05 束縛と後悔と

「宇佐美……絋夢……クン?」

 後ろから聞こえた声に、走らせていたペンを止めて振り返った。

 どことなく見覚えのあるような面影を残した顔に眉を寄せ、次の瞬間大きく頷く。

立河たちかわほのか!!」

 絋夢の態度に、ほのかと呼ばれた女性は苦々しく笑った。

「絋夢、私の事忘れてたな」

「あ? だって最後に会ったのって……えっと……8年くらい前だろ?」

「でも私は覚えてたわよ」

 指を曲げて数えながら告げた絋夢に、ほのかが言い放つ。

「てか変わりすぎなんだよ」

「そういう絋夢だって、何? その髪の色」

「ひろ……知り合い?」

 店全体に響くほどの声量でやりとりしている二人の間に、やんわりとした口調が割り込んだ。

 絋夢の後ろから伸びた手が、中途半端に書き込まれた伝票を取る。

「ルイ……」

 詳しく紹介をしようとする前に、瑠惟は先程まで絋夢が応対していた客に一言詫びた後、残りの注文を訊いた。それを書き留めると、振り返ってふたりを見つめる。

 目が合った瞬間、絋夢は気まずそうに視線を落とした。

「……ごめん」

 先に声を掛けたのは自分では無いにしろ、仕事を放ったらかしにしたのは事実で、床を見つめたままマスターに謝る。

 瑠惟はそんな絋夢の背中をぽんぽんと二度叩き、ほのかに会釈した。

「絋夢とお知り合いですか?」

 優しく微笑まれて、ほのかが目を輝かせた。

「私、立河ほのかと言います。絋夢とは中学の同級生なんです。それで……あなたのお名前は…?」

 嬉々として聴かれ、その勢いに圧されたまま瑠惟が小さく笑う。

「マスターの倉沢と申します」

「えっ? 貴方がマスター? お若い……ですね」

「おいっほのか」

 咎めるように呼んだ絋夢を手で制して、

「両親のあとを継ぎまして」

と柔らかく笑った。

 それから一番上の伝票を抜き、残りを絋夢に手渡す。

「ひろ、オーダーお願い。では私はこれで失礼致します。どうぞごゆっくりされて下さい」

 前半は絋夢に耳打ちし、後半をほのかとその連れに向けて話した後、厨房へと戻っていった。

「ねぇ絋夢」

 エプロンの裾をつんつんと引っ張られて、瑠惟の後ろ姿を見送っていた絋夢の視線が、ほのかに移る。

「倉沢さんって彼女とか居る?」

 瞬間、絋夢は明らかに不機嫌な顔をした。

「瑠惟はダメ」

 冷たく切り捨てられて、ほのかが眉を顰める。

「なに? 彼女いるの?」

「彼女……は居ないけど、兎に角ダメ」

 益々納得がいかないという顔をしたが、間を置いてにやりと笑う。

「絋夢!」

 呼ばれた絋夢が自分を見たのを確認して、ほのかの唇が動いた。

「カ・レ・シ、が居るのかな?」

 愉しそうに告げられた言葉に、絋夢の動きが止まったのはほんの一瞬で、すぐににっこりと笑う。

「そ、特上のね。だからダメ」

 冗談だったにも関わらず、それをあっさり肯定された上、『特上』とまで言われて、ほのかがぷっと噴き出した。

「相変わらずだなぁ」

「何が?」

 怪訝そうな顔をした絋夢を上目で見つめて、にっと笑ってみせる。

「私ね、絋夢のその飾らない正直なトコ案外好きよ。まぁ昔はそんな所が無神経に思えて 嫌いだったけど」

「どっちだよ」

 くすりと笑った絋夢に、ほのかは急に神妙な面持ちになった。

「あの人……もてるでしょ?」

「え……?」

「あんな風に周りを柔らかく包んでくれる雰囲気の人、そういないよ」

 一旦言葉を止め、絋夢をじっと見上げる。

「奪られないようにね。……例えば私に……とか」

「誰にもやんねぇよ」

 一体どこまでが本気なのか分からない言葉に、ふぅとため息を吐いた後、ペンを握り直し注文を訊いた。

 カウンターに戻ってきた絋夢に、瑠惟がパフェをふたつ渡す。

「2番にお願い」

「了解。これ3番のオーダー」

 絋夢から伝票を受け取った瑠惟が、パフェを運ぶ背中に淋しそうな視線を送ったが、背を向けている絋夢がそれに気付くはずは無かった。



「ひろ……」

 店の戸締りが済んで、2階に上がろうとした絋夢のシャツを瑠惟が掴んだ。

「ん? どうした?」

 口を開きかけた瑠惟の視線は、すぐに床に落とされる。

「ルイ……どうした?」

