ツヅリマツリ【小説版】

カミーネ

 一




「……昨日なんだけど、お父さんが入院したの」


 受話口から発せられた立花陽子の言葉は、息子である蓮を動揺させるにはあまりにも充分だった。


「えっ? 入院?」


「うん。駅前のロータリーで急に倒れたんだって」


「容態は? 容態はどうなの?」


 蓮の耳元から、不快な汗が染み出している。黒光りする携帯電話を握る蓮の右手がプルプルと震え出す。


「今の所は、命に関わるほどじゃない、ってお医者さんが言ってたわ」


「あぁ、ならまだ……」


 蓮は携帯を耳に当てたまま、ホッと一息吐いた。


「お母さんも、とりあえずホッとしたわ」


 電話越しの陽子の声は、確かに安堵したような様子だ。


「あのさ……父さんが倒れたのって、今回が初めてなの?」


 蓮は陽子に素朴な疑問を投げかける。


 陽子の淡々とした声は、少しの間を置いた末に蓮の耳に入ってきた。


「……実はね、前にもあったのよ」


「そうなの?」


「うん。蓮が三歳のころにね」


 三歳のころの記憶を、蓮はろくに思い出せない。


「……そうだったんだ」


 蓮は声のトーンを少し落としながら言った。


「うん。お父さん、四十年くらい前に完治しない病気になってるの」


「……ずいぶん前だね」


「うん。ごめんね。今まで話せなくて」


「あ、いや、別に大丈夫だけど……」


 実家がある甲信地方の町、美野里町から自分磨きのために難関私立高校に進学、上京して間もなく一年半。蓮は父親の隼のことを考える機会が自然と減っていた。隼の姿を鮮明に思い出そうとしても、すぐには出来ないほどに。


