砂礫のファイヤーファイター

城戸圭一郎

砂礫のファイヤーファイター

 世界は荒廃した。

 というのは祖父からの受け売りで、俺自身は実感したことはない。生まれた時から世界はこの状態だった。

 過去、どれだけ繁栄していたのかは知らない。知らないほうが幸せなのかもしれない。祖父は、現在に嘆き、過去を懐かしんで、人生の晩年を愚痴で染め上げた。最期の言葉は「雪が見たい」だった。もちろん、叶うことはない。叶わない願いは、やはり愚痴だろう。


『敵部隊、南進中。イルクーツク方面へ展開する模様』

 その情報が入ったのは俺が左の義手のメンテナンスを終えた直後のこと。広大なユーラシア大陸、その中央部の出来事とはいえ、俺たちに無関係とはいえない。やつらの機動力はこちらの比ではないからだ。

「ウランバートルの戦いはもう三年も前かぁ」

 エナジーバーを齧りながらリツが言う。こいつの間延びした喋りかたは、ときとして周囲を苛立たせる。戦闘より文献調査を好むことも含めて、上官からは特に嫌われている。

「そんなに経つか? あれは酷かった」

「あの頃にはまだバイカル湖があったからなぁ。やつらに基地として使われた」

「いまは砂に埋まったぶん、マシになったはずだが……」

「やつらが、それを承知でイルクーツクを集結場所にしているのは、なにか裏があるということになるけどなぁ」

「中央方面軍に奮闘してもらうしかないな」

 どちらにしろ俺たちができるのは心配することと、祈ることくらいだ。無論、祈るといっても神に対してじゃない。それはやつらの領分だ。



 世界の陸地のほとんどが砂漠になり、飲料水は化学的に合成している。それでも少なくない都市がまだ機能を維持していて、次世代に文化をつないでいる。

 俺たちが守備する土地もそうだ。ここは岩見沢と呼ばれる小都市であり、石狩まで伸びる防衛ラインの要だ。すでに旭川、帯広といった中都市はやつらに占領され、日高山脈と夕張山地がかろうじてやつらの進軍を防いでいる。唯一の平地がここだ。だからここは俺たちの守りの最前線であり、やつらの攻勢の最前線ということになる。

『士長! ルイ消防士長!』

 雑音の多い無線が俺を呼ぶ。

『栗沢方面に別働隊! 回り込まれてます! やばい!』

 直後に発砲音。乱射といっていい。救援を求める声は、ほとんど悲鳴だ。

「リツ」

「はぁい」

「ここを頼む」

「いいけど。俺が行こうか?」

「最近、義手が清潔すぎて調子が良くない。ちょっと汚してくるわ」

 リツの苦笑を視界のすみに流して、俺は部屋を出た。銀色のジャケットを羽織り、脇のホルスターに拳銃があることを確かめ、車両に飛び乗る。車体の色は赤。太陽に熱せられようが、敵の目につこうが、これだけは譲れない。消防車はエンジン唸らせて、俺たちの小隊を運ぶ。

「士長、サイレンは?」

 ハンドルを握る一等消防士が問うてくる。

「鳴らせ」

「よろしいので?」

「味方にとっては希望の歌声さ。聞かせてやろう」

「敵にも聞かれます」

「まぁあれだ。鎮魂歌だ」

「なんです? それは」

「俺も知らない」

 彼は一瞬だけ怪訝そうな表情を見せたが、命令に従った。

 スピーカーが熱い空気を揺らし、真紅の車体が駆ける。後方に砂が舞い上がり、それが風にのって彗星の尾のようになびいた。



 まだ平穏だった時代。炭酸ドリンクのメーカーが遊び心で世界中の子どもにアンケートを実施した。曰く「赤い色の似合う、あこがれの職業は?」だ。これに対して回答が殺到したのは、設問者の功績ではない。単にノベルティとして送られるキャラクターのフィギュアがレアだったからだ。

 しかし、売上に対する付属物に過ぎなかったはずのアンケート結果が、その予定調和を狂わせた。つまり「消防士」と「サンタクロース」が完全なる同率一位になったのだ。これはメディアの興味をひき、ニュースにも取り上げられたらしい。

