カフェモカ

杜宮花歩

第1章 奥村景親

 形式に縛られることは嫌いで、人間はもっともっと、能動的、自発的に動くべきで、守るべき秩序さえ保っていれば良いと思っている。

 集団を形成させる際、その中にルールが必要とされるのは、自由意志が泳ぎすぎると集団である意味がなくなり、集団が分裂する状態になりかねないからだ。

 先進国日本社会で生まれた者なら、特例や例外はあれど、大体の人は社会へ出た時の道筋を立てるために必要なことを、教室というボックス空間に30〜40人程度押し込められ、学ぶこととなる。

 これは実に合理的な教育法である。

 教えられたことに素直に従うことができる子や、好きなように振る舞いながらもやるべきことをこなせる子は、社会に出た時に便利な歯車となれる人だろう。

 リーダー職を担っていた子は、将来も人を率先する者になれるだろう。

 不器用であまり冴えない子であっても、そういう人間にもできるような仕事というのは存在するわけで、無駄に高望みさえしなければ無難にやっていける。

 ただ、もし、途中で社会進出するまでのレールから外れ、社会が定めたこのシステムに抗う気持ちを持ってしまった場合は、やや変わるかもしれない。だが、そんな人間に対する受け皿だってないわけではない。悪いレッテルが貼られてしまったような扱いにはなってしまうことは、免れないが。


 さて、こんな現代は泰平の世なのだろうか?


「サバイバルだな」

「?」

 独り言を発してしまった。

 目の前で同回生の日向ひゅうがあさひがじっとりした目をこちらに向けていた。

 猫みたいな目つき。広い肩幅。首筋の刈り上げた痕。細めの手首と長い指。やや伸び気味の前髪は高い鼻筋にかかっていて、この全てが妙な色気を纏っている。

 そんな彼に向かって、淡々と話を続ける。

「年間の自殺者数三万人。遺書がなければ自殺とみられないことから、実際は十万人を超えるとも言われている。原因としてあげられるのは、学校では年々増加するいじめ、社会では失業などの職業不振による鬱など。一貫として、環境が原因で精神的に追い詰められ、行き場をなくした人間が、そのことによる苦痛、疲労から脱却、逃亡するため、自らの人生に幕を閉じるという傾向があると言える」

「相変わらず自殺というか……、社会学系統に対して妙に感心があるな。それで、この現状のことをサバイバルと表現したわけか」

「そうだ。でも、自殺するまでに追い込まれる原因としては、日本人が根本的にコミュニケーション下手な、根暗な民族というところから来ていると考えている」

「根暗? それはお前のことだろ」

「まあそうだが。例えば陰口。言われる側からすりゃたまったもんじゃないアレだ。原因は、言いたいことをストレートに相手に発するってことができないからだ。素直に発することをダサい、かっこ悪いと思っている謎の風習のせいもあるし、本音を漏らさぬことで相手を出し抜いて優位に立とうって心理もあるし、理由はいろいろだ」

「根暗であることをちょっとは否定しろ。なるほど、要は陰湿な民族ってことか。探り合いにご執心で自分を曝け出すことはだらしがない、かっこ悪いとでも思っている。だから、曝け出している人や、ボロが出ている人——この場合ボロでなくても無理やりボロと勝手に見なすことも含む——を叩くことで満足している」

「ツイッターで名の知れた人が問題発言でもしたならば、待ってましたとばかりに総出で攻撃して叩きのめすあの風潮は、まさしく日本人の根暗精神ならではだと思っている。発言に問題はあるのだろうけれども、あの炎上という現象は正直引いてしまうんだがそれは俺だけか?」

「起こっても致し方ない現象だとは思う。でも、人を非難することで気持ちよくなっている人がいるのかもしれないと思うと、気持ち悪いな」

「人が人を非難する心理は、自分を優位に立たせたいから。相手よりも自分の考えの方が正しいと言う正当性を知らしめたいから。自分を優位に立たせ、周囲に認めさせたがる理由は、自分を価値のある存在、有益であると認められる存在にさせたいということにある。他者から承認を得ることで自尊心を維持しているわけだ」

