夢
木野恵
プロローグ
人々が夢を見なくなってから随分と長い年月が流れた。
夢を糧に生きている我々貘は、人からの影響を受けやすい。
昔は鼻はゾウ、尾は牛、脚はトラだなどと言われていたり、白澤と一緒にされたり様々だったはずなのだが、今となっては動物のバクと一緒にされる始末だ。おかげで姿もイメージに合わせて動物のバクそのものになってしまっている。おまけに、体は弱りきっており、かなりの小ささだ。
昔のことに思いを馳せたあと、現実を見るとため息しか出ない。人々が夢を見なくなってしまうのは仕方ないのだ。
腐敗した世界。不況につぐ不況。人身売買なんて日常茶飯事、毎日誰かが自殺をする世の中だ。捨てるほど溢れていた食料は枯渇している。
皆、輝きを失った、死んだような瞳で勤めに行く。
自然愛護なんてものはとうの昔に失われ、木々は切り倒すためだけに栽培されるばかりだ。町を彩り人々に安らぎを与えていたはずの花々は食用に改良されたものが多く出回るようになった。
空を見上げても星すら見えない。灰色の薄暗い世界だ。
深くため息をつき、貘は歩みを進める。どこかでまた夢を食べたい。空腹で死んでしまいそうだった。
ゆけどもゆけども夢はない。誰も夢なんて見ていないのだ。
ついに貘は倒れた。ここまでか……。
嫌だ、嫌だ嫌だ嫌だ。こんな死に方したくない。空腹のせいか寂しさで胸がざわめいている。死ぬその瞬間まで寂しくてたまらない。たまらなく苦しい。
死ねば、こんな苦しみともお別れできる。そう思っていたはずなのに、いざとなると怖くて寂しくて辛くて、死にたくなんてないと心が叫んだ。
薄れ行く意識の中、貘の瞳に真っ白くて綺麗な両足が映っていた。
「どうしたの?鼻も耳も体も小さいゾウさん。お腹すいちゃったの?」
人だ。人の子だった。
残された力を振り絞り、なんとか声を出した。掠れて風にかき消されそうなか細い声しか出せなかったが。
「夢を、食べたい」
彼女はしっかり聞き取ってくれた。
「いいよ! 夢ね。私、夢見るの得意で大好きなんだ。どのお話にしようかなあ。怖い夢がいい? 温かい夢? 幸せな夢? 不思議な夢? なんでもあるよ!」
少女の目はキラキラ輝いていた。どの人間よりも綺麗だった。もう見ることさえ叶わない星空を連想させるほどの美しさだ。
ああ、今のこの気持ちだと、そうだなあ。
本当なら怖い夢などの悪夢をいただく。そういう生き物とされているのだが、今だけはどうか許してほしい。
「温かい夢を」
少女は満面の笑みを浮かべると、弱りきって小さくなった貘を膝に乗せ、ゆっくり背中をさすりながら優しく静かに語りかけるのだった。
それはとても綺麗な夢でした。
私と彼女は起きている間に出会ったこともなにもない間柄でしたが、夢の中では親友同士でした。
一緒に野をかけ山を越え、川沿いを歩いて探検をし、秘密基地を作って遊んでいました。
二人でいると何をしても楽しくて幸せでした。
そんなある日のことでした。
見晴らしの良い丘で、友達は蛇に噛まれそうになった私を庇って噛まれてしまいました。
私は泣きながら友達を見ていることしかできません。
友達は自力で蛇を掴んで離し、蛇の巻き付いた腕を空に振りかざしてこう言いました。
「ずっとそばにいて守るから」
友達は蛇と一緒に光り輝き、空に向かって飛んでいって消えてしまいましたが、空には溢れんばかりの星空が広がっています。
今までに見たことないほど綺麗な空に、私は涙を流しながら見上げて叫びました。
「またね」
すると、星空はたくさん流れました。星が流れるときは誰かが死んだときなのだと、昔絵本で読んで知っていたので、もっと涙が溢れて止まらなくなりそうだったときです。
「そばで守るから」
耳元で声がしたのです。
振り返ってみても、周りを見回しても、誰の姿もありませんでしたが、たしかに友達はそばにい続けてくれているのを感じて心がとてもあったかくなりました。
もう一度空を見上げて、流れ星を見てもちっとも悲しくありません。
それはまるで、私を包み込むかのようにたくさん流れていると思えるようになったのです。もう寂しくありません。
私は一人で走り出しました。
「新しい秘密基地作ろう!」
「ここで目が覚めちゃったんだ。目に見えなくても、ずっとそばに友達が居続けてくれたの。死んでしまったけれど、それは本当の死じゃなくって。うまくいえないけど、死んじゃったけど死んでないの。私たちはずっと一緒だった。目が覚めたとき、夢の中みたいに心があったかくて、幸せだったなあ」
貘には、この子が本心からこの夢が好きで温かいものだと認識しているのがわかった。少女の頭の上に夢で見た景色と感情が漂っているのが見える。なんたって夢を食べる妖怪なのだから、それにまつわる映像や感情が読めないわけもなく。
「本当に、その夢、食べていいのかい?」
貘は体を少し起こして少女に問いかけた。
「食べてしまうと、もう二度と同じ夢を見れないかもしれないんだ。もしかすると続きを見れるかもしれないのに」
貘が食べるのを躊躇していると、少女は得意げな笑みを浮かべたのだった。
「いいの! 夢なんて、もう一度みたくったって、めったに見れないもの。見れたらラッキーだと思ってるくらいだもん。いいよ、どうぞお食べ」
貘は一瞬躊躇ったあと、勢いよく夢を食べていった。
なんて美味しいんだ。
空腹は最上のスパイスとはよく言ったものだ。今まで食べた夢の中で一番美味しいと思えた。
悪夢と一緒に人々の恐怖心を食べるのが性質上好みではあったのに、人の温かい心のこもった夢をこんなに美味しいと知ってしまっては、元の生活に戻れる自信がなくなってしまいそうなのだった。