 気を良くした飲料メーカーは、決選投票を行うことにした。これによってさらなるメディア露出が見込めるうえ、売上アップも疑いなかったからだ。だが、この近視眼的な判断が、その後の世界の運命を変えることになる。消防士はサンタクロースを、サンタクロースは消防士を、それぞれ過剰に意識することになった。

 それでもしばらくのあいだ、両者の職業倫理はその領分を犯さなかった。だがそれもある事件までのことだ。ノルウェーで発生した民家の火災が契機だった。その日、不幸にも通報設備に故障があり、消防隊の出動が遅れた。またたく間に全焼した家屋は崩れ、逃げ遅れた住民が死者のリストに加わった。その一行目にはトル・ウィウィムの名があった。彼は地元で暮らすサンタクロースだった。

 アンケートの決選投票はまさに衝撃的な結果だった。またしても完全同数による引き分けだったのだ。

 暴発したのがどちらかなんて、いまとなっては突き止めようがない。突き止める価値もない。ただ、その年のクリスマス、消防車のミニカーを願った子どものもとへ、青色のヤドクガエルの置物が届けられたことは事実だったし、漏電火災を起こすという理由で、イルミネーションが予告なく破壊されたこともまた事実だった。

 疑心暗鬼はさらなる疑念を呼び、暴力はさらなる荒事を招いた。

 競争相手に対する激烈な感情は、知慮の忘却を肯定する。双方が武装するまでにそれほどの時間はかからなかった。やがて両者の破壊のまえに、国家の治安維持システムは機能しなくなった。

 永い戦乱に突入した世界は、荒廃した。



 到着したとき、ニコはすでに死体だった。

 半身をウェルダンに焼かれて、赤土のうえに転がっている。おそらく爆風で上階の窓から吹き飛ばされたのだろう。手には無線機が握られたままだ。俺たちに救援を要請した直後のことだったに違いない。それは熱で変形し、手と一体化しているように見えた。

 周囲ではいくつかの建材の破片が、細々と煙をあげている。昔は火を消すのに水を使ったらしいが、放胆なことだ。貴重な水を地面に染み込ませるなど、俺たちの感覚では冒涜にちかい。

「なんとか、全面攻勢には間に合ったようだ」

 俺は部隊を待機させ、ひとりだけ連れて三階へ登った。砲弾がつくった巨大な窓から、南東方向を望む。その昔、スポーツのためのフィールドだったこのエリアに、建築物は見当たらない。その向こう側にはわずかながら藪が広がっている。

「サンタクロースたちの姿は見えませんね」

「隠れるのはやつらの得意技だろう」

「卑怯な連中です」

「よし。攻めよう」

「攻めるので? どこをです?」

「あの藪に潜んでいる。そこしか隠れる場所はない」

「お言葉ですが、ここは見晴らしが良く、敵が動き出せばすぐわかりますし、迎撃にはもってこいです。根比べの方が良いのでは?」

「やつらもそう考えている。攻め時は自分たちが決められると。だからこそこちらから攻めるのさ。素早く、静かに」

「素早く……静かに」

「そして、激しく」

 南東方向の藪は、敷地のへりに沿って弧を描くように広がっている。サンタクロースどもは、そこに一列横隊で展開しているだろう。やつらから見れば、俺たちの拠点を半包囲ならぬ四分の一包囲している格好だ。陽が落ちればこちらが不利になる。

 消防車のマフラーが排気ガスを吐き出す。同時にサイレンが唸りを上げた。赤い車両は無人のまま拠点を発し、南東方向へゆっくりと砂煙の帯を伸ばしていく。しばらく静かだった藪が、所々揺れ動いた。

「よし、おまえら。いよいよ出動だ」

 全員が頷く。


 砂を巻き上げないよう、匍匐で移動するのは少々骨だったが、うまくいった。太陽の熱と砂漠の熱に挟まれても、この銀色の耐熱服が守ってくれる。もう藪の西端は目と鼻の先だ。

 消防車は中間地点を越えた。近づいてくる砂煙にしびれを切らしたのか、次第に強くなるサイレンの音圧に耐えきれなくなったのか、神経質なやつが最初の引き金を引いた。それが契機になって藪のほうぼうから銃声が響く。

