かわいいッ

あべせい

かわいいッ



 昼過ぎの地下鉄車内。空席はないが、乗客がまぱらに立っている程度の混み具合だ。

「かわいいでしょう?」

「何が?」

「このワンちゃん」

「あア」

 一組のカップルが、吊り革で体を支えながら、スマホの画面を見ておしゃべりしている。

 スマホを手にしている女性は楽しそうだが、男性はつまらなそうだ。

 カップルの目の前の座席に、今西雄太と知多百合が腰掛けている。

「雄太は急に言うンだもの。わたし、心の準備が出来ていないわ」

「でも、きょうはチャンスなンだ。おやじもお袋も、昨日ことし最後の収穫を終えて、きょうはゆっくり骨休めをしているから、機嫌がいい」

「収穫って、おミカンでしょ?」

「そうだよ」

「雄太の家はミカン農家だった?」

「ミカンだけじゃないけど、ほかに栗畑、野菜畑も少しだけある」

「堅実な家庭なのね。そういうところに、わたしのような、学問でメシを食っている家の小娘なンかがお邪魔して、理解してもらえるかしら?」

「理解してもらうために行くンだろう?」

「結婚するわけでもないのに……」

 雄太は思わず、むせて、

「いや、結婚は将来の希望だけれど、いつ結婚ということになってもいいように、顔を合わせておきたい。説明しただろう」

「そうだけど。あまり気乗りしないわ」

「そう言うなよ。段々自信がなくなってくる」

 百合は急に声をひそめて、

「それより、前のカップル……」

「どうした?」

「話を聞いてみて。おもしろいわよ」

 2人、前に立っているカップルの話に集中する。

「このネコの赤ちゃんもかわいいわ。グッときちゃう」

「赤ん坊はみんなかわいいンだ」

「そう?」

「怖いゴリラだって、恐ろしいワニだって、小さいときは、かわいくて、ナでナでしたくなるだろう」

「そうだけど……」

 女性、スマホをいじって、

「じゃ、この女性は? コマーシャルに最近、よく出ている」

「……この娘(こ)か? 彼女はきれいだと思うけれど、かわいくはない」

「エッ!? きれいとかわいいは違うの?」

「当たり前だろッ。そんな違いも知らずに、いままで使っていたのか、キミは」

「だいたいわかるわよ。きれいは美しいでしょ。かわいいは……エーッと、愛らしいかな?」

「そんなところかも知れないけど、よく女性が、いい大人の男性に対して、『かッわイイ』って言うことがあるだろう。あれって、その男性を小バカにしているンだ。本人は気がついていないだろうけれど……」

「どうしてよ。うちの職場にも、かわいい男性社員がいるわよ。目がクリッとしていて、言ったことはなんでもハイハイと、やってくれる。いい人よ」

「じゃ、キミはそのカレを、自由にできるンだな」

「自由? そうね、カレだったら、わたしの自由にできるかも」

「カレに対して、失礼だと思わないか。思い通りになるか、どうかもわからない相手に対して、自由にできると思い込んでいるのと同じなンだゾ」

「どういうことよ?」

「カレのことをカワイイと言うのは、そういうことなンだ。人は、自由にできる相手に対して、カワイイと言うンだ」

「そんなッ。そんなことまで考えて使ってないわ」

「カワイイということばの裏には、そのものを自由にできるという考えが常に隠れている。赤ちゃんをカワイイと言うのは、思いのままに出来るからだろう。抱き上げたい、頬擦りしたり。子ネコをカワイイというのと同じだ。アイドルタレントに対して、カワイイというのも、自分の思い通りになるという、例え傲慢な考えでなくても、自分の思い通りになりそうなくらい、近付いても抵抗されないだろうという考えが、深層心理にあるンだよ」

「それは考えすぎよ」

「じゃ、聞くけれど、カワイイと思った相手に対して、憎まれ口をきかれたり、手を出した途端、ひっかかれたり、噛みつかれても、キミはカワイイと思っていられるか?」

「それは……」

「相手がおとなしく、指示に従っている間だけ、ひとは対象物に対して、カワイイと思っていられる。だから、カワイイなんて、軽々しく使えることばじゃないンだ」

「待って。いま辞書で調べてみる」

 女性、スマホをいじって、

「かわいい、ね……出た。いいィ、読むわよ。『小さいものや幼いものなど、自分より弱い立場にいるものに、心引かれる思い』だって」

「そうだろう。カワイイは、自分より弱い立場のものに対して使うことばなンだ。その辞書は間違っていない」

「じゃ、わたしも言うわ。あなた、前にわたしのことを、会社のなかでいちばんカワイイって言ったことがあったわね」

「エッ!?」

「初めてのデートのときよ。どうして、わたしに声をかけたの、って聞いたら、あなたはそう言った。わたしはうれしかったけれど、あれは、わたしのことを『おれより弱い立場にいる女で、おれの思い通りになる女だ』って考えていた、ってことね」