「ごちそうさまでした。あなたには命を救われました。私になにかできることがあれば遠慮なく言ってください。どうかお礼をさせてほしいのです」
貘はそう申し出たのだが、足りなかったのかお腹の虫が鳴り響く。
貘はバツが悪そうにしていたが、少女はにっこりと笑って背中をさすってやった。
「もう一つ食べない? 今度は何が良い?」
少女が女神のように見え始めていた。
本当にこんなにもらっていいのかと思う反面、元の生活に戻れるかどうか調べるために悪夢を一つ食べたいという欲求があるのも事実だった。
「実は、本来私は悪夢を食べる妖怪なのです」
「あら、じゃあさっきの夢はもしかして美味しくなかったかな?」
少女がちょっぴり残念そうにしているのを見て、慌てて首を横に振る。
「とんでもない! 今まで食べた中で一番の、極上の味でした。ただ、あんなに美味しいものを食べてしまっては、また悪夢を食べれるかどうか自信がないのです。空腹が手伝ってあんなに美味しかったのだろうとは思うのですが……。せっかくなので、お言葉に甘えて夢を一ついただくついでに、また悪夢が美味しく食べられるという自信をつけさせていただけませんでしょうか」
かしこまってお願いする貘を優しくなでながら、少女は元気よく頷いた。
「もちろん! じゃー、思い出したくないのに何度も頭に浮かんじゃう怖い夢を食べてもらってもいい? 食べてくれたら、私に恩返ししたことになるし、一石二鳥どころか一石三鳥だよ!」
「本当にそれで良いのですか?」
「うん! もちろん!」
貘は、なんて良い子なのだろうかと思わずにいられなかった。こんな世の中でよくこんなに綺麗で真っ直ぐな心と魂を持ってまっすぐ育ってくれたものだと感心させられた。
「あなたは天使のような子ですね」
思わず褒めてしまっていることに少し照れくささを感じつつ、少女を見上げると、顔を赤くしてはにかんでくれているのが映るのだった。
「初めて言われたなあ。ありがとう。私たち、もうお友達だね!」
友達。
「ええ、そうですね」
貘の心にゆっくり温かいものが溢れてくるのを感じた。
「だめー! 友達なんだから、敬語禁止!」
「ああ、そうだなあ」
少女と貘はちょっぴり笑いあった。
あれは、私がまだ4歳くらいだった頃だったかな。
ひたすら殺人鬼の手伝いをさせられている夢でした。
父の仕事場で、誰か知らない人がバイクに乗って、バイクのサイドにつけているチェンソーで人を斬っていました。斬られる人も知らない人です。
私は、そのチェンソーについた血を拭いたり、切れ味をよくするためのメンテナンスをさせられていました。
斬られる人は、いつも手足を太い蔦に絡まれ、引っ張られて身動きできないようにさせられていました。意識のない人ばかりでした。
しかし、意識を取り戻して助けを求めてくる人が現れました。
私は手入れをほったらかして、その人を助けるために必死に蔦を手で引っ張りましたが千切れることは決してありませんでした。
私の手は切れて血が出てきましたが、一生懸命引っ張ります。
すると、捕まっている人は苦しそうにし始めました。どうやら、蔦を引っ張ったせいで締め付けや引っ張りが酷くなっていってしまったようです。
私はどうしたらいいかわからなくて頭が真っ白になってしまいました。
すると、バイクのエンジンを吹かしている音がすぐ後ろでしました。あいつが帰ってきて跨っています。
慌ててもっと蔦を引っ張りますが、どんどんしまっていってしまいます。
エンジン音が大きくなり、捕まっていた人はお腹を斬られて死んでしまいました。
死んでしまうと、蔦と同化したような見た目になり、人の形を残したまま植物になってしまいました。
一生懸命蔦を引っ張っていた私を冷たい目で殺人鬼が見ています。無機質で無感情な顔をしています。
心臓が口から飛び出しそうで、呼吸ができませんが、必死に走って逃げようとしました。
すると、仕事場から外へ出ていく途中で、両親と、母に抱っこされた赤ん坊の姿の弟がいます。その誰も、現実の私の家族ではありません。
「こっちおいで。怖くないよ」
その言葉が余計に怖くて走って逃げ出しました。
外に逃げても安心ができません。だって相手はバイクなのですから。
一生懸命逃げようとしていて夢から覚めました。
「これが私の悪夢だよ。どう? 召し上がれ!」
さきほどのように、少女の頭の上には悪夢の映像と、それに対する感情が浮かんでいた。
「これもまた、なんと美味しそうなんだ。いただきます」
ああ、美味しい。まだ空腹だったこともあり、いつも夢を食べていたときと比べて格別に美味いのだった。
「おかげで、悪夢も美味しく食べることができるのがわかった。ありがとう。名も知らぬ子よ」
口にしてからふと、貘はこの子の名前が気になって仕方がないのだった。
「せっかく友達になったのだ。名前を教えてはくれないだろうか。私は貘という妖怪の名しか持ち合わせていない」
貘の言葉を聞いて、少女は少し困った顔をしたあと、パッと顔を輝かせて笑った。
「名前、ないの。お揃いだね。だって、私は動物の中でヒトという生き物の名前しか持ってないんだもん」
貘はそれを聞いてハッとした。そうか、私たちは同じだったのだ。
「では、友情の証として名前をつけあってみるのはどうだろう」
「楽しそう!」
灰色の世界に明かりが灯ったように、二人の周りだけは光り輝いていたのだった。
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