「さぁ。始めるとしよう」

 すぐ目の前に阿呆がいた。藪から上半身を出し、消防車に向けて銃撃している若いサンタクロースだ。つまり俺たちに横腹を晒している。俺は限界まで接近し、そこで立ち上がった。

「やぁ」

 阿呆は俺に気づくと、絵に描いたような二度見をした。

「な!」

 慌てて銃口を俺に向けようとするが、そんな長い銃身じゃ間に合うわけがない。俺は金属製の左腕で銃をいなし、ゆたかな白ひげの下から右手で拳銃を差し込んだ。

 咽喉部から入った銃弾は、頭蓋骨を砕きながら右側頭部へ抜けた。派手に飛び散ったものが、脳なのか血液なのか脳漿なのか、区別する意味はない。留まっていなければならない場所から離れた罰として、汚物という名称に変えられたのだ。そして、もとの所有者には死体という新しい名が与えられた。

 阿呆のとなりにいた男は三十くらいの痩せ男だった。激しい銃声のなかで、俺の発砲音に気づかなかったのも無理はない。だが、阿呆の汚物が自慢の白ひげを汚したことで、ようやく異変を察した。

「!」

 健気にも痩せ男は敵襲を知らせようとした。しかし実行できたのは息を吸い込むところまでだった。サンタクロースの戦闘服には隙間がある。赤いジャケットの上から黒ベルトが巻いてあるだけで、それとパンツの間は無防備だ。一等消防士が、そこにナイフを差し込んだ。痩せ男は肺に送ったせっかくの空気を、うめき声に費やす。

 3人目はこめかみに穴を空けたら無言で転がった。4人目は驚きのあまりぱくぱくさせていた口を、後頭部まで繋げてやったら動かなくなった。

 5人目の小太りはやっかいだった。いち早く気づき、勇敢に抵抗してきたのだ。俺の銃弾を白ひげで受け止めると、すかさず銃口を向けてくる。俺は横っとびで躱したが、背後にいた二等消防士がひとり殺られた。そう、やつらの白ひげは、どんな銃弾も柔らかく包んで無効化してしまうのだ。俺たちは無数の銃弾を浴びせたが、これも時間稼ぎに過ぎない。しかも赤い戦闘服はすべて抗弾仕様だ。小太りは衝撃でふらついてこそいるが、ダメージはないだろう。

 部下が投擲消火弾を放ったのは、小太りが体勢を立て直したちょうどそのときだ。このボールの中には四塩化炭素が充填されている。爆発すると、周辺の酸素をすべて消費してしまう仕組みだ。小太りは顔面を中心に半径3メートルの酸素を失い、窒息して地面に沈んだ。その後、部下が丁寧に、下顎骨と頚椎のすきまにナイフを差し込んで止めを刺した。

 周囲が殺気立ち、怒声が飛び交う。さすがに爆発まで起こせば隠密行動は無理というものだ。俺たちは堂々とやつらに姿を晒すことにした。なに、恐れることはない。こちらも遠慮をする必要がなくなっただけだ。

 そのとき、けたたましいサイレンを唸らせながら、消防車が藪に突っ込んだ。


 大抵のやつらは赤土に日陰を作るだけの存在になり、運良く生き延びたやつらは橇で空中に逃げていった。

「勝ったぞ」

 横転していた消防車を回復させて、俺たちは本部へ向う。帰路のサイレンの意味は往路とはまるで違う。勝ち鬨だ。

「士長、あれを」

 一等消防士が空を指差す。その先には、滑空する一台の橇があった。

「さっきの戦場から逃げたにしては進路が妙だな」

「……無人ではありませんか?」

「だとしたら乗り主はどこだろうな」

「本部から飛び立ったように見えますが」

「まさか。一人で殴り込みか? そりゃ無謀というより、イかれてるだろ」

 同僚たちの嘲笑に一等消防士はふてくされる。俺の笑い声はいつになく大きくなっていた。戦勝の興奮がそうさせたのだろうか。空に引かれたかすかな橇雲が見えなくなるころ、本部に到着した俺は、その感情に名前がついていたことを思い出した。そう、あれは胸騒ぎだったのだ。

 本部は無人だった。

 正確には、動いている人間がいなかった、というべきだ。そこかしこに同僚たちが倒れている。デスクに突っ伏している者も、廊下に倒れ込んでいる者もいる。どれも意識を失っているが、脈は残っていた。