「そ、それは……」

「わたしをシリの軽い女と思っていたンだ。わかったわよ」

 女性はスマホをバッグにしまうと、

「これでおしまい。あなたって、ホントかわいくないひとね」

 ちょうど電車が駅のホームに着き、女性は開いたドアから外へ。

「待てよ。ここは降りるところじゃないだろう……」

 男性はそう言いながら、慌しく電車から降り、女性を追ってホームを駆けて行く。

 百合は、2人を目で追いながら、

「雄太、いまの2人、どう思う?」

 雄太は関心なさそうに、

「あの調子じゃ、別れるね。もともと、2人は相性が合わなかったンだ」

「そうじゃなくて、カワイイってことばの使い方についてよ」

 百合は少し苛立っている。

「いいじゃないか。かわいければ、カワイイと言っても……」

「雄太、何も聞いていなかったの。あの男性の考えだと、女性に対してカワイイと言うのは、侮辱に等しい、ってことよ」

「そォ……」

 雄太は、ようやく百合の苛立ちに気がつき、百合の話を真面目に考える。

「百合っぺは、いまの男の意見に共感できるンだ」

「全てじゃないけれど、安易にカワイイなンて言うものじゃない、って思っているところ」

「カワイイというのは、対象の人物を支配している立場の人間が使うもの、ってことか」

「そういうことね」

「力の強い者が、弱い者に対して使えることばという言い方もできる」

「そういう側面もあるわね」

「相撲の世界で、先輩力士が仲間うちで、若い力士を指差して、『あいつを、かわいがってやれ』という言い方をするけれど、あれは痛めつけることだそうだから、カワイイは相手より力の強い、力の優っている者が使うことばなンだ。でも……」

「でも、って?……」

「女性が『カワイイね』って言われて喜ぶのは、どうしてだ?」

「それは……きっと、カレの自由になってもいいという気持ちがあるから」

「好きな男から言われて喜ぶのならわかるけれど、どうでもいい相手から言われて喜ぶのは、問題がある、ってことになる」

「そうね。気をつけなくちゃ」

「百合っぺも、よく言われるンだな」

 百合は黙った。答えが見つからないのだ。

 電車はいつの間にか、地下から地上に出て走行している。

「わたしの父も女子学生から、カワイイって言われることがあるらしいンだけれど、どんな気持ちなのか、聞いてみる。もし、喜んでいるようなら、教授失格ね」

「百合っぺが知多教授に『お父さん、ってカワイイところがあるのね』って言ってみたら。知多教授はどんな反応をするか?」

「そうね。やってみようかしら……」

「カワイイというのは決して誉めことばの場合だけじゃない。逆に、時によっては、侮蔑することばになる場合がある、ってことか」

「カワイイと言われて喜ぶ女性のなかには、そうやって男を油断させているひとがいるかも知れない……」

「したたかな女性か。ぼくも、気をつけよう」

「次の駅でしょう、雄太の実家」

 雄太、田園風景が広がる窓の外を見て、

「そうだよ」

 2人は立ちあがる。

 