 それでも、蓮は隼の姿を出来る限り思い出そうとする。


 隼は暇さえあれば美野里町を囲むようにそびえる低山に登り、植物の写真を何枚も収めてきては、帰宅後それらを楽しそうに家族に見せていた。


 隼はアウトドア派で、体力もあり、大病とはいかにも無縁そうだと蓮は考えていた。しかし、それが違った。蓮の驚きは計り知れない。


「……もしもし、蓮? もしもし? 聞こえてる?」


 ふと、蓮の意識は陽子との通話へと戻された。


「あぁごめん。何?」


「でね、お父さん、当分入院が必要だって」


「……そうなんだ」


「うん。それでね、出来たら夏休みこっちに帰ってこれる?」


 陽子の声は、可能な限り帰ってきてほしいというニュアンスが込められているような気が蓮にはした。


「待ってて。カレンダー確認するから」


「うん。わかったわ」


 蓮は携帯を耳元にくっつけたまま、白い壁に掛けられたカレンダーをちらりと見る。


 カレンダーの予定欄がいくつか空欄になっている。具体的には、七月二十九日から七月三十一日。


「もしもし?」


「うん。どうだった?」


「七月二十九日から三十一日なら大丈夫だよ」


「二十九から三十一日までね……メモしたわ」


「そういえばさ、今年もみかん買ってあるの?」


 蓮は昨年の帰省の様子を思い出しながら、陽子に尋ねる。


「たくさん買ってあるわよ。箱買いしたから」


「箱買いしたんだ」


「だって、ものすごい食べるでしょ? どうせ」


「どうかなぁ」


「そこは食べるって言っときなさいよ、もう」


「……わかったよ」


 蓮は陽子に聞こえないように、ため息をつく。


「そうそう、それとね、お父さんが蓮の顔が見たいって言ってたわ。お見舞い来なさいね」


「わかってるから大丈夫だよ」


「よろしくね。会ったら、近況報告もお願いね」


「わかったよ。ふわぁ……」


 蓮は盛大なあくびを陽子に聞かせる。


「ちょっと蓮、ちゃんと眠れてるの?」


 陽子の声は、若干険を帯びたように蓮には聞こえた。


「大丈夫だよ。眠れてるよ」


「暑いからってエアコンガンガンかけて、部屋冷やし過ぎないようにしなさいよ」


「大丈夫だよ」


「本当? あと、寝冷えとかも気をつけてね」


「わかった。気をつけるよ」


 蓮は陽子に半ば面倒くさそうに返事を重ねる。


「はい。じゃあ、また今度ね。ほんと体に気をつけるのよ」


「わかったよ。じゃあね」


 蓮は陽子の返事を待たずに、一方的に電話を切り、無機質なベッドにうつぶせになって目を閉じた。


 屋外からは、バイクの爆音や男性集団の馬鹿笑いが聞こえる。


 一体、父さんの具体的な病名ってなんなんだろう。


 蓮の脳裏に、そんな疑問が何度も浮かび上がっては消えていく。


 だが、疑問に深入りする前に、蓮は日頃の疲れからか、つかの間の休息に落ちていた。


 二〇一〇年七月二十日水曜日のことだった。




 それから、蓮は日常を何気なく過ごしていき、日にちはあっという間に流れた。


 二〇一〇年七月二十九日金曜日の早朝、蓮は新宿駅から特急電車に乗り込んだ。そのまま、車内で時折ウトウトしつつ、やがて、美野里町の中心駅、美野里駅で降りた。


 ホームに降り立った蓮を迎えたのは、ジリジリと照りつける強烈な日差しだった。そのせいなのか、それとも元々利用客が少ないのかは定かではないが、ホームには蓮以外誰の姿も見られない。


 駅員に乗車券と特急券を見せて改札口を出た蓮は、駅に備え付けの掲示板に一枚のポスターが貼られてあるのを発見した。


 ポスターには数枚の写真が印刷されている。神職が墨を付けた大筆を畳一畳ほどの大きさの和紙に走らせる写真。書かれた和紙を燃やす写真。その他、縁日の写真もある。


 下部分には横書き三行で文字が書かれている。




 綴祭り 開催日時……平成二十二年七月三十日午後一時 場所……美野里神社




 綴祭り……そういえば、そんな祭りもあったな。


 蓮はポスターを目に焼き付けるように眺める。


 余裕があったら、行ってみようかな。蓮の脳内にそんな言葉が浮かんだ。




 出発寸前だったバスに飛び入るようにして乗車した蓮は、そのまま十五分ほど揺られたのち、軽トラック一台ほどの幅の農道上にあるバス停で下車した。


 細い農道を十五分ほど歩いたところで、蓮の視界に、蓮にとっては見慣れた建物が映った。


 クリーム色の壁を基調にした、洋風の住宅だ。屋根は紅色という表現がしっくりくるような色をしている。柵はなく、住宅の敷地にそのまま続く形で、小学校の体育館と同じくらいの広さの畑が見える。


 遠目でもわかるくらいに畑は茶色一色で、どうやら今は何も栽培していないようだ。


 蓮は門のインターホンを一押しして鳴らす。しかし、中からは物音一つ聞こえてこない。


 まぁ、こんな時間帯だから、出かけてても全然おかしくないし、母親は今一人暮らしのはずだから、生計を立てるためにどこかで働いているのだろう。蓮はそう頭の中で思った。


 しかし蓮は諦めきれず、思い切って裏庭に回ってみることにした。陽子の性格上、戸締まりを忘れている可能性も考えてのことだった。


 雑草が伸び放題になっている裏庭に来た蓮は、ガラス戸の取っ手を横に軽く引っ張ってみる。だが、それはしっかりと施錠されていて、開く気配はみじんもない。


 蓮は、少しの間立ち止まり考えを巡らせ、何かを思いついたように実家の敷地を一旦離れた。 




 蝉がけたたましい鳴き声を上げる中、蓮は両側を杉の木に挟まれた小道を地道に歩いていく。


 一歩一歩進むたびに、蓮の額からは小豆ほどの大きさの汗がにじみ出てくる。首にかけている青いフェイスタオルも、すでに汗でじっとりと湿っている。


 ふと、蓮は反射的に目を一瞬つぶった。突然、数メートル先の路上がまばゆく光ったからである。


 あそこに、何か落ちているみたいだけど、宝石か何かかな。いや、人気もまばらな田舎の町の並木道で、高価な宝石が落ちているなんてとてもじゃないけど考えにくい。でも、それ以外だとしたら、一体何だろう……蓮は必死に思考を重ねるが、それらしい答えにはたどり着けない。