「ルイ士長……これは一体」

「救護を優先しろ」

 そう命じつつ、俺はリツを探した。ここが敵の襲撃を受けたなら、防衛の指揮をとったのは副士長のあいつだ。話を聞かなければならない。だが、リツの姿はどこにもなかった。

「ひょっとして……文書庫か?」

 あいつはこんな時にも文献調査で引き篭っていたとでもいうのか。いや、文書庫にいる最中に襲撃を受けたというのが現実的だ。そうならば、彼はそこに横たわっているに違いない。

 大股に廊下を進みながら、俺はふたつの感情の勢力争いを手なづける必要があった。本部の防衛を任されておきながらのこの体たらく。腹立たしさが湧いてくる。だが、あいつが無事であるかどうか。転がっているあいつの肌に触れたとき、もし弾力が返ってこなかったら。それは最悪の想像だが、起こり得る。

「おい、リツ。いるか?」

 錆びついて重くなった文書庫の扉を押す。内部は薄暗い。光量の足りなすぎる非常灯のそれは、ドアから侵入する照明にその任をあけ渡し、書棚の影が壁に広がるのを防ごうとはしなかった。内部に動くものはない。それは予想通りだったが、しかし。

 背後で扉が閉じ、薄暗くなった室内に目が慣れるまでのほんの数秒の間に、俺の視界に信じられないものが飛び込んできた。

「……サンタクロース?」

 あの白ひげ、見間違いようがない。

 焦点を合わせようと眼球を動かした瞬間、俺の世界から光が消えた。



「人からモノを貰ってはいけない」

「どうして?」

「それは悪いことだからだ」

「じゃあ、イタルもシキも悪い子なの?」

「なぜそう思う?」

「だって。イタルはお爺ちゃんからオモチャを貰ったって。シキはお菓子を」

「そうだな。イタルもシキも悪い子ではないが、貰うことは悪いことだ」

「どうして?」

「それは、プレゼントだからだよ」

「どうしてプレゼントが悪いの?」

「プレゼントは、サンタクロースのエネルギーになってしまうんだ。子どもがプレゼントを欲しがる気持ちは、やつらに届く。世界中の子どもがそれを願ってしまったら、サンタクロースは強くなってしまうんだ」

「強くなったらどうなるの?」

「お父さんの敵が強くなる。お父さんたちが負けることはないけれど、戦争がもっと長く続くかもしれない」

「それは……嫌だよ」

「そうだろう。だからプレゼントを貰うことは悪いことなんだ」

「わかったよ。じゃあ……」

「なんだい?」

「じゃあ僕は、サンタクロースが全員死ぬように願うよ。それが僕の望むプレゼントだとしたら、やつらはどうするの?」

「はっはっは。それでこそ消防士の息子だ」



 寒い。

 これは、寒さだ。

「おぉい、ルイ。起きろ」

 リツの声で目が覚めたが、じつのところ寒さで半分くらいは覚醒していたんじゃないかと思う。

「なんだ……ここは。とても……」

「寒いだろう」

「それに暗い。よくわからない」

 声の反響がないように思える。かなり広い空間なのか。

「それはそうと、リツ。おまえ無事だったのか。よかった」

「心配をかけてしまったよなぁ。消防士たちも、死んだ者はいないよ。みんな眠っているだけさ」

「そうなのか」

「さっきまでのルイと同じようにね」

 俺は頭をふって思考の靄を払いのける。多少は効果があったように感じた。

「リツ。よくわかないことだらけなんだが。俺や消防士たちはなぜ眠ってた?」

「フリザスケリルがなぁ。そうさせたのさ」

「フリザス……なに?」

「……彼だよ」

 ふいにロウソクに火が灯った。照らされたのは……。

「おい!」

 俺は条件反射でジャケットに手を入れた。しかし、銃の感触がない。

「お……おい! リツ! こいつは!」

 やつはこちらを黙って見ている。クソ野暮ったい白ひげが揺れもしない。肩幅も胴回りも幌向岳の岩のようだ。忌々しい赤い戦闘服でさえその無骨さを隠しきれない。やつの持つロウソクが揺れるたび、高い鼻の影が、振りまわされるみたいに頬の上を動いている。

