9「千代子のいない人生」

❖夢のような日々  / 有栖川ありすがわ アリス❖



 幸せな日々だった。

 あーしに手を引かれて歩く神戸かんべは、あーしの胸でオギャる神戸はまるで赤ちゃんのようで、神戸を独占できる喜びに酔いしれていた。

 千代子様には悪いけれど……。


 千代子様からは、一度も連絡は来なかった。

 神戸にも、もちろんあーしにも。

 いいの、千代ちゃん?

 神戸のこと、取っちゃうよ?


 今も神戸は、あーしの胸の中で眠っている。

 泣きつかれて、あーしの心音に包まれながら。





   🍼   💝   🍼   💝



❖金曜日、6時間目  / 神戸 耕太郎❖



「久しぶりですねぇ、遅刻魔くん」


 ついに、来てしまった。

 この日が。

 僕の精神を追い込む悪魔――友柄ともがら講師の、授業の日が。


「いえ、こちらの名前の方が有名でしたっけ、コンブママさん?」


「――――ひっ」


 僕を立たせた友柄講師が、朗らかな笑顔でクラスを見回し、


「みなさん、今日はITリテラシーについても勉強してみましょうか。SNSの使い方と、炎上の恐ろしさについて学んでみましょう。ちょうどここに、教材がいますので」


 冷たい電算室の中、クラス中の視線が僕に集中する。


『……エッチな神戸さん…………アッアッアッ、もっと優しく……』


 例の盗聴動画が再生される。

 僕は立たされたままだ。

 教室が、クスクス笑いや『うわ』『ないわー』『やば』といった呟きで満たされる。


「とまぁこのように、ネット上での活動は、常に様々なリスクと隣り合わせです。こういうことになると、自分自身の人生が台無しになるだけでなく、親族や学校、勤務先にも迷惑をかけることになりますので、くれぐれも注意するように。個人VTuberやその生みの親など、企業による後ろ盾のない活動は特にそうですね」


 友柄講師が朗らかに微笑み、


「みなさん、くれぐれも、くぅれぐれもコンブママの氏名年齢住所とか、晒したらダメですよ? 関連のスレが立っているようですが、間違っても神戸くんの顔写真などUPしないように」


 どっと教室が沸いた。





 ――カシャッ

 ――カシャカシャカシャッ





 何人かの男子が、悪ノリして僕の写真を撮る。

 そのうちの1人が、僕の隣の席のヤツが、


「これがコンブママのお顔でちゅよ~っと」


 スマホに何かを打ち込んでる。

 まさか本当に晒し上げるつもりか!?


