第32話 山下幸恵

 小春に自己紹介を促された幸恵は、面倒そうにしながらも話を始めた。


「山下幸恵……って名前は言ったもんな。あー、バスケやってた」

「バスケ……」

「そ、割といいところまでいってて、今年が最後の大会だったんだけど……」


 言葉を止めた幸恵が、苛立たしそうに頭を掻いた。じろりと、重たさすら感じさせる眼差しを由流華にゆっくりと向けてくる。


「こっちに来てから一か月だ。大会も始まっちまってるだろうけど……帰ってなんとか取り戻すのが目標かな」

「え?」

「ん?」


 由流華の反応に、幸恵が怪訝そうに眉をひそめた。


「なんだよ?」

「……帰るって」

「ああ、ここを出たらそりゃ元の家に帰るだろ?」

「…………」


 由流華は答えず、そっと小春の様子をうかがった。小春は複雑そうに顔をしかめて、かすかに首を傾げている。

 二人の色の違う眼差しを受けて、動機が高まっていく。鈍い汗が背中に流れるのを感じて、気持ち悪さに小さく身をよじった。

 幸恵の表情が、みるみる不安そうなものに染まっていく。これまでの強気は鳴りを潜めて、泣きそうにすら見える目で口を開いた。


「帰れる……だろ?」

「…………」

「おい、なんか言えよ」

「幸恵」


 由流華の肩を掴んで揺する幸恵を、小春が止める。

 幸恵の目をまともに見れずに項垂れた由流華は、幸恵が離れたと同時に左耳を触れた。


「ごめん由流華、はっきり言っていいよ。帰れないんでしょ?」

「なんでそんなこと言えるんだよ」

「わたしたちってみんな来てすぐに捕まったけど、由流華は何週間かいるって言ったじゃん。帰れるなら帰ってたんじゃないのかな」


 小春の推論に頷く形で、由流華はそれに答える。

 帰りたいと思い、強行した友人の顔が浮かび、こぶしをぎゅっと握った。


「……あたしに魔法を教えてくれた人は、四年トーイロスにいるって言ってた。転生者だけのギルドもあるぐらいで、日本に帰る方法はないって聞いた」


 この説明は事実だが、真実ではない部分はある。

 由流華のピアスがあれば帰ることはできる。まだわからない部分はあるが、ノエルがあそこまでの行動を起こしたのはそれだけ唯一の機会だったからだろう。

 由流華の目的は変わらない。エンリケからピアスを取り返し、灯に会いに行く。それまでに困難はあるだろうし、そもそもここを脱出できない限りは話にもならないが、だからといって諦めるつもりは一切ない。

 転生してすぐにこんなところに閉じ込められた彼女たちが帰りたいと思うのは当然だろう。

 そんな彼女たちが、灯のギフトタグのことを知ったら一体どう思うだろうか。


(……ダメだ)


