」


水鏡は何も言わず僕を睨んでいる。話を切り出すならこのタイミングか。

「……君の両親について調べさせてもらった」


茫然自失としていた水鏡が叩き起されたかのように目を開く。

「なんで、なんでそんなことするの? 誰にも知られないようにしてたのに……」


「ただの興味本位だよ。深い意味も意図もない」

実際は僕が調べたわけじゃないけれど。

「……それで、同情でもしてくれるの?」


「ああ、同情するよ。僕も両親がいないからね」

「……え」

水鏡はまた言葉に詰まる。まあ、予想はしていなかったはずだし、似たような境遇ということもあって衝撃はあるだろう。


「嘘だよ。信じられない」

「それは君の勝手だから僕はどうしようもない。それに僕の両親は離婚したわけじゃなくて死んでいるから、君の境遇とも少し違うしね」


僕の発言をまだ疑っているのか水鏡は眉をひそめている。無理もないことだけど、ここは気にせず話を進めさせてもらう。


「君の両親は離婚して、そしてその子供である君は父親に引き取られたんだよね。それが今の神社なんだっけ」

渋々ではあるが僕の言葉を飲み込んだようで、水鏡は少し口篭りながら語り出した。


「神社は父方の先祖から代々続いてるものだよ。お父さんはそこで神主をやってる」


「確か、小学生までは母親も一緒に暮らしていたんだよね」

「うん。私が高学年になるまでは仲良かったから」


そして、水鏡は訥々と自らの過去について明かしだした。

水鏡いわく、元々は円満な家庭だったそうだ。しかし、生まれた時から周囲についていけないことが多かった水鏡は学年が上がるにつれ、孤立していっていったという。


「それでも二人は優しかった。私には、優しかった」

水鏡が周囲に追いつけないのは本人の落ち度ではなく、自分以外の人間、特に親であるどちらかがが悪いのだと、夫婦はどちらともなく言い出し衝突を始めたらしい。


「二人が喧嘩してるのを見て、今の自分じゃダメなんだって思った。だから自分以外の人を真似てみて、優れた人がどうして優れているのかを考えたの。その人がやっていることは全部やったし、動きも言葉も本人そっくりに真似た」


……それでも、一度壊れたものは簡単には直らない。


水鏡の成績が上がると両親は喜んだという。しかし、それが水鏡の模倣に拍車をかけた。次第に彼女は水鏡響としてではなく別の誰かとして振る舞うことが多くなったそうだ。自分以外であれば誰であれ模倣していくという生き方が彼女を特定の個人ではなく、不詳の誰かという存在にした。


両親は変わっていく娘に恐怖したらしい。何もかも完璧に模倣し、日々変わりゆく少女は、


自分の、

娘には、

思えない、と。


母親は悪魔が憑いていると言った。父親はそれを否定し、家庭は完全に崩壊した。両親が離婚届を書く日。水鏡は神社の階段で神様に出会ったと言う。その神様こそが水鏡の『心核』、ドッペルゲンガーの正体だ。


「神様にしたお願いは結局叶わなかった。当然だよね。つまるところ、あれは私自身、無能で無力な私自信なんだから」


────両親を仲直りさせてほしい。その為なら、自分はどんな良い子にでもなるから。


心核を発現させる程の強い感情は、しかし現実とはすれ違い、道を違い、また間違い続けようとしている。


「君の願いを叶えることは誰にもできない。でも、君の未来は変えられるはずだ。他の誰でもない、君自身の手なら」

「そんなの無理だよ。私がどれだけ頑張ったって、結局二人は離婚した。私が何をしたって無駄なんだよ」


「そこが間違いなんだよ。君は両親の仲違いを自分で解決しようとしなかった。誰かを参考にするでも憧れるでもなく、他の誰かになろうとした。それは他力本願と何も変わらない」


水鏡が憧れたものはあくまで円満な家庭だ。模倣はそれを手にし維持するためのツールでしかない。


「詭弁だね。星に手が届かないならロケットに乗るしかないんだよ。でも、それでロケットに憧れる人はいない」


水鏡の言う通りだ。手段を目的に置き換えるような愚を犯す人間はそもそもからして間違えている。でも、そうじゃないんだ。


「確かに、手段は手段に過ぎないし、目的のための布石だよ。しかし君は自分自身を手段にしてしまった。それじゃあ誰が星を掴むのさ」


「私の願いを叶えるのは私」

「でも、君が君でないのなら?」

────僕の姿をしてしいたドッペルゲンガーは自らの発現者である水鏡へと姿を変え、ゆっくりと振り向き本人を見つめる。


ドッペルゲンガーという都市伝説には、出会うと殺され本人と入れ替わってしまう。なんて説もあるらしい。このドッペルゲンガーという名を冠した心核が水鏡の願いから生まれた存在であるなら、当然その願いを叶えようとするだろう。ならば、水鏡ではなくなった存在の代わりに心核が水鏡響になろうとするのは本人の本懐ということだろうか。それが心霊に乗っ取られたが故の暴走でなければ、の話だけれど。


