反魂法師―近未来吉備妖怪譚

飯山直太朗

第一章 黄昏時

第1話 狼と少年

もちろん、自然界の理法を逸脱していることが立証されるようなものは、何一つなかった。―H.P.ラヴクラフト「闇をさまようもの」


逢魔時おうまがどきの薄闇が、屋外を覆い始めていた。

「1935年―今からちょうど150年前。アメリカはプロビデンスの小説家、ロバート・ブレイクは死の間際まぎわ、奇妙な手記を残していました。それは彼を襲った未知の脅威と、それを呼び込んだ太古の遺物について書かれていました」

白一色の無機質な空間に、若々しくもどこか老成した、少年の声がこだまする。

「お坊ちゃん、この施設は今テロリストの襲撃を受けているんだよ。おじさんとおしゃべりしてるひまがあるのなら、早く非常口を使って脱出しなさい」

少年と対峙たいじする中年の男は優しく忠告するようでいて、その声音こわねは心なしか震えているようだった。

中年の男に向かって少年はなおも語り続ける。

「輝けるトラペゾヘドロン―幽明ゆうめいを繋ぐ神秘の黒石こくせき!彼はそれを見つけ出し、暗黒のファラオの生贄いけにえささげられたのです」

中年の男は白衣のすそを握りしめ、両手にしたたる手汗をぬぐう。

「君、そ、それは物理媒体フィジカル時代の小説フィクションなんだろ。君とごっこ遊びをしてる時間なんて私にはないんだ」

虚構フィクションあらず!現にあなた方が完成させたではありませんか。異界に巣食うものどもを召喚する、禁断の兵器を」

中年の男は歯を食いしばり、顔を紅潮こうちょうさせる。

「何を言ってるんだ君は!そんなものなどこの世にない。ここはオモチャ工場じゃないんだぞ!」

少年は口元にわずかな笑みを浮かべる。

「あくまで知らぬ存ぜぬですか。ならばお見せしましょう。海狼うみおおかみ!」

巨大な黒い塊が、少年の背後に現れた。それは体高たいこう一丈いちじょうを優に超すかと思われるほどの四足獣しそくじゅうで、開き切った実験室の扉いっぱいに、血に濡れた牙を見せてわらっていた。中年の男はおのれの抱いた恐怖を書きのこすこともできず、怪物に喉笛のどぶえを捧げ息絶えたのだった。



 昔の人は早起きをするのにも苦労したのだそうだ。目覚まし時計という体外式の器械から流れ出る、けたたましい轟音ごうおんを頼りに起床していたのだ―昨日の授業で聞いた話が、妙に印象に残っていた。青年は体内時計で設定した通り、7:00ぴったりに起床した。寝具を片付け、顔を洗う。網膜もうまくディスプレイを起動して、朝食前に今朝のニュースを確認する。それが坂鳥さかどり緋出ひいでのモーニングルーティーンであった。


【国立笠岡かさおか総合科学研究所 過激派組織が襲撃 死者二十五名】


父の勤務する研究所の名前。緋出は己のひとみを疑った。自分は古人こじんみたく本当は寝坊していて、まだ夢を見ているのだと、そう信じたかった。しかしまもなく父、坂鳥ひかるの死を伝えるダイレクトメッセージが飛び込んできて、彼は危うく昏倒こんとうしかけた。司法解剖を待たず、速やかに「送式そうしき」がり行われることとなった。


「光様の御霊みたまはこれから悦楽えつらくの地へと昇仙しょうせんし、氏神様うじがみさまとなってご親族様をお見守りになられます。さあ、光様の中陰ちゅういん道行みちゆきを祝って、賛美歌を斉唱しましょう!」

参会者は皆一斉に立ち上がり、剃髪ていはつした神主かんぬしにあわせて賛美歌を唱和している。緋出はその中で一人椅子に腰かけたまま、彼らを虚ろな目で見詰めていた。

 現代人は疑似的な不死を獲得している。それは彼らの日常生活の万端が体内式の端末によって記録されており、クラウドにアップロードされた「故人」情報をもとに人格が再構成され、バーチャル世界で第二の生を送ることができるからである。このサービスの登場によって人類の死生観は劇的な変容を迫られた。世界中の宗教が科学技術の下に収斂しゅうれんし、一つの混沌を形作っていた。この奇態きたいな神主もまた、サービスを提供している会社の社員なのである。

故人とのアクセスは大幅に制限されるものの、「あの世」で生きているから悲しむことはない、むしろ祝福すべきである―近親の死を初めて経験した今の緋出は、この言説げんせつかすかなるいびつさを見て取ったのだった。


 やがて母との二人暮らしが始まった。研究所を襲撃し父を殺害した犯行集団の行方は一向につかめなかったけれども、時間の経過は少しずつ、緋出の日常を修復しつつあった。

「ヒデ、今から開けるわよ。」

緋出の母、明音あかねはドアの前に立ち、父から遺贈いぞうされたパスワードを入力する。彼の使っていた書斎である。ピピッという電子音とともにドアが開き、母が入る。緋出もそれに続く。日当たりの悪い部屋だからか、中の空気は少しひんやりとしていた。

「ないわねぇ……」

「ないって何が?この部屋は我が家で一番、モノにあふれてるじゃないか」

父は西暦二千年前後に製造された玩具がんぐ類のコレクターであった。歴史の教科書に載っているようなゲーム機、フィギュア、トレーディングカード……旧時代の遺物が其方そちこちの机や棚に並べおかれ、旧懐的レトロスペクティブな雰囲気をかもし出していた。

「決まってるじゃない。フィジカル・エロ本よ。」

小鼻こばなをうごめかしつつ発せられた、思いもよらぬ母の言葉に緋出は呆れるとともに、父に深く、深く同情した。

「母さん、やめようよ……。父さんのあら探しなんて」

「あら。お父さんの好みが分かれば、バーチャル供物くもつ送る時に困らないじゃない。供物は何が欲しいかまで遺言に書く人は少ないからねえ。ん?これは何かしら?」

細長い木箱が、棚と棚との間の僅かな隙間に立てかけられていた。緋出はそのふたを開け、蓋に貼り付けられていた封筒の文字に目をる。彼は慌てて母を追い出し、中から施錠せじょうした。

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