 自分ひとりだけ帰れる手段を持っていることは彼女たちには不公平に映るだろう。

 ではなく、奪われるのではないかという懸念が由流華の頭を満たしていた。

 元の世界への執着は誰だってあるはずだ。由流華は灯がいるからというだけの理由だが、幸恵のバスケのようにそれぞれの理由があるだろう。

 だとすると、ノエルのような行動に出る可能性は否定できないのではないか。

 灯に会う可能性が断たれるかもしれないというのは、由流華にとってとてつもない恐怖だった。

 由流華の説明に、二人は少なくないショックを受けているようだった。いきなりこんなところに監禁され、もし脱出が叶っても元の世界に帰れる望みはない。

 かける言葉もなく由流華も沈黙していると、不意に幸恵が言った。


「ま、いいや」

「……幸恵?」


 小春は不思議そうに瞬きをして幸恵の横顔を眺めている。

 それを躱すように他所の方向を向きながら、ため息交じりに続ける。


「どっちみちここは出なきゃなんないし、後のことは後で考えればいいでしょ」

「…………」

「なにその目。他の人から聞いただかなんだか知らないけど、私は自分で見ない限りはあんまり信じないタイプなんだよ。だからこの話はおしまいだ。外でまた聞くよ」


 由流華は言葉を返すことができなかった。

 幸恵の言葉は強がりにも聞こえる。声は少し震えていたし、表情もどこかぎこちない。帰れない、というのはかなりのショックだったことは間違いないだろう。

 それなのに、こうして元気を見せてくれている。そのことは不思議に由流華の心を少し軽くした。

 幸恵は沈黙に耐えかねたように手を振った。


「もういいだろ。さっさと本題に行こうよ」

「本題? 自己紹介の続き?」

「……あんた忘れてないよね? 魔法だよ魔法」


 とぼけたような小春に幸恵が半眼で返す。

 正直由流華も少し忘れかけていた。そもそもは魔法を教えるということで幸恵と話していたのだった。


「うん、やろう」

「ん、頼むよ」


 二人が居住まいを正して由流華に向き直る。緊張はあるが、幸恵の前向きさに当てられて由流華もやる気になっていた。


「魔法は、身体強化と属性魔法があって……」


 自分の中の知識を確かめるように魔法について説明する。ノエルからは色々教えてもらった。話しているとノエルのことが思い出されて胸がきゅっとなるが、まずはと集中する。幸恵の言う通り、後のことは後で考えればいい。というより、今はここを脱出することに注力しなければいけない。

 多少うろ覚えのところもあったが、なんとか説明を終えることができた。小春は天井を見上げて考え込むようにしていて、幸恵は腕を組んで難しい顔をしていた。

 説明は大丈夫だっただろうかと少し不安になる由流華に、幸恵が訊ねてきた。


「その身体強化を使えば強くなれるって解釈であってる?」

「う、うん。力を強くしたり、足を早くしたり……」

「あれもぶっ壊せるか?」


 幸恵は親指を背後に示した。そちらには鉄格子があり、変わらず男がダルそうに(恐らく)酒を飲んでいる。見張りとしているのだとは思うが、ろくにこっちを見ているわけではない。出られないのだから適当にしているのだろうが、それならばいなくても一緒だと思うのだが。

 ともあれ、由流華は難渋を示して答える。


「そんなめちゃくちゃには強くはならないと思う。一か月弱練習したあたしがギフトタグこみで、多分クラスで一番運動できる人に並んだぐらい、かな」


 これも感覚で言っているので正確な表現なのかは怪しかったが。

 もともと運動が得意ではなかった由流華にとっては、身体強化の習得と向上は大きな成果として表れていた。伸びていく自分の能力に面白みすら感じていた。

 だが、このような状況を打開するような力があるかと言われれば否としか言えない。ただでさえギフトタグも失っているのだ。使い始めは本当に発動しているのか怪しいほどの効果量しかなかったギフトタグだが、こうして失ってみるとそれなりのものがあったのだと気づく。今身体強化を入れてみても、明らかに手ごたえが違っている。なんらかの条件を満たしたことで、効果量が上昇していたのだろうが。

 とはいえ、由流華のギフトタグがあったとしてもとてもあの鉄格子を破壊することは叶わないだろう。ノエルならできたのかもしれないが、何年経てばそこまでいけるのか見当もつかない。

 幸恵はほとんど失望を隠さずにうめいた。


「そんなもんか……ま、ないよりはマシか。あいつをぶっ飛ばすに役に立たないってことはないだろ」


 幸恵は好戦的な笑みを浮かべて、ちらりと鉄格子の向こうの男を見やった。

 仮に扉をどうにかできても、あの男は立ちはだかるのは間違いないだろう。酒ばかり飲んでいてやる気はなさそうだが、由流華たちが出ようとすればすんなり通していくれるわけはない。どれほど戦えるのかは不明だが、由流華より弱いということはないはずだ。下手をすれば身体強化を使えないとしても勝てない気がする。

 それに、男にはあのギフトタグがある。まずはあれをどうにかしないことにはどうにもならない。それ自体は……


「あれ、わたしのなんだ」


 小春が唐突に言って、嫌そうに目を細めた。


「電撃を出せるみたいだけど、わたしは一回しか使ったことない。ここに入れられて以来ずっとあいつが使ってる。由流華もやられてたよね」

「私だって何回もやられたよ。思い出すと余計ムカついてきた」

「……それもどうにかしないとね」


 由流華のつぶやきに、幸恵は拳を打ち合わせた。


「それだけは楽しみだな。たっぷりお返ししてやる」


 幸恵もそれが簡単だと思っているわけではないだろうが、本当に楽しみそうに笑って見せた。

 由流華も電撃は食らったが、お返しが楽しみとまで思わなかった。ただ、灯に再会するための邪魔になるのなら許しはしない。

 それに、容赦をしている余裕なんてどこにもない。


「……魔法の練習始めようか」


 由流華が言うと、二人ともこくりと頷いた。

 ここから脱出する、という目的は三人で一致している。

 まずは、そのための準備からだ。

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