第6章 佳奈

 飯島颯太とその妻である佳世子の間には、一人娘がいた。しかし、仲睦まじく暮らしていた飯島家を、予期せぬ悲劇が襲った。


 娘の佳奈が事故死したのである。


 中学からの帰り道での出来事であった。

 佳奈は友達と別れた後、交差点を横断しているところを、信号無視の大型トラックに跳ねられ、あっという間に帰らぬ人となってしまった。

 警察からの電話を始めに受け取ったのは、自宅にいた佳世子であり、彼女はその場で卒倒してしまったのだった。

 つい昨夜まで、食卓で母の料理を美味しいと言って食べていた娘。父が読む本に興味を持ち、今朝もカバンに入れていた娘。笑顔の絶えぬ優しい娘。そんな娘が幻であったかのように去って行ったのだった。

 佳世子は悲しみにかられ毎晩のように号泣していた。彼女にとって、佳奈は唯一の心の支えであり、希望であったからだ。佳世子にとっての生き甲斐は、佳奈の死とともに粉々に砕かれ消し飛んでしまったのだ。

 しかし、それでも佳世子は、一度は上を向いて、立ち直る努力をしていた。

 当時は彼女もパートで働きに出ており、仕事先の図書館の同僚に、いくらか励まされたことが彼女を前向きにさせたのだ。当初は砕け散りそうなほどに悲嘆に暮れていた佳世子が、一年後には職に復帰できるくらいに回復したのは、颯太にとっても大変喜ばしいことであった。


 一縷の悲しみを抱きつつも、飯島家は健全な生活を再開し、しばし経った頃。

 それは、佳奈の死から三年後の秋頃のことだった。

 颯太は塾講師の仕事から帰宅した時、不思議な光景を目にした。

 いつものように、玄関の引き戸を引いたら、少女の後ろ姿がそこにあった。

 背中に到達する黒く長い髪、紺色の制服、肩掛けカバン、磨かれたローファー。

 颯太は一瞬息を飲んだ。

 一瞬だけ、記憶の奥底にある光景がフラッシュバックしたからである。

 しかし、その記憶と目の前の情景は繋がるはずのないものである。

 すぐに気を取り戻しよく見ると、佳世子が微笑んでこちらを見ていた。

「お帰りなさい」

「あ、ああ。ただいま。えっと、この子は?」

 颯太の声に反応し、黒髪を揺らして彼女はこちらを振り返った。

 一瞬、本気でその容姿に期待をしたが、やはり別人であった。

「こんばんは……」

 ぎこちなく挨拶をする彼女は、大きな黒目にツンと上向きの鼻で小顔の、可愛らしい少女だった。化粧は一切しておらず、薄い唇にだけ色付きのリップクリームをひいていた。

 佳奈ではない。佳奈よりも美人である。

 しかし、切り揃った前髪や、ストレートの黒髪など、佳奈を彷彿とさせる要素を持つ子であった。

 そして、颯太は彼女の姿を目撃したことがあるような気がした。

「颯太さん、佳奈よ」

 そんなはずはない。しかし、佳世子は頬を赤らめてそう断言した。

 目の前の少女も、ガラス玉みたいな目をこちらに向けて言った。

「佳奈です。こんばんは」


 自称佳奈は、それから度々飯島家を訪れていた。

 佳世子は、佳奈のために焼き菓子を作りプレゼントし、仕事が休みの日は二人で買い物へ出かけているようだった。塾講師をしている颯太は一日中自宅にいる日を作ることは困難で、佳世子と佳奈がどんなことをしているのかを知る機会が極端に少なかった。

 何せ秋である。高校三年生を担当している颯太の仕事量は、受験生たちの勉強量に応じて増えていく。

 佳世子が楽しそうなのは喜ばしいが、その反面、亡くなった娘と同じ名で少女を呼ぶことには一抹の不安を覚えていた。

 あまり長期間、佳世子と佳奈を一緒にさせるわけにはいかないと感じた。


 佳奈とは何者なのかを考える。彼女の制服は、紺色のブレザーとプリーツスカート。首もとに赤いネクタイ。職場でも見かける公立の進学校、瀬名川せながわ高校のものである。しかし、彼女の高校が分かったところで、本名が聞けていないので探すのは骨であった。佳世子に尋ねるか、あるいは自宅で彼女と出会えた時に問えば良いが、彼女たちが素直に語るかどうか怪しい。