 蓮はゆっくりとそれに歩み寄り、自分の目で正体を確認した。


 それは、みかんの形をしたバッジのような物だった。材質は何らかの金属である。それに太陽光が反射しているのだった。


 蓮はアスファルトで手を傷つけないように、みかんのバッジをそっと拾った。金属製の割には、ずいぶんと軽い。


 誰かの落とし物かな。蓮はみかんのバッジを顔に近づけて観察した。バッジの色は七宝焼きのように焼き付いているようだ。


 裏返すと、かすれた黒い文字が一文字書いてあった。




 綴




 きっと、小さい子が何かの弾みで落として、そのまま行っちゃったんだ。蓮はバッジをリュック横の小さなポケットにしまい込み、再び歩き出した。


 蝉は鳴き止む気配もなく蓮の周りで激しく鳴いていた。


 


 蓮の実家から歩いて二十分ほどの場所に、美野里神社という名前の神社がある。普段から人気の少ない寂れた神社で、蓮が以前訪れた際は、漆のはげた鳥居が蓮を迎えたほどだった。


 あれから、蓮はひたすら歩いて美野里神社の入り口まで来た。


 入り口の先には、かなり急な傾斜の石段が百段以上続いている。石段はところどころ削られている。雨か何かの影響だろう。


 蓮は周囲に誰もいないことを確かめると「よっしゃ」と小声で言い、自らに気合いを入れ直し、前を見据えて勢いよく歩き出した。


 蓮は木々で見えなくなっている頂上に向かって石段を上っていく。


 木々が木陰を作ってはいるが、太陽光がそれを上回る強さのため、蓮の大粒の汗も止まらず流れ続ける。


 それでも、蓮は黙々と上り続けた。やがて、入り口では木々に隠されて見えなかった頂上の光景がはっきりしてくる。


 以前と変わらず、漆のはげた鳥居がたたずんでいるのを蓮は確認する。


 そしてまもなく、蓮は頂上に到着した。


 鳥居の奥には、木の壁に所々ひびが入った本殿も相変わらずある。


 ふと、蓮は参道の脇に多くの物が置かれていることに気付いた。


 金属製の細長い支柱、白く巨大な幌、大小さまざまな照明器具。


 きっと綴祭りで使うんだろう。蓮は勝手にそう解釈した。


 蓮は手水場で手を清めようとするが、水はすでに止められていた。


 仕方がなく、蓮は清潔なチェック柄のハンカチで手を拭くことにする。


 そうして、蓮は本殿を前にして財布からピカピカの五円玉を取り出し、さい銭箱に放り投げて柏手を打ち、無難に参拝を済ませた。


 フェイスタオルで流れに流れた汗をぬぐい取り、靴紐を固く結び直すと、蓮はUターンして歩き出した。


 ところが、蓮はすぐに立ち止まった。


 誰かの……もっと言えば、少女の声がはっきりと聞こえたからである。


 蓮は振り返り、本殿の奥に佇む森に目をやる。そこは日の光がほとんど当たらず、蓮の目には大分薄暗く見える。


「ない……ない……」


 声はその森の方角からのようだ。一度で終わらず、何度も何度も、同じ言葉で繰り返される。


 間違いない、気のせいじゃない。蓮は慎重な足取りで奥の森に入っていく。


 森に入ってまもなく、蓮は木々がない開けた所に出た。中央に一つ、木が切られた切り株があり、そこに座っている少女がぶつぶつと何かつぶやいている。


「ない……ない……」


 少女の漆黒の髪は腰の辺りまですらっと伸びている。純白のワンピースは光量が乏しい空間でも、蓮にはまるで輝いているように見える。さらに、頭上の空を切り取ったかのように濃密な青いスニーカーに、銀のジッパーが付いたこれまた青いショルダーバッグ。