「や、やめろ!」


 僕がそいつのスマホに手を伸ばすと、手を払われた。


「ばーか、やるわけねーだろ。俺まで特定されるわ。ま、捨てアカ作って投稿するって手はあるけどな」


 僕の体が震えている。

 足の感覚が曖昧になっていく。

 あまりの恐怖と絶望で、動悸がする。

 視界が狭まり、目の前が暗くなっていく。


「おーい」友柄講師の声。「授業、ちゃんと聴いていますか? コンブママこと遅刻魔くん?」


 教室中に満ちるクスクス笑い。

 みんな敵だ。

 ここにいるヤツ、全員敵だ。

 敵だ敵だ敵だ敵だ敵だ敵だ敵だ敵だ敵だ敵だ敵だ敵だ敵だ敵だ敵だ敵だ敵だ敵だ敵だ敵だ敵だ敵だ敵だ敵だ敵だ敵だ敵だ敵だ敵だ敵だ敵だ敵だ敵だ敵だ敵だ敵だ敵だ敵だ敵だ敵だ敵だ敵だ敵だ敵だ敵だ敵だ敵だ敵だ敵だ敵だ敵だ敵だ敵だ敵だ敵だ敵だ敵だ敵だ敵だ敵だ敵だ敵だ敵だ敵だ敵だ敵だ敵だ敵だ敵だ敵だ敵だだ敵だ敵だ敵だ敵だ敵だ敵だ敵だ敵だ敵だ敵だ敵だ敵だ敵だ敵だ敵だ敵だ敵だ敵だ敵だ敵だ敵だ敵だ敵だ敵だ敵だ敵だ敵だ敵だ敵だ敵だ敵だ敵だ敵だ敵だ敵だ敵だ敵だ敵だ敵だ敵だ敵だ敵だ敵だ敵だ敵だ敵だ敵だ敵だ敵だ敵だ敵だ敵だ敵だ敵だ敵だだ敵だ敵だ敵だ敵だ敵だ敵だ敵だ敵だ敵だ敵だ敵だ敵だ敵だ敵だ敵だ敵だ敵だ敵だ敵だ敵だ敵だ敵だ敵だ敵だ敵だ敵だ敵だ敵だ敵だ敵だ敵だ敵だ敵だ敵だ敵だ敵だ敵だ敵だ敵だ敵だ敵だ敵だ敵だ敵だ敵だ敵だ敵だ敵だ敵だ敵だ敵だ敵だ敵だ敵だ敵だだ敵だ敵だ敵だ敵だ敵だ敵だ敵だ敵だ敵だ敵だ敵だ敵だ敵だ敵だ敵だ敵だ敵だ敵だ敵だ敵だ敵だ敵だ敵だ敵だ敵だ敵だ敵だ敵だ敵だ敵だ敵だ敵だ敵だ敵だ敵だ敵だ敵だ敵だ敵だ敵だ敵だ敵だ敵だ敵だ敵だ敵だ敵だ敵だ敵だ敵だ敵だ敵だ敵だ敵だ敵だだ敵だ敵だ敵だ敵だ敵だ敵だ敵だ敵だ敵だ敵だ敵だ敵だ敵だ敵だ敵だ敵だ敵だ敵だ敵だ敵だ敵だ敵だ敵だ敵だ敵だ敵だ敵だ敵だ敵だ敵だ敵だ敵だ敵だ敵だ敵だ敵だ敵だ敵だ敵だ敵だ敵だ敵だ敵だ敵だ敵だ敵だ敵だ敵だ敵だ敵だ敵だ敵だ敵だ敵だ敵だ敵だ敵だ敵だ敵だ敵だ敵だ敵だ敵だ敵だ敵だ敵だ敵だ敵だ敵だ敵だ敵だ敵だ敵だ敵だ敵だ敵だ敵だ敵だ敵だ敵だ敵だ敵だ敵だ敵だ敵だ敵だ敵だ敵だ敵だ敵だ敵だ敵だだ敵だ敵だ敵だ敵だ敵だ敵だ敵だ敵だ敵だ敵だ敵だ敵だ敵だ敵だ敵だ敵だ敵だ敵だ敵だ敵だ敵だ敵だ敵だ敵だ敵だ敵だ敵だ敵だ敵だ敵だ敵だ敵だ敵だ敵だ敵だ敵だ敵だ敵だ敵だ敵だ敵だ敵だ敵だ敵だ敵だ敵だ敵だ敵だ敵だ敵だ敵だ敵だ敵だ敵だ敵だだ敵だ敵だ敵だ敵だ敵だ敵だ敵だ敵だ敵だ敵だ敵だ敵だ敵だ敵だ敵だ敵だ敵だ敵だ敵だ敵だ敵だ敵だ敵だ敵だ敵だ敵だ敵だ敵だ敵だ敵だ敵だ敵だ敵だ敵だ敵だ敵だ敵だ敵だ敵だ敵だ敵だ敵だ敵だ敵だ敵だ敵だ敵だ敵だ敵だ敵だ敵だ敵だ敵だ敵だ敵だだ敵だ敵だ敵だ敵だ敵だ敵だ敵だ敵だ敵だ敵だ敵だ敵だ敵だ敵だ敵だ敵だ敵だ敵だ敵だ敵だ敵だ敵だ敵だ敵だ敵だ敵だ敵だ敵だ敵だ敵だ敵だ敵だ敵だ敵だ敵だ敵だ敵だ敵だ敵だ敵だ敵だ敵だ敵だ敵だ!!





