 佳世子と佳奈の二人に漂う麗しくも冷たい空気感は、颯太のことを拒絶しているように思えてならないのだ。

 颯太が問題用紙を印刷しながら唸っているところへ、別の教師が声をかけてきた。

「飯島先生聞いてくださいよ」

「何でしょう?」

 その教師は、生徒書類を片手に弱ったように肩を落としていた。

「うちの担当、高校二年のクラスで連続欠席している生徒がいるんですよ。親にそろそろ連絡したほうがいいですかね?」

「病欠でもないなら、一度連絡してみたほうがいいと思いますよ」

「そうですよね。この、奥村って女子生徒なんですけどね。兄がちょっと前にうちに通っていて、国立大に合格しているもんで、妹にも期待がかかっているから、来て欲しいんですよ」

 ふと彼が持つ書類、欠席気味の女子生徒の個人情報について記載された用紙に目がいく。そこに貼り付けられた写真は、佳奈だった。

「あの!」

「ん? どうしました?」

「この子が、例の連続欠席の生徒ですか?」

「そうですよ、奥村小牧。飯島先生ご存知?」

「いやその……、そういえばちょっと前はこの塾で見かけたなぁと思い出しまして」

「そうなんですよ。ちょっと前までは来ていたんですよねぇ。連絡してみるかぁ」

 彼はそのまま受話器へと向かった。

 颯太はしばし、足裏が貼り付けられたように動けなかった。


 奥村小牧が欠席し始めた時期と、佳奈が現れた時期は同じだった。

 小牧は佳奈として飯島家を訪れている間、塾を休んでいたのだ。


 呆気なく佳奈の正体が掴めた颯太は、後日塾内で見かけた浮かない顔の小牧に声をかけた。

「奥村小牧さんと言うんですね」

 彼女は上目遣いでこちらを睨みつけていた。猫背で、髪は乱れており、佳奈として見た整った姿とはかけ離れたものだった。

「……失礼します」

 聞こえぬほどの小さな声で言うと、彼女は颯太の脇をすり抜けようとした。

 しかし、腕を伸ばし彼女を止める。

「今度僕と話をさせてください。僕はあなたを責めるつもりはありません。ただ、あなたがなぜ佳奈なのかを教えていただきたいのです。よろしいですね?」

 小牧は颯太の顔を見ようとはせず、怯えた捨て犬のように震えていた。

「……はい」

 絞り出すようにそれだけ言うと、教室へ向かって足早に去っていった。

 この時、颯太は小牧を取り巻く環境が平穏ではないことを察した。



 佳世子の働く図書館はシフト制で土日問わず運営しているため、その日曜日も佳世子は出勤していた。

 小牧と話すのは佳世子が仕事をしている時が良いと考え、午前の授業を終えた颯太と小牧は飯島家に集まった。

 趣味で購入したサイフォンで淹れたコーヒーを、相変わらず辛気臭い顔をしている小牧の前に置いた。

「佳世子のお気に入りのコーヒーです。もう飲んだことあるかもしれないですが」

「ありがとうございます……」

 久しぶりに台所を漁ったら、見違えるほど整理されていた。佳奈の死後、無気力に陥った佳世子は掃除の一つもろくに行わず、散らかり放題だった。回復してから少しはマシになっていたが、小牧がこの家に現れた途端、冷蔵庫の食材にレパートリーが増え、シンクや流しは光るほど磨かれ、テーブルクロスは新調された。それはまるで本物の佳奈が生きていた頃のようだった。