「ない……ない……どうして……」


 間違いない。声はこの子からだ。蓮は確信した。


 蓮は少女に真ん前から少しずつ近づいていき、残り五メートルほどのところで声を掛けた。少女は蓮にまだ気付いていない。


「ない……ないよ……どうしよう……」


「あの、すみません。どうしましたか?」


 直後、少女の体が一瞬ビクッと震える。


「え、あ、あの……探し物を……」


 少女の目が上下左右に泳いでいる。


「どんな物ですか?」


 蓮は少女の目の高さに合わせて中腰の姿勢を取る。


「あ、はい……あの……みかんの、お守りという物を……」


「みかんのお守り? もしかして、バッジみたいなの、ですか?」


 直後、少女は目を大きく見開き、何度も瞬きした。


「あ、はい! バッジみたいな形をしています!」


 今度は、蓮が目を大きく見開いて驚きをあらわにした。


「あの、ちょっと待っててください」


 蓮は少し興奮したような声を出した。


「え? は、はい」


 少女の戸惑っているかのような声も気にせず、蓮はリュックを下ろした。そして、ミニポケットの奥に収まっているみかんのバッジを取り出した。


「あ! それです!」


 少女はそのバッジの姿が確認できたのと同時に言った。


「そうですか。じゃあ、返しますね」


 蓮はお守りを少女が差し出した両手にそっと乗せた。


「あ、あの……ありがとうございます! 良かった……」


 少女は青いショルダーバッグのジッパーを開け、お守りをバッグの奥底に落とし込んだ。それから、蓮に向かって深々と頭を下げた。


「本当にありがとうございました」


「いえ。じゃあ、僕はもう行きますね。それじゃ」


 蓮は少女に軽く会釈した。そして、踵を返して一歩目を踏み出そうとする。


「待ってください!」


 しかし、少女の先ほどまでの声とは異なるツーンと通った声で、蓮は立ち止まらざるを得なかった。


「他に何か?」


 蓮は不思議そうに少女に尋ねた。


 少女は一瞬黙りこくったが、やがて覚悟を決めたような様子で口を開いた。


「……あなたのお名前を……教えていただけますか?」


 また会う予定もないのに、何で?


 蓮は少々疑問を感じたが、答えないのも妙なので、淡々とした口調で答えた。


「立花蓮です」


「立花蓮さん、ですね。教えていただき、ありがとうございます」


 少女は蓮にまた深くお辞儀をした。


「ちなみに、あなたの名前は何ですか?」


 蓮は試しに、さりげなく疑問に思っていたことを少女に尋ねてみた。


「えっ、私の名前、ですか? あの……」


 突然、少女はおろおろした様子で黙り込んでしまった。


「どうしましたか?」


「……あの……わかりません」


 少女は少しうつむき加減で言った。


「えっ?」


 予想外の答えに、蓮は目を大きく見開いた。


「あの……立花蓮さんってお名前……聞き憶えがあるような気がするんですが……」


 蓮は一瞬、時間が止まったかのような感覚を受けた。


「えっ……それは本当ですか?」


 自分の名前はわからないのに、見聞きした相手の名前は憶えているだって?


