光学的擬態生物――ミミック――
沢村基
第1話 殺人事件
戒名は『成城美容整形外科医殺人事件』だった。
縹亮介(はなだ りょうすけ)はその文字列を捜査本部の入り口ではなく、後輩からの電話で知った。縹は三十代ながら、警視庁捜査一課丸山班に所属する警部補だ。今日は、世田谷署の大会議室に設置された捜査本部へ出向――のはずだった。
「お前は行かなくていい」
昨日深夜、報告書を書くため、書類の山に埋もれていると、班長の丸山から直々に言い渡された。
「お前にはしばらく資料課の手伝いをしてもらうことになった」
縹は困惑でとっさに言葉も出なかった。
「お前は世田谷区深沢の出身だったな。被疑者が、柏木寛太と言えば事情がわかるか」
小学校時代からの幼馴染の名前が出た。どうやら、被疑者が縹の身近な人間だったので、捜査からおろされたようだ。
「班長、お言葉ですが、私が捜査に私情を持ち込むことはありません」
気色ばんだ縹に丸山は黙って一枚の画像を差し出した。
それは、ホテルの宴会場で撮影したものだった。
一か月前の中学校の同窓会の写真だ。親しげな様子の五、六人のグループが写っていて、その中で縹と柏木は隣あわせになって収まっていた。
「被疑者のフェイスブックにこの写真があった。中央が柏木、その右側はお前だよな」
縹は黙った。すでにそこまで調べられているとは。
「柏木はこのとき、どんな話をしてた? 柏木についてお前が知っていることをまとめて、大木に送っておいてくれ。あとは、こちらから連絡するまでおとなしくしていろ、いいな」
後輩の刑事、大木が、柏木の周辺を洗う役割になるのだろう。
縹はため息をついた。丸山が自分のデスクから歩み寄ってきて肩を叩く。
「そんな顔するなよ。今後、柏木が容疑からはずれたら、ちゃんと呼び戻してやるから。それまでは、まあ、骨休めだと思って……」
「柏木のセンは、かなり濃厚なんですか」
縹が小さな声でたずねると、五十過ぎの班長は意地悪そうに、にやりと笑った。
「悪いが、部外者には答えられねえなあ。記者発表を待てや」
翌朝、縹は資料課の倉庫に自分のパソコンを持ち込むと、すぐに大木の携帯電話に架電した。さっきまで世田谷署で捜査会議に出ていた大木に、事件の詳細な情報を求めたのだ。
『刺殺です。現場は地下駐車場で、第一発見者は駐車場の管理会社から派遣された警備員です。詳しい推定死亡時刻は検視と解剖の結果待ちですが。――ほら、昨晩の深沢の火事、あったじゃないですか。あれで消防署の要請で検視官を派遣してるので、手間取ってるんですよ。凶器は市販の刺身包丁で、現場近くのゴミ捨て場から発見されています。凶器に付着していた血液の血液型は、ガイシャと一致。指紋は出ていません。血液のDNA鑑定にはもう少し時間がかかります』
大木は要点をおさえて事務的にしゃべった。声が少しこもって聞こえるのは、トイレの個室ででも話しているからだろうか。
「犯人を柏木に絞り込んだ決め手はなんだ?」
『防犯カメラの映像です。ガイシャの美容外科医は、女性で三十五歳、独身、成城学園前駅の近辺のメディカルビルに自分のクリニックを持っています。その地下駐車場が現場ですが、防犯カメラに殺害の一部始終と柏木の顔がばっちり写ってるんですよ。柏木は黒のトレンチコートを着ていますが、それも柏木が行きつけのスーツ店で最近購入したものと一致します』
「ビデオの画像だけで、もう柏木にたどりついたのか」
『柏木はもともとガイシャと交友関係にあり、クリニックにも顔を出していたので受付の事務員が顔を覚えていたんです。ガイシャの財布から、柏木の名刺も出てきました』
「計画的殺人にしては、あまりにも不注意だな」
『そう。証拠だらけなんですよ。こういう稚拙な犯行は、感情的になったあげく後先あとさき考えずに殺害してしまった、みたいな場合に多いんですが……柏木はあらかじめ凶器を用意して、ガイシャを待ち伏せしていました。なのに、なぜか顔は隠さず、特徴のある私物を身につけたまま、防犯カメラのある場所で犯行に及んでいる……』
縹の知る柏木は、それほど愚かではない。というよりも、柏木が殺人を犯したということがそもそも信じられなかった。
小学生のころから海洋魚飼育が大好きで、生き物博士だった柏木。中学時代は教室ではあまり目立たない、おとなしい生徒だった。しかし生き物への探求心と集中力は誰よりも勝っていた。
卒業後は己の道をまっすぐに進み、今は大学の研究員になっている。象牙の塔の住人らしく、研究に没頭するあまり少し浮世離れしたところがあって、怨恨にしろ愛情にしろ、他人にそんな深い執着を持つこと自体、縹には想像できなかった。
「で、今、柏木の身柄は?」
『勤務先から任同の予定です』
「まだフダ(逮捕状)は出てないんだな」
『岡島班が実家と職場を張ることになってますが――あ、ちょっと待ってください。またあとでかけなおします』
通話が切られた。数十分待つと、大木のほうからかかってきた。興奮した口調だった。
『新しい情報が来ました。深沢の火事、柏木の実家でした。二名の死体はおそらく柏木の両親と思われます。そして柏木は――先ほど、岡崎班が職場に到着して連行中です。が、昨晩は研究室に泊まりだったと主張しているんです。同僚もそう証言しています』
「昨夜のアリバイがある、か」
縹は内心ほっと胸をなでおろした。
そして、当然だ、と考えなおす。そもそも柏木にこんな容疑がかかっていることが、なにかの間違いなのだ。
しかし、完璧な善人はいない。人間の倫理観に絶対はない。
縹の心が揺れる。人間というのは底知れない――それは縹がこの職業について何度も痛感していることだった。
『柏木が署に到着次第、取り調べが始まりますけど、逮捕できるかどうかは、彼の証言内容次第でしょうね』
「丸山班長の話、お前はどう思う? おれが私情で幼馴染をかばうと思っているか?」
「まさか。縹さんを疑ってたら、こうして協力していませんよ」
快濶に答える大木の声をきいて、縹は少し安心した。
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