05.彼は誰時 前
ジョシュアはその日、夜も遅い時間帯に目を覚ました。
起き上がってまず、自分の体が、酷い
一体今は
痛みに耐え切れず、その
まず目に入ったのは、ベット脇のサイドテーブルに置かれた水差しとグラスだった。腹の足しにならないが、何も無いよりかはマシだろう。
これ幸いと、ジョシュアはゆっくりとうつ伏せになりながらグラスに手を伸ばした。
けれどその時、くらりと
痛みと目眩と体勢と、三重苦に身動きひとつとれず、ジョシュアは誰もいない部屋でしばらく悶えていた。
そうしてどれくらい経ったろうか。ふと、誰かの声が、ジョシュアの耳に入った。
部屋の扉が開いているようで、その入り口には誰かが立っているようだった。
「何をやってるんだお前は」
聞こえた知らないはずの声に、ジョシュアは妙な
ジョシュアがその姿を目にするよりも先に、
かなりバツの悪い気分で、ベッド脇に立つ人物を見上げる。自分よりもかなり背の高い、その人物の顔を目にして。ジョシュアは思わず絶句した。
「こんな美女にここまでさせるなぞ、貴様は大した男だな」
情けない状況にあったジョシュア彼をつまみ上げたのはそう、女性だったのだ。それも大層な美人である。ジョシュアが今まで見たこともない程の絶世の美女だった。
そんな事実に面喰らいながら彼女を見上げると、やはり既知感を覚えて困惑する。
この女性とははて、一体どこでどうやって知り合ったのだったか。耳触りの良い、ハッキリとしたアルトテナーの声は、不思議とその音に惹き込まれるよう。背が高い事を除けば、欠点なんて見当たりそうになかった。
記憶を探るように思い返そうとしても、ある時からぷっつりとジョシュアの記憶が飛んでいる。奇妙な事だった。この街に来て、ギルドで登録して買い物をして、酒場で飲んだ事までは覚えていた。
けれども何故だか、ジョシュアにはそれ以降の記憶がなかった。
何度も思い出そうと頭を捻るが、頭痛はどんどん酷くなるばかり。
答えが出てくる気配は一向にない。経験したことが無い程の
耐え切れずに顔を
「どうした? お前、随分と辛そうじゃないか。この私が、そいつをどうにかしてやろうか?」
いやに明るい女の声音に、ジョシュアは益々困惑する。この女と自分がなぜ共にここにいて、自分はなぜ彼女に介抱されているのか。いくら考えても理由が分からなかった。
謎は益々深まっていくものの、酷くなる一方の頭痛にとうとう、ジョシュアは考えることを放棄する。頭上から優し気にかけられる声にも、彼は反応する事ができなかった。
そうして突然、彼の
頭よりも先にまず、
ゴクリと、音を立てて喉が鳴る。
「欲しいか?」
女にそう声をかけられ、びくりとジョシュアの身体が跳ねる。自然と息が荒くなった。
その声に誘われるように女を見上げれば、彼女は
その手に持っている何かを、ジョシュアの目の前へと差し出した。
「本能に身を委ねろ」
耳触りの良い声にそう言われて、ジョシュアの目がグラスに釘付けになる。目が離せなかった。
ショットグラスに注がれた一杯の液体。それが何なのか、彼には
頭の片隅で警告音が鳴り響いている。これを受け取ればもう、後戻りはできなくなる。それはジョシュアの直感だった。
震えるその手で、差し出されたグラスを受け取る。口元付近にまで近付ければ、一層強くなったその香りに頭がクラクラとした。
「そうだ、そのまま喰らえ」
声に誘われるがまま、ジョシュアはグラスを一気にあおった。
喉を潤すそれに、途端にじわりと身体が楽になっていく。体の内側が何かで満たされていく感覚に、ジョシュアは目を閉じながら大きく吐息を吐き出した。
彼を悩ませていた頭痛は瞬く間に引いてゆき、我慢出来ないほどの飢餓感も同時に消えていく。
けれども、飲み干した満足感はすぐに別の感情へと置き換わった。
一体、グラスの中身は何だったのか。