「ああなるほど、資本主義か。高品質はよく売れる。高品質なのに低価格だとより好まれる。さあみてください、俺はイケメンで手先が器用で、ちょっと体力は無いけれどそんなところが可愛げがあって魅力的ですよ。向かい側に座っている不愛想な本の虫より絡みやすいし、いい匂いまでしてきますよ。みなさんいかがでしょうか〜? ってことか」

 旭は両手を広げ、八百屋の店主のような身振りで自分自身を宣伝してみせた。

 彼の今のセリフには、自分の良い部分の宣伝と、向かいに座る他者よりも自分の方が優れているという、比較により自分を格上にするという行為が含まれている。

 まさしく説明したかったことそのものだ。


「ダメだぞ、旭は俺のものだ」

「そうだね」


 旭は頬杖をついて微笑んだ。


「今のお前の通りだ。資本主義の国は他にもあるが、日本の場合は、資本主義という弱者が必ず現れるシステムと、根暗という民族性がおかしな調和を遂げ、弱者が自分の心の裡を明かすことができず、最悪自害するということに陥りやすくなっている。表立っては行わず、水面下で、人が人を知らぬ間に貶めているんだ。親から虐待を受けているとか、傷害事件に遭遇したとかいうような、心に傷を得る理由として分かりやすいきっかけみたいなものがなくても、人の心が病む条件はいくらでもある世の中だ。弱者にならないための生き残り合戦をしているという意味で、この国で生きていくことはそれなりにサバイバルだ」


「なんていうか、君は妹のことが、いつまでも脳みそにへばりついているんだね」



 静かな午後の図書室で、二人は向かい合って座っていた。温かみのある木製テーブルに、アールデコ調の窓から柔らかな日が差し込む。

 旭の科白で、景親は眠りから覚めたように両目を見開き、何とは無しに、並列する本棚の奥の方を見つめた。

 誰もいない空間に、人が立っているような幻を、イメージしてみる。

「鳥かごから出してくれと、あいつは言っていたんだ」

「彼女は閉じ込められていたのか?」

「いいや。学校に通い、塾に通い、家では普通に飯食って風呂入って歯磨いて、たまに友達と遊ぶ、元気で健康なやつだ。見た目だって、どっかのアイドルに似ているとか言われるぐらいには良い方だった」

「何を鳥かごと比喩したんだろう?」

 旭は首を傾げて気だるげな表情を見せる。が、すぐに背筋を伸ばし、人差し指を立てて口を開いた。

「日常のルーティン、とか?」

 やや間があった。

「正解だな」

「朝起きて、学校へ行って授業を受けて家に帰る。この繰り返しの毎日が嫌になったことは、確かに俺にもあるよ。でもそれを苦痛だとするのは、こう言っちゃ難だけど、我儘わがままではない? 部活とかに専念すれば良かったのでは」

「他の学生たちと明らかに異なる部分があった。行動の制限だ。 勉強の邪魔になる運動部は禁止。アルバイトも禁止。友達と遊ぶのも週一が限度。お菓子、ジュース、ゲーム、漫画、禁止。テレビも、深夜帯とかは禁止。さて問題です。今の子にこのようなルールを課す場合、どうなるか?」

「ゲームとか漫画がないと話題についていけないから友達ができない。運動部みたいなところに入れないとなれば、仲間同士の絆的な青春とは無縁。文化部を悪く言っているわけじゃないよ? 集団行動が多い運動部の絆は他には代え難いからね。それでも、例えば読書とかで自分の気を紛らせることができるのなら良いけれど、いかにも学生っぽいことに憧れている子にとっては苦痛だろうね。勉強ばっかりしていたところで、その勉強にも身が入らないんじゃないかな? 親に盛大に反抗してグレそう」