 両頬を包んで上を向かせると、不安そうに揺らぐ瞳を見つけて唇を寄せた。

「絋」

 瑠惟の握り締めているシャツの裾が、さらにくしゃっと皺を作る。

「あの子……さ」

「あの子?」

「ほのかちゃん」

 ちゃん付けで呼んだ事に驚きながらも、瑠惟からしたらそうなるのかな? と妙に納得してみせて、絋夢は先を促した。

「ほのかがどうしたの?」

 まさか変な事でも吹き込まれたのではないだろうか? と心配しながら続きを待っていると、予想していなかった言葉が瑠惟の口から発せられた。

「付き合ってた?」

「え……?」

 返答しない絋夢の手を、頬から引き剥がしてぎゅっと握り締める。

「ごめんね……おれが訊く事じゃないのは分かってるんだけど……」

「何で?」

「……」

 やはり訊いてはいけない事だったのだろうか?

 瑠惟は不安一杯に絋夢を見上げる。

「ごめん……おれが訊いて良い事じゃない……よね」

 寂しそうに俯き、離れていこうとする手を強く掴んだ。

「ルイ……違う。俺は何で謝るのかって言ったの」

「え? だって……これは絋夢のプライベートだろ?」

 悲しそうに笑って、それでも当然のように呟く瑠惟に絋夢は首を横に振る。

「俺は……ルイが知りたい事なら何でも話すよ? なぁ、分かってる? 俺は客じゃない」

 瑠惟は、はっとしたように絋夢を見つめた。そんな瑠惟を絋夢は優しく見つめ返す。

「ルイが俺に遠慮する必要はないんだ」

 そのまま抱き寄せられ、絋夢の肩に額を乗せて小さく「ごめん」と呟いた。



「中2の時に……付き合ってた」

 2階に移動して、ソファに隣り合って座ったことろで、絋夢が話し始めた。

「でもそれだけ。2ヶ月くらいは付き合ってたけど……お互い友達って感じが抜けなくてそのまま別れた」

「そう……なんだ」

「それに……俺はルイの方が気になってる。ルイは? ルイだって今まで付き合った人いるだろ?」

 絋夢は頭の中では、ほのかの言った言葉がぐるぐると廻っていた。迷いも無く『もてる』と言い放った彼女の言葉は、妙に説得力があって……納得してしまう。今までは機会が無くて尋ねられなかったが、ずっと気になっていた事でもあった。

「……そうだね」

 瑠惟のはっきりとしない答えに、絋夢が首を傾げる。

「おれはね……どうしても店を優先して考えてしまうから、付き合ってくれた人には寂しい思いをさせちゃってね……だからダメなんだって」

「ルイ?」

「おれ……絋夢にも同じ事してるよね?」

 ちらっとだけ絋夢を窺い見て、すぐに太腿の上に乗せている両手へと視線を落とす。

「縛り付けてない? おれ……絋夢から自由を奪ってない?」

 微かに震える肩を絋夢はそっと引き寄せる。

「おれは……絋夢に色んな可能性を用意してあげられない……。例えば絋夢は、ほのかちゃんみたいな可愛い女の子と結婚して……絋夢の欲しかったあったかい家庭を作る事だって出来るんだ」

「本気で言ってる?」

 瑠惟はしばらく絋夢を見つめた後、視線を床に落とした。

「だって……おれには……絋夢が此処を離れたいと思った時に、引き止める権利なんてない。だから……」

 きつく結んだ唇からは、それ以上言葉が発せられない。

「ルイ。聞かせて。だから……なに?」

 床を見つめていた瞳を閉じて、瑠惟は絋夢の服を握り締める。

「だから……こわい……」

  俯けたままの頬に口付けを落とした絋夢を、瑠惟が驚いた顔をして見つめた。その瞳にそっと唇が触れる。

「俺に家族をくれたのはルイだ。ルイと、マスターと瑠美子るみこさん」

 軽く触れるだけの口付けは瞼から頬……耳朶へと移動する。

「ルイにとって大切なこの店は、俺にとっても大切な場所だ。他のヤツがどうかは知らない。でも、此処を大切にするルイが何より大切なんだ。……分かる?」

 耳元で甘く、優しく囁く言葉に瑠惟が小さく、それでも確かに頷いた。

「ひろ……おれを選んだ事……後悔しない?」

「俺は後悔しないし……させないよ」

 微かに濡れる瞳に唇を寄せると、瑠惟は静かに目を閉じて優しい口付けを受け止めた。

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