「 ─────! ど、どうして……!」

振り返った『心核』は、否、『心霊』は水鏡の首を万力のように絞めつける。


驚愕と衝撃の感覚に揺さぶられ、水鏡は満足に暴れることすらできていない。

「……っ、ぁ……!」


ただ訪れる苦痛に顔を歪め、それでも信じられないと水鏡の目は訴えている。


……心霊がつけ込んだのが心の隙なら、その出口も同じはずだ。もっとも、簡単に出ていってくれるとは思わないし、一瞬の隙に僕が心霊を貫き透すことも容易ではないだろう。それでも、これが最後のチャンスかもしれない。


「水鏡。君の願いは叶わないかもしれないし、両親が離婚した過去も変わらない。それでも……、それでもまだ死にたくないと思うか」


「……死にたくは、ないよ」

「そうか。じゃあ、どれだけ説教くさくても、僕を信じて」

「……ッ!」



────目を開くと、僕達は青い世界にいた。


「っ……、あれ? どこなの、ここ?」

僕の後に目を開いた水鏡は状況が飲み込めていないようだ。


無理もない。場所だけでなく時間帯までもが唐突に変わってしまえば誰だってこうなる。

でも、


「場所はあまり関係ないよ。時間だって重要じゃない。ただ一つ言えることは、君が僕を信用してくれたということだ」


あの場面なら藁にも縋りたいと思ったのかもしれないけれど、結果としこの展開に持ち込めたのは望ましい。多少卑怯なのは否めないが水鏡に取り憑いた心霊を祓うにはこの方法しかなかっただろう。


……もし、この場にいたのが僕ではなく師匠なら、もっと上手くやったのだろうか。


そんなifを無意味だと知りながらも考えてしまうのはこの空間の所為だろう。この心傷風景は僕の傷であり師匠の象なのだから。


「さて、あんまり時間もないことだし早く終わらせよう」

「終わらせるんだね。これで」

「うん。それとも、このまま続けるのが君の望みなのかな。それも一つの終わらせ方だけど」


本人が望めば、水鏡と僕の大したことない関わりも、水鏡と友人の関わりも、全て終わらせることができる。それが本心からの願いなら、水鏡響という少女は僕ではなく『羊飼い』の管轄に移譲されるだろう。


「ううん。私がやるべきなのはやり直しじゃなくて、続けていくことだと思うんだ。心機一転、ね」


「分かった、それじゃあ始めよう。……少し痛いかもしれないからそのつもりでね」


水鏡に近づき、心核を構える。

本来なら近づく必要はないのだけど、突かれた拍子に倒れるかもしれないので一応そのカバーのためだ。

十分に近づき、彼女の胸元に不可視の刃を突き透す。


────音もなく、抵抗もなく、心核は水鏡の心を貫いた。


この心核は相手の肉体を傷つけることができない。できることといえば、心霊の攻撃をいなすのが精々だ。

しかし、この心核の、『相思相藍』の真価は相手の心に直接干渉できるという点にある。


相手の心に干渉することができれば外傷を与えることなく心霊を排除することができる。つまり、外がダメなら内から対処してしまえばいい、ということだ。ただ、一つ問題があって、それは僕の未熟さに起因しているのだろうけれど、『相思相藍』は相手の心に自分から踏み込むことができないのだ。


『相思相藍』の使用には相手の許諾が必要で、さっき水鏡に信じてもらう必要があったのはこういった事情があったからなわけだけど、やはり僕でなければこんな騙すようなマネをしなくても済んだのだろう。


水鏡の心から心霊が消えていくのを自らの心核を通して認識する。それは一連の事件の終わりを意味し、張り詰めていた糸が自ずと緩んでいく。


水鏡の願いは叶っていないし、襲われた少女もその事実が無くなるわけではないけれど、この終止符で楽になる人間がいるのなら、僕の行動も無駄ではなかったのかもしれない。

糸が切れた人形のように倒れ込んでくる水鏡を受け止める。


彼女の状態を確認するために顔を覗き込むと水鏡は安らかに眠っているようだった。憑き物がとれたような、そんなあどけない顔をしている。


これで僕のできることは全てやった。これからは水鏡が、水鏡響として生きていかなくちゃならない。それは辛いことかもしれないし苦しいことかもしれないけれど、自分を自分と認めて生きることは、悪いことではないと思う。