 佳世子の精神状態は台所に現れるようだ。

「それで、君はなぜ佳奈になってくれているんですか?」

 小牧の向かい側に座ると、単刀直入に尋ねる。

 小牧の視点は定まらない。

 颯太を見たと思えば、カップに視線を落とし、かと思えば当たりを見渡し始める。

 颯太は、小牧の精神状態を疑った。

「奥村さん?」

「あ、ええと」

 猫背になり首をすくめ、下を向いてしまった。

「すみません。では、質問を変えます。佳世子とはいつ知り合いましたか?」

 小牧は上目遣いで、こちらの様子を伺いながら、ようやく口を開く。

「たまたま、道で。お母さんが落としたものを、私が拾いました」

 佳世子のことを、小牧は「お母さん」と呼んでいる。

 小牧は、佳奈を演じきっているのだ。 

 もしここに佳世子が戻って来れば、小牧はまた佳奈に変わるだろう。

「じゃあ、それまでは他人同士だったわけですね?」

「えっと」

「違うんですか?」

「他人ではありましたが、私はお母さんを以前も見ています」

「一体いつ?」

 すると小牧は、下げていた頭を少しだけ上げ、視線を颯太の後ろ側、和室の端へと移した。

 その場所にあるものなど、見なくてもわかる。

「もしかして、佳奈のことを知っていたのですか?」

「お葬式の時に、先生とお母さんを見ていました」

 颯太は目を見開いた。あの人生で一番悲しい葬式に、目の前の少女も参列していたのだ。

 遺影に使われている中学生の佳奈の写真は、小牧と同じ髪色と髪型。小牧ほどの整った顔立ちではないが、その髪型が似合う優しげな少女だった。

「佳奈の友達だったのですか?」

「友達……ではありません。同じクラスでした」

 小牧はコーヒーを見つめていた。

 どこか遠い世界、あるいは物語でも見ているような、素っ気ない顔つき。

「奥村さん。なぜあなたが佳世子と仲良くしてくれるのかわかりませんが、あなたにはあなたの家庭があり、人生があります。死んだ佳奈の身代わりなんて、もうやめてください」

「どうして?」

 いきなり、小牧は驚愕した様子で颯太を見てきた。

 大きな瞳が徐々に潤んでいく。

「佳奈は、もうこの世にいないのです。あなたがいくら成り切ってくれても、それは佳奈ではなく、佳奈のフリをした奥村さんです。佳世子はあなたが佳奈になってくれることを喜んでいますが、彼女だって、あなたがまやかしの存在だと気がつき、いつか傷つきます。僕は、奥村さんの人生も、佳世子の人生も大切にしたい。そのために、もう佳奈を引っ張り出してはならないと考えております」

「どうして? だって、お母さんは私を佳奈だって。私を大切にしてくれるのは、お母さんだけなのに」

「奥村さん? 佳世子は佳奈が恋しいだけです。こうは言いたくありませんでしたが、佳世子はあなたのことを大切にしているわけではありません」

 小牧は大粒の涙でテーブルクロスを湿らせた。

 しばらく、彼女は嗚咽を続け、喋ることができずに震えていた。

 それはまるで、ようやく手に入れた希望を、一瞬で消されてしまったかのようだった。

 颯太は、なにが彼女に涙を流させているのかを考えていた。

 佳世子のために佳奈を演じているだけなら、ここまで精神的に崩れることはないはずだ。

 佳世子に尽くされる存在となることで、小牧は何かを得ていたのだろう。

 なにが小牧にここまでのダメージを負わせたと言うのだろうか。

 見る限り、容姿に恵まれ、公立の進学校へ通う、不自由ない女子高生である。

「奥村さんすみません。あなたを泣かせたかったわけではないのです」

 流石に黙って見るのもはばかれ、颯太は立ち上がって小牧の後ろへ回り込み、背中をさすった。

 ふと、生きていれば自分の娘も小牧と同じ年齢になっていることに気がつく。

 縮こまる小牧の背中に佳奈の姿を重ね、酷く胸が熱くなった。

 そんなに泣かないでほしい。

 悲しむ必要なんてないのだから。

 ちゃんと話を聞いてあげるから、どうか顔を上げて。

 お父さんが、助けてあげるから。


「佳奈」


 ほぼ無意識で、そう呼びかけていた。

 小牧が、颯太の方へ顔を上げた。

 鼻も目も赤く、未だ涙は流れ続け、顎を伝って溢れていく。

 昔、転んだ痛みで泣きじゃくる娘の顔を拭いてやったように、颯太は小牧の頬をハンカチで拭ってやる。


 本物の佳奈は、こんなに大きな目ではない。

 本物の佳奈は、颯太に似てもう少しふっくらした唇である。

 本物の佳奈は、佳世子に似て眉毛が太い。

 本物の佳奈は、もっと小鼻が大きい。

 本物の佳奈は、もっと面長な顔である。


 それでも彼女は佳奈であることを望み、颯太はそんな彼女を小牧へ戻すことを躊躇ってしまった。

 せめて、小牧を支配する闇の正体を知り、彼女の解放の手立てを知り得るまでは、佳奈でいることを許してやりたいと思ってしまった。

 何せ、久方ぶりに娘がいた頃の幸せを思い出してしまったのだ。

 再び宝物を与えられたような、他の何にも代え難い至福であった。


「佳奈」


 彼女は目に涙を溜めながら、可憐な笑顔を見せてくれた。 

「お父さん。ありがとう」

 その一言で颯太の心臓は高鳴る。

 枯れていた心が、暖かな奔流で一気に満たされるような感覚。

 佳世子の気持ちがわかってしまったと、心の底で嘆いた。


 その日、パートから帰ってきた佳世子は、初め不審な顔で颯太を見ていた。しかし、佳奈が颯太を「お父さん」と呼ぶ姿を見ると、飛び上がりながら喜んで、晩御飯の支度を始めるのだった。

