第2章 命令文が織られていく
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有坂ことりをはじめて見たのはあの日のことだった。
ゴールデンウイークを間近に控えて、連休に期待を膨らませて登校する生徒たち。その人波の中に、彼女の姿があったのだ。
胸の前で手を握りしめて立ち止まっている。希望を望むように、顔を上げて天を仰いでいた。
その姿が、まるで宝石のように美しくきらめいていた......。
今ここで出逢ったのは、ただの偶然なのかもしれない。それでも、彼女に。彼女が取り組もうとしていることに興味を抱いているのは嘘じゃない。
こんなことを思い出していると、僕の意識は呼び掛けられて現実に引き戻された。
目の前には帰りの準備を済ませている和也と絵里の姿があった。
「今日はみんなでスタバ行かない?」
絵里の提案にいいねと言いかけたところで、僕は有坂先輩の事を思い出した。
少し迷ってしまったけれど、先に約束したのは彼女だ。それに、年上からの話題を優先したい気がした。
ふたりには申し訳ない。ごめんねと言って僕は先を急いだ。
「週末のゲームくらい付き合えよー」
僕の背中に和也が声を掛ける。わかった、それは約束しよう。
・・・
僕はA4サイズの用紙を穴が開くほどに見つめていた。
少しずつ読みながらノートパソコンに打ち込んでいく。そこに書いているのは、やはり暗号のようにしか思えなかった。
僕の手元にアイスコーヒーが置かれた。休憩のスイッチを入れた僕は身体を伸ばして緊張を解きほぐすと、目の前に座った人物の方を見た。
「こんな暗号みたいなの、全然分からないんですけど」
僕はつい、頭の中にあるわりかし本気の言葉を口にした。有坂先輩はこちらを見て、形の良い微笑みを見せた。
ここは、学校の近くにある喫茶店だ。
プログラムを教える宣言をした有坂先輩と約束をして、僕はここを訪れている。今日はプログラムの作業をすること、つまりプログラミングをする体験をするために、彼女のノートパソコンと向き合うことになった。
「君が放課後に時間があって良かったわ。
ほら、パソコン室じゃ外から邪魔が入りそうだしね」
彼女はそう言うと、ショートケーキをフォークで小さく切って口の中に入れた。
この店舗はエプロンドレスを着たメイド風の店員がいて、レジ台の近くにあるショーウィンドウにはさまざまなケーキが並んでいる。チェーン店かどうか分からないとてもお洒落なところだ。
たぶん、彼女が教えることを口実に来たいだけなのかもしれないけれど、聞かないであげよう。
有坂先輩は少しほほ笑んで語ってくれた。
「そっか、はじめてプログラムを触る人には暗号のように見えるんだね」
A4サイズの紙は彼女があらかじめ印刷しておいたという<ソースコード>だ。
これを打ち込むと、先日と同じ赤ずきんが画面に出てくる。
「打ち込むことはできますけど、これが何を意味しているか言われてもさっぱりです。
......さあ、最後まで書きましたよ」
どうすればいいですか。僕はひとつ質問をしてアイスコーヒーを一口飲んだ。
「とりあえず保存して、画面見せて」
彼女は手にしていたグラスを置いて答える。
僕は保存ボタンを押してノートパソコンを彼女に返した。その画面を見た彼女は、眼鏡の奥にある目を少し大きくした。
「ほらココ、見てみなさい」
パソコンの画面には僕がタイプしたコードが映っているけれど。文字の下には、ところどころ赤い波線が引かれている。
だってだいぶ間違っているもん、という彼女は笑いをこらえるのに大変そうだった。
「赤い波線はエラーの箇所よ。
全部見てないけど、文法とか単語が間違えてない?」
「嘘でしょ」
僕はそう思いながら、もう一回紙と画面をにらめっこした。
やっとの思いでエラーのところを打ち直すのだが、だいぶ疲れた気がする。
今度はエラーが発生しなかった。
ノートパソコンを操作しながら彼女がつぶやいた。
「......よし、これで動かせるわ」
そう言って、彼女はノートパソコンの画面を僕が見えるように動かしてくれた。
久しぶりに赤ずきんと再会することができた。
「よくできました!」
有坂先輩は拍手して褒めてくれた。
この赤ずきんは自分で作り上げたはじめてアプリと言えるだろうか。
「面白いでしょ。こういうのを自分の力で作ったのよ?」
彼女はすこし上目遣いで僕の方を見てくる。
たしかに、作っていくのは楽しそうだ。
「たとえ小さなプログラムだけど、作った感動は大切なのです」
うんうん。