「先生」


 ふと、ここ数日ですっかり聴きなれた、耳心地の良い声が、教室を切り裂いた。


「神戸くんがIT科の授業に遅刻したのは、去年の4月15日だけです。それ以降は、一度も遅刻してませんよ」


 有栖川だった。

 有栖川の良く通る声がしみ込んできて、視界が戻ってくる。


「神戸くん、体調悪そうなんで、保健室に連れていきますね」


 有栖川が僕の手を引く。

 友柄講師が何か文句を言ったが、構わず僕を教室から連れ出してくれた。


 保健室には、誰もいなかった。

 僕はベッドに座る。


「ほら」


 有栖川が腕を開く。

 僕は有栖川の心音を聴く。

 気持ちが、すっと楽になる。


 と同時に、僕は驚いてもいた。


『神戸くんがIT科の授業に遅刻したのは、去年の4月15日だけです』


 有栖川は、僕のことをずっとずっと見てくれていたんだ。

 それこそ、僕の絵に『キモい』と言ってしまった1年半前のあの日から、ずっとずっとずーっと僕のことを気にかけてくれていたんだ。

 この前の謝罪には、何ひとつとして噓偽りはなかったんだ。


 僕の中で、有栖川の存在が大きくなっていく。

 どんどん、どんどん大きくなっていく。

 それこそ、千代子を上回るほどに。


「あは、ちょっと冷たい~」


「え?」


 言われて顔を上げれば、有栖川の胸元が僕の汗ですっかり濡れてしまっている。


「ご、ごめんっ」


 慌てて離れようとするが、有栖川が離してくれない。

 結果、2人してベッドに倒れる形になる。

 有栖川の匂いを感じる。

 有栖川の鼓動を感じる。


 リアルが嫌で嫌で仕方ない僕にとって、

 小説の世界でも誰にも読まれず腐りかけていた僕にとって、

 VTuber明治千代子だけが癒しだった。

 面白くもない灰色の世界で、知代子だけが唯一輝く光だった。

 その千代子が、ある日突然目の前に現れて。

 僕を、Vの世界に引っ張り上げてくれた。


 有頂天になった僕は、バズった勢いを無駄にしないように、この1ヶ月間、千代子と一緒に走り続けてきた。

 どれだけしんどくても眠くても、毎日必ず小説を書いて、千代子の朗読配信のためのイラストを描いた。

 コンテンツ『明治千代子』を盛り上げ続けた。


 ……けど。

 がんばってがんばって、走り続けてきた結果が、これだ。


 だったらもう、いいんじゃないか?

 目と耳と口を塞いで、有栖川と一緒に静かに暮らしていけばいいんじゃないか?

 こんなにも恐ろしいVの世界からは背を向けて、千代子とはもう二度と会わずに。


 もう、千代子の顔が上手く思い出せない……。


 有栖川が、僕のメガネを外す。

 有栖川の冷たい指先が僕の額に触れ、僕の前髪をかき上げる。

 まともに、有栖川と目が合った。


「あーしじゃダメかな」有栖川の声が震えている。「あーしじゃ、神戸のママになれない?」


 有栖川が、唇を近づけてくる。


「有栖川……」


 キス、されようとしている。

 僕は目を閉じる。

 消極的ながらも、有栖川を受け入れたつもりだった。









 ――けれど。

 目を閉じたそのときに、真っ先に浮かんだその顔は。









「千代子」


 千代子の顔が上手く思い出せない?

 ウソだ。

 ウソだウソだウソだウソだウソだウソだウソだウソだウソだウソだウソだウソだウソだウソだウソだウソだウソだウソだウソだウソだウソだ!

 本当は、本当はこんなにも鮮明に思い出せる。


 笑う千代子。ドヤ顔の千代子。楽しそうな千代子。眠そうな千代子。風邪で弱ったときの千代子。FPSでボコられて、真っ赤になってる千代子。

 別れ際の、泣き顔の千代子。

 全部全部、覚えている。

 僕の心のフォルダは、千代子のスクリーンショットでいっぱいだ。


 千代子千代子千代子千代子千代子千代子!


 目を開くと、有栖川がひどく傷ついた顔をしていた。


「最低。この流れで別の女の名前を呼ぶとか」


「あ……」


 何か、何か言わなければ。


 ムーッ

  ムーッ

   ムーッ


 そのとき、僕のスマホが着信で振動し始めた。


「電話。出たら?」


「いや」


「出なよ」


「あ、うん」


 スマホの画面を開くと、


『着信中:千代子の姉』


 これ、千代子が東京に戻る直前に架かってきた番号だ!


「も、もしもし……」


『もしもし』


 だが、出てきたのはものすごく野太くてでかい男性の声だった。


『神戸耕太郎くんの電話で間違いないかね? 私は大神ゼウスだ』


 社長!?

 っていうかつまり、千代子のお父さん!?

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る