 この奇妙な状況を許していいとは思わない。

 けれども、この時の三人は、誰もが三人でいることで満たされていた。

 この偽りの幸福を壊すことなど、意気地なしの彼らにはできるはずもなかった。

 カップの中のコーヒーは、残されたままだった。

 

 佳奈として、小牧は飯島家によく訪れた。

 彼女にも奥村家という家庭があるため、毎日来ることは適わない。さらに、宿泊することは奥村家では禁じられているようだった。そのため、塾に行っているフリをして飯島家に訪れ、佳世子と仲良く、掃除や食事の準備などの家事を楽しんでいた。

 手先の器用な佳世子は、小牧に髪飾りやキーホルダーを作ってはプレゼントしていた。

 一緒にテレビを見ながら団欒することもあった。

 小牧はほとんど流行を知らず、ジェネレーションギャップどころの騒ぎではないほどに無知だった。

 颯太や佳世子は、最近のアーティストの楽曲を聴かせ、面白い本や漫画を買ってあげることもあった。

 しかし、塾の欠席が増えると奥村家へ連絡が届き、小牧の実態がバレてしまう可能性があった。そこで小牧には、個別指導コースへ変更することで、固定の時間割ではなく、自分のペースで好きな時に通う事ができるよう調整し、この生活を続けやすくすることを提案した。

 親の説得にやや時間を有したようだが、勉強にさえ励んでくれれば文句のない奥村家は、彼女の提案を最後には承諾してくれたようだった。

 彼女の学力を下げてはならないと、飯島家に訪れている際も、颯太が熱心に教えてあげた。集中力の途切れが激しいことが懸念されたが、教えたことの飲み込みは良い方だった。

 颯太も佳世子も心から笑えるようになり、小牧も、かつて塾で見た姿ではなく、美しく愛らしい女子高生としてそこにいた。

 奇妙なことではあるが、三人で本物の佳奈の仏壇に向かうこともしばしばあった。

 まるで、この幸福をくれたのは本物の佳奈であると言わんばかりに、三人は仏壇の前で手を合わせていた。

 こうして、三人は薄氷の上の、一瞬の幸福を味わっていた。


 しかし、この幸福は長くは続かない。

 ついに、恐れていた時が到来してしまった。


 それは小牧が佳世子と地元のショッピングモールに訪れていた時だったそうだ。

 いつものように、アクセサリーショップで互いに何が似合うか、選んでいた時のことだった。   

 遠くで誰かの怒号が聞こえ、その瞬間小牧は蛇に睨まれたように硬直した。

「佳奈ちゃん?」

 隣で小牧の顔を覗き込み心配する佳世子の声も、小牧には届かない。

 遠かった声は徐々に近寄ってくる。

 甲高い声、ヒールの威圧的な足音、その人物を避ける人たちの小声。

「ごめんなさいお母さん」

 小牧は呟くように言うと、その場を去るべく駆け出そうとした。

 しかし、それは適わなかった。

「待ちなさい、小牧ぃっ!」

 その一声で、小牧はその場に凍り付いてしまう。

 足音が背後へとみるみる近寄ってくる。

 周囲の人々は何事かと騒々しくなり、佳世子は呆然と立ち尽くしている。 

 ついに辿り着いた声の主は、仁王立ちで小牧を上から睨みつけ、次の瞬間には彼女の髪を引っ張った。

「おい! こんなところで何やってるんだ! 今日は塾じゃなかったのかよっ! え?」

 小牧は両手で耳を塞ぎ、身を縮めて怯えている。

「なんとか言ったらどうなんだよ!」

 大声をあげる女は、スーツに身を包み高いヒールを履いた、キャリアウーマンらしき人物だった。

「ち、違います。今日は、塾はお休みで……」

「あ? だったら家で勉強しろよ勉強! こんなところで何暇つぶしてるんだ。誰のために大金稼いでると思ってるんだよテメェ。甘ったれてるんじゃないよ! 兄貴を見習え!」