素直に楽しかったと思える出来事だった。
もしかしたら、僕はアプリを作る才能が......。
「才能があるかどうかはまだ分からないけどね」
ピシャリと言われてしまった。
・・・
少し操作することがなくなって、休憩タイムになった。
ノートパソコンの画面にはスクリーンセーバーが掛かっている。
有坂先輩は屈託ない笑顔で僕に告げてくれた。
「君はセンスあると思うよ。
読んで書くことは誰でもできちゃうんだけどね、今エラーを直すのは早かったわ」
入力できるだけじゃだめ。間違ったとしても、落ち着いて直せることが大事。
「プログラムはどうやって書けばいいかが大事なんだよ。
書いた通りにしか動かないから、2 と 3を間違うだけでも大変なんだ」
おぼろげながら理解できる気がした。
いつもは3回動作するのに、2回しか動かなかったら大変だろう。
「それに、プログラムは嘘をつかないんだよ......」
有坂先輩はそう言った。少し小さな声で、なんだか湿っているように。
スクリーンセーバーには新体操のリボンのようなラインアートが流れていた。
まるで、彼女が纏う秘密の織物のようで。なんだか命令文が織られていくような錯覚を感じた。
その時の表情はちょっと影を抱いているような錯覚に思えたんだ。
「さ、もう少しやりましょう」
彼女はそう言って、スクリーンセーバーを解除した。
・・・
プログラムをはじめるにあたって、必要なことを有坂先輩は教えてくれた。
「まずはアプリを作るための環境づくりから。
今使っているのは開発ツールの<
インターネットで探すと無料でダウンロードできるわ。
プログラムのコードを書いたり、ツールの上で動作させたりすることができるんだ」
また、実際のスマートフォンを接続することでそちらにインストールすることができるという。僕が作った赤ずきんも入れさせてもらった。
「次に、プログラムを書く能力。
これは何を作るための言語なのか、どんな処理ができるのかを理解することが大事だよ」
「先輩、プログラム言語っていくつもあるんですか?」
つい口を挟んでしまった。
「そうだよ。
古代のエンジニアっていうのは巨大な塔を立てて登っていったんだけど、神様の怒りを買ったんだ。
団結できないように塔が破壊されて、言語がバラバラになったんだ」
「ならば仕方がないですね......。神に背いた罰なのですね」
僕はつい話の歩調を合わせてしまった。
とは一緒に、この間授業で聞いた話を思い出さずにはいられなかった。
「......それって<バベルの塔>ではありませんか?」
あちゃあ、ばれたか。彼女は適当な嘘をついていた。
でも、なんだかお茶目な感じがして面白かった。
色んな言語を使えるようになるのが、プログラマとしてのプロだと思っていた。
「私はまだそんなものじゃないわ。
うーん、そうだねえ。色んな言語を使えるのは素晴らしいと思うよ。
でも全部を覚えるのは大変だし、ひとつのものに追及して覚えるのも良いし」
なるほど。
オールラウンドに使えるものと思っていたけど、そうではないようだ。
「まずは、自分が興味ある言語から進めていくのも良いと思う。
他にも興味あればそっちに行くのもありだよ。
ゆくゆくは言語のその"道"を自分なりの果てまで極めればいいんだよ」
有坂先輩はこう説明してくれた。僕にもできるだろうか、ちょっとだけやってみたいと思わせる。
「......興味出てきた、って顔しているね。
そうだね、やっぱ君を誘って良かったな」
でも、彼女の喜んでいる顔は少し崩れてしまった。なんだか萎縮するように肩をすくめている。
「それにしても、先輩って言われるとなんかむずがゆいわねぇ。
......ことりちゃんでも良いよ」
「いやいや、それはちょっと......」
つい慌てて手を振った。
そんなフレンドリィな雰囲気で良いのだろうか、彼女の提案は丁重にお断りしておきたい。でも、彼女があまりいい顔をしなかったので妥協点を見つけることにした。
「じゃあ、よろしくお願いします。
......ことり先輩」
彼女はやっと笑ってくれた。そして、僕のニックネームをあっという間に付けてしまった。
「じゃあ、しい君だね」
彼女は手を差し出して、僕の手を握りしめた。
人懐っこい彼女の印象に、こちらもいつの間にか引き込まれていたのだ。僕の緊張もよそに、仲間ができたと喜んでいる。
ことり先輩の瞳は、まるで夢を与えるように輝いていた。
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