「……」

現実に戻ろうか。とは口にしない。この空間において言葉など冗長であることは、それこそ言わなくても伝わるだろう。


現実に戻る前に再度水鏡の様子を伺うとその目元から静かに涙が流れた。それは零れ落ち、波紋を広げ、青い世界は光の中に姿を消していく。


────────。


開眼した先には夜の暗闇が広がっていた。その闇の中に一人の少女が佇んでいる。

「……」


その沈黙は二人のものであり、どちらともなく生じたものだ。

水鏡は今、考えているのだろう。己がしでかしたことの重みについて。その贖罪について。


目をいっぱいに見開いた水鏡が次第に声を上げる。ごめんなさいでも、許してくださいでもなく、声にならない泣き声で己の罪を告解する。


「……う、っあぁ、ああ! あぁぁぁ!!」

心霊の影響で麻痺していた罪悪感が堰を切ったように溢れ、波のない海へ響き渡る。


夜の街に少女を一人で置いていくのは気が引けるけれど、人の泣き顔を見る趣味もない。せめて彼女が思い切り泣けるようにこの場は身を引こう。


「ま、って。もうすぐっ泣き止むから!」

静かに踵を返したつもりだったが水鏡には気づかれてしまった。

少しして、宣言通り泣き止んだ水鏡が口を開く。


「何を言うべきかまだ纏まらないんだけど、先ずはありがとう。烏有くん」

「お礼はいいよ。受け取っても置き場に困る」


本当は置き場なんて有り余るほどあるけれど、それこそ有り得ないほどあるのだけれど、受け取っても僕はそれに報えない。


「そう言うと思った。だから、受け取ってくれるまで言い続けるよ」

それはちょっとやめて欲しいかな……


「あ、今嫌だと思ったでしょ」

「そんなことないよ。第一、表情には出ていなかっただろう?」

何なら表情なんてあるのか自分でも疑問だ。


「私、ちょっと顔が動くだけでその人が何を感じてるのかが分かるんだ」

「……」


それは他人の模倣をしていた水鏡だからこその技能なのかもしれない。観察眼と再現という点において、水鏡の右に出る者はいないだろう。


「あ、気にしないでね。私は私。烏有くんのお陰でやっと立ち直れた水鏡響だから」

その言葉の通り、水鏡は表情は晴れ晴れとしたものだった。泣き腫らした目元だったり涙の後はあるけれど、陰鬱さというのは感じられない。それは水鏡のような技能がなくても分かることだ。


「今になって、冷静になってようやく分かったんだけど、烏有くんは全然優秀な人じゃなかったんだね」

「悪口は本人のいない所で言うもんだよ」


自覚はしているけれど、目の前で言われるとどう反応していいのか分からないな。

「それに全然普通でもなかった」


「だから悪口は ────」

「でも、優しい人だった」

「……」


この一言こそ、どう反応していいのかまるで分からない。普段なら適当に誤魔化していたと思うし、それがいつもの僕だ。けれど、今だけはこの言葉を、水鏡の本音を否定してはいけない気がした。


「ありがと、烏有くん。それじゃあ私、帰るね」

返事を待たず水鏡は駆け出す。夜の闇の中でも彼女の目元の輝きはハッキリと見えた。


水鏡の行く先を振り返ることもなく、僕は誰もいなくなった踊り場に佇んでいた。鏡面の立方体は変わらず回り続けている。



月の見えない空を見上げながら遊歩道を歩く。確実に事件は終わったのに、その実感を持たないまま僕は帰路についていた。


一つ、一つ。僕の歩調に合わせて街灯が流れていく。

二つ、二つ。道はまだ続く。

……、……。僕の足は、そこで止まった。


少し離れた街灯の下に見覚えのあるシルエットが見えたからだ。夜と区別のつかないぬばたまのの髪。その髪から覗く真っ白な眼帯。街灯はスポットライトのように闇に溶ける彼女を照らしている。


オカルト愛好会の会長。彼女がいた。

「終わったみたいね。よかったわ」

街灯の明かりを反射して、先輩の色の無い瞳が妖しげに光る。


「ええ、お陰様で」

実際、先輩の手腕がなければ僕は水鏡の家庭環境を知ることができなかった。陰の立役者というのなら彼女こそそう呼ぶに相応しいだろう。


「結局、ドッペルゲンガーが水鏡さんであると分かったのはいつだったのかしら」

「怪しんでいたのは最初からですけど、分かったのはついこの前ですよ」


「ということは決め手があったのね」

「倒置法とかミラーリングとか、怪しい点はいくつかありましたけど、それよりも不思議なことあったでしょ?」

「不思議なこと」


「犯人がドッペルゲンガーであるのなら被害者の姿になって犯行に及ぶというのは理解できます。でも水鏡の心核は模倣することに条件がない。やろうと思えば全ての罪を僕やあなたに着せることも出来たはずです」