 田舎道を歩く百合と雄太。

 左右は牧場で、10数頭の牛が放牧されている。

「雄太のお父さんって、どんなひと?」

「そうだな。ここに鼻があって、その下に口があって……」

「雄太、冗談やめて。わたし、緊張してきてンだからッ」

「ごめん。ふだんは穏やかだよ。滅多に怒らない……」

「趣味は?」

 雄太は空を見上げる。青い空には、春の白い雲が浮かんでいる。

「趣味ね……好きなことは……釣り、山登り、サイクリング……そしていつもカメラを持っていて、そのようすを撮っている」

「体を動かすことばかりね。お母さんは?」

「お袋は、本を読んだり、時々短歌や俳句をひねっている」

「家の中でできることばかり」

「そう言われれば、親父とお袋は正反対のことをやっている。あれでよく20数年も続いているな」

「お2人で一緒になさることはないの?」

「だから、畑仕事だよ。柚子にミカン、これからはキンカンの収穫かな……」

「夫婦仲はいいのね」

「いいンだか、悪いンだか。ケンカすることもあるし。でも、親父はお袋のことを、『あいつは、かわいいやつだ』と、何かの折りに言ったことがある」

「かわいい、って言ったのね……かわいい女、かわいい女……どんな意味でおっしゃったのかしら」

「深い意味はないよ。親父の思う通りにやってくれたから、そう言ったンじゃないかな」

「そう……」

 やがて2人は、周囲にクリやミカンの木が茂る1軒の農家に入っていった。

 50代後半の男性が2人を迎え、薪ストーブが燃える居間に案内する。

「どうぞ、ゆっくりしてください。いまコーヒーをいれます」

「お袋は?」

 雄太の問いに、父の雄太郎は「洗濯だろう。声をかけてくる」

「静かな落ち着いた部屋ね」

 百合が居間を見まわしてつぶやいた。

 居間は10畳の広さで、中央に、けやきの一枚板を使った重厚な座卓が置かれている。

 壁には、雄太郎の趣味なのか、ミカン畑で働く妻のようすや、周囲の風景を撮った写真が、バランスよく飾られている。

 3人が座卓を囲みコーヒーを飲んでいると、洗濯物を抱えた女性が、居間から縁側越しに見える庭に現れた。

「お袋だ」

 雄太の声に百合は庭を見た。

 雄太郎より10才ほど若い女性が、物干し竿に洗い終わった洗濯ものを干している。

「きれいな方……」

 息子がひとを連れてくると聞いていたのか、美しく化粧している。元々、美人なのかもしれないが。雄太郎が立ちあがって、居間のガラス戸を開け庭に向かって言った。

「かえで、いい加減にやめて。こっちに来ないか。雄太がかわいいお嬢さんを連れて来たンだ」

 かえでは明るく、

「いますぐですから」

 と答え、スピードをあげて片付けていく。

 雄太と百合は顔を見合わせて、「かわいい……」と同時につぶやいた。

 雄太は父親のそばに行き、

「親父、かわいいなんて言わないでくれよ」

 父親は、ギョッとした顔で、

「かわいいじゃないか」

「そうじゃなくて、同じ言うのなら、きれいとか、美しいと言ってくれよ」

「きれい? 美しい?」

「女性に対して、かわいい、と言うのは、侮辱することになるンだ」

「どうしてだ。あんなかわいいお嬢さんをおまえが連れてくるなンて、想像もしなかった」

「そうじゃなくて。どう言えば……」

 そこへガラス戸が開いて、縁側からかえでが入ってくる。

「雄太、お帰り……」

 百合を見て、

「あらッ」

 百合はすかさず、歩み寄り、

「お邪魔しています。知多百合と申します」

 と言って、頭を下げる。

「百合さんね」

 かえでは雄太に向かって、

「雄太、かわいい方じゃないの」

「アチャー、お袋まで、なんだよ」

 雄太は、険しい表情でつっかかる。

「親父もお袋も、いいか、よく聞いて。カワイイというのは、自分より弱い立場の者に対して使うことばなンだ。百合っぺが……(ふと考えて)この家の中ではよそ者だから、立場は……強くはない、むしろ彼女の立場はずっと弱い。でも、おれと2人のとき、彼女の立場は、弱くはない。むしろ強い、強過ぎるくらいだ」

「なにをぶつぶつ言ってるンだ。百合さん、これうちで作っているミカンです。糖度14度以上ありますから、うまいですよ」

 雄太郎がザルに盛ったミカンを、雄太らが囲んでいるテーブルに置いた。

「いただきまーす」

 百合は、その1つを手にとって、思わず叫ぶ。

「このおミカン、かわいいッ!」

 雄太は、腕組みをして、

「ミカンの立場は、百合っぺより、弱い。だから、この使い方は正しいか」

「百合さん、うちのミカンをかわいいと言ってくださったのは、あなたが初めてです」

 雄太郎は、ハッとしたように急に目を輝かせ、

「そうだ」

「どうしたの、あなた」

「このミカンを『百合ミカン』と名付けて、改めて売り出そう。どうだ」

「いいわね。そのアイデア、いただきよ」

「そして百合さんと一緒に写真を撮ってシールを作り、ミカンの袋に貼りつけて直売所に並べる。もちろん、百合さんのお許しがあればの話だが……」

「わたしが、このおミカンのモデルになるンですか」

「親父、ちょっと落ち着けよ」

 雄太は百合の顔色を見て、不安がこみあげる。

「百合ッペ、このミカンのどこがカワイイんだ?」

「肌がつるつるして、ふくらんでいるところなンかが、赤ちゃんのふくれ面みたいだから、つい、そんな気持ちになったの」

 雄太郎は百合の思惑にはおかまいなく、

「そうだ。カメラだ。オイ、カメラはどこだ」

「あなた、はい」

 かえでが、茶箪笥の棚から、デジタルのプロが使うような一眼レフカメラを取って夫に手渡した。

 雄太郎はそのカメラを構えて百合に迫る。

「百合さん、ミカンを頬の近くに持っていって……」

 百合は言われた通りミカンを顔に近付ける。

「そう、いい。いきますよ」

 シャッターを立て続けに切りまくる。

「こんどは、ミカンの皮をむいて……そォ、撮っていきますから、そのまま続けてください」

 百合は言われるまま、ミカンの皮をむいていく。それへシャッターの音が重なる。

「最後は、ミカンひと房を口に入れて……いや、口にすっかり入れるンじゃなくて、舌の上にのせて転がす感じで。カメラを見てニッコリ……」

 雄太は怒り心頭といった顔付きで、

「親父、いい加減にしろよ。おれたちの仲を引き裂くつもりか」

 すると、百合が小声で、

「雄太、カワイイお父さんじゃない」

                (了)

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