 この子は何か隠しているのかもしれない。蓮は目を少々細めて少女に言った。


「はい。本当です」


 少女は蓮の細い瞳を直視し、はっきりとした声色で言った。


 蓮は考えを巡らせ、結果一つの質問を少女に投げかけてみることにした。


「今、美野里町に住んでいますか?」


 蓮には、一つの結論が浮かんでいた。


 その結論とは……少女が記憶喪失……ということに他ならない。


「すみません。わかりません」


 少女は本当にわからないといった様子で言った。


「つまり、あなたは記憶喪失なんですね?」


 蓮は確信を持ったように、ストレートに少女に問いただした。


「そういうことに……なりますね」


 少女はぼそぼそとした口調ながらも、それを認めた。


 少しの間、二人の間に沈黙が走る。それを破ったのは少女だった。


「あの、本当にすみません」


 少女は蓮にまたも頭を下げた。


「え、何がですか?」


 蓮には少女がそうする理由がわからなかった。


「私だけ名乗らないのは、不公平ですよね……」


 少女は顔を上げてから、少々物悲しそうな顔になった。


「別に……気にしてないですよ。ただ」


「そうですか……ただ?」


 少女は蓮が何を言おうとしているのかわからない様子だった。


「……とりあえず、警察に行きましょう」


 蓮は少女に向かって、淡々とした口調で言った。


 警察に行けば、この子は保護してもらえるだろう。


 蓮の脳内に浮かんだのは、そんなシンプルな考えだった。


「えっ、どうしてですか?」


 少女は蓮の顔をじっと見つめた。その瞳には、先ほどよりも警戒心がにじみ出ているようだ。


「あなたを捜してる人に会うためです」


 蓮は感情を込めずに、淡々と言った。


 少女は少しの間黙っているが、やがて口を開き、弱々しい声を発する。


「……私を捜している人なんて、いませんよ」


「いや、いるに決まって」


「そう思いますか?」


 少女ははっきりとした物言いで、蓮の言葉をピシャリと遮った。不意打ちに、蓮は続きを言えなくなる。


「私、この辺りを何週間も歩き回りました。そして、たくさんの方に声をかけました」


 少女の声が少し棘を帯びているように、蓮には思えた。


「でも、私を知っている人に会うことはできませんでした。それでも……私を捜している人がいると思いますか?」


「それは」


 思いますよ、と蓮は一瞬言おうと思った。だが、蓮はそれを飲み込んだ。


 その言葉は少女にとって返って残酷かもしれない、と思い直したのだった。


「……わかりませんね」


 蓮は無難な言葉を選んだ。再びの沈黙が、空間を走る。


「そうでしょ? だから」


「でも、とりあえず、警察に行きましょう」


 蓮は少女の言葉をピシャリと遮るようにして言った。


 服に付いたほこりを軽く払い、蓮は体ごとUターンして一人歩き出した。


 しかし、数歩進んでも足音の数が増えないことに気付き、蓮は振り返った。


「どうしましたか? 行きましょう」


「行きません」


 少女ははっきりとした口調で蓮に言った。蓮は少しばかり目を細めて少女を見る。


「どうしてですか?」


「何をされるか、わかりません……」


 少女の声は一転して弱々しいものになっていた。


「警察なら何もしませんよ。行きましょう」


 蓮は人差し指と中指をくいくいと動かし、少女を手招きした。


「嫌です」


 少女は頑なに蓮の指示を拒否した。


「ご両親から、捜索願いが出されているかもしれませんよ」


「ご両親……母親……父親……あっ……」


 少女はブツブツと独り言を呟いてから、突如身体をぶるぶると震わせ始めた。


 さらに、少女は口元を押さえてその場にうずくまった。


「えっ、あの……どうしましたか?」


 突然の状況の変化に蓮は動揺するしかなかった。


 何かまずいことを言ってしまったのだろうか?