「それをしなかったのは、この事件がただの私怨しえんで行われたものではなかったから、ということね」


両親の喧嘩を止めたい。そんな願いを根底に抱くことができた水鏡だ。心霊に支配されていたとはいえ、誰かに罪を着せることを無意識に忌避し、全て自分の裡で完結させようとしたのだろう。


どれだけ僕が弁明しようと、彼女のやったことが消えるわけではないけれど。


「……烏有君。どうして心核を使用することを『発現』と呼ぶか知っている?」

唐突に質問を投げかけられる。

「発現とは、即ち発言である。ですよね」


これは『羊飼い』となる人間が最初に教えこまれることで、羊飼いとして存在するのに必要な基礎知識であり心得のようなものだ。


「ええ、心核なんて名前がついても元は人の感情。傷つきやすい心そのものだわ。発現者は皆、自分の本音を聞いてもらいたくて発現するの」


心核は発現者のトラウマや願望が形になる現象だ。どちらの要素が強く出るかは人それぞれだし、両方が混在することもある。


「そしてその心の声を聞き届けるのが、あなた達羊飼い」

「何が言いたいんですか」

「私は思う。これこそ、烏有透見の天職だと」


「……」

今度は何を言っているのかが分からない。まともに就職できるのか、常に将来を憂いている僕だけれど会ったばかりのこの人に宣言されてしまうほど、僕には将来性がないのだろうか。


「率直に言うわ。これからもオカルト愛好会の一員として私に力を貸してほしいの」

なんだ、そんな話しか。


当然、答えは決まっている。僅かではあるけれど共に事件解決のために行動した時間は確かなものだ。ミステリアスで掴みどころのない、得体の知れない先輩ではあるけれど、だからこそ僕が言えることは一つだけある。


「お断りします」

これ以外ありえないってくらいの全力否定である。

そんな僕の返答に先輩は眉一つ動かさず、そう仕組まれたカラクリ人形のように口を開く。


「そう言うと思っていたわ。いいわ、また誘うから」

どうして僕の周りの人間はこんなにも諦めが悪いのだろうか。


「さあ、烏有君。それはそうと報酬の話よ」

「何のことですか?」

「忘れたのかしら。事件が解決したらラーメンを奢る約束。水鏡さんが張本人だけれど今から彼女に頼むわけにはいかないものね」


そういえばそんな話をしてた気もする。あれは本気だったのか。

「別に報酬なんかいいですよ。それに今は食欲がないので」


「それじゃ別のものにしましょう」

「だから報酬なんていりませんよ」

「報酬ではないわ。これは公平な取引だもの」


「どういうことですか」

「烏有君。私はこれからあなたを透見君と呼ぶわ。だからあなたも私を名前で呼んでいいわよ」


確かに、報酬と呼ぶには魅力に欠ける内容だ。だからこそ取引という体裁をとって僕に何かしらを与えようとしているのだろうけれど、互いをファーストネームで呼び合うことに意味があるようには思えない。


「そんな取引もするつもりはありませんよ。第一、僕は先輩の名前知りませんし」

名前どころか苗字も知らない。今のところ、僕にとってのこの人は先輩と名乗っている怪しい人物に他ならない。


「あら、そうだったかしら。礼儀がなっていなくてごめんなさい。水鏡さんから聞いているものとばかり思っていたわ」


そんな丁寧に反省されても困る。

────生き写しのように似ている謎の少女。オカルト愛好会なんてやっている不可思議な人間。羊飼いでもないのに心核を知っている人物。


怪しい点を挙げればキリがなさそうな先輩。

僕が知りたいのは、そんな事柄に対する真相だ。名前なんて標識でしかない。


「それじゃあ、今更ながら名乗らせて貰うわ」

僕の考えを知ってか知らずか、先輩は淡々と自己紹介を始める。


「春波高校三年、黒瀬クロセ斉深ヒトミです。よろしくね、透見君」

「……」

「どうしたの。名乗ったわよ」


そんな、友達にでもなれそうなことを言われても、僕は解答に値する語彙を持っていない。

────それは、なぜだろう。


断ることなら直ぐにできる。しかし、そうしないのはなぜだ。もしかして、僕はこの人に何かを求めているのだろうか。


水鏡が円満な家庭を望んだように、発現する人間にはそれに相応しい願いがある。緋名さんにだって、恐らくこの先輩にだってそれはある。……では、僕はどうだ。僕が発現する理由とは、一体何なんだ。


あまりに似ている、それこそドッペルゲンガーであるかのようなこの少女に、僕の求めた答えがあるような気がして、自ずと口が動いた。


「こちらこそ。僕は烏有ウユウ透見トウミです。先輩」

「意外と頑固よね」

「自分を持っているんですよ」

「心にもないことを」


……心做しか、先輩の頬が少し膨れた気がした。




END




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