第二話 僕と彼女と肌色の風船


 旧校舎にある天文部の元部室。僕は今そのドアの前に立っている。


 何故元部室なのかというと、天文部は既に廃部されているからだ。


 天文部には長らく新入部員が入っておらず、去年三年生が卒業した時に部員がいなくなってしまったという話を誰かが言っていたような気がする。


 それにしても、さっきから何度もノックをしようと試みているのだが、緊張のせいか体が言うことを聞かずに、もう五分はここに立ちっぱなしだ。


 帰宅部の僕が、縁も所縁もないこの場所にやってきたのにはもちろん理由がある。

 僕は今朝下駄箱に入っていた手紙をポケットから取り出し、本日もう何度目になるかわからないが、手紙をまた読み直した。




 坂井くんへ



 とても大切なお話があります。

 今日の放課後、天文部の元部室であなたを待っています。



 玉石たまいし 蒼紅そうくより




 女の子らしい可愛い丸文字で書かれた玉石さんからの手紙だ。

 


 あの件があってから一週間。

 秘密の共有をしたことにより、僕と玉石さんの関係に何か変化が訪れるのではと少しだけ――いや、実のところ、かなり期待していたのだが、結局は特に何事も起こることはなく、拍子抜けしていところだった。


 相変わらず僕はクラスの中でも目立たない脇役Aのままだ。それに対して、彼女はいつも周りに人だかりを作る人気者。


 僕はこれからも遠目にそれを眺めるだけの、いつも通りの日常を送っていくことになるのだろうと、そう思っていた矢先にこの手紙が送られてきた。


 僕はこの手紙のせいで、今日一日を上の空で過ごす羽目になった。受けた授業の内容など一ミリも頭に残っていない。手紙のことを考えて、何度も読み直して、顔がニヤけるのを必死に堪える。そうしているうちに気がつけば放課後になっていた。


 下駄箱に入っていた手紙。

 大切な話があるという内容。

 誰にも邪魔されない、廃部された天文部の部室に呼び出されたということ。


 こんなのもう、どう考えてもラブレター以外の何物でもないだろう。

 そう思うからこそ緊張して、僕はなかなか天文部の部室のドアを叩けないでいるのだ。


 返事は決まっている。

 彼女は変態的な側面を持っているが、それを補って余りあるほど魅力的な女の子だ。学園のアイドル玉石蒼紅から告白されて、断る選択肢などあるはずがない。


 僕は目を瞑り、今度こそ意を決してドアをノックした。


「坂井くんね? 入って」


 ドア越しに聞こえる、透き通るような彼女の声。それを聞くと更に彼女を意識してしまい、僕はもう何も考えられなくなりそうだった。


「は、入るね」


 僕が部室の中に入ると、彼女は机に座って足を組んだ姿勢で待っていた。

 机に座るという行儀の悪い行為も、彼女がやると何だか様になっていて、黒のタイツに覆われたその綺麗な脚に僕は見とれてしまう。


「は、は、話って……な、なにかな……?」


 ドキドキしながら話を切り出す。


 照れによって、玉石さんからつい目を逸らしてしまうと、天文部が活動していたころに使っていたであろう備品の数々が目に入る。


 その中でも目を引くのはやはり、普通の望遠鏡よりも遥かに大きな天体望遠鏡だ。

 決して安いものじゃなかっただろうに、今はもう使われていないということを考えると、僕は少し勿体無いなと思った。


「坂井くん……とても大切な話があるの」


 手紙に書いてあったことと同じ言葉を、玉石さんは真剣な面持ちで口にした。


「う、うん……」


 僕は緊張しながら、彼女からの告白を待った。

 頭は高熱が出て寝込んだときようにボーッとして、バクバクという心臓の音はさっきからもう、うるさくて仕方がない。玉石さんに聞こえてしまうのではないかというくらい、僕の心臓の鼓動は激しくなっている。


「坂井くん……あのね……わたしと……」


 ――――付き合ってください。

 彼女の口からは、その言葉が出てくるのだろう。

 僕はそう確信していた。


「わたしと……新しい宇宙を探してほしいの……」


 玉石さんは恥ずかしそうに、少しもじもじとしながらそう言った。


「うん、もちろんだよ――――え、宇宙?」


 僕はあらかじめ用意していた回答を口にした後で、玉石さんがおかしなことを言っていることに気がついた。

 頭に疑問符を浮かべている僕などお構いなしに、玉石さんは子供のように無邪気に喜んでいる。


「やったぁ! いいのね! やっぱり坂井くんならオーケーしてくれると思ってたのよ!」


「え!? う、宇宙!? 宇宙って、あの例の、足がるからないかの瀬戸際にあるっていう、アレのこと!?」


 まず間違いなくそうだろうと思うが、ここが天文部の部室ということもあり、僕は一縷の望みを託して問いかけてみた。

 もしかしたら二人で、普通に宇宙のことについて勉強をしたいというお誘いなのかもしれない。頼む、そうであってくれ。


「そう、その宇宙よ。坂井くん、わたしはね、こうやって――」


 玉石さんが組んでいた脚を元に戻すと、その瞬間にチラッと白の下着が見えた。無意識のうちにそれを凝視してしまうのは、思春期男子の悲しいさがである。


 玉石さんはその綺麗な脚をぴーんと伸ばしながら、続きの言葉を口にした。


「脚を伸ばせば、すぐにるからないかの瀬戸際に身を置くことができるわ」


 何だその無意味な特技は。日常生活ではまず間違いなく役に立たないものだ。


「そして、そこから宇宙を感じ取ることができるの――あんっ、あぁっ、み、見えるっ……宇宙……宇宙がっ……」


 玉石さんがトランス状態に入り、その瞳にまた以前と同じようにハートマークが浮かび上がるのが見えた。


「いや、僕には玉石さんの言う宇宙ってわからないし……帰るね……」


 告白じゃなかったこと、それと玉石さんがどうしようもない変態だったことに僕は落胆し、部室を出よう踵を返した。


「待って坂井くん! 付き合ってほしいの!」


 慌てて玉石さんが僕を呼び止めた。

 付き合ってほしい。

 その言葉に、僕の心臓の鼓動がまた早まっていく。


「えっ……つ、付き合うって……その……」


 しかし、その言葉は僕が期待した交際したいという意味のものではなかったようで、玉石さんは自分の鞄から何かごそごそと取り出そうとしている。


「わたしはね、この世界には足つり以外にも色々な宇宙――快楽が存在すると思っているの。坂井くんには、その新しい宇宙を探す手伝いをしてほしいのよ」


 そう言って彼女が取り出したのは、バルーンアート用の細長い風船が沢山入った袋と、風船を膨らませるための空気入れだ。


「……何これ?」


 僕は全く意味がわからずに、率直な疑問を玉石さんに投げかけた。


「私はこれに新しい宇宙の可能性を感じたの……でもね、一人だと風船を膨らませること自体に意識が行き過ぎて、宇宙を感じる余裕がなかったの……」


「はあ」


 やはり言っている意味がわからないため、僕にはそんな生返事しかできなかった。


「坂井くん、新たな宇宙を開発するためには、あなたの助けが必要なの。お願い、わたしのためにこの風船を膨らませてっ」


「……よくわからないけど、わかったよ」


 僕も男だ。女の子、しかも可愛い女の子にここまでお願いされて断れるわけがない。

 僕は玉石さんからバルーンアート用の細長い風船と、空気入れを受け取った。


 ただ風船を膨らませるだけ。

 そう思っていたのに、あんなに大変なことになるとは、この時の僕はまだ知る由もなかった。

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