「……私……私……」


 少女は途切れ途切れに言葉を発していく。その顔は見る見るうちに真っ青に変わり、先ほどまでの生気が感じられない。


「……私……行けません……」


 どこに行けないのかは、蓮にも自明だった。ただ、蓮にはその理由がつかめない。


「それはどうしてですか?」


 蓮は今の少女には残酷だろうと思いながらも、真剣さを帯びた声で少女に聞いた。


「……怖い……」


 少女が発した言葉は弱々しいものだったが、蓮はその言葉の中にかすかな怒りを感じ取った。


「何がですか?」


 蓮は反射的に言った。それは、あまりにも残酷すぎる確認だ。


「……私が知っている人だと……思います……」


「え?」


 蓮は少女の言葉の意味を理解できない。


 少女の瞳にはまるで水面のような涙の膜が張っていた。


「……今……ぼんやりと……男の人の……怖い顔が……」


「要するに、それが父親かもしれないってことですか?」


 蓮の容赦ない問いかけに、少女は顔を上げずに黙ってうなずくだけだった。


 この子、身内の人との間で、何かあったのかもしれない。


 蓮はそれ以上は聞かないことにした。


「わかりました。警察はやめておきましょう」


「はい……お気遣い、ありがとうございます……」


 少女は蓮の言葉に力なく答えた。


 その後、蓮は少女の容態が落ち着くまで待つことにした。


 少女の荒い息も、徐々にではあったが収まっていった。




「あの、ご迷惑をおかけしました。すみません」


 少女は軽く深呼吸をすると、蓮に向かって申し訳なさそうに頭を下げた。


「いえ、大丈夫です。落ち着いたようで良かったです」


 蓮は携帯を取り出し、時刻を確認した。デジタルの表示盤は午前九時ちょっと過ぎを指している。


「じゃあ、僕はそろそろ行きますね。気をつけて」


 蓮は少女に向かって軽く頭を下げ、そのまま踵を返そうとした。


「ちょっと待ってください!」


 しかし、少女のはっきりとした声に、蓮は再び動きを止めた。


「……あの、立花さんとお呼びしてもいいですか?」


 少女は半ば不安を吐き出すように蓮に言った。


「あ、別に……いいですけど」


「ありがとうございます。では、立花さんは今、お忙しいですか?」


「いいえ、別に忙しくはないですよ」


 一体、何が言いたいのだろう。蓮は疑問に思うしかなかった。


 少女は深呼吸を大きく二回した末に、覚悟を決めたかのように言った。


「よろしければ、少しお話しませんか?」


「それは何の話ですか?」


 蓮は反射的に少女に聞き返した。


 少女は体を一瞬ビクッと硬直させたのちに、言った。


「……雑談を……少しだけでも」


「それはどうしてですか?」


「何か思い出せるかもしれません」


 少女は芯のあるはっきりとした声で蓮に言った。


 その時、蓮は少女の揺るぎない意思を感じたような気がした。


 蓮の中で二つの想いが対立する。


「……ちょっと待っててくださいね」


 蓮は少しの間、考えた上で言った。


「話題を振ってくれるんなら、いいですよ」


「本当ですか。ありがとうございます! あの、ここでお話しますか?」


 その言葉で、蓮は汗を大量に流していることに改めて気付いた。首にかけたフェイスタオルはぐっしょりと湿っている。


「いえ、もうちょっと涼しい所がいいですね」


「わかりました。では、ちょっと付いてきていただけますか?」


 そう言うと、少女は蓮の返事も待たずに大股で歩き始めた。


 蓮は何も言わずに、少女にとりあえずついていくことにした。




 少女に先導されながら少しばかり歩いていると、蓮は水の音を聞いた。音のする方向に顔を向けると、蓮の身長、百八十センチほどの幅の小川があり、水がさらさらと流れている。


「あの、ここは涼しそうですけど、どうですか?」


 少女は蓮の言葉に返事をしない。


「あの、ここは涼しそうですけど、どうですか?」


 蓮は同じ言葉をもう一度繰り返した。


「……もっと奥に行きましょう」


 少女はようやく蓮に返事をした。


 その声にかすかな恐れの感情を、蓮は感じ取った。


「……はい。わかりました」


 ここでは駄目な理由があるんだろう。気にはなったが、蓮は特に理由を聞かなかった。


「ご理解、ありがとうございます」


 少女はそう言うと、また大股で歩き出した。


 蓮は少女に続いて、さらに歩を進めた。

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