「難しいことに、反抗することができなかった」

「なんだそれ」

「反抗が誰にでもできることだと思うのは間違いだぞ。自分の思っていることを瞬時に言葉にできない人だっていくらでもいる。発言する勇気があるかないかという話ではなく、人の得意とすること、不得意とすることはそういう部分にだって現れるんだ。幼い頃から、叱られる時は必ず、「お前が悪い」と言われていた子供にとっては、どこかで違和感を感じていたとしても大人の言うことが正しいと考えてしまいがちだ。親に反抗する=悪い子。悪い子はいらない。スタバで友達とお茶しながら仲良く、流行りのアイドルや音楽、ファッションの話をして、彼氏でも作って遊園地デートみたいなことがしたい。あるいは、運動部に入って、みんなで大会目指して汗水たらす青春が送りたい。そう思うことに悪いことなんてこれっぽっちもない。けれど、家のルールに従うとなると、そういう毎日を送ることが困難だ。親の考え方を変えてもらいたいと話すが、真っ向からだらけるなと叱りつけられれば、親に反抗しようとしてしまう自分を責めるようになる。幼い頃から我儘が許されなかった場合、我儘と思しきことはすべて、悪いことなのではないかと考えてしまうものだ。初めは俺と同じように、読書するなりして、嫌なことから逃れようとしていたが、だが、あいつは……」

「まさかそんなこと考えていただなんて、お前は全く思ってなかったんだね」

「友達ができずクラスでは浮き、やりたいことをする時間は与えられず勉強ばかりさせられる毎日。そのことをあいつは「鳥かご」と表現し、やつれた顔でその言葉を俺にぶつけたあと、姿をくらませた。そして……ある日、遺体となって発見されたと報告を受けた。SNS上の自殺志願者と共に、集団自殺した。あいつは、自殺志願者、死にたがりだったんだ」


 人が自暴自棄になるというのは、どんな時だろうか?

 逆に、人が自分を大事にするのは、どんな時だろうか?


「簡潔に言うと、愛情不足だね」


 妹は、物陰からこちらを遠慮気味に見つめることがあった。

 何かものを言いたげで、しかし何も言わない、そんな子だった。

 見る人が見れば苛立たせることにもなりそうな、煩わしい人種。

 鳥かごに入れば苦労することなく、安全で快適な人生が過ごせるのかもしれないが、そのことで課せられる多くの制約は、心を枯渇させるものだった。

 人から求められなければ、人は所詮行き詰まる。

 人は、完全に自分のためだけに動くことはできない。

 自分の行動によって、周囲が何かしら反応を示してくれないと、人は自分を保てないからだ。


「家庭でも、学校でも、満たされることはなかった。ならば自分など、消し去ってしまおうという心理。世間ではメンヘラとか言われそうだな」

「自分も、妹を死に追いやる原因の一部となってしまっていることに、後悔している? 懺悔のつもりで社会の問題を考えている?」

 机の上に出していた両手が震えた。

 自分に、仕組みを大々的に変革させることができる力があるなどとは、微塵も思っていない。    

 むしろ、無力感にばかり苛まれ、心苦しくなる。

 けれども、この閉塞感に殺されてしまっては、妹と何ら変わらない。

 妹を失ったことが、自分の人生の中で何か意味があるのだとすれば、それは、戒めのようなものであると感じている。


「違う。忘れられないから考えているんだ」


 本棚の影から、上半身だけを傾けて、こちらを見つめる少女がいる。

 首にタイを締め、長い髪が肩に流れている。紺色のプリーツスカートがわずかに揺れる。締め切った室内に、風など吹くはずもないが。

 いつもは、上目遣いでぎこちなくこちらを伺う表情であるが、今日の彼女は、日差しに頬を 火照らせた、暖かな様子が見受けられる、ように思えた。


「まあ、お前自身も愛情不足であるわけだしな。人にどう愛情を向ければ良いのかわからないのだから、その当時妹を助けることができなかったというのも、わかるよ」

「なあ」

「ん?」


 旭の言うことは非常に的を射るものである。

 自分は妹と同じで、言いたいことがあっても言わない、失語症のような状態の人間であった。

 だが、妹を喪失したことを実感した時に、それ以前と同様の精神状態を保てなくなった。

「俺の固有名詞は『お前』ではない」

 もぬけの殻みたいに空虚な、指示機能しか持たない単語で呼ばないでほしい。

景親かげちかって呼べよ」

 旭は両目を瞬かせてこちらを見つめている。


 我儘を悪いことであると叱りつけることが悪いことではない。

 しかし我儘を言うことを忘れてしまった自分は、涙を流すのにも時間がかかってしまった。

 未来は非効率なことを嫌い、効率重視のスマートな社会へと洗練されていく、と言われることがある。

 しかし人間自体は、矛盾や無駄に満ち溢れた存在であるから、理想を語ることはいくらでも可能だが、完全に効率的な社会を目指すのだとすれば、自分たちの存在意義を問い直さなければならない。

