スプリンター
ひなみ
第1話
スタートを知らせるピストルの合図が鳴る。
集中自体はできていた。そのはずだったのに、一歩目を力強く踏み出して跳ぶ事ができない。
慣れているはずの音に怯え足が
子供の頃から走るのが大好きだった。競争相手に打ち勝つ高揚感、友達や家族から褒められる純粋な喜び、そして将来歩んでいくだろう軌跡を思い馳せる。それらすべてがすべて自分というものを形作ってきた。
それがいつからだろう、走る事に苦痛を伴うようになっていったのは。
フィニッシュラインを越えて息があがったままの私は、その場で立ち止まり両手を膝についた。
「
直後声を掛けてきたマネージャーの
長く艶のある黒髪に鋭い瞳の彼女は、そう簡単に他人には
実際にそうなのだろうと思われる場面を多く目撃してきた。
豊島さんはキリっとした美人である一方、表情がほとんど動く事もなく何を考えているのかわからない。そのミステリアスさもきっと魅力的に見える一因なのだろう。
私は出会った一年の頃から彼女に憧れており、人知れずその一挙手一投足を目で追っていた。
とは言っても彼女は私と同学年だ。それを考えれば偉そうな態度で振舞われる
それでも相手はマネージャー。下手に揉め事になるのが嫌な事もあって渋々聞き流す日々を送っていた。
「そっか。私もそろそろ潮時なのかもなあ」
冗談のつもりで放った言葉に、彼女は私から目を逸らし「そうかもね」とだけ返して離れていきその日の練習は終わった。
走りでの不調はあらゆるところに影響を及ぼしていく。
焦りから練習時間を増やす一方で帰宅は遅くなり、勉強時間は深夜にまで食い込んでいく。
休みの日はそのせいで昼を過ぎるまで泥のように眠り、友達や家族と遊びに出かける事ができなくなっていった。
とある日、朝礼が終わり机に座っているといつの間にか授業が始まっていた。
「三橋ここ、当てられてる」
気付けば隣の席の豊島さんが教科書をこちらに広げ、問いに指を差していた。
当然その答えは出てこない。困り果てていると彼女は小さく何かを呟きだした。
耳を澄ましてみるとどうやらそれは回答のようで、私はしどろもどろになりながらも事なきを得た。
その間、彼女は私から不自然な角度で顔を背けるようにして窓の外を見ていた。
「豊島さん助かったよ、ありがと」
私は休み時間に入ってすぐに彼女に感謝を伝えた。
ふと見せる儚げな目線。彼女は何に対して、何を思い差し向けるのだろう。相変わらず横顔ですら様になっている。
「礼は要らないわ。あなたのせいで授業時間が減るのが惜しかっただけだから、勘違いしないで」
彼女はこちらを向く事もなくそう言って、突然机に突っ伏してしまった。
「――レギュラーは以上。特に三橋さん、今回は気合入れていくようにね」
次の大会が近づいてくるにつれて、掛かる期待も大きくなっていくように感じる。
こんな状態で選手として選ばれているのはやっぱり苦痛でしかない。
もう、やめてしまおうか。
その思いに駆られたままの練習は以前にも増して散々なものになっていった。
「三橋、ちょっと」
走り終えてスポーツドリンクを飲んでいると豊島さんに呼び止められた。
相変わらずその表情は読めない。
「……何?」
「どういうつもり? 顧問も言ってたよね。もっと真剣にやって欲しいんだけど。こんな事じゃ後輩達にも示しがつかないでしょ」
「私はちゃんとやってるよ」
「どうかしらね。あなたは現状で満足してるだけなんじゃない?」
同じような問答が何日か続き、あれだけ言い合っていても一度も目が合う事はなかった。
「大会で勝てなかったら部活を辞める。そのほうが豊島さん達のためになるんでしょ? これで文句はないよね」
嫌気の差していた私はついに吐き棄てるように告げ、彼女の反応を見ないようにしてその日の練習を切り上げた。
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