「なにしてやがる。リツ、あいつを殺せ!」

「まぁまぁ。落ち着けよ」

「ほっほっほ……」

 やつは白ひげを撫でた。いや、それより揉むと表現したほうが近いか。

「眠らせたのは私の能力さね。魔法のようなものかな。ほら、子どもにプレゼントを届けているところを見られたら困るだろう。だから眠らせる能力を身につけたのさな」

「てめぇ。余裕こいて解説なんかしてんじゃねぇぞ。十秒以内に殺してやるからな。リツ、おまえの銃を貸せ」

「まぁ、やめとけ。ルイ」

「俺たちの本部に単身潜入したことだけは褒めてやる。墓標に刻んどいてやる」

「ほっほっほ」

「なにがおかしい!」

「おまえさん。ここがどこかもわかっとらんのだろう? なぜ自分たちの本部だと思ったのか。おまえさんたちがサンタクロースの基地にいるのかもしれん。そう考えないのは不思議さね」

 悔しいがそのとおりだ。俺は自分の現在地も把握していない。

「まぁ、安心していいよ。そのどちらでもないからさぁ」

 こういうときにはリツの勿体ぶった言いかたが癇に障る。

「ここはさぁ、地下貯水池なんだ」

 ロウソクの乏しい照度でも、たしかに水面らしきものが見える。無機質な天井が写り込んでいるのだろう。赤い服のクソ野郎が動くたびに、その影が上下でシンクロしている。

「地下に、こんな大量の水が?」

 水は酸素と水素から化学的に作り出すしか手に入れる方法はない。飲料水と、食料の栽培に使うのが精一杯だ。

「信じられるかい。これは雪解け水なんだ」

「……雪?」

 俺は笑うしかなかった。

「おまえが雪を信じるロマンチストだとは知らなかったな、リツ。いや、そりゃ歴史ロマンが好きなのは知っていたが。でもおまえ、雪ってのはファンタジーだぞ」

 リツは微笑み返してきた。

「雪は実在した。昔はね。ここは先人たちが掘った場所でさ。十勝岳や夕張山地からの流れを引き込んでプールしているんだ。それが今でも、残っている」

「この砂漠のなかで?」

「そう。深い深い地下に、先人たちはこれを造った」

「なんのために?」

 リツの口角がまた少し上がった。

「調べた甲斐があったよ。ここにはさぁ、この貯水を地上に汲みあげる設備があるんだよ。そしてそれは、俺たちの本部に繋がっている」

「消防本部に?」

「ひとつ思い出して欲しいんだ。消防車に備わっている機能をさぁ」

「言いたいことはわかったが、あれは飾りみたいなもんだろ。伝統的な意匠ってやつじゃないのか」

「いいや。機能するさ。いままで動かした者がいないだけ」

 それまでウロウロしていた赤い服の木偶が近づいてくる。俺の全身が危険信号を発するが、まだうまく立ち上がれない。

「ほっほっほ」

「てめぇ。今すぐ死ね」

 クソ野郎は肩をすくめやがった。

「やってもらいたいことがあるんだ。おまえさんにな」

「肛門で喋んじゃねぇ。クセェんだよ」

「消防士たちを動かしてもらえんかね。たまには、戦闘以外の目的で」

「ああ? 俺たちが動くのはてめぇを殺すときだけだ。頼みなんか聞くか」

「これは頼んでいるわけじゃないんだがね」

「あ?」

 赤服クソ野郎は、馬鹿みたいに口元を歪めて、ロウソクを突き出してきた。やつの忌々しい視線を追ってみると。

「……ウソだろ」

 義手がない。肘から先に装備していたはずの義手がなく、そのかわり生身の左腕が生えている。

「な……」

 指を動かす。脳の指令が過たず伝わり、繊細に反応する。拳を握れば、指同士が互いの温度を感じ取っている。握った圧力まで。こんな感触は、果たしてどれくらいぶりだろうか。つまり、左腕が元に戻ったのだ。

