第1話 一回目の人生 リンディは5歳 (1)
「はあ、今度のお宅は長続きすると思ったんだけど」
ぶつぶつと独り言を呟きながら、ため息を吐く母親の隣で、娘は着替えたばかりの服にタラタラと牛乳を溢している。
手元を見ずに、窓の外の蝶をひたすら目で追いかけるものだから、傾け続けるコップは更に角度を増し、口の手前でバシャリと盛大に溢れた。
これにはさすがに娘も「ひゃあっ」と声を上げ、母親も漸く事態に気付く。
「もう~着替えたばかりなのに。お願いだから飲み物を飲む時は、コップだけを見ていてちょうだい」
慣れた様子で、悲惨な牛乳を処理していく。
「はい、お母様。でもコップよりも面白いことが、沢山ある時はどうしたらいいの?」
「そうねえ……」
母親は真剣に考える。
「コップの中に面白いことを見つけたらどう?見つけたら、お母様に教えてちょうだい」
「やってみるわ」
寄り目でコップを睨む、この娘の名はリンディ・フローランス。
産まれてからまだたったの五年しか経っていないが、いわゆる『普通』の子供達とはかなり変わっていることに、母親は既に気付いていた。
何が変わっているかというと……彼女は非常に空想力が豊かであった。常に何かを頭に描き、それを自由に動かしては楽しむ。この特殊な能力故に、常に上の空である。
返事をしない、やりかけたまま放り出す、溝にはまる、犬の落とし物を踏む──
まあ、一言で言えば注意力散漫なのだ。
幸いなことに彼女には、祖母から受け継いだある魔力があった。それは光の魔力というもので、見たものや想像したものを本物の様に転写する力だ。画家や建築家などは、大体この魔力を有している。
彼女は何処へ行くにも、スケッチブックと色鉛筆を持ち歩き、溢れた想像を紙の上で受け止めた。その美しい世界といったら……毎日の飲み食べこぼしの掃除など、
恐らく10人中10人の母親が、『育てにくい』と感じるであろうそのリンディを、心から楽しんで育てているこの変わった母親の名は、フローラ・フローランス。
よく二度聞きされるこのふざけた名は、産まれた時からのものであり、全くの不可効力である。どうしても娘にフローラと名付けたかった、我の強い母のせいだと聞かされては、もう笑うしかない。
彼女は賢く、非常に優秀な頭脳を持っていた。此処、ムジリカ国で最も偏差値の高い、首都の王都学園を首席で卒業した程だ。女性の地位が低いこの国において、彼女は新たな時代の先駆けとなったのである。
さて、彼女がどんな仕事に就くのか。
王族の側近か、大臣、はたまた……周りが固唾を飲んで見守る中、彼女が選んだ職業は家庭教師だった。
貧しい家庭には無料で、貴族や商人など優秀な家庭からはガッポリと報酬を貰い、それぞれに最適な教育を施す。
彼女の評判は都中に広まり、一年先まで予約待ちの大人気教師となった。
侯爵家のアホ息子……いや、少し飲み込みが遅い上に生意気な令息を教え、心身共にへとへとの帰り道。
フラリと寄った酒場で会ったのが、最初の夫でありリンディの父親であるパトリックだ。彼は……いわゆるイケメンという部類に入り、とにかく口が上手い。
これまで勉強と仕事にしか興味のなかったフローラが、初めて興味を抱いたものだった。
あれよあれよと彼に流され、リンディを授かり、そして結婚する羽目になってしまう。
平民のパトリックと男爵令嬢のフローラは身分差婚ではあるものの、フローラが自立した女性であった為、特に反対されることもなく結ばれた。
ダメ夫の片鱗は、リンディを妊娠中から表れる。
酒場の経営の傍ら女を誘い込み、多才な浮気癖を披露しては、フローラを失望させた。出産後は日々個性的に成長していくリンディを避ける様に、家へ帰って来なくなり……
ある日離婚届を置いて女と蒸発してしまった。
危うく酒場の借金を背負わされそうになるも、保証人でもないし離婚も成立したわ!と、取立て屋を毅然と突っぱね追い返した。
こうしてフローラは26歳の若さ(少しとうが立ってはいるが)でシングルマザーとなった。だが彼女は後悔するどころか、今後の人生に大きな希望を抱いていた。
ダメ夫に振り回されることもなく、多少手は掛かるが愉快で可愛い娘も手に入れた。そして何よりまだ若い。
あとは安定した仕事、それさえ手に入れば。
だが、いかに優秀なフローラであろうと、現在はそれが困難であった。というのも、この国では離婚した女性への風当たりが強い。ましてや今はリンディが居る。
一旦実家に戻り、彼女の世話を頼んだこともあったが、祖父や召使をはじめ、フローラを世話したベテランの乳母でさえ手に負えないと匙を投げられた。
出来ればリンディと共に住み込みで働ける、そんな職場を探していた。
一週間前クビになったのは、心優しい伯爵家。
フローラの学歴と経歴を重視し、二つ返事でリンディと共に受け入れてもらえた。
暫くは何事もなく……いや、リンディが多少楽しそうにはしゃいではいたものの、令息の成績が上がったこともあり、日々寛大に処理されていた。
だがある日、
ギャーーー-ーッ!!!!!
屋敷中に響き渡る悲鳴。何事かとそちらへ向かえば、令息が床の上に仰向けに倒れていた。
『坊っちゃま!』
駆け付ける召使とフローラ。
『あれ……あれ……』
令息が指差したのは、テーブルの上のグラス。
覗いてみると、水に浮く何やら黒いものが……
フローラははっとし、ピッチャーを覗くとすぐさま目を逸らした。
リンディ!!
僅か五年の付き合いだが、母は迷わず娘の仕業と確信する。
理由を問い
……この時は特に運が悪かったのだ。普段は召使が注ぐ水を令息が自分で注ぎ、更に視力が弱い為、そのまま口に含んでしまった。何とか飲み込まずに吐き出したのが、不幸中の幸いだ。
繊細な令息はこの件で体調を崩し、翌日に控えていた大事な学力試験を受けることが出来ず。
フローラが必死で上げた成績も水の泡となり、今回ばかりは問答無用で解雇となったのだ。
『ねえリンディ、どうしてピッチャーにおたまじゃくしを入れたの?』
『あのね、おたまじゃくしがお引っ越ししたいって言ったの。バケツや瓶はもう飽きたんだって』
色鉛筆をサラサラ動かす娘の手元を見れば、陶器製の美しいピッチャーの中を優雅に泳ぐ黒い妖精。
『今度からはお引っ越しする前に、お母様に相談してね。他の子がもう住んでいるかもしれないから』
フローラはリンディの頭を撫でながら、今後の生活を憂い……そして現在に至る。
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