 古代ギリシアで「暇」という状態が必要であると言われたことに、理由がないなんてことはない。


 旭をじっと見つめていたら、彼の顔は徐々に赤らんできた。目が泳いでいて、視線を合わせてくれない。やがて、熱がこもった溜め息をつきながら、手のひらで顔を覆った。

「気づいているくせに。もう少し、心の準備をさせろよ」

「いやだ」

「妹と違って、普通に我儘言えるよな」

「他の人には言えなかった。妹にだって。兄貴がゲイとか、言えないだろ。基本的に、人に対して自分を曝け出すことがない上、人に言いにくいものを抱えてしまったんだ、心も閉じるさ。それに俺は、人を信用していない」


 本を持って立ち上がり、旭を見下ろすと、彼は少し焦ったような、惚けているような、やや情けないが愛らしい顔でこちらを見上げていた。

自分の顔つきが基本的にぎこちなく武士のようであることは自覚している。この表情と性格のせいで、周りから距離を置かれて育ってきたものだ。

 旭も、自分の表情からはうまく感情が読み取れないから、こんな曖昧な顔になっているのだろう。

 そう分かっていつつ、あえて何も言わず、笑いもせず、踵を返して歩き出した。


 すぐに右腕の袖を掴み、背中に密着してきた彼は、耳元で囁くのだった。

「作り笑いで中身のない愛想を振りまく俺と違って、一見とっつきにくくても深い優しさがある、お前はそんな奴だよ、景親」

 立ち止まり、旭の言葉に耳を傾ける。

「俺は、形式に縛られたつまらない奴だ。景親に、受け入れてもらっているけれど、なんで受け入れてくれるのかわからない」

 振り返ると、彼の目元は長い前髪で完全に追い隠されていた。指先でそっと髪に触れると、怯えた捨て猫みたいにビクついた。

「奇をてらうことなく、純粋なままで魅力を放っているものだから、つい惹かれたと言ったところだな」

 集団の中にいて、素の状態で人を惹きつける人間。景親が陰鬱とした空気を持った人間となったことに理由があるように、旭の人間性にも何かしらの理由がある。家庭環境や周囲の状況など、成長期に取り囲んでいた人たちから受け取ってきたものが、その人の人間性に関わってくる。

 旭が、自分の振る舞いを「作ったもの」と表現するのなら、作らざるを得ない環境があったことが想像できる。

 作り物と表現するとき、自ずとそこには空虚感が付き纏うものだ。

 小さな闇を抱える者が惹かれ合うのは、何らおかしなことではない。


 旭が、強張った表情をゆるりと綻ばせた。

 花が咲くように笑うとは、こういう表情のことだろうか。


「さて、どれか本を借りていくか」

「本当に、勉強好きだよね」

「勉強ができる贅沢を無駄にすることはできない。これ以上クズに成り下がってはならないだろうよ」

「景親はクズではないよ」


 二人は、揃って図書室を後にした。



 図書室ならば、当然のことであるが、他にも利用者がいる。

 彼女は文献を見つけ、普段あまり人が近寄らない穴場の席へ向かっていたのだが、先客がいたがために立ちすくんでいた。


 二人の会話を後半から立ち聞きしてしまっていた。


 立ち聞きなんて趣味の悪いことをするつもりは毛頭なかったのだが、会話のトピックが衝撃的な内容であったので、思わず聞き入ってしまった。

 幸い、二人ともこちらが物陰にいることには気づくことなく、図書室を出て行った。


「奥村景親先輩って、小牧こまきちゃんのお兄さんだったんだ……」


 この大学で、再び彼女の名を聞くことになろうとは、欠片も想像しなかった。二人が立ち退いた後も、しばらく棒のような足を動かせなかった。













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