「私の能力のひとつさね。その人が本当に望んでいるものがわかる」

「どういうことだ?」

「このままではおまえさんは、プレゼントを受け取ったことになるんじゃないかね。それは消防士にとっては背任行為なのだろう? なら、対価を支払うしかないさね」

 そういってクソ野郎はウィンクをした。



 岩石の散らばる砂漠の上に、八両の消防車が並んでいる。すべて等間隔。

 満ちるまであと数日といった、やや上弦の月が中央に浮かんでいる。その存在感があまりにも大きいせいで、他の星たちは遠慮がちだ。

「……来たなぁ」

 月光を背に受け、北の空へ視線を固定したまま、リツが呟いた。

「あの野郎。言い出しっぺのくせに遅れやがって」

「フリザスケリルも、仲間を説得するのに時間がかかったんだろうなぁ」

「あいつもおまえも、裏切り者だろうよ」

「裏切りとはひどいなぁ」

「そうだろうが」

「俺は忠実なだけだよ。人類の未来にね」

 サイレンが鳴り響く。これは敵襲を知らせるものだ。複数の橇を捕捉した俺たちに、いつもどおり緊張が走る。ただ今夜はそこに、戸惑いの色が追加されている。

「放水開始!」

 消防車のポンプが唸りをあげ、地下貯水池から水を汲みあげる。装備こそされていたが、誰も使ったことがない。ましてや貴重な水を撒くなど、常識の範疇をゆうに超えている。

 ホースの先から水が溢れ出す。消防士たちが悲鳴をあげた。

「水圧を上げろ! もっと上のほうへ!」

 暴れるホースに振り回されていたのもわずかな時間だけだ。優秀な消防士たちはすぐに手なづけるコツを掴んだ。

「まだだ! もっと高く! まだ足りない!」

 橇が近づいてくる。五台、六台、いやもっとか。

「さらに水圧を上げろ!」

 気づけば、俺の吐く息が白くなっていた。気温が下がっているのだ。

 リツは隣で微笑んでいる。

 橇の数は九台だった。先頭は間違えようがない。あのクソ野郎だ。

「寒いか? ルイ」

「うるせぇ、リツ」

 八本の水柱は垂直に伸びている。力強く上空へ向かい、一定の高さにおよぶと、その規則性は崩れ、上昇をやめる。そのあとは風と重力に従って散っていく。

「……ほっほっほ!」

 俺たちの真上を、フリザスケリルが通過した。ちょうど水柱の間をすり抜けるように。俺とリツの髪がたなびく。やつの残した後方気流は凍えるほどに冷たかった。

 次々と橇が通過していく。俺たちのつくった水柱の間を縫って。そのたびに風が凍てつき、頬を切りつけてくる。やがて誰もが気づいた。空に放った水が、落ちてこなくなったことに。


 最後の橇が去っていったあと、俺たちは満天の星空を見た。そして、それが星ではないとすぐに理解した。誰かが呟き、それを反芻するようにまた誰かが呟いた。

 月が照らしているものは、雪だった。

 夜の闇を背景に、黄金色に輝くそれら。

 空気のゆらぎに揺蕩うように、不規則に舞う。

 遥か遠くかと思えば、近く。

 手が届くかと思えば、遠く。

 煙のようなため息に触れただけで消えてしまう、儚いものたち。

「……リツ」

「……なんだい。ルイ」

 俺はなにも言えなかった。

 ただ、左の手のひらの上で、雪の結晶が溶けるのを見ていた。



 この日の朝日は、人類の歴史を書きかえつつ昇った。

 岩見沢市を真っ白に塗りかえた寒気は、札幌市にも雪を降らせた。この大量の積雪は、石狩川と豊平川にひさしぶりの流れをもたらすであろうと、豊かな春の訪れを予想させた。

 寒気はシベリア全域を白化粧させ、イルクーツク方面の戦闘を中止させたあと、北ヨーロッパを覆い、北米大陸に至った。褐色の地面には水が染み込み、ひび割れは次第に閉じていった。

 どこかに水が集まれば、すかさず消防士たちが放水し、それをサンタクロースが雪に変える。世界中で同じことが行われた。

 俺たちは、いつか砂漠をも緑に変えられるのかもしれない。

 空にはフリザスケリルがいて、隣にはリツがいる。


 そういえば、思い出した。

 子どものころに欲しかったのは、これじゃなかった。


 俺はホルスターから銃を引き抜き、そのまま放り捨てた。

 音もなく雪に沈んで、すぐに見えなくなった。



おわり


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砂礫のファイヤーファイター 城戸圭一郎 @keiichiro_kido

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