漠然とした不安がジョシュアを襲う。中身のなくなった空のグラスを、ただぼうっと眺めた。
「満足したか?」
そう問われハッとして、ジョシュアは再び女を見上げた。彼女は相変わらずそこに立ったまま、怪しげな笑みを浮かべてジョシュアを見下ろしていた。
男のような格好をした、長い黒髪の美女だった。
「え、ああ……これ、何なんだ? 体が楽になった。それに、アンタは一体何者だ? 俺は何故ここへ……ここはどこだ?」
ようやく頭が回り出し、次々と疑問が湧いて出る。頭を整理するつもりで、ジョシュアはそれらを口にした。
探るように部屋を見渡せば、そこはどこかの宿の一室のようだった。
「すぐに分かる。お前、どこまで覚えてる?」
「どこまで……?」
「酒場に居たのは覚えているか? 私を追って街外れまで来た事は?」
「酒場で、飲んだのは覚えているが……それ以降の記憶が曖昧で。……アンタを追ったって、俺が何かしたのか?」
ジョシュアがそう確認するように聞けば、女はさも楽しそうに答えた。
「ふふ……そうだとも、お前はとんでも無いことをしでかしてくれた」
そんな返答を返され、ジョシュアは思わず面喰らう。
ジョシュアにはこの女との記憶が一切なくて、おまけにそんな意味深なセリフ。何かありました、と言っているようなものだ。
女性にはとことん縁のない彼だったが、人並みの欲はある。いやまさかそんな、とジョシュアは盛大に動揺しながら、必死で記憶を漁り始めた。それを見てまさかその女が遊んでいるとも知らずに。
ジョシュアは目を泳がせながら、目の前の女を見やった。
そして、そんなジョシュアの様子を散々眺めた後で。目の前の女は、実にあっけらかんと言い放った。
「ま、やらかしてくれたには違いないが。恐らくはお前の想像するような事ではないだろうよ。すぐに思い出す。後悔先に立たずなのは変わりないだろうがな」
女の言葉に、ジョシュアは一層混乱を極める。しかしその謎は、すぐに明かされる事になった。
「それはそうと、お前は今日から私の下僕だからな。従え」
「は?」
突然そのような事を言われ、ジョシュアは素っ頓狂な声と共に女を見上げた。けれど女は、それ以上は何も言わずにただ、ニヤリと笑みを浮かべるだけだった。
そんな彼女の発言のおかげだろうか。それとも、そういう時間になったからだろうか。
あの夜の記憶が、ジョシュアの中で少しずつ蘇り始めていた。
――この女はそう、彼が酒場で見かけた女であった。彼女はもう一人、街の女性を連れていて、同じ酒場で飲んでいた。ジョシュアはそれを、少しばかり不審に思ったのだった――
「下僕というか従属というか……正確には、お前は私の
「は?」
「何を言っているんだ、という顔をしているな? だがお前、今しがた飲んだろう?」
そう女に言われた瞬間、ドクリとジョシュアの心臓が嫌な音を立てた。
――思い出すのは、あの夜の出来事。ジョシュアの背後で交わされた女たちの会話。殺すのも差し出すのも厭わない、街の女性は熱に浮かされたような声音でこの女に向かってそんな事を言っていた。
人気の無い廃屋で、女性に喰らい付かんとした黒髪の女。女性を危機から救い出したジョシュアは、彼女の為に、あの化け物の前に立ち塞がったのだ――
カラカラになった口の中で、はりついてしまった舌をどうにか動かしジョシュアは口を開く。捻り出した声はしかし酷く掠れ、そして途切れ途切れになるばかりだった。
「何を?」
「血を」
「血――?」
女の言葉を理解した途端、さあっと血の気が引くのを感じた。慌てて自分の手に持ったままのグラスに目をやる。
グラスの内側に所々、赤黒く変色した滲みがこびりついている。今の彼にならば見える。夜にも関わらずハッキリとよく見えるそれは、血液に違いなかった。
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