「すいません」

「すいませんで済めば警察はいらないって何度も言ってるよね? いつまでそんな言い訳するつもり?」

 彼女は、小牧の髪を乱暴に引っ張り振り放す。

 その勢いで、小牧はバランスを崩し尻餅をつく。

 そこへ、店員が割り込んでくる。

「お客様、おやめください!」

 店員とその他周囲の目に気がついた女性は、舌打ちをする。

「家に帰ったら反省会をする! わかったら私が仕事から戻るまでの間、勉強しなさい!」

 彼女は踵を返し、周囲の嫌悪の目を一蹴して歩いて行った。

 小牧は、駆け寄ってきた店員の手によって、立ち上がった。

 髪は乱れ、佳世子がつけてくれたカチューシャもずれてしまった。

 小牧は虚ろな目で、佳世子を見上げた。

 そして、佳世子の表情に絶句した。


「……あなた、誰?」

 佳世子は、それまでと一変、不審者を見るような目で、身を引きながら小牧を見ていた。

「え? 佳奈だよ」

 小牧の心を、一瞬にして恐怖と絶望が襲う。

「佳奈だって。お母さん」

「いいえ」

 佳世子は後退る。

 小牧は一歩近寄る。

 また、佳世子は下がる。

「あなたなんて佳奈じゃないわよ」

「お母さん? どうして……」

「お母さんだなんて、呼ぶんじゃないわよ」

「——っ!」

 佳世子の目は、明白に小牧を拒絶していた。

 小牧は言葉を失い、何かが壊れる音を聴いた。

 せっかく手に入れた細やかな温もりが、盛大に音を立てて粉砕し、塵のごとく吹き飛んで消えていく。

 小さな夢が、小さな希望が、遠ざかる星のように見えなくなる。

「知らない、知らないわ」

 ごみ虫でも見るような目を、佳世子は小牧へ向ける。


「あなたなんて、知らない」


 薄氷は割れ、小牧は奈落の底へと突き落とされた。


「その次の日のことでした。奥村さんは、飯島家へ訪れ、深く頭を垂れて謝罪してきました。今までご迷惑をおかけし、誠にすみませんでした。そう言って、謝っておりました。佳世子ときたら、奥村さんの実の母親を目にしてしまったことで、完全に幻想から目が覚めてしまい、彼女がいくら頭を下げても一向に許す気配がありませんでした。ヒステリックに怒鳴って叫んで、しまいにはものまでぶつけて。僕は佳世子を必死で抑えながら、奥村さんに謝罪しました。僕たちの方こそ、本当にすまなかった、と。僕がきちんとしていれば、奥村さんや佳世子をこんなに傷つけることはなかったのかもしれないというのに、本当に情けなくて、申し訳なかった、と。でも、頭を上げた奥村さんは、捨て犬みたいに悲しげに微笑んでいたのです」

 颯太の声は震えている。

「佳世子、彼女は本当に酷い一言を突きつけた。一瞬でも幸せな一時をくれた奥村さんに向かって、佳奈はいない、佳奈は死んだ! あなたが佳奈ならば、あなたも死になさい! と」

 カウンターに額をつけ、颯太は抑えきれずに嗚咽を漏らす。

「飯島さん、大丈夫ですか?」

 亜衣が飯島に近寄る。

「大丈夫ですよ。情けなくて申し訳ないことです」

「いえ……」

 颯太は頭を起こし、咳払いをした。

「佳世子をいさめ、僕は悲しげに微笑む奥村さんに、土下座で謝りました。すると彼女は、今度はなぜか、肩の荷でも降りたかのような清々しい笑顔で言いました。今までお世話になりました。佳奈はとても幸せでした、と。彼女は最後まで佳奈であり続けたのです。そして、塾で奥村さんを見かけなくなったかと思ったら、ある日、彼女が死亡したと言う報道を目にしたのです」

 颯太は、乾いた喉にカフェモカを流し込んだ。

 一同は、衝撃に口も利けずにいた。

「後で、奥村さんは自ら死を志願していたことを知り、僕は激しく後悔し、後悔で身が潰れるのではないかというほどに、自分を責め続けました。彼女は、僕と佳代子によって殺されたようなものではないですか! 僕は、僕は二度、佳奈を失ったのです」

 颯太が見渡すと、誰もが黙り込んで、陰鬱な表情を浮かべていた。

 景親は額に青筋を浮かべてカウンターを睨んでいる。

 亜衣は口を抑えて涙を堪えている。

 政也は両手を組んで瞼を落としている。

 旭は腰をかけて重い空気に耐えている。

 颯太は深呼吸をした。

「これが、僕の罪です」




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